そっくり人形展覧会
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 その日も俺はやかんが沸騰するのを毛布で包まりながら待った。外は雨。もう朝だというのに、ちっとも明るくならない。
 オユガフットウシマシタ。タダチニヒカラハナシテクダサイ。と、キッチンから警告が聞こえた。窓から見える木はもう、冬に備えて半分ぐらい葉っぱを地面に落としている。今日の雨で、またはげてくんだろうなぁ、と少し残念に思った。葉っぱの落ちた木は、見てていたたまれない気持ちになる。寒さをこらえて毛布を抜け出し、やかんからきゅうすに沸騰したお湯をうつす。
 時計に目をやると、9時半。一人暮らしをしている以上、それなりの時間にまがりなりにでも一度起きて朝食を取ることは、生活リズムを作るうえで絶対だった。崩した瞬間、自分は正しいリズムに戻ってこれる自信がないのだ。だが、一口でも食べてしまえば、ノルマはクリアしたことになってしまい、二度寝することもある。いい加減だな、と自分でも思う。そんな時は一日を損したような気持ちになるが、今日はそんなことにはならないだろう。外せない用事があるのだ。
 あと三十分くらいかな。そんなことを考えながら、またベッドの上に倒れ込む。今度は毛布は被らない。反動をつけて起き上がり、きゅうすにいれたお茶を汲む。少し冷めるのを待つ間、パジャマから出かける服装に着替え、小さなポシェットに荷物をいくつか詰め込む。
 ぴんぽん、とインターホンがなる。扉を開けると、チーコが傘の水を落としながら我が家になだれ込んでくる。
「おはよう」
「おはようなんて呑気に言ってる場合じゃないよね、これ」
 どうやら天気のことを言っているらしい。少し興奮気味に、チーコは語る。
「そんな大げさなヒールなんか履かなきゃいいのに」
「別に防水加工してあるから平気だし」
 とりあえずお茶頂戴、と言うので、彼女の分も用意する。
「こういうのって珍しいんよね。私、基本的に晴れ女だから」
 頬杖をつきながら、彼女は喋る。
「でも、こういうのってテンション上がる。今日の傘、地味に気に入ってるやつなんだ」
 俺は玄関にかけてある傘をちらりと確認する。少し派手な模様が入っているが、そういうデザインとかファッションのことに関しては良く分からない。
「だから行くよ、三宮」
「えー」
 面倒だなぁ、と俺は思う。
 我が家は春日野道という、三宮の中心まで徒歩20分の所にある。チーコはいつも我が家まで迎えに来てくれる。と言うのも、待ち合わせをしても俺は必ず遅刻するからだ。それなら直接来た方が早いと気付いた彼女は、もう待ち合わせの場所と時間を正確に指定しなくなった。
「今から行けば丁度オープンの時間だから、行こうよ」
「はいはい」
 彼女が靴をはくのに手間取っている隙に、読みかけの本をかばんに追加した。彼女とは対照的なシンプルで機能的な傘を取り、家の鍵をかける。

