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スター、という名前のフライゴンがいた。まだ小さかった頃に、旅人からもらった名前だった。彼には、ナックラーの瞳がきらめく星のように見えたらしい。
砂漠の真ん中に、小さな砂地獄を作って、かかったエサだけを食べる。何も思わず、ただひたすら口を開けて、じっと待つ。そうやっていれば生きていけたし、十分だった。
だがあの日、外の世界に憧れてしまった。開けた口の中に大きなラジオが飛び込んできた、あの時から。
ある日、見晴らし岩の上でスターが空を見上げていると、空を飛ぶ鳥ポケモンを見つけた。これは珍しいお客さんだな、と思った。雲一つない青空のなか、一匹でどこかへ向かうように飛んでいる。群れからはぐれ、迷い込んできたのだろうか。そうやって、空を渡る影を見つめているうちに、スターの胸がじんわりと熱くなった。スターは砂漠を訪れる誰かを見つける度に、人恋しさであるとか、自分が生きていることの意味であるとか、一人きりで生きているうちに押し込んでいたものを抑えられなくなるのだ。
「今度こそ」
彼は小さく呟いた。ほんの少しでいい。あの人と、話がしてみたい。僕の知らない世界について、聞かせてほしい。背中の羽にぐっと力を入れて、大きく羽ばたかせる。足下の砂を浮かせるほどの浮力を得て、地面を蹴って飛び上がる。鳥たちのそれとは違い、とても細かい振動だ。横から殴りつけるような風が吹く砂漠では、上昇気流を捉えるよりも自分で浮力を得る方が楽だった。
竜の巨体は一瞬で高度を得た。そして、渡り鳥の影へと一直線に飛んでいく。彼のはやる気持ちが乗って、更に速度は上がっていく。ねえ、君はどこから来たんだい。名前を教えて。僕はスターって言うんだ。君と友達になりたいな。彼にかけてみたい言葉が、一瞬のうちにあふれ出す。スターの心は弾んだ。全身を巡るエネルギーが、出所を求めて暴れていた。
しかし次の瞬間、彼が見たものは、小さな鳥の怯えた顔だった。捕食者を前に死を悟った、石のような表情だった。鳥は自ら掴んでいた風から引き剥がされ、その身体は更に空高く舞い上がっていく。スターは思わず手を伸ばしてみたが、殴りつける風の速度にはこれっぽっちも叶わない。弱々しく握った手はわずかばかりの砂を掴み、空しく振り下ろされた。あっと言う間の出来事だった。
フライゴンの羽ばたきはあまりに力強く、砂を巻き上げて強い上昇気流を起こす。そうしてできた砂嵐は、周囲を巻き込み、たちまち弱い命を奪ってしまうのだ。自分のまとう砂嵐を見上げながら、スターは涙を流した。まただ。またやってしまった。スターの心が、自責と後悔の念にとらわれる。どうしていつもこうなってしまうのだろう。こんなことが起こるのは、一度や二度ではなかった。会いたい気持ちを持って翼をはためかせ、多くのポケモンを傷付けた。
自分の羽ばたきのせいで、誰かが不幸になるというのなら。会いたい誰かに会う権利が僕には無いと言うのなら。どうして僕はこんな姿をしているのだろう。どうして僕は、誰かを恋しく思ってしまうのだろう。
しばらくすると、砂嵐でズタズタになった鳥の影が落ちてきた。その身体は抵抗することもなく、一直線に砂の上に叩きつけられた。スターは小さななきがらを抱き抱え、近くの水場に埋めた。失われた命の扱い方が分からないスターにとって、精一杯の弔いだった。
そしてスターは、ふたたび心をふさいだ。自分が願いを抱いたところで、きっと良いことなんて起こらない。この広がる砂漠のように、心まで渇いてしまえばいいと思った。砂漠に荒れ狂う乾いた風は、心の潤いを拭い去るのにふさわしい。太陽が沈んでいくのを眺めているうちに、せっかく動き出した心は再び止まり、ただ時が過ぎていくのを待つだけの暮らしに戻った。そうして、スターは自身の時間のほとんどを、砂漠の孤独とともに過ごしていった。
その日は、ひときわ強い風が吹いていた。朝からどうしようもないほどの砂嵐が舞い込んで、視界は一気に悪くなった。フライゴンの目のカバーと、砂塵に強い皮膚のおかげで身体に傷は付かないが、見晴らし岩の上からの景色は悪く、とても遠くまで見えそうになかった。
今日は何も期待できないな、とスターはざらざらの台座に横たわりながらため息をついた。あきらめと同時に、まだ何かを探している自分に戸惑う。自分は一体何に期待しているのだろう、と呆れた。未来のことを考えてみても、目の前の砂嵐のように先は霞んでいくばかりだった。
「ん?」
スターは首を上げた。地上に、見慣れない黒い影を見つけた。ぼんやりとして分かりにくいが、その数は三つと言うところか。動きはないが、きっと砂漠を渡る旅人なのだ、と思った。昨日までその姿がなかったこと、影が身体を寄せ合いしゃがみこむような動きを見せたことが、その根拠だった。運悪く砂嵐に巻き込まれたのだろう。その場でやり過ごそうとしているようだった。
旅人の姿を見つめているうちに、スターの胸は再び高鳴った。偶然訪れた旅人に会ってみたい、話してみたいと望む自分が、またしても現れた。
しかしスターは首を振り、目を閉じた。もう同じ事を繰り返すのはやめよう、会いに行ったところで結局待つのは同じ結末ではないか。それでは、自分も相手も悲しいだけだろう。いったい自分は、いくつの命を望まずに奪っているのか。忘れたわけではないはずだ。そうやって、自分自身に何度も何度も諦めようと言い聞かせた。
日が落ちるころに、砂塵は鳴りを潜めた。
それと同時に、旅人たちが動き始める。どこだかは分からないが、きっと彼らにも行くべきところがあるのだろう。星を見て、方角を確かめながら。僕が彼らの姿を眺めているだけなら、きっと彼らは無事に目的地へ辿り着けるのだろう。
ところが、旅人たちは歩みを進めず、何かを始めるようだった。スターの距離からはよく見えなかったが、何か荷物を取り出しているようだった。
彼らの準備が整うと、不思議な音が鳴り始めた。
規則正しいリズムの上に、弦を弾く音が乗る。それに合わせてはじける、声のハーモニー。三つの影は互いに語り合うように、一つの音を作り上げていく。
スターは彼らをじっと見つめた。野営の火も焚いていないのに、彼らの中に光が見える。まだ自分がナックラーだった、遙か昔の記憶が蘇る。自分に名前をつけてくれたあの人が好きだったもの。これは、音楽だ。
本当に音楽の良さを分かっているのか自信はないが、スターは自分の心の底が震えるのを感じた。頭の中で、何かが結びついたような感覚。その正体が知りたくて、身体が自然と動き始める。羽ばたいて大きな体を宙に浮かせ、彼らの奏でる音楽へと近づいていく。だが、空を飛ぶと己の身体に砂嵐を纏うことになる。会いたい気持ちと、彼らを傷つけたくない気持ちがせめぎ合い、僅かずつ彼らのもとへと近付いていく。
彼らとの距離を半分まで詰めたところで、あっ、と、スターは呟いた。彼らを傷つけずに済む方法。ひどく簡単なことに気付いてしまった。むしろ、今までどうして気付かなかったんだろう、と呆れてしまうほどだった。
「歩けばいいんだ」
相手は地を歩く者達だ。空を飛んで会いに行かなくても、この足で歩けばいいではないか。三つの影は、幸いまだ砂嵐を浴びずに済んでいる。スターはすぐに羽ばたきをやめ、地上に降りて駆け出した。
