scene4
ミザリーは食糧庫に向かっていた。床に巻いた木の実でエテボースをちゃんと誘導できるか見張るためだ。ドアのある通路に出た瞬間、エテボースが扉を開けた。あまりのタイミングの良さに驚くものの、すぐに平静を取り戻し身を隠す。
暫くは、彼女の狙い通りだった。エテボースは木の実に誘導され、歩を進める。判りづらかったが、俯く顔は確かに木の実を認識している。そっち、そっちよ、と小さく念じる。
ミザリーは木の実を辿るエテボースの姿に、微かな違和感を感じた。それは直感に過ぎず、何の根拠なかった。だがやがて、その違和感ははっきりとした疑問に変わっていった。頭の中に、それははっきりとした言葉になった。彼は何故、あんな覚束ない歩き方をするのだろう? どうして彼は、
歩いているのだろう?
だが、そんな疑問を抱いたところで、彼と会わなければ関係ない。そう思うことで、自分の違和感を振り払うことに成功した。実際、それは非現実的な話ではなかった。エテボースは最後まで、ミザリーの用意した道筋をなぞっていたのだから。エテボースは最後の短い階段を下りる。出口の門まで草木を掻き分ける姿を見届ければ、無事さよならだ。
そう思った矢先のことだった。外まで誘導され、生えるままに任せた草の上で彼の足はぴたりと止まった。何事かと思って、一瞬息を忘れる。その時、彼はなんと踵を返し、ミザリーの隠れる方に歩いて向かってくるではないか。
「これを撒いた方、そこにいらっしゃるのでしょう? 」
この発言には、心臓が飛び出そうになった。このままこの敷地からすんなり出て行くものだと勝手に思って、油断していたのだ。こうなれば、情けないけれど、出来ることは一つしかない。じっとして、いないふりを決め込むだけ。耳だけは、しっかりと彼の足音を拾う。
足音は徐々に大きくなる。その方向に、さして迷いもない。ミザリーの位置は、もう相手にも見当がついているのだろう。姿が見つかるのは、時間の問題だった。こうなっては仕方がない。立ち上がり、彼に姿を見せることにした。
「もう隠し通すのは無理みたいね」
彼女は言った。平静を装ってはいるが、声が少し上擦っている。
「隠していたんですか」
エテボースは真剣な面持ちで返す。
まずいな、と彼女は焦りを禁じ得なかった。正直なところ、隠し事は苦手な質なのだ。フローゼルの彼を匿うことになった時も、明らかに適任ではないと訝ったものだ。どうせ彼も、私の目的には薄々感づいているだろう。
ミザリーはある人間の姿を思い浮かべた。自分を飼っている、科学者の男だ。もし、”あの男”にしくじったことを咎められたら、ただでは済まないだろう。彼の所業は、他のポケモンを伝って聞いている。少々嬲られたり、得体の知れない薬の実験台になったり。それを思うと、ひどく投げやりな気分になった。私は何もしないし、したくもない。されるがままにされてしまえばいい。私に未来はない。そう思った瞬間、何もかもをめちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られた。
「そりゃあ人が住んでる所に勝手に入って来られたら、どんな手を使ってでも追い出したくなるわよ。折角ゆっくり暮らせると思ったのに、次から次へと邪魔が入るんだから」
突き放したような言い方は、多少相手を怯ませることに効果があったらしい。申し訳ない、と謝られる。だが、そうでありながらも、彼の言及は止まらない。
「……次から次へと、ということは、他にも誰かここに来たのですか」
このエテボースは、だみ声で、ゆったりとして、頭に何か詰まったような喋り方をする。見た目の割に、中身は歳を食っているのだろうか。
「ここは人間がエサくれるからね。噂を聞きつけたポケモンらが、勝手に食い荒らしていくのよ。最近そういうのが多くて嫌になるのよ」
もっともらしい嘘をついてみる。
「そうですか……悪いことをしましたね。あれだけ、ちゃんと閉まっていたら、誰か使ってるってことくらい分かっとかなきゃいけなかったんですよ。すみません」
