硝子の巨人
scene5
 エテボースは床に落ちていたレンガで、思いっきりフローゼルの頭を殴った。一度ならず、二度、三度と。ミザリーの首を絞めるその手が離れるまで、何度も殴りつけた。フローゼルとミザリーの体が崩れ落ちたところで、興奮しかけた体を何とか抑える。
 まだ殺してはいないはずだ。彼も、私も。恐る恐るフローゼルの体に触れる。頸動脈に波打つものを感じ、ほっとしたような、怖いような、複雑な気持ちになる。続けて、同じようにミザリーの体に触れる。その瞬間、太刀打ちできないほどの恐怖を覚えた。瞳孔が開いたままの瞳。まるで感じられなかった鼓動。こんなことは初めてなのに、一瞬で理解してしまった。彼女は既に、事切れていた。


 体がズキズキと痛む。気がつくと、僕は見知らぬ部屋にいた。体を起こすと、隣で彼女が眠っていた。彼女の体は太陽に当たって、何だか光って見えた。それがあまりにきれいで、僕は思わず彼女の体に触れてみた。見た目の柔らかさに反して、ひどく強ばっていた。
 反対側を見ると、さっきのエテボースがドアの前に立っていた。
「どうしてそんなに、落ち着いていられるんだ」
 彼は震えた声でそう言った。怒りと恐怖が混じっているような、そんな口調だ。
「ミザリーを殺したのに、かい」
 僕はぼそぼそとした声で答えた。頭がひどくぼうっとしている。
 エテボースは未だ僕を警戒している。当然だろうなと、まるで人事のように思った。あまりにも静か過ぎて、まだ夢の中にいるのではないかと錯覚しそうになった。水の中で、顔のないネズミを見て、訳の分からない言語を喋られて、それから、どうしたのか。ミザリーを殺してしまった、と言う実感は、確かにあった。だが、悲しい気持ちも申し訳ない気持ちも、蓋をされたように全く湧いてこなかった。薬に蝕まれているせいだろうか。
「どうしても、逆らえなかったんだ。この体は、薬に蝕まれている。ポケモンの強さを引き出す麻薬。アカギ製薬がずっと昔から開発を続けている、ドラッグだよ」
 アカギ製薬。ドラッグ。また一つ、記憶が蘇る。だが、ドラッグのことを思い出した瞬間、頭の中に痛快な匂いが想起された。そして、自分の中の全意識が、そのドラッグの方に引き寄せられる。これだ。これが欲しいんだ。同時に、足元から何か小さなものが大量に這い上がってくるような感覚に襲われる。それは、あまりにもはっきりとしたリアリティをもって僕に迫り来る。来るな。来るな。
エテボースが、一本の注射を取り出した。僕は思わず、体をよじるような動きで彼に這い寄った。
 彼は溜め息をついた。
「もしかしたらあるかと思って探してみたけれど、こんなものが本当にあるとは。あんた、これが欲しいか」
 彼は酷く軽蔑した表情で僕に聞いた。僕は頭が壊れるんじゃないかと思うほど強く頷いた。
「じゃあ、約束してくれ。これはくれてやる。その代わり、こっちの質問に正直に答えろ」
「わ、分かった」
 焦る気持ちが、声を震えさせる。
「嘘があったら容赦しない」
 手渡された一本の注射。今度は興奮に手がふるえた。早速僕は自分の腕にそれを打つ。一点の痛みが暴力的に走り、その後得も言われぬような快感が全身に広がった。恍惚。僕は頭を支えていられなくなり、その場に乱暴に倒れる。
暫く、心地良い浮遊感が止まらなかった。目の前のことが現実であるような気が全くしない。
「起きな」
 エテボースの声が聞こえる。彼との約束などどうでも良かったが、彼が思いっきり僕の頬を張ったので、嫌々起き上がる。
「あんたは、どっちだ」
 急に彼は訪ねた。質問の意図が分からないような顔をしていると、彼はより詳しい説明をつけてきた。
「あなたは、殿勝カノトのポケモン、ルグレなのか。それとも、奴に身体を奪われた誰かなのか」
 彼は僕を睨むような目つきで問う。
「分からない。だけど、その名前には何となく聞き覚えがあるな」
 僕は俯いて言う。
「僕には記憶が無いんだよ。何日か前に、この廃墟で目を覚ました。それから前のことは、殆ど何も覚えていない」
 僕は彼の方を見た。彼は酷く落胆した表情をしていた。アテが外れた、と言ったところだろう。
「だから、どちらかと言うと教えて欲しいんだ。あなたがその、殿勝カノトとか言う奴について、知っていることを。そこにヒントが隠されているかもしれない」
彼は冷たい目で僕を見た。何で話さなくちゃいけないんだ、そう語っている。だが、どうやら思い直したらしい。首を振って、ぼそりと呟く。
「あんたが何かを思い出せば、御の字だ」


 彼の名前は、槙谷義彦と言った。38歳、独身だった。