短い足で、身体を引きずりながら進む。空を飛んで移動するフライゴンの身体は、砂地を走るには不向きで、あまりに遅い。それでも旅人たちの元へと向かいたいスターは、滅多にないくらい息を切らして走り続けた。彼らは待ってくれるだろうか。三つの影があるのは砂丘の頂上である。彼らのもとに至るまで延々と上り坂が続いたことも、スターの道のりをさらに遠いものにした。
「おーい」
手を振りながら、スターは叫んだ。気が付くと、旅人達の演奏は止まっていた。突然の来客に戸惑ったのかもしれない。それでもスターは叫びながら走り続けた。歩みが遅いせいで、彼らのもとに辿り着くまで何度叫んだかは分からない。それでも叫ばずにはいられなかった。正体の分からない不思議な感情が体の中を駆け巡り、いてもたってもいられなかった。
スターが彼らの元へ到着する頃には、体力はほとんど残っておらず、息は切れ、俯いた顔を上げることができなくなっていた。
「あのー、大丈夫ですか」
「大丈夫です、あ、ありがとう」
ヒヤッキーの女の子が心配そうに声をかけて来た。やっとの思いで顔を上げると、ようやく彼らの姿を見ることができた。
旅人は、ヤナッキー、バオッキー、ヒヤッキーの三匹だった。本来森の中で暮らすポケモンであり、砂漠で暮らすには向かない者達だ。どういった理由でこんな砂漠まで来たのだろう、とも思ったが、今スターが最も気になっているのは。
「あの、さっき何か」
「さっきの砂嵐は、あんたか」
後ろのヤナッキーが、遮るように口を開いた。心を見透かすような厳しい眼差しを、スターに向ける。
「砂漠の精霊、と呼ばれるポケモンのことを聞いた。砂嵐を起こし、砂漠を渡ろうとする者を飲み込むポケモンがいる、と。砂嵐が止んだと思ったら、一度だけ竜巻のような砂嵐が起こった。あんたはその方向から来た。お前がその砂漠の精霊で、俺たちを捕らえようとしているんじゃないかと思っている。もしそうならこちらにも考えがあるが」
どうなんだ、と聞くヤナッキーは、完全にこちらを怪しんでいる。へびにらみ、と言う技が存在するが、それを受けると言うのはこういう気持ちなのかもしれない、と想像した。身体がすくんだ。
竜巻を起こしたのが自分であるのは間違いないが、捕らえるつもりなんてこれっぽっちもない。だが、スターは己の後ろめたさのせいで言葉に詰まった。事実上、そうなってしまったことなら過去に何度もある。彼の言葉を否定する権利が、果たして自分にあるのか。
行き詰る二人のやり取りの間で、バオッキーはみんなの顔を見回しながらオロオロとしていた。
「ジャンさん、そんなにはっきり言わなくても。ごめんね、君、ジャンさん結構きついこと言うから」
バオッキーはおずおずと言葉を発した。少しでも空気を和らげようとしてくれたのかもしれないが、場を取り繕うような彼の言葉はジャンと名乗るヤナッキーにはまるで届かない。自分の質問に答えるまで絶対に逃がさないという力強さをひしひしと感じる。どんな言い訳をしたところで、きっと彼がその視線を外すことはないだろう。ここは下手に嘘をつかないのが一番いい。正直に話してみて、それでもダメなら諦めようと心に決めると、ようやく声を出すことができた。
「確かに、僕は砂嵐を起こせます。背中の羽根で飛ぼうとすると、どうしても砂嵐が起こってしまうんです」
スターはほんの少しだけ羽ばたいてみせた。それだけでも、大量の砂粒が空に舞い上がる。
「でも、道行く人達を襲おうとしてるわけじゃないんです。ただ、誰かと話したくて。それに、さっき何かを演奏しているような気がして、とっても懐かしい気持ちになったんです。だからなおさら……会ってみたくて」
会ってみたい。話してみたい。その気持ちだけでがむしゃらに先走って行き詰り、何度も望まずに見知らぬ命を奪ってきてしまった。スターの心の行きつく先は、いつだってやましさと後悔だけで、それ以外の結末を知ることができなかった。そのせいで、自分の気持ちがどこから来たのかも、どこへ向かおうとしているのかも分からなかった。これ以上の言葉を紡ぐことが出来ず、ぼそぼそと言葉が途切れていく。
言葉が切れそうになった瞬間、ジャンが口を開いた。
「君は演奏に興味があるのか」
「えっ、は、はい」
スターは戸惑った。ジャンの口調が先ほどまでとは打って変わって柔らかくなった気がしたからだ。
「それなら、聞かせてあげよう。ヌーシュ、ロマ、二人とも準備を。さっきの曲でいこう」
驚くほど、話が早く進んでいく。ジャンは背負っていたバッグの中身をすぐさま取り出し、木星の箱の形をしたものを砂の上に置いた。
「しょうがないわね、分かったわ。お客さんがいるならやるしかないわね」
「ふふっ、僕もオッケーですよ」
他の二人も頷いた。バオッキーはヌーシュ、ヒヤッキーはロマと言うらしい。ヌーシュは背負っていたバッグの中身を取り出し、ギターのような弦楽器を抱え込んだ。
三人が目くばせをすると、辺りの空気がピンと張り詰めるのが分かった。風の音さえ消えてしまったような気がした。
ロマがすぅ、と息を吸い込み、吐き出すと、不思議なほどの響きがスターの全身を包み込んだ。大昔から伝えられる物語が、メロディに乗せて歌い上げられる。深い響きは続き、彼女の歌声は一つの旋律を歌い上げる。そして、次に来る何かを予感させるビブラートのロングトーン。まるでロマが、「来て!」と、二人に呼びかけているようだった。ジャンとヌーシュの目が、ほんの一瞬だけ合う。呼吸を合わせるには、それだけで十分だった。スターにも、その瞬間が伝わってくるかのようだった。あとほんの少し、もう少し。まるで計り方を知らないのに、それが来るのがいつなのかが分かる。分かってしまう。
スターの心の中で、ここだ、と思ったのと全く同じ瞬間、ジャンとヌーシュの音が弾けた。音楽がロマのものから三人のものになり、砂漠の乾いた空気を伝ってスターの元へと届けられた。
スターは三人の奏でる姿を見つめた。今にも踊り出したくなるような血の騒ぎと、じっと全ての音を受け止めたいという思いが混ざり合う。
そして、スターは思い出した。かつて出会った旅人とのひとときのことを。
自分がナックラーだった頃のことだった。
砂地獄を作り、その中に落ちた虫や小動物を食べながら暮らす。そんな日々に何も疑問を持つことなく、ただ時間が過ぎていった。自分が何者なのか、自分が何をしたいかなんて考えたこともなかった。ただ食事を取るために餌がやってくるのを待つ。待ち続ける。世界には、ただひたすら広がる砂や岩、それか食べられるもの、それしかないものだと本気で思っていた。
ある時、砂地獄に何かが転がってくるのを察知した。餌だと思い、中央まで滑り落ちてくるのを待った。今だ、と大きな口を開け、力強い顎で噛み砕こうとした。だが、想像と違う感触に戸惑った。何だこれは、と一瞬慌てた。ナックラーの牙が捕らえたものは、今までに感じたことのない堅さのものだった。岩のようでもあるが、それにしては表面が滑らかで平らだ。みしみし、と音を立て、いくらか牙は食い込んだが、これはどうにも食べられそうにない。
「あらら、参ったな」
聞き慣れない声に、またしても驚きを隠せなかった。
「俺のラジオが食われてしまった」
細長い手足を持ち、ひらひらとしたものを身にまとった不思議な生き物。こんなものは、今まで生きてきた中で見たことがない。
「こんなものを食おうとするなんて、お前さんも物好きだなあ」