エテボースはすらすらと謝罪の言葉を述べた。許してしまいそうになるから、やめて欲しいのだが。
「あなた、ただ食べ物探しに来ただけ? どうもそうは見えないんだけど」
あぁ、追い出すはずだったのに。ますます適当にあしらうのが困難になってしまった。
「ええ。……人を探していましてね」
彼はいうべきかどうか迷ったのち、一つの名前を告げた。
「殿勝カノトという、研究員です」
その瞬間、今までの苛立ちが全て吹き飛ぶほどの一撃を、食らったような気がした。意外を通り越して、衝撃だった。
「なんで」
なんでコイツが、あの男の名前を知っているのよ。
「知っているんですね」
彼はずいと詰め寄る。見開いた目から、必死さが伝わる。
「単刀直入に聞きたい。あなたは、あの男のポケモンなのですか?」
「ふざけないで。ここを見張っているのはあいつが美味しい美味しい報酬をくれるから。あいつの手持ちになった覚えはない」
ミザリーの口調は、吐き捨てるようだった。
「あんた、ここがどういう場所か知ってる? どうせ知らないでしょう」
ミザリーは、殿勝カノトと言う男に育てられ、モココに進化してからすぐに廃墟でひとり暮らすことになった。どこからか殿勝が連れてくる、様々なポケモン達。そいつらを廃墟から逃がさないように監視するのが、彼女に与えられた役割だった。その頃は、まだ名前などなかった。
仕事さえこなせば、彼は最高のエサを与えてくれた。甘い蜜のようなものでコーディングされた木の実やフードの数々。衝撃だった。この世の中に、こんなにおいしくて、心地の良い食べ物があるなんて。極上の食事は、彼女の舌を変えた。生きていくために必要なそれ以上の贅沢。一度味わってしまえばもう逃れられなかった。もっと欲しいと思うようになった。それが一種の麻薬だと知る頃には、既に彼女の体もそれなしでは生きられなくなっていた。
彼女は、来訪者達を閉じ込めておく為にありとあらゆる手段を使った。ここに連れてこられるポケモンは、皆凶暴だったが命は長くなかった。ある日、突然に事切れるのである。だから、ほんの短い時間の辛抱だった。しかし、その度に彼女は確実に傷付いた。とりわけ、雄の場合は乱暴の意味が変わる時があった。屈辱だった。
いつからだろうか。自分が「惨め」なんて呼ばれるようになったのは。ここに来るポケモンたちに、そう呼ばれる。考えられるのはあの男――殿勝カノトだ。あいつが、ここをじっと見張っているに違いない。自分がどんな手を用いて役割をこなしているのかも、全部知っている。そうでなければ、私がそう呼ばれる意味が分からない。
「知っていますよ。ここがどんなところなのか」
エテボースは、少し怒りのこもった声で呟いた。ミザリーは顔を上げる。語気からして、彼の言葉は本当なのかもしれない。
「ここは」
エテボースが言葉を繋げようとした次の瞬間。
何かが爆発するような、大きな音が響いた。
振り返ると、土煙が上がっている。爆発ではなく、何かが崩れ落ちたようだ。
崩れたのは、廃墟の一部だった。建物が自然に倒壊するなら、もっと広範囲に広がるはず。ミザリーは、これが人為的なものであると直感した。これは、危険かもしれない。
エテボースは、土煙の方を警戒しているものの、臨戦態勢とは言い難かった。次の行動を迷っているように見える。
「下がってて。あれは危険よ」
ミザリーは告げる。
非常に残念だった。彼は違うと思っていたのに。彼は、名前も忘れてしまった彼は、他の来訪者と違って、優しかったのに。
「ミザリー、暫くこいつの面倒を見てくれよ。一週間でいい。こいつをこのマンションに閉じ込めておいてくれ」
殿勝カノトは一匹のフローぜルを抱えて、ミザリーに言った。703号室のソファに眠りに落ちた体を下ろし、頼んだぞ、と言いつけて去って行った。まさかこいつが来るとは思わなかったな、と彼女は振り返る。このフローゼルは、カノトの側近のような存在だった。確か名前をルグレと言ったか。実際に会ったことは殆どない。それでも、彼女は彼が嫌いだった。私のことを最初に「ミザリー」と呼んだポケモンは、他でもなくこのルグレだったからだ。彼は明らかに私を軽蔑していた。いつもカノトの横に付き、私のことを一瞥するなり鼻で笑う。私のことがそんなに惨めか。なぜ私はこんなに惨めだと思われなければいけないのか。そう思えば思うほど、腹が立った。
