#2 火矢を放つ-6-
あれから、そろそろ一年が経とうとしていた。
仕事は大人とする。だが、寝床は最初の取り決め通り子ども時代のままだった。大人たちに翻弄され、仕事から帰って来て、ばたりと自分のベッドに倒れるジャグル。たとえ休みの日であっても、部屋から出る気も無くなかった。些細なことで言い争ったり怖がったりする子どもたちのことが、取るに足らない存在に思えた。気が付けば、ここ数ヶ月まともに同じ年頃の子ども達と口を聞いていない。ただ、時々聞こえる噂がある。あいつは一足先に大人になったことを、鼻にかけている、と。そんな噂にみて見ぬ振りをしているうちに、誰と仲良くできるのか自分でも分からなくなった。そして同時に、下らないと思った。彼らのことを、本当に罵りたくなることが多々あった。子どもたちは皆、口では大人になりたいと言っていても、本当は大人とは何なのか、よく分かっていないのだ。その反対側にある辛い部分、苦労を、彼らはまるで知らないのだ。それ故に、こちらからも歩み寄る気になれない。悪循環だった。
ジャグルには、決定的に欠けるものがあった。心の底から信頼し、どんなことでも打ち明けられる友達だ。一人で頑張ってきたということは、誰にも頼らなかったということだ。仲間がいないことが、今になって牙を向く。
暫くして、軽く蹴りを入れられる。敵意に満ちた一撃だったが、最早慣れていた。
「お前さぁ、やっぱり俺らのこと舐めてるんだろ」
低い声が呟く。タム・タルトだ。子どもたちの中では、随一の術の才能を持っている。後ろに二人の取り巻き。面倒なので目を開けなかったが、笑い声がしたので奴らもいるのだろうなと推測される。
「俺の顔見ても挨拶もなしに読書とか、いい度胸してんじゃねえか。ちょっと早く大人になれたからって、調子に乗るなよ」
ジャグルは反応しない。
「だが、今年は俺も大人の儀式を受けるんだ。今に見てろよ」
呟き、乱暴な足音が聞こえる。どうやら行ったようだ。ジャグルは手足を伸ばし、リラックスした体制をとる。息を大きく吸い込み、吐く。体を休め、機能を高めるまじないでもある。ジャグルは目を開けた。
タムは知らないだけなのだ。自分が本を読むのは、そうしないと大人たちの仕事に追いつかないからだ。帰って来て、すぐにベッドに倒れこむのは、それだけの力を使ったということだ。大人になったら、抱えるものもことも大きくなる。鼻にかけてる? 冗談じゃない。他のことを構っている余裕がないだけだ。
「そろそろ仕事の時間か」
あまり気が乗らない仕事なので、つい本を長く読みふけってしまった。いい加減行かないと、また怒られるに違いない。
タルト一族の集落には、女はいない。まじない師として育てられるのは、男だけだった。女は術力を体に溜め込むばかりで、それを放出することはできない。だから、それができる男が、女の体の一部を使うことで、彼女らの術力を開放してやっている。そういう理屈だった。
例えば、髪の毛。あるいは、爪。それらを編んだり灰にしたりしたものが、まじない師たちの重要な道具になる。今日ジャグルが取りに行くのは、その中でも最も特別なものの一つ、血液だった。大人への通過儀礼に必要なのだ。十六歳を迎えたタルト一族の男子は、火矢を放ち、女の血液を飲み干すことで、大人の仲間入りを果たすことになる。ちなみに、ジャグルはまだ年齢が満たないと言うことから、血を飲み干す儀式はしていない。それほどまでに、血液は女性の体の中でも神聖なものと見なされていた。正直言うとジャグルは儀式の詳細を聞かされた時、その生々しさにひどく顔をしかめた。人の血を奪って飲むなんて、何と残酷なことだろうか。今年は、三人の男子がこの儀式を受ける。その三人のうちに、あのタム・タルトが入っている。それを思うと、なおさら気が重い。
集落を外れて、起伏の激しい森の山道を歩いていく。