陽気な声で、自分に話しかけてくる。何なのだ、こいつは。しゃがみ込んで、こちらを見つめている。危害を加えるつもりなのか。とりあえず逃げなければ、と思い、砂地獄の中に姿を隠そうと身体を砂の中に潜り込ませようとした。だが、牙に刺さったラジオという金属の箱のせいで、完全に隠れることができない。慌ててもがいたが、どれだけ手足を動かしても殆どどうにもならなかった。
「待て待て。落ち着きなよ。今取ってやるから」
ラジオの持ち主は、暴れるナックラーを宥めようとした。その声が、妙に深い響きを持ったものだったので、何だかすぐに穏やかな気分になったのを覚えている。それが不思議で、彼に俄然興味が湧いたのだった。
「よいしょっ、と」
彼は踏ん張って、刺さったラジオをナックラーの身体から引き離した。勢い余って彼は後ろに倒れ、自分も地上に引っ張り出された。彼はすぐに起き上がり、金属の箱を触り始めた。しばらくすると、不思議な音が流れ始めた。規則的に響く打撃音と、一体どうやって鳴らしているのか見当もつかない音の数々が、一つのまとまりになってその箱からあふれ出した。
「よし、中は無事みたいだな」
ナックラーは砂の中に戻らず、彼の方に近づいた。彼は振り返ると、そんなナックラーの様子に気付く。光る瞳の奥に宿る感情を察知したのか、彼は語り始めた。
「興味があるのか。これはラジオって言ってな、この世界中にあふれている音楽をキャッチする機械なんだ。面白いだろう。この砂漠の近くの街で流してる音楽は非常にセンスが良くてね。この辺りに来たときはずっと聞いてるんだ」
彼の話も、ラジオで流れている音楽も、ナックラーにとっては新鮮そのものだった。
「こんな砂嵐の中で使ったら壊れるぞってよく怒られるんだけど、それでも聞きたいものは聞きたいんだよ。電波が届く限り」
そう言って彼は笑った。何の話かはよく分からないけれど、彼の語る言葉が楽しそうだったので、ナックラーも楽しい気持ちになった。彼は自分のことをいくらか話してくれた。音楽に出会う旅をしており、背中のギターで曲を奏でながら世界を渡り歩いていること。奏でた曲は何故か彼らの仲間より野生のポケモン達に人気があり、時々教えを請われることもあるということ。おかげで自然の中ではポケモンの力を大いに借りながら過ごしていること。
「いつか俺の作った曲を形にして、世界中の人に届けられたらいいなって思うんだ」
夢を語った彼の瞳は、青空よりも更に遠くを見つめていた。そしてすかさず、
「そのためには、もっと人間相手に人気が出て、売れないといけないんだけどね」
と、おどけた。
「お前は、ずっとここで暮らしているのかい。名前はあるのか」
旅人はナックラーに尋ねた。ナックラーは首を傾げる。ここで暮らしてはいるのだが、名前は特にない。
「じゃあ、スターって呼ばせてもらおう。目の中に星があるみたいで、かっこいいからな」
旅人はその後数日間、スターのところに現れては話を聞かせてきた。時折、自前のギターを弾きながら歌ってくれたりもした。またある時は、ラジオを使って世界のどこかで演奏されている音楽を聴かせてくれた。旅人は話に盛り上がりすぎるとすぐに、世界は音楽で繋がっているんだぜ、と言い始める。きっと彼は、根っからの音楽好きなのであろう。格好付けて空回りしたような台詞回しに、そんなまさか、と思ったけれど、彼の話を聞いていると本当のような気がしてきた。スターはすっかり、彼と音楽の魅力にとりつかれていた。音楽はポケモンと人間の壁すら取り除いてしまうみたいだな、と、彼はとても嬉しそうにしていた。
そんなわくわくするような日々も、やがて終わりを告げる。
「俺もそろそろ、新しい拠点を探しに行こうと思っているんだ」
その一言が、別れの挨拶の始まりだった。彼は世界中を旅する旅人だ。一所にはずっと留まることはできない。それに、彼には夢がある。ただの砂漠の一ポケモンにずっと構っていられる訳はないのだということは分かっていた。
「そんな悲しい顔はするなって。またどこかで、会えるかもしれないよ」
旅人はスターの頭を撫でた。そして、表面に小さな穴の空いたラジオを、スターの前に置く。
「これはお前にやるよ。お前、進化するとフライゴンっていう翼を持った大きなドラゴンみたいな姿になるんだってさ。大きくなったら、きっとその翼でどこへだって行けるぞ。他の場所へ行けば、ラジオだってこことは違う音楽を拾ってきてくれる。これはお前が大きくなるためのお守りだ。じゃあな、スター。元気でな」
スターは彼を引き留めなかった。彼の旅の無事と成功を祈り、見送った。
しばらくの間、数日間の思い出に浸るように、スターはラジオを流した。彼のように上手く操作はできなかったが、手探りでチューニングを行う。音楽が流れると、スターは旅人と過ごした日々の頃に戻り、心を躍らせた。
だがそれも、ラジオが壊れるまでのことだった。小さな穴から入り込んだ砂が詰まってしまったのが原因だったが、スターには分かりようがなかった。ぱたりと動かなくなったきり、直す術を持たないスターは、二度と音楽を聴くことができなくなった。進化して、翼を得たとしても、もうどこに飛び出せばいいのか分からなくなってしまった。
スターの砂漠は、再び静寂に包まれた。
目の前に広がる演奏を見ているうちに、スターはいつの間にか涙を流していた。目を覆う赤いカバーから、涙がこぼれ落ちそうだった。
そうだ。僕はこの情熱を知ってしまったんだ。ふと砂漠を渡る誰かを見つけたとき、溢れ出る恋しさ。話してみたいという衝動。僕が本当に出会いたいのは、あの時出会った音楽と、それを教えてくれた名前も知らない旅人。
演奏が終わっても、涙が止まらなかった。止めどなく溢れる涙が止まるまで、ポケモンの旅人たちは待ってくれた。
「ごめんなさい、急に泣いてしまって」
スターはジャン達に謝った。
「いいのいいの。改めて、ボーカルのロマ。パーカッションのジャンさん。そしてギターのヌーシュだよ。君の名前は?」
「スターって言います」
「スターさん。よろしくね」
バオッキーのヌーシュが、にっこりと微笑んだ。ヒヤッキーのロマも同じような微笑みを見せる。ジャンだけは、何か考え事をしているような浮かない表情で、歓迎してくれているのかどうかがよく分からない。演奏前に見せた柔らかい表情と、どっちが本当の彼なのだろうか。スターはとりあえず、聞かせてくれてありがとうございます、と、頭を下げた。
「ところで、みなさんはどこへ行くつもりなんですか」
楽器を片づけ終わったあと、スターは尋ねた。それに対し、ジャンが答える。
「遙か東の海辺に、遺跡がある。俺たちが目指しているのはそこだ。それはこの砂漠を越えて、山を越え、更に森を抜けた先にある」
「砂漠を避けようと思ったけど、結局突き抜けて行った方が早いのよね。確か」
ロマが頬に手を当て、三人の話を反芻する。
「そうそう。東にまっすぐ。ルートさえちゃんと取れば、砂漠を抜けるのに二日もかからないくらいだって話だし」
「今のところは順調で、余裕もある。あの大きな岩が見えたら、残りの距離は半分もないくらいだ」
「それで一曲演奏しようって言い出したのよね、ジャン」
ロマの一言で、ジャンの動きが止まった。その瞬間、少し彼の姿が小さくなったような気がした。
「楽器に砂入ったらどうするの、って言っても聞かないし、場所くらい選んでくれてもいいのに。口の中が砂だらけにならないようにするの大変だったんだから」
「はいはい、そこまで! スターさんも見てるんだし。ごめんね、こっちの話でさ、あはは」
ヌーシュは取り繕うように笑った。
