飽食のけもの - #1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師
#1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師-1-
 1

 最近、屋敷のクラウディア夫人はやたらと美しくなった。肌は土一つ見えない雪のように白いし、髪の色もイチョウのように一切ムラのない黄金色。目のブルーは海のよう。細い身体はたるみ一つなく引き締まっている。そんな体をしていながら、年頃の娘がいると初見の人間が聞けば、さぞかし驚かれることだろう。
 その年頃の一人娘――ロコは、そんな母の様子をいぶかしく思っていた。つい数カ月前までは、シミも増え、背中のにきびを気にし、髪も痛み始めた、どうすれば若い身体を保てるのかと嘆いていたのに。あまりに急激な若返り具合に、それを褒める使用人は数多くいれど、それを疑う者が果たしてどれくらいいるのだろう。クラウディア夫人は自分の見た目について良くない言葉を発する者を容赦しなかった。紅を引いた口をむちゃくちゃに歪ませながら重い扇子で十発も殴るのを、幼いロコは発見してしまった。それ以来、ロコ自身も発言には細心の注意を払うよう心がけていた。この母との生活は戦いなのだと、ロコは思っていた。それゆえに、今回の劇的な変貌についてもこちらから聞くようなことは絶対にあってはならないと頑なに思っていた。自慢したがりのクラウディア夫人の事だ、色々な人から褒め称えられているうちに、自らその秘密を打ち明けてくるだろう。知らぬ間に、誰もが認めるほどの美を作り上げていたのだ、賞賛されない訳がない。そして調子に乗ったクラウディア夫人は私に言うのだ、「私の美しさの秘密を知りたい?」と。その一言を待とうと心に決めてから、既に一か月が経過していた。
「ねぇ、ロコ」
「何でしょうか、お母様」
 黄色いドレスを来たクラウディア夫人が扇子で口元を隠しながら近づいて来る。きっとあの下には、溢れんばかりの笑みを抑えようと必死な口があるのだろう、とロコは思った。
「今日は物理の先生がお見えになる日だけれども。勉強の方は順調かしら」
「ええ。順調です」
「それでこそ私の娘!」
 クラウディア夫人は喜んだ。ロコにはイングウェイという兄もいるが、既に働いているために家の中にいることはあまりない。生活に張り合いが無い夫人は、ロコに立派な教育を施すことが趣味であり、確実に知恵をつけていく様子を見ること、つまり自分好みの人間に育っていくことが楽しみなのである。妙なところで抜けた頭だ、とロコは思った。その知恵がいつか親を裏切るようなことになったらどうするつもりなのだろう。自分がもし野心家であったなら、間違いなく得た知恵で母を出し抜いていただろう。
 ロコは目を閉じた。閉じた瞳の中にため息を込める。勉強自体は役に立つことも多く、嫌いではないものの、一日に7人8人も来た時は流石に気が滅入った。今何の話をしているのか、今の教師は誰なのか、だんだん分からなくなってくる。
 そう言えば、一人だけ関係が少し深くなった家庭教師がいた。幾何を教えてくれた若い男だ。背が高く、鼻も高くて、控え目な眼鏡をかけていた。本を持ちながら数学について語る姿に理知を感じ、不覚にも惹かれてしまったのだ。あれは半年ほど前の話だっただろうか、いつの間にか幾何についてではなく、愛について語るようになり、ロコの方もそれに乗ってしまったのだ。誠実そうな人物だと思った。だが、運悪く両手を絡ませているところを下女に見つかり、夫人に報告されたのだ。あの時は怖かった。自室の扉をとんでもない音で開け、昔見たひどい怒りの表情を浮かべて扇子で教師を叩き、教師の方は両手を頭を抱え、謝りながら情けなく退場していったのだ。「あんな男を雇ったのが間違いだった」と夫人は憎々しくこぼした。
 部屋に戻り、物理の先生を待つ。外の景色は相変わらず晴れ。
「ロコ様、先生がお見えになりました」
 下女が扉を開け、小さい身体に似つかわしい高い声でロコを呼ぶ。それと同時に物理教師が部屋に入ると、ロコは椅子から立ち上がり、振り返って軽く会釈する。下女は扉を閉めた。
「こんにちは。今日も宜しくお願いします」
「やぁ、ロコ君、今日もいい天気だね。ただちょっとにおうかな? はは」
 ロコはあまりこの男が好きではなかった。言葉に一切慎みがなく、品がない。肌はそれなりに奇麗なのだが、歯が上下二本ずつ欠けている。あまり見たい口内ではない。ロコは笑みを浮かべてみたが、きっと引きつっていただろう。この男の粗野な性格が人のそういう細かい所作をいちいち気にしないほどであるというところが、唯一の救いか。
 物理の話をしている間じゅう、ずっと彼は眉間にしわを寄せていた。一体何がそんなにおかしいというのだろうか。他人の屋敷だ、においの違いくらいあって当然だと思うのだが。こんな醜男が細かいことをいちいち気にする様は、むしろ滑稽でもある。他人を茶化すのは苦手だが、そう思わなければ気分良く学習することは叶わないだろうと思った。
「それでは、今日はこのへんで」
「ええ、その方が良さそうですわね。ありがとうございました」
 失礼な男がようやく帰ってくれるのか。ロコは少しだけそっけなく、お礼を言った。
「どういたしまして」
 気付いているのかいないのか、向こうの反応も格式ばったものだった。物理教師はドアを開き、下女の案内を受けて去って行った。去り際に一言、やっぱりひどい臭いだ。
 ロコはため息をついて、窓の外を眺める。広い芝生と周囲の森が、夕日の陰になり真っ黒に染まっている。
「早く帰って来ないかなぁ、兄さん」
 ふとイングウェイのことを思い出し、少し懐かしい気持ちになった。嫌なことがあった後は、決まってそうなのだ。一回りも二回りも年上の兄は、幼いころからロコの話をよく聞いてくれた。きっと私は退屈しているのだ、とロコは思った。



乃響じゅん。 ( 2011/12/15(木) 12:05 )