「遅いぞ、ジャグル」
今日のパートナーである一族の男が叱咤する。遥か先を歩き、坂道の頂上でジャグルを見下ろした。
「すみません」
ジャグルは顔を上げ、伏し目がちになる。
「しっかりしろよ、まったく」
男の小言を必死で聞き流す。
最初の遠征から一年。ジャグルの術力は、どういうわけか成長を止め減衰しつつあった。
大人たちはジャグルの強烈な術力を知覚していた。それ故、将来はきっと大物になるだろうと予測した。だが、その期待は半年を過ぎた頃、少しずつ裏切られていった。ジャンルは、術の習得が致命的に遅かった。初めての遠征の後にレガに教えてもらった、糸を操る術は辛うじて扱えるようになった。だが、その他の術になるとまるで扱えず、コツも何も掴めないほどの要領の悪さを露呈した。知識はあるのだが、それを実践しようとするとうまくいかない。そんな状態が、6ヶ月続いた。大人たちの反応は、大きく分けて二つだった。完全に失望した者と、まだ女の血を飲んでいないから、術力が弱いのだと弁護する者。自分に浴びせられる視線が嫌で、ジャグルはとにかく知識だけでも詰め込もうと、本の世界に没頭した。かつてのように、ひたすら火矢に打ち込むようなことは、もうしなくなっていた。
「おら、着いたぞ」
言わなくても分かってるよ、と心の中で呟き、喉元で押し留める。顔を上げれば、集落の屋敷とは全く趣の異なる、暗くくすんだ建物がそこにあった。二人はその扉をくぐった。
中から、耳をつんざくような黄色い声が聞こえた。相変わらず、狂った連中だと訝る。どうやら、大勢で何かを楽しみ、熱中していたらしい。
「あら、いらっしゃい。今日は何のご用?」
30歳くらいの女性が、煙草をふかしながら応対した。彼女は、貴族よりも派手で、なおかつ露出だらけの衣装を身に纏っていた。低い声の響きが、体の弱い部分をくすぐる。男は一歩歩み出た。
「知っていたかい。そろそろ大人の儀式の季節なんだ。今年は三人」
彼は急に気取った喋り方を始めた。
「あら、そうなの? もうそんな時期なのね。リム! ロール! おいで」
女は中にいるうち、二人の名前を呼んだ。騒いでいた群れの中から、二人の少女が立ち上がった。彼女達は立ち上がり、ジャグル達のそばへやってきた。この女と負けず劣らず派手な衣装だったが、幾分若い。自分より一つ年上、あるいは同い年ではないかとさえ思う。そしてやはり、かなりの美貌の持ち主に見えた。
「この子たちの血を使いなさいな。部屋はこっち」
「分かった。付いて来い」
女に案内され、男は若い娘二人を連れて行く。大部屋の隅の、死角になっている場所の扉をくぐる。ジャグルもそれに続く。ここは、一族の男が女性の体の一部を貰うときのためにある部屋だった。中には、簡単な机と椅子が用意されていた。男はそこにどかりと腰掛ける。
「腕」
顎を突き出し、娘たちに促す。二人は一瞬だけ顔を見合わせ、先にリムの方が差し出すことにした。
男は持ってきた瓶を机の上に置き、利き手に集中を始める。何か細いものをつまむように、親指と人差し指を合わせ、他の指をぴんと伸ばす。針の形に見立てているのだ、とジャグルは本で読んだ話を思い出した。男は、術で作った針をリムの腕に、斜めに突き刺す。
「!……っ」
リムは歯を食いしばった。ジャグルも体を強ばらせ、目を閉じそうになる。彼の指の内側から、赤い塊が風船のようにぷくぷく膨れていく。彼女の血液が、術の力で流れずに空中で固定される。何かの膜を張っているかのように、空中に止まる。
そして、掌で握れるほどのサイズになったところで、血の塊を瓶の上に移動させる。球体がしゅるしゅると皮が剥けるようにほどけて、瓶の中で球体に戻っていく。
「はい、終わり」
