#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-2-
ある日、ロコは母に誘われる。お茶会の誘いだ。
「今日もオコネルさんのところへ行くけれど、ロコ、あなたもいらっしゃいな。レベッカも寂しがっていたわ。天気もいいし、たまにはお話してきたらどう?」
そう言えば、ここ一、二週間ほど屋敷の外に出た覚えがない。庭で散歩をした程度だ。少し考えたあと、ロコは答えた。
「そうですね、お邪魔しましょうかしら」
「そうと決まれば、早速準備よ準備!」
なんだか妙に張り切っているなぁ、とロコはぼんやり考えていた。楽しそうなのは何より良いことだ。多少、厳しいお咎めが緩くなる。
外出用の帽子を被り、馬車に揺られていく。麦畑を抜け、木々の間を抜けていくと、高い塀に囲まれた、赤い屋根が見えてきた。オコネル氏の屋敷だ。門番に青銅の門を開けてもらい、正面入口へと続く道の途中まで馬車を進める。
「ようこそいらっしゃいました。それでは、クラウディア様、ロコ様、こちらでお降り下さい」
初老の男性があいさつをする。オコネル氏の家の執事だ。彼に言われるがまま、二人は馬車を降りた。
「こちらです。ささ、どうぞ」
屋敷には入らず、横の道を案内される。庭の方向へ繋がっている道だ。芝生や植木の間にレンガが敷き詰められている。幅はおよそ三人分。先頭にオコネル氏の執事、後ろにクラウディア夫人、そしてロコと続いた。
屋敷の横を通り、裏手の庭に出る。広い芝生に、色とりどりの花が咲いた花壇。奇麗に整えられた花は、ロコの家の庭とは大分違っていて新鮮に映った。そんな庭の片隅に、丸いテーブルが二つ用意されていて、それぞれに二人ずつ座っている。手前の方にはクラウディア夫人と同じ母親たち、奥にはロコと同年代の少女たち。レベッカの他にもう一人、これまた古くからの仲であるミシェルが座っていた。
「今日も良く来て下さったわね」
ベージュのドレスを着たオコネル夫人が明るい声で言う。ロコはぺこりとお辞儀をする。
「お久しぶりですわね、ロコ」
「ええ、本当にお久しぶり、ミシェルもレベッカも元気かしら」
「もちろん」
ロコは二人の旧友と、近況を報告し合った。何しろ暫く会っていないもので、語ることも語られることも多くあった。そして、時にはロコだけ知らなかったことも。
小柄なレベッカが、声をひそめて言った。
「そう言えば、ロコさん、あなた最近もちきりのウワサ知ってる?」
「いいえ」
きょとんとした顔でロコは言う。顔を三人近寄せ合って、レベッカがひそひそ声で言う。
「最近、この辺りにも出るんですって」
「出るって……何が」
「人食い」
そんな馬鹿な、とロコは思った。言い伝えでは、人間の欲に引きつけられてやってくる存在として語られるが、実在すると思っている人間はいない。
「そんなことって、あるわけないでしょう」
ロコは声をひそめたままおどけた。だけれども、レベッカが神妙な表情を崩さないので、ロコは再び居直った。
「農夫が一人、さらわれたそうなのよ。夕暮れ時に、ふとした瞬間いなくなっていたって。周りにいた人達の話によると、家に戻ろうとしている途中、林の方にぼんやりと火のような光を見たそうよ。それから、突風が吹いた。みんな目をつぶっていたわ。目を開いてみれば、一番後ろを歩いていた男がいなくなっていた。そして、代わりに落ちていたのは、男の右の腕……」
きゃあ、とミシェルとロコは叫んだ。背筋がぞっとした。
「で、でも、一体何があったのかちゃんと見た人はいないんでしょう?」
ロコは反論を試みる。レベッカは紅茶を少し口にする。そして、からっと表情を変えて、ひそひそ話の態勢を解いた。