ジャンさんは音楽好きだけど時々周りが見えなくなっちゃうんだ。その後いつもロマさんに怒られるんだけどね。とこっそり耳打ちした。ロマにくどくどと言われて、ジャンは居心地が悪そうにしている。悪かったよ、と言いながら、ジャンは頭をかいた。不器用なジャンの暴走をロマが諫め、ヌーシュは二人を宥める役どころなのだろう。三人とも仲が良いんだな、とスターは温かい気持ちを抱いた。
そのときふと、誰かに背中を押されたような気がした。この背中の翼があればどこへだって行けるのだと、旅人が言った言葉を思い出す。そして直感した。ここではないどこかへ飛び立つチャンスが、今目の前に転がり込んできたかもしれないと言うことを。
「あの、もし良かったら」
ぎゅっと拳を握りしめ、大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。
「みなさんの旅に、僕も一緒に連れて行って欲しいんです。力はたぶんあると思うので、荷物も持ちます。砂漠の果てまでだったら、乗せて飛びます」
どうかよろしくお願いします、と頭を下げた。
三人はすぐには返事ができなかった。いきなりのことで、戸惑ったのだろう。しばらくすると、ジャンが口を開く。
「とりあえず、砂漠の果てまで乗せてくれるのは有り難い」
スターは顔を上げた。ありがとうございます、と最大限の喜びと感謝を叫んだ。
「だが」
ジャンはスターを制止する。
「それは演奏料として受け取らせてもらう。悪いが、砂漠より先のことはもう少し考えさせてくれ」
荷物と人員を、二回に分けて運ぶことにした。砂漠の果てを目指し、ロマとヌーシュと、彼らの荷物を持って飛ぶ。羽根が巻き上げる砂粒は、自身の身体にぴったりとくっついていればダメージは少ない。みはらし岩の辺りをねぐらとしていたが、長年暮らしていたおかげで、砂漠の地理はおおよそ頭の中に入っていた。飛行を続けていると、砂地の中にだんだんと背の低い草木が茂り始め、その数と高さは徐々に増していった。このあたりでいいだろう、と判断したスターはロマとヌーシュを下ろし、最後に一人残ったジャンを迎えに行く。砂嵐に彼を巻き込まないため、みはらし岩を目印に地上に降り、彼らに会いに行った時のように歩いて合流する。
「ジャンさーん」
スターが手を振ると、ジャンも振り返した。
「お待たせしました」
「それじゃあ、よろしく頼む」
ジャンがしっかりと自分の身体に掴まっていることを確認すると、翼を羽ばたかせ、ロマとヌーシュの待つ砂漠の果てへと向かった。
「すごい砂嵐だな」
「すみません、どうしてもこうなっちゃうんです」
「いや、いいんだ」
ジャンの言葉はどことなく遠慮がちだった。何か考え事をしているようだったが、一体彼が何を思うのか、スターには想像がつかなかった。
目のカバーのおかげで自分は目標を見失うことなく飛ぶことができるが、ジャンにはつらいことだろう。早く抜け出してしまうのが、彼の為でもある。彼らの旅をどうするか決めるのは彼ら自身だ。今日初めて会ったばかりの自分がその中に入っていくというのは、彼らの決め事を砂嵐に巻き込み、吹き飛ばすようなものだ。愛おしいほどの音楽を紡ぐ彼らを、自らの翼で壊したくはなかった。
それ以上、二人は会話することなく、空の旅は静かに終わりを告げた。
「ありがとう。俺たちにとって砂漠の旅は難しいんだ。助かったよ」
「いえ」
遠慮がちにスターは言った。
「本当は森の向こうまで乗せていけたらよかったんですけど、羽ばたきで森を荒らして、木々がこちらに飛んできてしまうので……」
「いやー、十分ですよ。僕たち、森の方が得意ですし」
ヌーシュが言った。そうそう、とロマも相づちを打つ。
「スター」
ジャンが、ふいに自分の名前を呼んだ。
「ちょっと羽ばたいてみてくれないか」
「え、いいですけど」
言われて、とりあえず大きくしならせるように翼を動かす。会ってすぐの時のように、砂を巻き上げるような羽ばたき方だ。
「いや、そうじゃなくて。もっと細かく、小刻みに動かしてくれ。空を飛んでいる最中のように」
ジャンの指示に従い、翼を振動させる。
あっ、とロマは声を漏らした。ヌーシュも同じように、何かに気付いたように目を輝かせていた。ジャンも満足げに頷いている。一体何だというのだろう。その正体は、ヌーシュの一言によって解き明かされた。
「やっぱり、いい音だよねぇ」
「うん。楽器みたい」
「だろう」
彼らはどうやら、スターの羽音に何かを見出したようだ。
「演奏している最中に起こった砂嵐の中から、その羽音が聞こえたんだ。とても音楽的で、魅力的だと思った。あの時俺たちは演奏を中断したけど、砂嵐の危険を悟ったからだけじゃない。その笛のような音色に、惹かれたんだ」
ジャンは語った。彼の言葉には、今日一番の情熱がこもっていた。この翼の羽ばたきは、誰かを傷つけるだけではなかった。それが証明できたことに、スターはたまらなく嬉しくなった。
「スター、改めて聞く。君は音楽は好きか」
ジャンがまっすぐにスターの目を見つめ、問う。
「はい」
スターは大きく頷いた。
「それでは、自分で楽器を演奏してみたい、と思うか」
スターは拳を握りしめた。今、試されているのは勇気だと思った。砂漠を捨てて、新しい世界へ飛び込んでいく勇気だ。
「はい」
スターは答えた。ジャンは大きく頷いた。彼はロマとヌーシュの方を向いた。彼らも、同じように頷く。
「君がよければ、俺たちの旅に付き合ってくれないか。そして、その羽の音を使って、俺たちの演奏にも加わって欲しい」
ジャンは頭を下げた。もし、広い世界を見ることができるというのなら。旅人が見つめた、あの空の向こうをこの目で見ることができるのなら。そして、そんな旅路を誰かと一緒に行くことができるのなら。きっとこれほど素晴らしいことはないだろう。
「はい。こちらこそ、喜んで」
スターは、涙がこぼれそうになった。
砂漠についた足跡に手を振り、別れを告げる。乾いた砂の丘もしばらく見ることはないだろう。
ジャン達の話によると、森を横断する旅人の為の、わずかばかり整備された道があるらしい。しばらく歩き、それを見つけて足を踏み入れると、いよいよ別の世界に足を踏み入れたような感じがした。乾いた砂の大地に植物が増えていき、背丈も高くなっていく。
自前の手荷物のないスターが背負ったのは、メンバー共用の道具が入った鞄二つだった。野営をするための道具や、旅に必要な保存食がたくさん入っている。自分はそこまで苦にする重量ではないが、これを持ちながら繊細な楽器を運ぶのはさぞかし骨が折れたことだろう、と彼らのこれまでの旅路を思う。ジャンもヌーシュも、手荷物は自分の楽器のみで、身体が羽のように軽い、と話していた。ロマは楽器の代わりに、小さな鞄を下げていた。
太陽が南を通り過ぎ、空が白んで来ると、夜を過ごす場所を探した。この辺りはまだ砂漠も近く、水場を探そうにも泥混じりの水たまりがある程度だった。水分補給はまだ無理そうね、とロマは言った。砂漠を越えるにあたって、ロマはヒヤッキーの体内に限界まで水分をため込んでいた。水のない場所を行くときは、ロマの蓄えた水が頼みの綱だということだ。節約を重ねた甲斐あって、今のところ当初の見込みより順調らしく、残りの水はあと4割というところだった。この水が尽きる前に、乾燥地帯を抜ける必要がある。砂漠を生き抜くフライゴンの体では、あまり水分不足の問題に当たることはない。スターにとって彼らの悩みは思いもよらず、新鮮だった。そしてメンバーの増加は、彼らの旅路の重荷にはなりにくそうだと分かり、内心ほっとした。