「会社に勤めてたんだけどね。不況の煽りを受けて、リストラ食らっちまったんだ。頑張った覚えなんて、何一つなかったからな。大した趣味もない。仕事も面白くない。怒られるのもつらい。逃げるみたいに暮らしてたら、だんだん元気が無くなってきてね。仕事がある日、突然手に着かなくなってしまった。目の前の書類を前にすると、目眩がしたんだ」
 槙谷は思い出すように手元をいじる。口調は何故か自らを嘲るようだった。
「医者に行ったら、心の病気を言い渡されてね。会社を休めって言われた。でもまあ、そんなわけにも行かないだろう? 薬だけ貰って会社に行った。だが、どうにも仕事が手に着かない。やっぱり休もうかって思ったのと同じ時だな、上司に肩叩きを食らったのは。ちょっと休みを取るつもりが、とんだ夏休みになったもんだよ」
 なるほど、自嘲の意味はそういうわけか。喋ったとしても触れられたいことではなかったのだろう、会社のことはもう口にはしなかった。
「医者には度々通ってたよ。面倒くさくて行かない時もあったけど。そしたら、ある日、別の病院を勧められたんだ。アカギ製薬の経営する病院だったよ。どんな病気でも根本から一瞬で治療する画期的な方法があるから、そこで治療を受けてみないかってね。胡散臭かったが、もし止めたければまたウチへ戻って来たらいい、って医者が言うもんだから、ものの試しで行くことにしたんだ。でも、俺はやっぱり騙されてた」
 槙谷は顔を手で覆い、俯いた。
「市民病院くらいの、でっかい建物だった。紹介状を持ってったら、俺は病院の地下室に案内された。その時点で気付くべきだったのかも……おっと悪い、話が逸れた。地下の部屋は薄暗かった。その一番奥の部屋に、案内された。そこにいたのが、殿勝カノト先生だ。あいつは医者のふりして、俺にこう言ったんだ。「事情は全て聞いています。あなたも辛かったでしょう。あなたの病気は、心の病です。これは、脳の信号の回路の問題。そう、物理的な不調寝であり、決して気の持ちようとかそんなんじゃないんですよね。今はまだ、誤解の多い症状ですから、周りの人の反応に苦労されたかもしれません。もう苦しむ必要はないのです。私の実験が成功すれば、ね」
 奴の言葉はともかく、半ば俺もやけっぱちだったよ。実験でも何でも、好きにすればいいってね。あいつは俺に、簡単なテストを解かせた。簡単な計算問題と一般常識、自分の人生の思い出を作文させられた。あれは嫌なもんだった。正直、自分の人生って何だったのか、苛立ちながら書いていたよ。それで、俺は更に奥の部屋に案内された。子供の遊び場みたいなところに、診療用のベッドと、同じ高さの小さな台があった。奴はモンスターボールから、エテボースを出した。えらく落ち着いていたよ。きっとあの場所に馴染んでいたんだろうな。あいつは、俺をベッドに寝かせて、目を閉じろと言った。
眠ってたんだろうな、俺は。あいつが何をしたのか、正確な所は知らない。それから、目が覚めた時にはこんな格好になっていた。あいつがこんな格好にしたんだ」
「彼がやったって証拠はあるのかい」
 彼があまりに感情を高ぶらせて喋るので、思わず皮肉のように言ってみた。
「そんなものはねぇよ。だが、あいつがこの姿にしようとしてやったことは間違いないんだ。
 その後、あいつは、俺にさっきのテストをもう一度やらせた。ペンを持とうとした時だよ、自分の体が何かおかしいって気付いたのは。えらく手が小さいと思ったさ。そしたら、身にまとってるのは服じゃなくて毛皮だし、尻尾も生えてる。テストをやって、部屋に戻ったら、俺のはとんでもないものを見た。ベッドの上に、俺が寝てたんだよ」
 足先を揺すっている。彼の動きはポケモンのそれに見えない。人間の感覚が未だ残っているせいだろう。
「俺に何をしたのか、あいつに聞こうとした。だが、あいつは全く聞く聞いてない。声が小さかったかと思って、もう一回言った。だが、あいつは俺の言葉が理解できなかった。部屋の鏡を見てみれば、そこに映ってるのは俺じゃなくて、エテボースだった。俺はさっきのエテボースになっちまったって、すぐに悟ったよ。ポケモンは、人間と喋ることなんてできない。自分がこんな姿にされたってことを打ち明けることも、誰かを頼ることも、できなくなっちまったんだ」
「まるで、身体を入れ替えられたみたいだな」
「そう、それだよ。入れ替えられたんだ。俺だってそう思う。だが、もし言ったところで、誰も信じちゃくれねぇだろうよ」
 そもそも言えないんじゃないのか、と心の中で呟く。
「それで、病気は? 心の病気。良くなる手はずだったんだろう」
「すっかり元気になったよ。当然だろ。何せ、今の俺の脳みそは、元々あった病気の脳みそじゃないんだからな」
