scene3
それから数日経ったある日。食事の途中、不意に彼女の表情が険しくなった。入口側に注意を払っているようで、耳を済ませている。
「どうしたの」
「誰かいる」
話は後だ、と言っている。
「隠れましょう。食べ物は最悪全部食べられてもいいわ。まずはこっちのことを悟られないように正体を探る」
おかしな優先順位だな、と思ったが、このビルをよく知るであろう彼女の言葉に従うのが無難だ、と思った。
部屋には大小様々の戸棚と引き出しが多数ある。大きい戸棚のいくつかは別の部屋に繋がる通路になっているようだ。ミザリーは戸棚のほぼ全てを把握しているらしく、迷わず通路の引き出しを開き、気付かれない程度に戸を開っぱなしにする。
「さあ、来たわよ」
じっと息を殺す。ミザリーは隠れていろと言ったが、どうしても気になるので、彼女の邪魔にならないように顔を覗かせた。どんな厳つい奴が現れるのかと思ったが、現れたのは少しひ弱な印象のエテボースだった。
彼はしきりに周囲を見渡す。その様は、警戒していると言うより、頼むから何も出ないでくれと願っているようだった。彼女が僕の背中を軽く叩く。目が合うと、首を振っていた。放っておきましょう、そう言ったのだと思った。
エテボースは目の前の食べ物の一つをゆっくりと手に取り、口に運んだ。彼も、こんな廃墟に場違いなほどの食糧を見つけて、怪しいとは思っているのだろう。だが、きっと空腹を抑えられなかったに違いない。やがて、誰も現れないことに確信を抱いたエテボースは、より大胆に食料を口に運ぶ。その様子を見たミザリーはまた僕の肩を叩いた。行きましょう、そう言っている。
暗く細い道は、四足の獣でしか入れそうにないほど小さいが、生憎我々は四足にもなれる獣である。人間だと思い込んでいた自分でも、いざ前足を地面についてみれば、歩けるような気がした。ミザリーは僕の前をゆっくり行く。それが足音を殺すためだと気付くのに、少しかかった。
細い道を出て、また別の部屋に辿り着いた。間取りは最初にいた部屋と同じだが、家具は置かれていない。
「もう声を出しても大丈夫」
ふう、と僕は息を吐いた。
「あれは一体誰だったんだ?」
「多分だけど、この辺りの建物に紛れ込んで、迷子になった人じゃないかしら。ビルを荒らしそうな乱暴者や泥棒なら、戦って追い払ってやろうかと思ったんだけどね。あの人はそうでもなさそうだから、黙って食べたいだけ食べさせることにした。一人だし、全部食べられてなくなる、なんてことはないでしょう」
「なるほど。でも、そこまで確信していながら、会おうとはしないんだな」
「ここには誰もいないって思わせていた方がやりやすいのよ。何かとね」
彼女の笑みは、無理をしていると思った。目元が引きつっていたことを僕は見逃さなかった。彼女は、隠していることがある。この建物のことも、彼女自身のことも。今はまだ、敢えて聞くまいと思ったのは、あまりに彼女が隠し事が下手だったからかもしれない。
「ふうん。それで、あそこにある食べ物は一体どうやって用意したんだ? まさか、君が?」
「さすがに、あんな量の食糧を確保できるほど私は出来てないわよ」
彼女は笑った。
「あれは、ここに住んでる人達のために食べ物を用意してくれる人間がいるのよ」
「ここは人間に管理されたポケモンたちの集落ってことか」
「まぁ、そんなところね」
彼女は口を閉ざした。じっと音を聞いているようだ。
「まだあいつが部屋から出る気配はない。今のうちに、あいつを外に案内する算段を立てましょう」
「また、彼に姿を見られないように動くのか」
「そうよ」
少し鋭い口調で返された。
ミザリーに連れられてやってきたのは、さっきとは別の食糧庫だった。ここには、どちらかと言うとナッツ類の小さな木の実が多く保存されていた。ペットボトルサイズの小瓶を、彼女は取り出す。様々な種類のナッツが、中に入っている。彼女はそれを持って、再び移動する。瓶の中身を少し取り出し、さっきのエテボースのいた部屋の前に置き、等間隔にまたもう一つ置く。これを繰り返すと、外までの道が出来上がった。
