#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師
#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-5-
「こんなところに勝手に入るなんて……さては泥棒ね! 人を呼ぶわよ」
 クラウディア夫人はドドに向かって大声を上げる。口元を大きく歪ませ、今にもはちきれそうな怒りを露わにしている。ロコは、夫人のこの顔に見覚えがあった。夫人の容姿について疑いを持った執事を扇子で殴ったときだ。あの時と同じだ、と思った。あの時と全く変わっていない、まるで子どもが癇癪を起したような顔。
「私は泥棒などではございませんよ」
 ドドは素っ気ない態度で答えた。
「私はディドル・タルト。まじない師でございます。本日はロコお嬢様の依頼を受け、人食いを退治しに来たまでのこと」
「ロコが……?」
 ドドがロコの方を指した。そこでようやく夫人はロコの姿に気付いたらしい。夫人は困惑の表情を浮かべている。
「あなたはクラウディア夫人……ロコお嬢様のお母様ですね。早速ですが、今この屋敷に何が起こっているのか、奥様はご存じですか」
「さあ、ね」
 毅然とした態度で夫人は答えた。
「そうでしょうね。あなたはきっと気付かないでしょう」
「何がいいたいのかしら」
 夫人は苛立ちを見せる。
「貴女様は非常にお美しい顔立ちをしておられるようですが、その美貌を手に入れたのはつい最近のことだとか」
「ええ。そうよ」
「どうやって手に入れました?」
 冷たい緊張が走る。中にいる者は誰ひとり、夫人から目を離せなくなった。口元を歪ませながら、夫人は思案していた。
「いつもひいきにしている商人が、特別なクリームを売ってくれたのよ。これを毎日塗れば、身体の毒を全て吸いだしてくれるっていう触れ込みでね。私は運がいいと思ったわ。塗ってみたら、本当に身体の悪いところが消えて無くなってしまった。驚きよね。シミが消えるだけじゃなくて、歳とともに痛みかけていた髪まで若いころのようにつやつやになったんだもの」
「それが、このヘドロということなのですか」
 ロコがベトベトンに目をやりながら、聞いた。
「ヘドロなんて言うんじゃないわ」
 夫人はキッと睨みつける。
「これをくれた人は、こう言ったわ。これは貴女の人生のごほうびです、って。私は嬉しかった。私のためにここまでしてくれる人が、いると思う? あの人は私の欲しいものをしっかり言い当ててくれたのよ」
「これが欲しかったものですって?」
 ロコは怪訝な顔をした。
「これのせいで私は」
 ここまで言って、ロコは口をつぐんだ。言葉が出なかったのではない。臭気にやられて、また胃の中のものをひっくり返しそうになったからだ。反射的に、ロコは背中を丸めた。ハンカチをしっかり口に当て、染み込んだ香草の匂いを感じ取ろうとした。その瞬間、ロコの身を案じ一歩踏み出した夫人の姿を、ドドは見逃さなかった。
「奥様。このクリーム……ベトベトンは、確かに人の毒素を吸い取り尽くす力がある。ですが、これには裏があるのですよ」
 夫人はしゃがんで、ロコの肩を抱いた。そして、顔をドドの方へ向けた。
「このベトベトンは、毒素を吸い取った分だけ、悪臭として外部にまき散らす。あなたが美しくなるたびに、他の誰かが不幸になるのです」
 夫人ははっとした。
 その時、ドドの後ろで、ベトベトンが唸った。その口から吐き出される息。それがロコへ到達すると、ロコはいっそう強くえづいた。
「累積した奥様の毒素が、ベトベトンの吐きだす臭気を少しずつ、少しずつ強力なものにする」
 ドドは地下室の中をゆっくりと動き回りながら語り始める。
「奥様は知っておいでですか。この屋敷の周辺で、怪しい臭気が漂っているという噂を。屋敷にいる方々は常に臭気にさらされているせいか、どなたも気付いておられないようですが、外部の人間には明らかのようですよ」