カノトの連れてきたポケモンがルグレだと分かったとき、今までの恨みを晴らしてやろうと思った。傷付けてやろうと思った。丸一日昏々と眠り続けた彼の体からは、得体の知れない臭いが漂っていた。本当に気持ち悪いと思った。それを利用して、出来る限り彼を怒らせるような言い方を考えた。だから、けなすように言ってやったのだ。「あなた、ひどい臭いね」と。だけど、彼は怒るどころか、「あぁ、そうだね」と笑った。狙いが外れて、居心地が悪くなって、言い訳をした。彼はそれを真剣に聞いてくれた。誰かと語り合う夜が、あんなに楽しいものだなんて思わなかった。
もしかしたらこいつはルグレではないのかもしれないと、彼女は密かな確信を抱いている。記憶をなくしているという彼の言葉は本当だと思う。彼は、名前が二つある、と言った。そのうちの一つがルグレだとしても、きっともう一つの名前が今の彼を作っている。そう信じている。
だが、そろそろ彼も壊れてしまうのだろう。他の来訪者と同じように。ミザリーの覚悟は最初から決まっていた。薬物に犯されたポケモンたちをいなすことが、私の仕事だ。こいつを外に出してはいけない。そのために、手段は問わない。彼が唯一他の奴らと違うのは、発作さえ起きなければ、優しくあろうとしてくれたことだ。だからこそ、私も最も優しい方法で彼をここに留まらせ、幸せな気持ちを最後の最後まで共有したかった。
土煙が晴れると、彼の姿が鮮明になった。フローゼル。焦点の定まらない目つきで、ミザリーの方へ歩いてくる。エテボースは少し後ずさるようにミザリーから離れ、様子を窺う。
「禁断症状ね。あなたの名前は知らないけれど、苦しいのなら来なさい。和らげてあげるから」
ミザリーはぼそりと告げる。
一気に攻めて来るかと思いきや、彼はゆっくりと近づいた。そのせいで、こちらから攻め込む機会を掴めない。そう思ったのもつかの間、彼の行動は意表をついたものだった。急に狙いを変え、油断がちなエテボースを吹き飛ばしたのだ。体制を立て直せず、ごろごろと体が転がっていく。
じりじりと壁際に追い詰められる。あるドアを開けて、部屋の中に籠もろうとしたが、呆気なくドアは壊された。
不意に、彼は笑った。手を差し出して、にっこりと。油断を誘っているのだろうか。そんな手には乗らないと、後ずさる。だが、すぐに追い詰められた。壁に手が触れて、もう距離をとることはできない。彼が近づくにつれて、その笑みが狂気じみたものに変わっていく。
「……!」
体の動きを封じられて、息ができなくなる。首を締められているのだ、と気付くまでに、僅かの間があった。彼は文字通り、本気でミザリーの息の根を止めにかかっている。彼の笑顔が、悪魔か、あるいは死神のそれに見えた。このやり口は、どう考えてもポケモンのそれじゃない。
ミザリーは容赦なく、放電した。モココの体に宿る力を総動員させ、自分の首を絞めるフローゼルの手を離させようとした。このフローゼルが最初に禁断症状を起こしたあの時よりも、発作の出方がより酷くなっている。禁断症状の大きさは、そのまま凶暴性に繋がる。彼を殺す気でやらなければ、やられる。
しかし、首を絞める手が緩むことはなかった。むしろ、より強く絞め付けられた。彼女が電撃を浴びせたことで、フローゼルの筋肉が収縮したのだ。モココの体が持つ特殊能力は、土壇場で彼女自身を助けてはくれなかった。ぐえ、と声が漏れそうになる。しかし、彼女はそんな理屈に気付かずに、電気を流し続けた。我慢比べの末、打ち勝つことに賭けたのだ。もう少し。もう少しの辛抱だ。最後に下した彼女の決断は、きっと誰もが取りうる行動の罠なのかもしれない。
生への執着と意地が、彼女に最後の力を振り絞らせた。もっと、もっとだ。もっと強い電気を。
――そうでないと、わたしは。
喉に当てられた手が、有り得ない深淵まで届いた。それが、彼女の得た最後の感触だった。