 雨の日に買い物をするのは少し苦労する。必然的に荷物が一つ増えるからだ。チーコが前から目星をつけていた3件を回る。一軒目はかなりじっくりと、二件目はそれなりに、欲しいものを選んでいった。三件目で買ったファーのごついブーツは、安売りしていて何となくおしゃれだという理由で選ばれた。店に目星はつけていても、何を買うかまでは決めていなかったらしい。俺にはその良さが分からないが、口には出さない。
 昼食をイタリア料理店で食べる。俺はカルボナーラを、彼女は野菜の大量に入ったペペロンチーノを頼んだ。
「そう言えばさ、仕事先でやなことあってさ」 
 食べながら、彼女は話す。
「先の近くに猫がいついてるって話したっけ」
「したね」
「その子にごはんあげようと思って、カリカリ持ってったんだよ。そしたら社員さんがめっちゃ怒ってさ」
 相変わらず猫好きだなぁ、と思いながら、俺は相槌を打つ。
「野良猫にいつかれたら迷惑だから、って。30分くらいずっと怒られてさ、周りの目とか全く気にしないんだよね」
 社員のことを思い出しながら、チーコのトークはヒートアップし、頂点を超えて少し落ち着く。足元の水たまりを踏まないように、大股になる。
「それにしてもさ、猫とかってまだ人間より自由だよねぇ。怒られても逃げられんじゃん、あいつら」
「確かに。足早いしね」
 猫については、俺はあまり興味がなかった。当たり障りのない答えを選んだ。チーコは俺の返事が気に入らなかったらしく、少し怪訝な顔をして、さらに続ける。
「犬もいいよね、ちょっとご主人様の言う事聞くだけで、すぐ褒めてもらえるんだもん。かわいいって得だよね」
 そう思っていいのだろうか。俺は大きく相槌を打つことはできなかった。
 つるりと中身を平らげ、しばらく食休みをする。
「んじゃ、一旦ウチ帰ろっか」
 ウチと言っても、俺の家だが。
「そうだな」
 さっそく欠伸が出て来る。昔の夜更かし生活が祟ってか、昼食を取ると自分ではどうしようもない眠気に襲われるのだ。本当に耐えきれなくなる前に、意識を失ってもいい場所を探さなければならない。チーコが朝早くから出かけようとするのは、俺の体を考えてのことだった。昼ごはんを食べる前に、一日の用事は済まさなければならない。動かない限り眠気のスイッチは入らないが、立ち上がった瞬間カウントダウンが始まるので、どの道逃げることは出来ない。頭が働かなくなってくる。
 帰り道の途中も雨は降り続いて、俺の意識を余計に曇らせた。イチョウの木が落とした葉っぱで、黄色いじゅうたんができあがる。何となく、現実感を失っていく感じがする。
「今日ほんと良く降るなぁ」と、呟く。
「いいじゃん。雨の日。何て言うか、楽しくならない? 私は好きだなぁ。めったにこっちって雨降らないでしょ」
 歩きながら、チーコは楽しげに話す。神戸は他の地域に比べて、雨の降りにくい街の一つだ。珍しくできた水たまりを避ける為に、少し足を大きく伸ばす。
「雨降って何が嫌って、水たまりばっかりになるんだよね」
「確かにそれはそうかも」
 チーコは笑って同意した。
 川が流れていて、短い橋を渡れば春日野道だ。この橋が三宮と春日野道を分ける。
「うわ」「きゃぁ」