場所を決め、草木を集めてヌーシュが火をつける。ロマの尻尾から水を出し、そこにヤナッキーの頭の植物を乾燥させたものを入れて煮出す。出来上がったお茶が、全員の手に渡る。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
スターはロマからヤナッキー茶を受け取る。それを飲んでみると、頭が冴えるような爽快な気分になった。苦みの中に、ほのかな甘みが感じられる。
「おいしいですね」
「でしょ。ヤナッキーの頭の葉っぱってすごく苦いんだけど、日に干したり蒸気に当てたり煎ったりするとこんな味になるの。のどにも良いのよ」
そう言って、ロマは自分のお茶を少し飲んだ。
「それにしても、スターの羽を楽器にするって言っても、上手く行くのかしら」
ロマは首を傾げた。
「いい音なんですけどねぇ」
と、頷くヌーシュ。
「スター、一度ちょっと羽ばたいてみてくれ」
ジャンに言われるままに、羽を動かす。高速の振動によって、高い音がなる。だが、これをどのようにすれば、彼らの演奏の一部になれるのか、想像がつかない。
「楽器にするには、まず音程をつけられるようにならないとねぇ」
「それって、音の高さを変えるって事ですかね」
スターは尋ねる。
「そうだ。それを自在に扱えるようになれば、きっと良い楽器になると思う」
「なるほど。ちょっとやってみますね」
スターは羽ばたく強さや、羽の振り幅を変えて試してみる。だが、羽ばたく強さを落とすと音が消えてしまい、大きく羽ばたきすぎると今度は風が巻き起こってしまう。緻密な調整が必要だ、と感じた。まだまだ楽器には、ほど遠い。
「うーん」
四人は悩んだ。この羽を演奏に取り入れようと言い出したジャンですら、肝心の方法はまだ出ないらしい。ひとしきり唸ったあと、ジャンは膝を叩いた。
「まぁ、それは追々考えるとしよう。今日の練習だ。スターは聞いていてくれ。耳を鍛えるのも大事だからな」
スターは頷いた。楽器をそれぞれ取り出し、二曲だけ演奏する。彼らの演奏をもう一度間近で見て、スターは複雑な思いを抱いた。三匹で演奏する姿は輝いていて、それを見ていられる自分はなんて幸せなのだろうと思った。だが、彼らの演奏は非常に緻密な技術の積み重ねの上に成り立つものである、ということも、徐々に見せつけられつつあった。
きっとこの人たちは、たくさん、たくさん練習したんだろうな。
自分はいつか、この輪の中に入らなくてはならない。果たして、自分にそれができるのだろうかと、ほんの少しだけ不安になった。
「……ふぅ」
演奏が終わった。三人とも力を出し尽くしたようで、ジャンに至ってはそのまま体を地面に放り投げて倒れてしまった。
「やっぱり、すごい演奏ですよ。感動しました」
「ありがとう」
手を挙げてジャンは応じる。
「しかしやはり、慣れない環境での演奏は疲れるな」
「確かに。砂漠のど真ん中ほどじゃないですけどね」
ヌーシュは笑いながら、自身のギターをケースにしまった。
「あの、みなさんはいつから楽器をされてるんですか」
スターはふと気になって、聞いてみた。すると三人は恥ずかしがるような、それでいて柔和な表情を浮かべた。まるで、それぞれの思い出に浸るかのようだった。答えてくれたのはヌーシュだった。
「ちっちゃい頃からずっとだねぇ。おじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの代からずっとギターを弾いててさ、僕も教えてもらった。ジャンさんもロマさんも同じでしたよね、確か」
ヌーシュはジャンとロマの方を見る。ロマは頷く。
「私の歌い方も、お母さんから教えてもらったものだし。森に住んでるポケモン達、みんな何かしら音楽をやってるわね。私たちの種族は特にそう。森から出たら、よそじゃこんなに音楽やってないって知ってびっくりしちゃったくらい」
「へえ、そうなんですね」
彼らが住んでいたのは、音楽が盛んな地域だったということなのだろうか。彼らの故郷に思いを馳せ、砂漠の外にはまだまだ未知の景色が広がっていることを知らされる。
「ヌーシュさんの持っている楽器、ギター……でしたっけ。僕、大昔に見たことがあると思うんです」
「何だって?」
ジャンが起き上がり、スターの話に興味を持った。
「僕もまだ小さかったころのことなんですけど、とっても仲良くしてくれた人がいたんです。その人、とっても音楽が好きで、ギターを持って僕に弾いて聞かせてくれたことがありました。だから、ヌーシュさんが持ってるのを見て、すごく懐かしくなったんです。できることなら、あの人にもう一度会ってみたいと思うんですけどね」
空を見上げると、一面に星が光っていた。砂地獄の中心から見上げた彼の顔と、彼の好きだった歌を思い出す。
「へぇ、僕たち以外にも砂漠を渡る演奏家っているんだねぇ」
ヌーシュは笑う。
「聞いてる時に体がいい調子で揺れてたから、ひょっとしたら音楽聴くのは初めてじゃないのかなー、って思ってたわ」
「えっ、揺れてました?」
「うん、揺れてた揺れてた。結構リズム感ありそうな感じ」
自分では全然気付かなかった。指摘されると、少し恥ずかしい。
「どんな歌を歌っていたか、覚えているか」
ジャンが言う。記憶を辿り、その旋律を再現してみる。歌詞まではさすがに覚えておらず、鼻歌で印象に残っている部分だけを歌ってみる。
「えっ、この歌……」
ロマの自然に漏れ出た呟きに、思わず歌うことを止めてしまった。三人の表情を見ると、なぜか驚きに満ちたものになっていた。信じられない、と言わんばかりの顔だった。
「ちょっと待ってくれ、その続きって、こうじゃなかったか」
ジャンが同じように鼻歌を歌う。スターは驚きを隠せなかった。その旋律は、確かに自分が今歌おうとしていたそれと、全く同じだった。
「そうです。その歌ですよ。でもどうしてジャンさんがこの歌を?」
スターが尋ねると、ジャンは口元を歪ませた。そして、手を顔に当て、額を覆った。
「その歌は、俺たちの遙か昔のご先祖様から伝わる子守歌だ。親が子を寝かしつけるときにだけ歌い、それ以外の時は一切口外しない、そういう歌なんだ。外に漏れて誰かが演奏しているなんてことは考えられないんだが」
そう言うと、ジャンは押し黙った。それきり、四人の間には深い混乱に落ちていくような空気が流れた。三人とも何かを言おうと言葉を探したが、うまく繋がらない。それはスターも同じだった。思いがけない繋がりに驚きこそすれ、喜ぶことの一切ない三人の姿には、戸惑うほかなかった。
長い沈黙の後、口を開いたのはヌーシュだった。
「スター、君が出会ったっていう旅人ってさ、どんな姿だった?」
「ええと」
ナックラーの頃の記憶を引っ張り出し、旅人の姿を声に出して説明する。
「全体的にはみなさんと同じような体をしているんですけど、もう少し大きくて、ひらひらとしたものを全身に纏っていたような気がします」
スターが彼の容姿を説明したその瞬間、三人の表情に光が差したような気がした。彼らを悩ませる疑問に、一つの答えが出たようだ。その確信について、ヌーシュは説明した。
「それ、たぶん人間っていう種族だと思う。僕らのご先祖様はその人たちから音楽を教わったんだ。子守歌は人間の間で一時期流行っていた歌だって聞いたよ。それを知っているってことは、君は僕らとは比べものにならないくらい長生きしてるってことだ。おじいちゃんのおじいちゃんの、そのまたおじいちゃんの時代から」