 ロコはレベッカの顔を思い出した。昼間、その話を聞いたばかりだ。
「本日、お二方はオコネル氏の家にお茶をしに行った。一度家を離れたお嬢様は、その時今まで慣れていたこの家の臭気への耐性を完全にリセットしてしまった。お嬢様の今のお身体が、本来あるべき反応です。奥様、本当にこのクリームとやらを使い続けても宜しいのですか?」
 ドドは夫人に問うた。喋り終わると同時に、ロコはむせた。
 もうハンカチがあってもなくても変わらないほど、臭気は強くなっている。目を開けられず、何も見えなくなった。頭が揺さぶられるような感覚の中に、絶望が広がって行く。数秒先を生きる道でさえ、暗く霞んで消えてしまうのではないかと、ロコは思った。
 ふと、その背中に温かいものが伝わった。とても懐かしい感覚だった。暗闇の不安が、包みこまれるような安心感に変わっていく。夫人が……母が、ロコの肩を抱いていたのだ。
「ロコ、大丈夫だから。ほんの少しだけ、我慢してね。ほら、立って」
 夫人に身体を預け、ロコは立ち上がった。目を開ける気力はない。
「ロコを部屋まで送ります」
 夫人はドドに言った。
「このクリームはどうされますか」
「処分してください。こんなヘドロ、もう要りません」
「かしこまりました。仰せの通りに」
 ドドはにやりと笑って、深く頭を下げた。
「それから」
 夫人はロコを階段に下ろし、顔を上げたドドに早足で近づく。パァン、と快気いい音が響いた。ドドの頬を平手で打ったのだ。拍子抜けするドドの顔に笑みを見せて、夫人は踵を返した。
「それじゃ、後は宜しくお願いしますわ」
 夫人はロコを抱えて、階段を上っていく。呆気に取られたキュウとドドの二人だけが、地下室に取り残された。
 ロコの部屋までの幾段もの階段を、夫人は誰の手も借りずに登った。ベッドにロコを寝かせ、ロコの一番好きな香を焚く。甘い匂いが広がり、ロコの身体をほぐしていく。
「本当に、いいのですか」
「何が」
 夫人は優しい口調で返した。
「あのベトベトンを、処分しても」
 夫人は答えなかった。ただ静かな微笑みを浮かべるだけだった。
「お母様にとって、大事なものだったのでしょう。ずっと、若さと美しさを追い求めてたんだもの。それなのに」
「だって、ロコにそんな顔されちゃ、嫌でしょう?」
 夫人は苦笑した。
「我が娘のあんなに苦しそうな顔を見たら、やっぱり助けなきゃって思うのよ。あなたの親ですもの」
 ロコは布団に顔を深く埋めた。
「私、昔は良家に嫁ぐためにありとあらゆる勉強をしていたのよ。周りが十の勉強をしたら、私は十二。周りが十二したら、私は十四。そんな具合にね。教養を身につけて、絶対に良家に嫁ぐんだって思ってた。あの頃は輝いていたわ。これからどんな道を歩けばいいのかはっきりと見えていたから。でも、いざこの家に来てみたら、なんだか急に穴に突き落とされたみたいな気分になっちゃってね。どれだけ土地があって、奇麗な家に住んで、服で飾ってみても、それは変わらなかった。でも、それしかないと思い込んでいたのよね。いつの間にか、自分を美しく飾ることでしか、生きていく先が見えなくなっていたのよ。でも、きっとそうじゃないのね。私には、あなたとイングウェイがいる。まだまだ終わりなんかじゃないのよ」
 ロコは小さいころから、何度もこの話を聞いていた。美への執着が強くなった夫人を避けるようになってから、久しぶりに聞いた昔話だった。だが、今回はいつもと違って聞こえる。夫人の言葉が、胸の中にすとんと落ちていく。
「さあ、もう今日はお休み」
 夫人は立ち上がって、布団を軽く叩いた。
「あ、そうだ、ドドさん」
 地下室のことを思い出し、ロコは気になった。
「私がちゃんと言っておくわ。安心してお休み、ロコ」
 クラウディア夫人は微笑んだ。