 橋を渡ろうとした瞬間、急に雨あしが強くなる。風は止まり、ただただ強い雨。しかし、これはあまりに強すぎないか、と不審に思う。目の前が真っ暗になって、周りの音が全く聞こえなくなるほど大量の水が落ちてくる。
「すっごーい」
 チーコの声はとても楽しそうだった。はしゃぎすぎだろう、と鈍い頭で突っ込んだ。
 その時目の前で、信じられないことが起こった。
 チーコが、水色の犬のような獣になったのだ。
 両手両足が縮んでいき、両手を地面についた。同時に顔の形も変わり、尻尾も生えてくる。服は人間を失った分だけ消えて行く。
 首にシャンプーハットのようなものをつけ、背中にはひれのようなものがついている。尻尾は太い。傘も買った服も全部落として、彼女は三宮方面に嬉しそうに駆けて行った。
 強すぎた雨はもとに戻り、風に吹かれて派手な傘は遠くへ飛んでいく。
「お、おい」
 俺は落とした服の袋を拾い、彼女を追いかけて走る。
 状況が理解できないのは眠いからか、などと一瞬馬鹿げたことを考える。
 嬉しそうに走る彼女の足は、獣のそれそのものだった。ダッシュしては立ち止まり、こちらの姿をちらりと見る。俺が近づくと、また走りだす。三宮は北に六甲山があり、街なのに上の方に登れば登る程勾配がきつい。彼女は山の方へひたすら走る。きつかったが、彼女の姿を視界から外すわけには行かなかった。なんなんだ、あの動物は。どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。
 かなり上の方まで来た。異人館通りのヨーロッパ風の建物を横切り、また更に上へあがって行く。高級住宅街のようで、家一軒一軒の敷地がやたらと広い。大仰な門がついている家もあれば、何故か警備会社のステッカーを一メートル置きに貼ってある家もあった。突き当たりって左、三件目の家に彼女は入って行く。どうやら柵の下をくぐり抜けたらしい。壁は立派だったが、入口の門は普通の家と対して変わらないようだった。ここで見捨てるわけにもいかず、とりあえずインターホンを鳴らす。
「はい」
 女性の声が聞こえる。
 走った疲れと昼食の影響で、眠気が限界に達していた。消えそうな意識の中、何とか言葉を絞り出す。何が入ったと説明すればよいのだろう。アレは猫か? 犬か?
「すみません、うちの猫がそちらに勝手に入ってしまって。少しお邪魔させても宜しいですか」
「……分かりました。どうぞ、入ってください」
 少し間を置いていたので、嫌な顔をされたのかと一瞬不安になったが、返事は思いのほか友好的な口調だった。
「お邪魔します」
 こんな豪邸の敷地内に入るのは初めてだ。左は登り階段で、家の建物につながる。右は暗くてよく見えないが、ガレージらしく黒いベンツが静かにたたずんでいた。そっちにしっぽらしきものがちらついたので、右に向かう。
 更に下に向かう階段を下りて行く。半開きになった扉を押し開けて、彼女は入って行った。追いかけて、扉を開く。
 中は、オレンジ色のランプと灰色の壁が続く通路だった。下はじゅうたんで、天井は黒い。まるで美術館や博物館のようだった。絵がかけてあったり、古い陶芸品が置いてあったりする。空気は乾燥していて、独特なにおいを漂わせている。絵画の保存の為の空調だろうか。俺はそれに我慢できず、気分が悪くなり、せき止めていた眠気が一度に襲いかかる。俺はその場に倒れた。