事務的な口調で男は告げる。リムは大きなため息と共に、少し目に涙を浮かべていた。そして、何も言わず、そそくさと立ち去ってしまった。腕に針を刺されたのだから、きっと痛かったに違いない。精神的にも疲れたのだろうと思った。ジャグル自身にそういう経験はないから、その痛みについては想像するしかない。
「じゃ、次」
ロールと名乗る少女が座る。リムよりも少し大人びた少女だった。男は彼女の手を取り、腕に滑らせる。
「痛いかもしれないけど、我慢して。力を抜いて」
そして、針をゆっくりと彼女の腕に刺す。事前に知らされていても、針の痛みが和らぐものでもないようだ。ロールの顔を見れば、苦悶の表情をあらわにした。
ふと、ジャグルは違和感を感じた。
血を抜くスピードが、さっきよりも断然遅いのだ。
「うー、んっ」
「もう少し、もう少しだ」
男は励まし、彼女の顔を見上げた。二人の間に、得体の知れない張り詰めた空気が漂い始める。だが心なしか、二人にはこの状況を楽しんでいるかのような、余裕が感じられた。
あえて、なのだろうか。この手抜きは。いや、ゆっくりと抜いたのは、身体をいたわっているからなのか。
「はい、終わり」
緊張が解き放たれる。ロールの首筋に、うっすらと汗が流れるのを見た。そして、ちょっと恥ずかしそうに笑っている。
男は血を集めた瓶を、ジャグルによこした。
「それはお前が預かっとけ。いくらなんでも、それくらいしてもらわなくちゃここに連れてきた意味がないからな」
男の言葉の端々に、刺々しさを感じる。だが、敢えて気づかない振りを通した。
男は大きく伸びをして、全身の力を抜いた。
「さーて、もう一つ仕事といきますか」
小声でそう呟いた。酷くじっとりとした声に思えた。
「もう一つ?」
「ああ」
男は聞き返したのか、納得したのかよくわからない返事をした。
「男の最大の仕事は、女の術力の解放さ」
男はにたりと笑った。
その意味をジャグルは、最近ようやく理解しつつあった。だが、その中に埋もれることは出来ないことも、理解していた。ジャグルは男から目を逸らした。
「おれは、いいよ」
「そうかい。強制じゃないのも確かだ。瓶はちゃんと持って帰れよ。じゃあな」
男はにやついた顔を隠そうとしていたようだが、却ってひきつっていた。入り口までジャグルを見送り、ロールと共に別の部屋へと消えた。
ーーそういうことかよ。
針を刺した時から、彼とロールの関係は始まっていたのだ。ジャグルはそれを理解すると、無性にやるせない気持ちになった。術力の解放だって? 冗談じゃない。
気がつけば、リーダー格の女と二人になっていた。
「あなた、本当にいいのかしら。ここに来れることなんて、一年を通してもあまりないわよ」
彼女は最後の確認を取ってくる。
「余計なお世話だよ」
ジャグルは顔をぷいと背けた。
「ふーん。まぁ、いいけど。じゃあそれ、宜しくね」
瓶を指さして、彼女はゆっくりと、扉が閉めた。女達の騒ぎ声が消えて、ジャグルは一人になった。自分はあの楽しそうな騒ぎ声の外にいる。一族のしきたりとか、共通の感覚という大きな輪の中に、自分が入っていないことを実感する。自ら選んだこととは言え、寂しい気持ちは確かにある。だが、その輪の中に入ってしまえば最後、自分が自分でなくなるような気がして、ジャグルは恐ろしかった。それ故に、わからなくなった。自分って、一体何なのだろう。
振り返ると、レガがいた。
坂の下でジャグルを見つめて立っていた。ジャグルが彼の姿に気付くと、彼は優しく微笑んだ。
ジャグルは駆け寄って、彼の体を抱きしめた。
「泣いているのか、ジャグル」
レガの手が背中を包む。レガの察しの良さには、驚かされることもあるが、今はそれが心地よかった。
「おれ、分かんねえよ」
彼はいつでも、自分のことを分かってくれる。
「どうしたらいいか、分かんねえよ」
感情が爆発した。レガの服を容赦なく濡らし、ジャグルはひたすら泣き続けた。 今のジャグルに、味方はレガただひとりだった。