 うおお、とドドの後ろで声が荒ぶった。ベトベトンは手を伸ばし、ドドの足元に近づく。少し触れそうになって、ドドは一歩離れる。
「おやおや、餌くれるご主人が帰っちゃったもんだから、怒ったか」
 キュウはケタケタと笑った。
「頼んだぜ、キュウ」
「やれやれ、燃やすのはいつも俺だ」
「まあまあ、そう言わずに頼むよ。丁寧にな」
「はいはい」
 キュウは炎を吐いた。高熱がベトベトンの指先に触れ、たちまち全身を覆った。ただの熱では派手な炎を上げることは恐らくないだろう。キュウの炎はそれほどまでに高温なのだ。下手をすれば周囲のものを全て燃やしてしまいかねないため、狙いと出力を外さないようにしなければならないようだ。炎の真っ白な光でベトベトンが見えなくなった。唸りが、焦れから苦しみに変わった。キュウは火を止める。
「こんだけやれば、後は勝手に燃えてくれる」
 キュウは言った。悪いな、とドドは言って、頬をさすった。まだじんじん痛む。
「痛いのかい」
 キュウはおかしくてたまらないといった様子だった。ドドは怪訝な顔をした。
「痛いに決まってるだろ」
「そういえば、何でお前叩かれたんだろうな?」
 人食いのキュウは本当に分かっていないらしい。
「どんなに自分勝手な人間でも、夫人にはまだ娘を思う心があったってことさ。娘を傷付けられたら怒る」
「ふーん」
 屋敷に漂う異臭を消し去る。ロコの依頼を解決するためには、ベトベトンの始末を夫人の口から頼まれる必要があると思っていた。秘密裏にベトベトンを消し去ったとしても、夫人は人食いの魔力にとりつかれたままだっただろう。そして、すぐに同じことを繰り返したに違いない。自身の美しさよりも、大切なことがあるのだと気付かせなければ、解決したとは言えない。
「お前も悪い奴。お嬢さんに内緒で、自分にだけ臭いを感じなくなる術かけたろ?」
「バレてたのか」
 ケタケタとキュウは笑った。ベトベトンの身体が最初の十分の一にまで縮み、炎の勢いが衰え始めた。
「明日、謝んないとなぁ」
「そうよ。明日あなたには謝ってもらうわ」
 夫人が再び地下室に現れた。
「今日はお泊まりになって下さいな。ロコが随分お世話になったようだから、これくらいはさせてちょうだい。部屋はもう用意させてあるわ。案内します」
 ドドとキュウは顔を見合わせた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 結論はすぐに出た。
 炎は消え去った。ベトベトンの鎮座していた地面には黒いしみと、僅かな燃えカスが残っていた。

 ドドとキュウは二階の一室に案内された。ベッドや机などが一通り揃っていたが、ロコの部屋よりも簡素な印象を受けた。今は使われていない部屋だという。机の上のランプに火を灯し、ぼんやりと部屋がオレンジ色に輝く。
「ゆっくり休んで下さい。また明日、改めてお話し致しましょう」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 ドドは頭を下げた。キュウもそれに倣う。夫人は扉を閉めた。ふー、とため息をつくドド。日中窓を開けて風を通せば、屋敷の悪臭も全て消え去るだろう。とりあえず安心、といったところか。一つ、伸びをした。気分がいい。
「ん? 何か落ちたぞ」
 キュウはドドの服の内側から、黒いものがぽとりと落ちるのを見た。コロコロと転がり、キュウの手前で止まった。床には光が届かないせいで、よく見えない。顔を近づけて、確認してみようとする。その瞬間、黒いものはキュウの口の中に跳躍した。キュウは思わず叫んだ。
「どうした」
 ドドは振り返った。どたばたと手足を暴れさせるキュウを見て、異常を察知した。
「何かが、口の中に……まずい、にがいっ」
 キュウは何度も口に入った何かを吐きだそうとした。だが、喉の奥に貼りついたような感覚がしぶとく残る。