確かに、長い時間を一人で過ごして来たという自覚はあった。それは他の誰かから見ても、本当のことだったのだ。彼らの感覚からすれば更に長い、気の遠くなるような時の流れを生きてきたことになる。
「それとね」
ヌーシュは少しためらった後、口を開いた。
「人間はもうこの星にはいないって言われてるんだ。僕たちも長いこと旅を続けてきたけれど、一人も会ったことがない。ただ世界のあちこちに、彼らが暮らしていた証拠が残っているだけなんだよ」
思い当たる節はあった。かつては、旅人と同じ姿をした種族の往来はあったのだ。進化して砂漠を広く眺めるようになって、確かに布を纏った生き物の姿は何度も見かけた。だが、その姿を見ることはいつの間にかなくなっていた。気が付けば、自分が追いかけていたのはポケモンばかりになっていたように思う。
あわよくば、この旅路のどこかであの旅人に会うことができたら、という期待があった。だがそれは、脇に置いておけるほど小さな願いではなかった。願いが叶わないと知った瞬間、スターの心がどれほど再会を望んでいたのか、自覚してしまった。あの人にもう一度会いたい。そんな気持ちにもっと早く気付いていれば。最後の別れの時に、やっぱりついていきたいという気持ちを旅人に見せていれば。
スターは最早、目を背けることができなかった。砂漠を離れる勇気を出すには、あまりにも遅かったと言うことに。
次の日も、また次の日も、旅は続いた。スターは旅を止めなかった。任された荷物は大事に背負い、一歩、また一歩と進んでいく。ジャンも、ヌーシュも、ロマも、前に進んでいく。これからの旅路に備え、次の補給ができるまで楽器を演奏するのはやめよう、と話し合いで決まった。ジャンは惜しがったが、やむを得ないとすぐに判断した。植物たちは更に高さを増し、徐々に森へと入っていった。太陽の熱に加え、空気が乾いたものから湿ったものへと変わっていく。元々育った環境に似通っているのだろうか、他の三人の顔が次第に明るくなり、元気を取り戻していく。それに反比例するように、スターの体力は徐々に奪われていった。
「はぁ、はぁ」
坂を上る足が止まりそうになる。湿って重くなった空気が、スターの体に纏わりついて行く手を阻んでいるかのようだった。
「大丈夫?」
ロマの気遣う声に、大丈夫です、と答える。だが、実際のところは気が遠くなりそうだった。気がつけば、他の三人よりも遙かに遅れている。遥か先を歩くジャンとヌーシュが、こちらを見下ろす。
「ジャンさん、ペースを落としましょう。スターが追いつけなさそうです」
「……ああ」
ジャンは短く告げると、ヌーシュの言葉に従った。彼らの歩く速度が少しだけ遅くなり、わずかずつ追いついていく。
自分はジャン達の足を引っ張っているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、スターは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。こんなことが続けば、いつか本当に置いて行かれてしまうのではないか。想像すると、あまりに悲しくなった。
先頭で真っ先に坂を上りきったジャンが、振り返った。力強い笑顔を見せて、坂の向こう側を指さし、叫んだ。
「湖だ! 湖があるぞ!」
三人の表情が、一気に明るくなった。歩調もわずかに早くなる。切れた息でお互いにかける言葉を発することはなかったが、全員の瞳に光が宿るのが分かった。坂を上りきると、その麓に大きな湖が広がっていた。
「きれい」
ロマの思わず発した声に、スターは思わず頷いた。
湖のほとりに辿り着き、荷物を下ろした。
「着いたーっ!」
ヌーシュが対岸に向かって叫ぶ。広く、そして美しい湖だ。波も穏やかで、空と太陽の色を反射して瞳に飛び込んでくる。久しぶりに羽を延ばせる、とスターも思った。大きく伸びをして、日の光を全身に浴びる。からっとした風が吹き抜けて、心地が良い。一息ついたところで、ジャンが全員に呼びかける。
「みんな、ご苦労だった。しばらくはここに滞在しよう。十分に休息を取って、遺跡までの十分な補給を行うこと。それと、恐らくこの辺りには他のポケモン達も多く暮らしているはずだ。もし出来そうなら、東の遺跡の情報を集めてくれ。しばらく休んでいた演奏活動も再開する」
「おぉ、ついにやるんですね」
「やっぱりやるならこういうところじゃないとねぇ。今までなまらせてきた分、取り返すわよ」
喜ぶ三人の姿に、自分の顔もほころんでいく。
ふと、ジャンに背中を叩かれる。完全に気が抜けていて、思わず驚いてしまった。
「スターの演奏のことも考えないとな」
「……はい」
ジャンの顔は明るい。彼には、自分が演奏に参加している姿を想像できているのだろうか。スターには、それがあまりに遠いことのように感じられた。それどころか、結局何も出来ないまま、諦めてしまう未来の方が近いような気さえしていた。ジャンの顔をまっすぐ見ることが出来ず、歯切れの悪い返事をしてしまった。
「スター、水が気持ちいいよ」
落とした視線を上げると、早速水浴びを初めていたヌーシュとロマが手を振っていた。不意に、ジャンは自分の顔を見上げて聞いてきた。
「水は苦手か」
「えっ、いや、そこまででは」
「じゃあ、行こう」
ジャンがいきなり背中を押して走り出した。その勢いが妙に力強く、バランスを崩しながら湖へと駆けていく。重たい体を支える足が、ジャンの速度に無理矢理合わせられてもつれそうになる。スターを押し出すジャンの手のひらが大きく感じられて、不思議と安心感に包まれる。
ジャンは、三人の輪の中に自分を入れようとしてくれる。言葉で語るより、背中に当てられた手は彼の思いや意図を強く伝えてくれたような気がした。彼らはちっとも、自分に幻滅なんかしていない。上り坂で少し遅れたとしても、彼らは何も言わずに待ってくれた。そんな彼らに応えるために、自分が出来ることを一つずつやっていこう。そう心に決めると、早速一つ見つかった。
「ジャンさん、行きますよ」
「なっ」
スターはジャンを抱えて大きく羽ばたいた。姿勢が崩れていよいよ転びそうになった瞬間に飛び上がり、二人の体は一瞬のうちに背丈の三倍ほどの高さまで到達した。そして羽ばたきを止めると、ほんの一瞬だけ空中で体が制止した。体を反って仰向けになり、ジャンを手放す。
「うおおお!!」
ジャンは叫ぶ。同じように、スターも叫ぶ。これは雄たけびだ。
「うわあああっ!」
視界の全てを青空が覆い、そのまま頭から湖の中へと落ちていく。ばしゃあん、と大きな音を立てて着水し、高い波しぶきが立つ。二人の体は深く沈む。水は冷たく、今までの旅の疲れやしがらみを全て洗い落としてくれるようだった。
「ぷはぁっ」
スターとジャンが同時に浮かび上がってくる。
「なかなかやるじゃないか、お前ってやつは。仕返しだ」
ジャンが鬼気迫る表情で追いかけてきたので、スターは慌てて逃げた。水しぶきが大量に飛んでくる。岸までたどり着くと、ヌーシュとロマがけらけらと笑っていた。
夕日を背に、三人の音楽は始まった。楽器を取り出し、それぞれ思い思いの音を鳴らす。久しぶりの演奏ということで、カンを取り戻すまでにゆっくりと時間をかけているらしい。スターの耳にも、彼らの音が次第に良く変わっていくのが分かった。調子を取り戻したところで、ジャンが声をかける。
「よし、いつものヤツから始めよう」
「了解」
「うん」