「昔話みたいなことをするね」
「何それ」
「森の中に入った兄妹が、道に迷わないように葡萄を巻きながら歩いていったんだ。まぁ、今回は逆だけど」
ふうん、と彼女は言った。
何気ない所作の中で、僕は初めてこの廃ビルの外に出た。高い空に浮かぶ雲。風がほんの少しだけそよいでいる。振り返ると、ここを表すにはビルという表現があまり正しくないことを悟った。ここは、何十年も前に閉鎖された集合住宅だったのだ。
建物を出ると、草の無造作に伸びきった空き地が広がる。その向こうには塀があり、その一部からしか出られないようになっていた。
ふと、目を凝らす。入口に立っている、見覚えのある存在。顔のないネズミだ。塀の横で、微動だにせずこちらを見ている。気がする。
「どうしたの、固まっちゃって」
彼女が不審そうに尋ねる。
「あそこに、顔のないネズミが立ってる」
僕は指を指す。
「何もいないわよ」
彼女は言う。そんなはずはない、と思ったが、再びその方向を見るともうそいつはいなくなっていた。
「ところで、喉が渇いているんだけど、水場はないかな」
そろそろ我慢の限界が来ていた。体全体が渇いて、熱を持ち始めたように思う。
「実は、裏手に川があるの。ちょっと入りにくいけど」
彼女はせかせかと移動した。その速度が少し有り難かった。
さらさらと流れる草木に隠されたこの小川は、雑木林との敷地境界線だろうと想定する。僕は水に足をつけ、仰向けに倒れ、全身で冷たさを味わい尽くす。
「どう、気持ちいい?」
「うん、とても」
口を開けて、水を喉に流し込む。美味い。
「じゃあ、あなたはここで待ってて貰っていいかしら?」
「ああ。待っているよ」
「私が呼びに来るまで、動かないでね……絶対に」
やけに念を押すような言い方だな、と思った。その違和感をおくびにも出さず、僕は頷いた。
「ああ。待ってるよ。彼の見張りは、任せるよ」
「ありがとう。……行ってくるね」
彼女は踵を返し、建物の方へと向かっていく。彼女の姿が見えなくなり、空を見上げた。ちゃぷり、と水を持ち上げ、自分の体に落とす。心地良い。
僕は、彼女のことを考えていた。ミザリーという名前。少し戻った記憶を頼れば、人間の言葉で、それは惨めさを意味する。彼女はその言葉を知っているから、自分の名前を嫌っているのだ。そこまで思い至ると、彼女はなぜそれでもミザリーと名乗り続けているのかという疑問が浮上する。僕が言えた立場じゃないが、嫌なら名前など適当に名乗ればいいのだ。それをしない理由は、あるとしたら一つかない。偽名を使っても、すぐにバレるような状況にあるのだ。第一に思い当たるのは、この集合住宅に食事を運んでくる人間だった。しかし、人間はポケモンの言葉を理解することが出来ないはず。彼から呼ばれていたとして、ポケモン同士で名乗っていれば何の不都合もないはずだ。
ここで思い直す。その人間が自分のポケモンを持っているならば、その限りではない。主人の意志をしっかりと汲み取っているポケモンなら、彼女にとってそいつは主人と大して変わらないかもしれない。しかし、どうしてそんな名前を付けようと思ったのか。名付け主の気が知れないな、と呆れた。
それにしても、喉が渇いた。
清流に浸かって、最初は心地よさを覚えていた。だが、それも一時のことで、また体が火照ったような感じがする。水を飲んでいるのに、一向に満たされる気がしない。
この渇きは、もしかして。
嫌なイメージが湧きあがる。思わず身体が跳ね起きる。僕は全身の毛が逆立つような思いがした。
「*%#〒±<|ア・」
顔のないネズミが、僕の目の前にいたからだ。また不可解な言語で、僕に語りかけてくる。これがどうしようもなく不快で仕方がなかった。巨大な焦燥感が僕を襲う。全身が、熱い。じっとしていると、いらいらする。どうしても抑えられない衝動に、僕の心は飲み込まれていく。