「ちょっと我慢しろよ」
 ドドは術を試みた。キュウの頭が上を向いたまま、硬直する。念じて指を上に振り上げると、キュウの口から黒い、いやよく見れば濃い紫の物体が飛び出した。
(こいつか)
 更に術をかけ、ドドはそれを空中に縛りあげた。ピクリとも動かないが、まだ生きている。内ポケットから小さな空き瓶を取り出し、素早くそれを封じ込めた。すぐにキュウの姿を確認する。元凶と思わしきものを取りだしたにも関わらず、まだキュウはもがき苦しんでいた。
「まずい、にがいっ、ああっ」
「水を貰ってくる。我慢しろ」
 ドドは部屋を出ようとする。だが、キュウの衰弱は急激だった。キュウはしゅうしゅうと白い煙を上げ、縮んでいった。苦しげな声が、徐々に細くなっていく。もう助けられない、という予感がドドの動きを縛った。煙が消え去った後には、手のひらに乗るほど小さくなったキュウの頭部だけが残っていた。目を閉じ、眠っているようにも見えた。
 瓶を手に取り、中の紫色の物体を睨んだ。
「ベトベトン……お前か。畜生」
 やられた、と思った。最初に触った時か、或いは燃やして油断している隙か。ベトベトンは自身の小さな分身を用意し、自分の服の隙間に潜んでいたのだ。
 ふと、ドドは自分が笑っていることに気付いた。どういうわけか、ひどくおかしな気分になっていた。いや、理由は分からないでもない。己の中にある疑問に対する解を導く、一筋の光を見つけた、そんな確信があった。
「そんなにこいつが憎いかい? 言霊使い」
 そう呟いて、ドドは頭部だけになったキュウを撫でた。ランプの炎が、怪しく揺らめいた。

 朝、ロコは朝食を取りにテーブルにつくと、夫人が悩ましげな表情で座っていた。
「おはようございます」
「おはよう、ロコ。あなたにお手紙よ。昨日のまじない師さんから」
 夫人はロコに渡す。
「本当だったら、この場で一緒に食事しようと思ったんだけどね。空き部屋使って、泊まって行くように言ったはずなのに……。朝起きたらこの紙が置いてあるだけだったのよ。ひどいわ」
 夫人は本当に残念そうに言った。自分と会わせてくれようとしたことを思うと、この一言を言わずにはいられなかった。
「ありがとう、お母様」
「どういたしまして」
 笑顔を交わし合い、ロコは手紙に目を通す。
 手紙の内容は、今回の事件に対する考察と謝罪だった。ドドが自分だけ悪臭から逃れていたこと、ロコだけつらい目に合わせてしまったこと。だが、夫人を説得するためにはこれしか思い浮かばなかったので、どうか許して欲しい、と。
 朝食も取らずに帰ってしまったことに関しても、謝っていた。どうしてもすぐに帰らないといけない事情が出来てしまった、とだけ書いてあったため、詳しい理由を知ることは叶わない。そのお詫びにと、プレゼントについて書かれていた。手紙の後ろに、何も書かれていない正方形の紙がついていた。例によって、まじないのかかった便箋だった。
――もし再び、お嬢様の身に何かあれば送ってください。必ず駆けつけますから。
「お母様の言う通り、確かにひどい人ね」
 文章を読み終え、手紙を折りたたんだ。
「私を置いてすぐにどっかに行っちゃうなんて、まるでお兄さまみたい」
「確かに、イングウェイは無茶ばっかりしていたわね。いつも何かやった後で、報告するんだから」
 二人は顔を見合わせる。可笑しくなって、笑いだした。ドドは、まじない師だ。きっとロコの知らない世界で、誰かの為に頑張っている。
 遠い地で頑張っている、父と兄に思いを馳せた。二人は元気にしているだろうか。
「早く帰って来ないかしらね」
「そうですね」
 開けた窓から差し込む朝日が眩しい。風が一つ通り抜けると、もうひどい臭いを感じさせるものはどこにも無かった。



■筆者メッセージ
次回 #2 まじない師ジャグル・タルト登場
乃響じゅん。 ( 2012/04/15(日) 20:16 )