二人が頷くと、ジャンは一定のリズムを取り始めた。単純なパターンだが、それ故に印象に残るようだった。ヌーシュがそれに乗り、ギターをかき鳴らす。非常に開放的だ、と思った。荒々しくも楽しく、弾ける閃光ような力を周囲にまき散らしていくような曲だった。聞く者を吹き飛ばしてしまいそうな強い圧力が、スターの全身にのし掛かる。それに負けじと、足を踏ん張る。演奏者と聞き手が戦い合い、散らす火花に心が踊った。その中で歌うロマの旋律は、まるで音楽の中を踊っているかのようだった。
戦いの一曲目が終わると、そのまま流れるように二曲目を演奏し始めた。ロマの独唱から始まる、スターが初めて聞いたあの曲だ。一つの流れを歌い上げ、後からヌーシュとジャンが息を合わせて始まる。この瞬間がなにより愛おしくなり、演奏中にも何度か思い出してしまう。だけど、この曲にそのシーンは最初の一回しかない。だからこそその一回が映えるのだ、と思った。
気がつくと、横には知らないポケモンが立っていた。振り向くと、木陰にも様々な種族の影がちらほらと見受けられる。彼らの演奏を聴きに来たのだろうか。そんなことを思っていると、影たちは少しずつ前に現れ、各々が見やすい位置に陣取っていく。脇を通ろうとしたオオタチと目が合い、会釈したので、スターもそれに合わせた。やがて周囲はポケモン達でいっぱいになり、スターが立っている位置から動けなくなるほどだった。自分よりも前に陣取る者もいたが、彼らの演奏を見たい気持ちはよく分かるので、まあいいか、と気にしないことにした。それによって自分の視界が遮られることもない。高い背丈は自分だけの特等席だ。
ジャン達は少しの間話し合い、それぞれの指慣らしを軽く行った。長い時間待った末に始まった三曲目は、今までの演奏とは大きく違っていた。明らかにカンを取り戻すための演奏から、明らかに集まったポケモン達に見せるための演奏に切り替わっている。三人の躍動は大きくなり、呼吸の重なりが更に緻密になっていく。その緊張と高揚を一切遮ることなく、四曲目に突入していく。
五曲目が終わったあとの喝采は、凄まじかった。スターもその中に混じって、声を上げていた。ポケモンたちの声はしばらく鳴り止まず、三人も演奏するのを難しそうにしていた。この辺りが頃合いと思ったのか、ロマは全員で立ち上がり、彼らに手を振る。声は更に大きくなる。しばらくしてから手で彼らに静まるように合図すると、ほんの少しだけ静かになったような気がした。そして、ロマは大勢に向かって挨拶する。
「みんなありがとう! こんなにたくさん聞きに来てくれるなんて、嬉しいです。本当にありがとう。私たち、まだしばらくここにいるから、また明日も来てください、よろしくお願いします」
「あ、今日の演奏がいいなって思った方、何か食べ物とかくれると嬉しいです」
ヌーシュが付け加えるように言う。
「それじゃ、次で最後です。聞いてください」
そう言って、非常にゆっくりとした調子の曲を始めた。湖の底に沈んでいくような、あるいは星空の中を一人でさまようような、深い孤独を描いた曲だった。
演奏終了後も、ずいぶんと長い間、三人は聞きに来てくれたポケモン達と話し込んでいた。夜も大分深まってきたはずなのに、周囲の興奮はいまだ醒めやらぬようだ。多くのポケモンが木の実を持ってきてくれたおかげで、しばらく食べるものには困らなさそうだ。むしろ、食べきれずに余らせてしまうことを心配しなければいけないほどの分量だった。
最後の客を相手にしている頃には、スターはまどろみに襲われかけていた。同じ旅をする一員として、せめて先に眠りにはつくまいと、度々湖の水を飲んだりして時を過ごした。
「お疲れさま。もう眠くなっちゃったでしょ。水遊びしたあとのことだったし」
ヌーシュが声をかける。
「はい。でもすごいですね。この森にこんなに色々なポケモンがいたなんて。みんな音楽が好きなんですね」
「そうだよ。集まったのは、みんな音楽が好きなんだ」
柔らかい笑顔を浮かべるヌーシュ。
「でも、こんなに凄い方達の中に、僕が本当に入っていけるんでしょうか」
改めて、自分の思いを打ち明ける。今、ヌーシュになら聞いてもいいような気がした。自分の中にため込んでしまうより、言ってしまった方がいい。
「僕、まだ何も演奏出来ないし、歩くのも遅いし、皆さんに迷惑かけてるんじゃないかと思うんです。いつか役に立たないヤツだって思われて、捨てられてしまうんじゃないかって思ってしまうこともあって」
スターは言った。ヌーシュはスターの言葉が終わるのを待つと、少し考え込むような姿勢を取った。
「うーん、そうだねぇ」
そう言うと、ジャンの方をちらと見る。二人とも、まだ観客と話し込んでいるようだった。
「本人の前ではあんまり言っちゃダメなんだけど、今はまだお客さんと喋ってるみたいだし、言ってもいいかな。ジャンさんのこと」
ジャンさんの、と聞くと、そう、とヌーシュは頷く。
「昔からジャンさんってリズム担当で、凄く上手だったんだ。練習量も人より多くて。そういうところは僕もロマも尊敬してる。でも、周りの子達のことをバカにしてた。どうして自分と同じくらい練習しないんだろう、どうしてみんな上達する気がないんだ、って。そんな感じだったから、あまり周りと上手く行ってなかったんだ。それに加えて、音楽しかやってなかったから、運動は本当に苦手だった。長い距離を歩いたらすぐにバテて倒れちゃうくらいに、体力もなかったんだ。僕らはある程度の歳になったら、森を出て音楽活動の旅に出なければいけない。ジャンさんはそれを凄く嫌がってさ。森の中で自分のやりたい音楽だけをやっていられたらいいってゴネてたみたい。それと、今彼が叩いている箱みたいな楽器……カホンって言うんだけどね、あれは本当に持ち運び重視の単純な楽器で、故郷の森で演奏するときはもっとしっかりとしたセットを使うんだ。それが使えないことも辛かったんだろうね。
それでも旅には出たんだけど、それじゃ何の役に立たないってことを思ったみたいで。旅の道中じゃ周りに迷惑かけるし、演奏も周りと気持ちの面で合わせられなくて、上手く行かないし。演奏が終わって、お客さんもジャンさん以外の子とばかり喋ってて。そうやって周りが楽しそうにしているのを見て、すごく悔しかったみたい。目の前に面白いものが転がってるのに拾いに行けないのは、ジャンさんにとって辛いことだったんだって。一度旅から帰ってきたら、人が変わったように色んな人と話をしたり、体力づくりに励んだりしてた。他の人の音楽も、良いところを見つけようとしてさ。それでも、最初の何年かは全然上手くいかなくて、旅に志願したけど熱出して途中で帰って来ちゃったこともあったな。でも、あんまり他の隊員に嫌われるようなことは無くなってたかな」
しみじみと思い出すように、ヌーシュは話す。
「上手くいくようになるまでは、やっぱり時間がかかるものだと思うんだ。スターが僕たちと一緒に旅をしてるのも、つい最近のことだし。まだまだこれからだってことは、ジャンさんも分かってると思うよ。僕も、荷物持ってくれてるのは凄く嬉しいし、こうやって喋ってるのも楽しいから、スターにはまだまだ僕たちと一緒にいてほしいなって思うんだよね」
あはは、と穏やかに笑うヌーシュに、ほっとした。ジャンもまた、上手くいかない自分に苦しんでいたことがあったのだ。きっと、ヌーシュにも、ロマにも、それぞれの形であったのだろう。