 気がつくと、俺はテーブルに突っ伏していた。木目の入った茶色くて丸い机。椅子が4つ。目を擦り、起き上がって大きく伸びをする。
 右手が何かに触れている。本だ。ポケモンずかん、と書いてあり、確かピチューというポケモンだっただろうか、黄色いキャラクターが大きく描かれ、他にも色々なキャラが描かれている。ポケモンはやったことが無いから、数年前に第一作が流行り、第二作が最近発売されたことぐらいしか知らない。
 ページの中ほどに、青い付せんが貼ってあるのに気付く。それを開くと、そこに載っていた一匹のポケモンに目が行った。シャワーズ。彼女の姿と同じだ。
 ふと気配がして、左の足元を見ると、一匹のシャワーズがこっちをまじまじと見ている。なんだか一つ落ち付いて、すぐにまた心がこわばる。
「一体何だってんだ? 何があったんだ」
 俺は聞いてみる。こいつは答えてくれるのだろうか。
「残念だけど、その子は答えられないよ。人間の口は聞けない」
 女の人の声がする。周囲より一段高く作られ、ライトアップされたステージに、彼女は立っていた。赤いローブを付けた、髪の茶色い女だ。
「あなたは」
「私? 魔女」
 彼女はにんまりと笑った。冗談だと思って、思わず鼻で笑った。
「ゲームフリークもいい仕事するねぇ。こんなに可愛い子を作ってくれるなんて。私もやりがいがあるよ」
 段差を降りると、シャワーズの彼女は魔女を名乗る女に駆け寄る。思わず俺は手を伸ばした。よしよし、と魔女はシャワーズの体を撫で回す。
「どういうことですか」
 どういうことですか、と彼女は復唱する。そしてにたりと笑って、両手を軽く広げる。
「私に敬語なんていらないよ。君はきっと私を嫌いになる。怒るのか、怖がるのかは知らないけど、きっと言葉は乱暴になる」
 そう言われると、逆らってみたくなるのが人間だ。何が何でも心を動かされないぞ、と心に決めて、彼女の言葉を待つ。
「まず、君の彼女……チーコちゃんをこんな可愛い姿にしたのは私だよ」
 椅子から転げ落ちそうになる。いきなり何を言い出すんだ、この人は。それに、何故名前を知っている?
 嫌な予感がする。
「何でそんなこと」
「この子が人間やめたいって望んだからさ。気付かなかった? まぁ、君は学生だから、社会人のこの子の辛さなんて分かんないよね」
 言葉に詰まり、くっ、という声だけが漏れる。一体どんなに辛かったのか、チーコは愚痴をあまり言わないから分からなかった。今日の彼女との会話を思い出す。あそこまで弱音を吐くのも珍しいことだった。猫はいいよね、犬はいいよね。あの言葉に、どれだけの意味が込められていたのだろう。俺は図り間違えていたのかもしれない。自分に非が無いとは言い切れない。
「そんな人間のこころを感知して、人間辞めさせてあげるのが私の趣味で、仕事なの。今はまだこの街の中の中でほんの少しだけど、いつか全ての人間を辞めさせて、ワンダーランドを作りたいなぁ」
 楽しそうにくるくる回りながら、ステージを横切って奥の方へと歩いていく。なんなんだ、こいつは。あまりに現実離れしていて、にわかには信じられない。が、嘘を言っている風にも見えない。
「でも、君がもしチーコちゃんを返して欲しいのなら、返してあげないこともないよ」
 魔女はこっちを指差した。本当か嘘か、すぐ決めつけるのは何かまずい気がした。俺は警戒を解かない。
「ただし、条件付きでね」
 奥にはグランドピアノが置いてあった。今まで気付かなかったのは、魔女が近づいて初めてライトがついたからだろう。魔女は椅子に座り、弾ける準備をする。ウォーミングアップのためだろうか、音階を軽く上下になぞり、和音を三つほど弾いた。
「今から『本物は、誰でショー?』やるから、それでうまくいったらチーコちゃんは返してあげるよ。知ってる? そっくり人形展覧会」
 俺は首を振る。
「じゃあ、谷山浩子って人は?」
 俺はまた首を振る。魔女はため息をついた後、まあいいやとひとりごちる。
 ステージの反対側は、真っ暗で何も見えない。ここは意外と広いスペースなのか。魔女は先ほどとは打って変わって、開放的で陽気な声を出す。
「さてさて、ルールをご説明しましょう。これから数分のお時間を差し上げます。その数分の間に、お兄さんには会場を回っていただき、今日の出席者の中から『ホンモノ』を見つけてもらいます。 観客席のみなさんは、いかにも『ホンモノ』らしくふるまって、お兄さんを惑わせてあげて下さい」
 にたにたと笑いながら、さもクイズの司会者のように語りかける。後ろの方から、ざわめく声が響いてくる。ホンモノ……本物のチーコのことだろうか。
 さっきまでそこにいたシャワーズが、観客席の暗闇を駆け抜ける。それに合わせて、ライトが点いて、その全貌が明らかになる。血の気が引いた。そこには、100、200、おびただしい数のシャワーズがいたのだ。よく見ると、シャワーズだけじゃない。姿のよく似た、あるいは色の同じ別のポケモンもいる。一番奥まで、20メートルはある。この中から、本物の彼女を探せって言うのか!
「さぁ、心の準備はいいですか? ワン、ツー、スリーでそっくり人形展覧会のテーマが流れますよ! 歌が終わるまでに見つけて下さいね! ちなみに、そっくり人形展覧会のテーマの演奏時間は、おおよそ2分24秒でーす」
 心臓に、打たれたような衝撃が走った。そんなに短い時間しかないのかよ。
「それでは、ワン、ツー、スリー!」
 ズンチャ、ズンチャ、ズンチャッチャ。軽快でどこか滑稽なリズムが刻まれる。
 俺は走って、青いポケモンの群れの中心に突っ込んだ。右を見て、左を見る。どれだ、どれが本物だ?
 ポケモンの群れはあちこち動き回り、どれがどれだか分からない。近くに寄ると寄られた方もこっちに来る。顔を見ても、違いなんて分からない。
 そっくりだけどちがう そっくりだけどちょっとね
 どこが どこが ちがうの? あててごらんよ
 魔女が高らかに歌い上げる。
「さぁさぁ、見つけましたか? 見つけましたら、ステージに連れて来て下さいよ。ほらほら、もうすぐ曲が終わってしまいますよ? 急いでくださいね?」
 わたしよ、わたしがホンモノよ。そんな声が聞こえてくるような気がした。数々の肉球が足を踏み、腕に触れ、数々の襟巻きがズボンにぶつかった。手から汗がにじみ出る。