忌々しげに告げる彼の言葉に、ふと矛盾を感じる。
「脳みそが変わったのに、どうして同じ人格を維持していられるんだろうな」
「知るかそんなもん!」
 槙谷は壁を殴った。荒げた息を整え、冷静さを取り戻すために、結構な時間を要した。どうも、彼は自分のことに触れられたくはないらしい。聞いていいのは、彼が自分から語ることだけなのだ。余計な詮索は彼の気を立たせるだけで、するだけ無駄だろう。彼から言葉を引き出すことに徹した方がいいかもしれないと思い、頃合いを見計らって言った。
「病気が良くなったんなら、それでいいじゃないか。仮に入れ替わったとして、エテボースの方が可哀想だけど。その間に体を治療してもとの体に戻れば、自分は全く辛くない。全てが元通り、万事オーケーだろう?」
「そうじゃねぇんだよ」
 急に、彼の苛立ったような喋りが静かになった。怒りが限界に達すると、かえって冷静になる、そんなこともあるのかもしれない。これはそういう類の静けさだと、直感した。
「俺の体は、殺されちまったんだ」
 それが、彼の怒りだった。
 殿勝カノトは、アカギ製薬が裏で生成している薬物を槙谷の体に試した。今僕が漬けられている薬とほぼ同じものだ。体に起こる効果を確かめて、データを採る。槙谷の体はたちまち、その薬に依存する体質に変わった。頬もこけ、目は虚ろになっていく。自分の体とエテボースの心がが壊れていく様子を、槙谷はモンスターボールに入れられながらただただ見続けた。
 ある日、槙谷の体が暴れ出した。十五回目の、禁断症状だった。暴れ具合は回を重ねるごとに強さを増していき、次第に人の手では止めきれないほどの力を発揮するようになった。
 その手が殿勝の手に伸びようとしたとき、彼は何の躊躇いもなく手を下した。懐に忍ばせていたらしいピストルを抜き、引き金を引いたのだ。床と壁はビニールが敷いてある。それを見た瞬間、例え直接関係がなかったとしても、この男が、最初から自分の体を使い捨てるつもりだったことがはっきりと分かった。身体が吹き飛ぶ姿をまじまじと眺めながら、まるで動揺しない彼を見て、槙谷はそら恐ろしくなった。

「……それからが地獄だったよ」
 彼はカノトの下から逃げ出そうとした。普段モンスターボールの中に入れられて携帯されていたため、いつ、どこで逃げ出すか選べるのが幸いだった。彼が他人と話込んでいる隙に、ボールから脱出し、全速力で走った。とは言え、二足歩行での人間走りだったから、それほど早くはなかったが。
 彼の姿が見えなくなって、心臓も落ち着いたところで、自分が生きていく術を完全に失っていることに気付いた。こんな姿になってしまったからには、いよいよ誰を頼ることも出来なくなってしまった。
 体はエテボースなのに、感覚はほぼ人間のときのままだった。仕方なく野生の世界に潜り込んでみたものの、そこはやはり弱肉強食の世界で、槇谷は馴染むことが出来なかった。エテボース自慢の尻尾も、動かす感覚が掴めず、精々持ち上げる程度で、手のように扱うには至らない。体のバネも活かしきれない。よって、バトルも出来ない。競争に負け、痛みを覚えるだけ覚えて、成果をあげられない日々。得られる食料はあまりにも少なかった。このままでは命に関わる。そう思って、すぐにまた人間のいる世界に帰った。
 都会にて、人間がお情けでくれる食べ物で日々を繋ぐか。それも試してみたが、 段々堕落していく人間だった頃の自分を思い出して、嫌気が差した。
 槇谷の内に沸々と沸いてきたのは、カノトに対する怒りと、自分に対する怒りだった。俺はどこで間違えたのだろうか。自分の人生に対して一瞬たりとも本気になることがあっただろうか。ただ日々を何となく過ごすだけの人生は、所詮猿のレベルだった。カノトを抜きにしても、自分は人間を辞めてしかるべき人間だったのだ。そう思った瞬間、自分に対しての怒りがマグマのようにたぎった。
 アカギ製薬。様々なポケモン用の薬を開発し、一般トレーナーの手が届きやすい値段で提供している人気企業だ。だが、後ろ暗い別の一面も持っていることは、今までの体験を通じて既に明らかだった。せめて、その闇に苦しめられる誰かがいるならば、その闇を明らかにし、少しでも多くの人やポケモンが救われるべきだと思った。
「今はとても楽な気持ちだよ。やるべきこととやりたいことが一致した時、こんなに清々しい気分になれるとはね。せめて、人間でいるうちに知りたかったよ」
彼は低い声で呟いた。



■筆者メッセージ
scene5「Hi-Ho」
乃響じゅん。 ( 2012/12/16(日) 23:09 )