「今の三人で旅をするのはこれが四回目なんだけどさ、初めて旅をした時だったかな。たまたま他の森の音楽隊と出会って、演奏を聞かせてくれたことがあったんだけどね、僕らの知らない楽器もたくさんあって、それがまた素晴らしい演奏だったんだ。デスカーン……って言って分かるかな。黄金で出来た身体を持ってるポケモンなんだけど、それを上手いこと加工してスチールパンみたいにしててさ。ジャンさんがスターを誘ったのって、あの時の演奏に憧れてやってるところもあると思うんだよね」
「そうなんですか」
「あれは幻想的だったなぁ。会場の雰囲気とも凄くよく合ってて。スターにもいつか聞かせてあげたいよ」
ヌーシュは楽しそうに話す。彼らが経験したことはとても魅力的で、いつか自分も出会えたら、と思うようなことばかりだった。
気がつけば、ジャンもロマも眠ってしまっていた。結局、その日一番最後まで話し込んでいたのはスター達だった。
湖での連日の滞在、そして演奏を経て、一行は再び旅に出た。それからの旅程は今までよりも気楽なもので、目的地に着くのはあっと言う間のことだった。
森を抜けると、ひび割れた灰色の道が見えた。しばらく道沿いに歩いていくと、今度は木々よりも高い建造物が現れた。
「ついに来たわね」
「これが遺跡、ですか」
「そうそう。遺跡って言ってるけど、これは元々人間の住んでいた場所だったんだよ」
辺りを見渡すと、石のような建造物が整然と並んでいる。長い時間放置されていたのであろう、建物の大部分が欠けたり、植物に覆われたりしている。完全に崩れて瓦礫の山となっているものも少なくない。吹き抜ける風が独特のにおいを伴って、四人の体を通り過ぎていく。これが人間の住んでいた場所かと、スターは感慨に耽った。昔はもっと、この景観も美しかったのだろう。
「人間の街が栄えていたのは、海辺であることが多いからな。ここなら、目当てのものも手に入るだろう」
古びた看板を眺めながら、ジャンは語る。この匂いは、潮の匂いなのだと教えてもらった。
「そう言えば、ここに来たのって何かを探しに来たんですか」
スターは聞く。三人は目を丸くしたが、そう言えばスターはここに来た目的を知らないことを思い出し、その疑問を持つ理由に合点がいったようだ。
「私たち、人間の残した音源を持って帰るためにここまで来たのよ」
ロマは語る。
「昔から言い伝えられてきた曲は色々あるけど、人間は私たちの知らない音楽をいっぱい作ってきたからね。人間は円盤とかにそれを記録して保管してるから、それを探して森まで持って帰るのが私たちの今回の仕事」
へぇ、と相づちを打つ。しかし、数多くある建物の中から、どうやって音源のある場所を探せば良いのだろう。スターには見当もつかなかった。
「じゃあ、俺とヌーシュで再生機を探して来る。ロマとスターは一緒に音源を探してきてくれ。明かりが欲しくなったらヌーシュを呼んでくれたらいい」
「はい」
「分かったわ。じゃ、スター、行きましょ」
二人と別れ、人間の残した街並みを歩く。建物一つ一つから、役目を果たせないままに力尽きてしまったような惜しさが滲み出ているような気がして、スターは少しもの悲しい気持ちになった。ロマは大通りの両脇に並んだ建物の看板を、一つ一つ確認していく。街の入り口が見えなくなるほど進んだところで、ここに入りましょ、とロマは言った。自分の背丈四つ分くらいの高さの、茶色がかった建物だ。入口に、黄色と赤を基調とした四角い図柄が何かしら描かれていた。
「階段、気をつけてね」
狭い空間の中で、段差を登っていく。これもスターにとって初めてのことだった。建物の中は暗く、足下が見えにくい。短い足で登るには苦労を伴ったが、何とか目的の場所に到達した。
一つの部屋に入ると、ロマは壁際で何かを触り始めた。すると、外からの光が射し込んできた。窓を遮る布を取り払ったらしい。土埃が舞い上がったので、ロマは慌ててその場を離れた。ちくちくと喉を刺す感覚は、砂漠の砂嵐とはまた違っていた。
「結構明るくなったわね。これなら探せそう」
ロマは振り返り、窓に背を向けた。太陽光で、部屋の奥まで様子が分かるようになった。
「それじゃあ、始めるわよ。色々棚があるけど、形はどうであれ、入れ物が正面を向いてるものを探して。そういうものは人間達の間でも人気があった音楽が多いから。そういうのをなるべく優先して集めるのよ。とりあえず、見つけたらこっちの棚に持ってきてね。外に出すのは後にしましょ」
「分かりました」
二人で手分けして、音源を集める。棚の中には、透明な薄い容器が大量に並べられていた。そのうちの一つを手に取り開けてみると、中には一枚の円盤が大事そうに納められていた。
「ひょっとして、この部屋全て、こういうのが入ってるんですか」
「そうそう。凄い数でしょ。さすがに全部は持っていけないからいくらか厳選しないとね。後でジャン達がこれを再生できる機械を持ってきてくれるから、なるべく色々な種類のものを持って行きましょ」
ロマの返事が返ってくる。確かに、部屋一面に並べられた円盤を全て持ち運ぶのは無理そうだ。
「あれ」
ふと、視界の端に気にかかる一枚があった。棚の一列を全て同じ種類の絵柄が占めている。砂漠の中、人間の男が一人で正面を向いて笑っている絵だった。そしてその笑顔は、スターをとてつもなく懐かしい気持ちにさせた。胸の奥底から、言葉に出来ない不思議な感情がわき上がった。
スターは、その絵の人物を知っていた。
「ロマさん、この人です」
その円盤を手に取り、ロマに叫んだ。ロマは手を止め、スターの元へ近づいた。
「僕が小さい頃に出会った、旅人です」
描かれた彼の笑顔は、力に溢れている。音楽を精一杯楽しんでいる姿を、その立ち姿で表現している。
彼は成功したのだ。あの日小さなナックラーに語った、世界中に自分の音楽を届けるという夢を、叶えたのだ。
「良かった」
気がつけば、スターの目から涙がこぼれていた。それはいつまでも止まらず、赤いカバーからも溢れ出て、持っている円盤の容器の上に落ちた。
「本当に良かった」
ジャン達と合流すると、真っ先に旅人の作った音源を聞かせてもらうことにした。
「驚いたな。まさか、こんな風に出会えるとは」
「本当に。音楽は時間を超えるんだねぇ」
ジャンもヌーシュも、彼の音楽に興味津々のようだ。音源の選別の一枚目に流す音楽として、異論は無かった。
「どうも、元々ある曲のカバーみたいね。それじゃ、行くわよ」
ロマがスイッチを押すと、軽快な音楽が流れ始める。底抜けに明るいようで、どこか陰りのあるような曲調だった。今にも消えてしまいそうなおぼろげな様子と真っ直ぐな意志が、見事に混ざった一曲だった。
「まるでスターに宛てたみたいな曲だな」
ぽつりと、ジャンが呟いた。
「僕、こんな風に見えてるんですか」
「でもなんだか分かる気がするわよ」
「ほんとほんと」
三人に茶化され、笑った。スターも、そうだといいな、と思った。あの時の出会いが少しでも彼の力になれたのなら、たとえ偶然でも僕は誇ることが出来るだろう。
「僕、この旅についてきて、良かったです」
砂漠を捨てて歩き続け、もう一度彼に会うことができた。それだけでも十分すぎるくらいなのに、まだまだ叶えたい望みは残っている。
「いつか必ず、皆さんと一緒に演奏します。絶対、待っててくださいね」
誰かを傷つけることしか出来なかったこの翼が、みんなを笑顔にする瞬間を、ジャンも、ヌーシュも、ロマも、待っている。
「ああ、楽しみにしてる」
ジャンは大きく頷き、嬉しそうに笑った。