 だってみんな、同じじゃないか!

 諦めかけたその時、一つの閃きが生まれる。一番初めに走って行ったシャワーズ。あれがホンモノではないだろうか。
 確か一番奥まで走ったような気がする。俺は直感に従い、走った。近づいたシャワーズが、走る体に手を当てて軽くちょっかいをかけてくる。壁に到達すると、一匹だけ少し他とは違う様な気がするシャワーズがいた。何となく、これがそうじゃないかと思い始めた。俺が一歩近づくと、そいつは一歩逃げた。顔は背けず、こっちを向いている。もう一歩踏み出せば、そいつはもう一歩逃げた。怪しい。
 もう恐らく時間は残っていないだろう。逃げるシャワーズに心を定め、全力で捕まえようと走った。シャワーズも逃げる。幸い、逃げる方向はステージ側だ。このまま行け!
「見つけた、……こいつだ」
 上手くステージの上に乗ってくれた。
「はぁ、どの子ですって?」
 少し馬鹿にしたような言い方をするので、走った疲れもあってか、荒い口調で答える。
「だーかーら、こいつだって……あれ」
 シャワーズを指差した。だが、シャワーズは段差を降り、てくてくと自分が座っていたテーブルの方へ歩き出す。ばちん、と音がして、客席の方の電気が落ちた。
「その子でいいんだね?」
 魔女はピアノから立ち、ステージの横に移動する。
「どうせ、タイムアップなんだろ」
 にんまりと笑う顔は、その通り、と言ってるようだったが、それ以上は何も分からない。
「その子、連れて帰っていいよ。出口はこの子が知ってる」
「待てよ。こいつがホンモノかどうか、教えてくれないのか」
 いつの間にか、彼女に対して敬語で無くなっている。最初に魔女の言ったとおりになって、なんだか気分が悪い。
「それは、後でのお楽しみ。それじゃ、また会いましょう! 魔女のそっくり人形展覧会、でした」
 バチン、と電気が切れて、何も見えなくなる。後ろから、きい、と扉の開く音がして、明りが覗いた。どうやらシャワーズはそっちに向かって既に歩き始めているらしく、俺はその後に続いた。外に出ると、雨はすっかり上がり、太陽が地平線の彼方から顔を少し出すだけだった。神戸の街を一望でき、ここが三宮で一番高い場所に立つ家だと言う事を思い出した。夕方かと思ったが、太陽が昇っているのは東からだと言う事に気付いた。いつのまにか、朝になっている。そんなに長い間眠っていたのか、と思うと、そんな気持ちになる。
 そっくり人形展覧会。ぼんやりとした頭で、家路につく。きっとさっきまでのは夢だな、と思って、ベッドに入って眠った。彼女がポケモンになったなんて、信じられるか。ばかばかしい。

 目が覚めたのは、昼近くになってからだった。そろそろチーコは昼休みかなと思い、何となく電話をかけてみる。しかし、何度かけても繋がらない。バイブレーションが家の中から聞こえる。部屋に散らかった袋の中で、正体は見つかった。チーコの携帯電話だ。自分の方の電話を切り、何となくチーコの携帯の待ち受けを見てしまう。着信件数、7件。まさか。
 チーコの連絡先だ。とりあえず、かけ直す。とりあえず、電話には出てくれた。チーコの番号だと分かって、向こうは発言してくる。
「よかった、繋がって。今どこにいるの?」
「すみません、本人ではないんです。本人の知り合いですが、何かあったんですか」
「ああ、そうなんですか。失礼いたしました。あの子、今日会社に来てないんですよ」
 まさか。
「見てませんか?」
「いや、昨日三宮で一緒にいたんですが、別れてからは全く」
「そうですか……もし見つけたら、連絡お願いします」
「分かりました。ご迷惑おかけしました」
 電話を切る。まさか、まさか。
 あれは本当のことだったのか。
 家の扉を開けると、そこにはシャワーズの姿があった。こっちを見つめて、首をかしげ、尻尾を軽く振る。何も言わずにそいつは勝手に我が家に上がり込んできた。