「そう。ロコさんの言う通り、誰も見ていないから、人食いかどうかなんて本当は分からない。まじない師とか妖しい職業の人らならそういうの興味あるかもしれないけれど」
「ま、うわさですよ。う、わ、さ」
「そうよねぇ」
三人は気が抜けて、おかしそうに笑った。
あ、と思い出したように、ミシェルは声を上げた。
「そう言えば、ロコさん」
「何でしょう」
「あなたの家のある街で、変なにおいがするという話があるのだけれど、何かあったの?」
ロコは面食らった。心当たりは無いことは無いが、かぶりを振る。
「まさか。私、普段通り暮らしているけれども全然感じないですわ」
「なあんだ。お母様がそんなこと言っていたから、何かあったのかと思ったけれど。お母様が少しヘンなだけなのね」
ミシェルは安心したような、少しつまらないような表情をした。
三人はそれからもたくさんの噂話に花を咲かせた。その多くは結局噂に留まるのだが、次から次へとおもちゃ箱のように飛び出して、ロコは楽しい気分になるのだった。
帰りの路、ロコはスカッとした気分だった。
久しぶりに外出したおかげか、友人と話すことが出来たおかげか。普段の閉塞感が一気に吹き飛んだ。そこで、自分がどれだけ気が詰まる思いをしていたのかを思い知る。思えば、訳もなく憂鬱な日々が長く続いていた。
ガサガサッという音がした。ただ草むらが揺れただけだと思い、忘れようとしたが、その重い響きに嫌な予感を覚えた。馬の蹄の音が、妙にはっきり聞こえる。
「どうしたの」
隣に座っているクラウディア夫人が、不思議そうな眼でロコを見る。ロコは目を逸らした。
「い、いえ」
そう自分の心を隠そうとする。いや、どうということはない、ただたまたま狸か何かが近くを通っただけなのだと自分に言い聞かせた。だがどうも居心地が悪くて、落ち着かなかった。ほろを少しめくって外の様子を見ようとした。その瞬間。
グォォォォ!
大きな獣の咆哮が聞こえた。それと同時に、馬車が何者かに押され、傾き、横倒しになっていく。クラウディア夫人とロコは叫び声を上げ、成すがままに地面に叩きつけられた。クラウディア夫人は悲鳴を上げた。不可抗力でクラウディア夫人の身体にのしかかる。ドレスがクッションになったが、コルセットに響きそうだ。ごめんなさい、と謝ったが、返事はない。どうやら気を失っているようだ。
何とか抜け出して、ほろの外に出る。表には、二人いたはずだった。綱を握る御者の他に、ボディーガードが一人。だが、あるはずの彼の姿が見当たらない。震えながら御者が何とか馬をなだめようとして、ある一定の方から目を離せないでいた。
ロコはその方向を見た瞬間、顔を手で覆った。人間の背丈よりも遥かに大きい獣。橙と茶の縞模様と、白いたてがみ。犬のような鼻先が、紅く染まっている。その下にいるのは、上半身を失った人間の体だった。
――最近、この辺りに出るんですって……人食い。
ロコは友人の囁いた言葉を思い出す。
怖い。どうやって逃げよう。お母様をここにおいていく訳にもいかない。でも、自分の体力では、走って逃げることもきっと叶わない。ロコは御者を見た。とてつもなく怯えた目つきと血の気の引いた顔で、首を振る。きっとロコも同じ顔をしていたに違いない。この化物の腹が男一人で満ち、飽いて何処かへ去って行くことを祈るしかない。ロコは両手を組み、ぎゅっと目を閉じた。
誰か助けて。そう願うしか、ロコには出来なかった。
どれくらい経ったのだろうか、ふいに草むらを掻き分ける音が聞こえた。
「失礼」
若い男の声だった。ロコが目を開けると、全身真っ黒な衣装に包まれた男が、化物と対峙していた。