「……それから、俺はあの魔女にチーコを元に戻す方法を聞き出す為に、ずっと三宮に住んでるってわけ」
 土岐律子は、いとこの話に頭がこんがらがりそうだった。神戸三宮の北部、北野坂の始まりにあるカフェの店長を任された彼は、シャワーズを店内に連れてきている。テーブルの端には、何作かの文庫本と、ポケモンずかんが並べられている。律子は珈琲がドリップされていく様子を眺めながら、思考を巡らせた。そして、気付く。
「でも、あんたの話だと、その子、確実にチーコさんだっていう証拠はないんでしょ」
 カップ棚を整理するいとこの手が一瞬止まった。失言だった、と少し居心地が悪くなる。
「まぁ、そうなんだけどね」
 彼はドリッパーに小さなポットでお湯を継ぎ足す。今、ポケモンずかんは初代を除いた4冊。最近、新しいポケモンシリーズが発売されたことで、世間は軽く話題になっているらしい。つまり、チーコがポケモンにされてから、既に10年近く経っていることになる。それでも元に戻す方法は、見つかっていないようだ。彼は続ける。
「三宮では、10年前から行方不明者が増えているんだって。きっと、魔女にやられたんだ。りっちゃんも、三宮は気をつけた方がいいよ。人間辞めたいとか、動物になってみたいとか考えた瞬間、魔女に変身させられちゃうからね」
 ドリップが終わった珈琲を律子に出し、砂糖とミルクを渡す。今日のコーヒーは、切ない気持ちと首を突っ込んではいけない恐怖の味がした。
「この街はもう、普通じゃない。橋を渡れば、別世界なんだ」



 彼は知らないことだが、彼がシャワーズを連れて部屋を出た後のこと。
 魔女は再び電気がつけて、ピアノのそばに座った。ふたを開き、ホコリ避けの布を奇麗に折りたたむ。
 そして、すうっと息を吸い込んで、静かに曲の最後の部分を歌い上げるのだ。

 そっくりだけどちがう ちがうけど平気
 なぜなぜ平気なの?
――そっくりだから。


■筆者メッセージ
■字数
8839字

■初出
ポケノベ秋企画 三題噺部門
テーマ「雨」「橋」
お題「やかん」「イチョウの木」「博物館」

■参考楽曲
谷山浩子『そっくり人形展覧会』
http://www.youtube.com/watch?v=q6ieUdxovX8

■あとがき
・谷山浩子を好きになるきっかけとなったのがこの曲でした。この動画のせい。→http://www.nicovideo.jp/watch/sm11847065
 谷山さんの曲は不気味でかわいいものが多く、想像力をかきたててくれるように思います。
 オマージュ具合がかなり強い作品。歌×ポケモン小説のコラボを志そうとハッキリ決めたのはこの作品がきっかけだったように思います。
・連載しようかと思った話の短編化です。またか!と言われそうですが、そうなのです。
 カフェのマスターが律子と共に魔女に戦いを挑んだりとか、色々考えたのですがいかんせん間が思いつかない^q^
・三題噺を通り越して、五題噺に挑戦しました。これだけでやってやった感が凄かったのですが、投票期間終了後に超ド級のミスを発見、自己申告により企画では投票無効作品に。残念!
 今回はちゃんと修正を加えているので、ご安心を。
・得体の知れないモノへの恐怖、1と0の間にある腑に落ちない奇妙な感覚。私が物語を書くときにいつも持っているテーマです。
乃響じゅん。 ( 2012/09/01(土) 07:33 )