scene2
夜が明けないうちに目が覚めた。
身体をそっと動かすと、横ですやすやと眠っている彼女のことを思い出した。彼女を起こさないように、僕はそっと起き上がる。
身体を起こしてみると、真っ暗な闇の中に僕はそれを見つけた。本を読んだ後に見つけた、あの白い何かだった。改めて見ると、それは何か小さな獣のように見えた。ぼんやりと薄く白く光っているため、暗闇の中でも姿をはっきりと認識することができる。ただ、顔に当たる部分は真っ暗で、見ることができない。顔のない兎とでも言うべきだろうか、そんな生物が部屋の端に佇んでいた。近付けば、見えない顔を見ることができるだろうかと思い、歩み寄ってみる。
「ュ;%サチ6)>キ?ヌ/!ョテ4ミ5-$ゾ7」
不意に、顔の無い兎が不可解な言語を喋った。僕は思わず、伸ばそうとした手を止める。その窪んだ部分に目があるかどうかも定かではないが、そいつの顔は明らかにこちらを向いていた。目を離した隙に何かされるかもしれないと思うと、迂闊に目を離せないような気がした。僕はそいつから顔を背けないままに、一歩一歩ゆっくりと後ずさる。
「あっ」
ソファに足を引っ掛けて、その上で眠っている彼女の身体にのしかかってしまう。むぎゅ、と彼女の声が聞こえる。
「ごめん」
彼女は身体を起こしながら、寝ぼけた声で、何、と言った。僕は顔のない兎の方を指差した。
「あそこに、何かいる」
「あぁ、顔のない鼠ね」
「ネズミ? 兎じゃないのか」
「本当のところは誰も知らない。私も、誰かがそう呼んでいるのを聞いただけだもの。特に何かされたって話は聞かない」
「何か喋りかけられて、顔を見られた」
「喋ったの?」
僕は頷く。
「でも、きっと大丈夫でしょう。何かあったって、怖がる必要は無いと思うわ」
彼女はそう言った。僕は再び顔の無いネズミの方を見やる。さっきまでいたはずだったのに、白いそいつの姿はなくなっていた。
「あれ、消えた」
「そうみたいね」
彼女はさも当然のことのように話した。だが、顔の無い鼠がどこへ行ってしまったのかとか、詳しいことは何も分からないらしい。
ここには、妙なものがいるな、と思った。
そろそろ、日が登る。
太陽に照らされてからというもの、顔のない鼠が再び姿を見せることはなかった。どこかへ行ったのか、はたまたそこにいるけれど見えないだけなのか。本当のことは、誰にも分からない。
彼女は、どうやらモココというポケモンのようだった。こっちを向いて、ふと笑いかける。
「お腹、空いてる?」
「うん。空いてる」
「良かった。私もよ。一緒に食べに行かない? 果物とか、野菜とか、果物とか。いっぱいあるの。ついて来て」
彼女は、部屋の外に出ようとする。僕は彼女にひたすらついて行く。
「ところで君は、なんていう名前なんだい」
僕は訪ねた。
「ミザリー」
「いい名前だね」
「……本当に、そう思ってる?」
彼女が不意に、陰のある声を発したせいで、僕は一瞬、言葉に詰まった。
「ごめん、気に障ったのなら謝るよ」
「いいえ、いいのよ。これは私の問題で、あなたのせいじゃないの。それに、これはいつか私自身が向き合わなきゃいけないことでもあるから。だから、あなたは名前を呼んでいい」
詳しいことは何も分からないが、彼女には彼女なりの事情があるのかもしれないと思った。あまり彼女の名前は声に出さないようにしよう、と心に誓った。口では、分かった、と告げた。
「ところで、あなたの名前はなんていうの」
ミザリーは振り返って、僕に尋ねた。
「2つある」
自分でその意味を吟味するより早く、言葉が先に出てきた。自分の口をついて出てきた言葉に、自分自身が驚かされた。
「そして、両方とも分からない」
「2つ、ねぇ」
ミザリーは少し押し黙った。のち、諦めたように言葉を発する。
「不思議なこともあるようね」
「顔の無い鼠とかの方が、よっぽど不思議だと思うんだけど」
僕がそう言うと、彼女はクスリと笑った。
「あなたは、自分の名前が分からないのね」
「名前だけじゃない。自分がどうしてこんなところにいるのか、自分が何をしていた人間なのか。それすら分からないんだ」
歩いている間に、頭の中が目まぐるしく回る。頭の奥底にかかった霧を晴らそうと、必死に両手を振るう自分の姿を思い浮かんだ。しかし、霧は一向に晴れる気配を見せない。
「……」
彼女はまた、押し黙った。
「……あなたと私の認識、どこが食い違っているのか、分かったかもしれないわ。あなた自身の誤解と言ってもいいかも」
神妙な声。それが、おどけた態度なのか本当に真剣なのか、僕一瞬判断出来なかった。
「あなた、自分を人間だと思っているでしょう」
「当たり前じゃないか」
僕は内心呆れていた。一体何を言い出すかと思えば。僕が人間じゃなければ、一体誰が人間なんだ、とおどけてみたくなるほど、それは疑いようのない事実だと思っていた。
だが、違った。
彼女は僕に近付いて、僕の全身に軽く触れていきながら語る。
「人間は全身茶色い体毛も生えてないし、二本に分かれた尻尾も生えてないし、鼻もこんなに尖ってないし、肩から腰にかけての浮き袋もない。あなたは人間なんかじゃないわ。種族で言えば、フローゼルっていう、ポケモンよ」
「ばかな」
僕は両手を覗き込む。どうして今まで気付かなかったのか、本当に分からない。
彼女は何も言わない。ただ、少し哀れむような目で僕を見つめるだけだった。
「はっ、そうじゃないか」
彼女の言う通り、こんな姿をしているのが人間なはずないじゃないか。
――その時だった。
僕の全身を、唐突に不快感が襲った。人間ではないことを受け入れられなかったのか、それとも別の理由があるのか。原因は全く分からない。苛立ち、焦燥感、何かを欲する気持ち。その衝動はまるで爆発するように僕を支配した。頭の中に、自分の中身が強烈な遠心力に振り回されるイメージが浮かぶ。中心となる黒い柱から伸びた、頼りない紐にぶら下がって、必死に耐えている自分の姿。目を開けても閉じても、そのイメージから逃れることはできない。見えているもの、嗅いでいるもの、触れているもの、感じているもの全てが、強烈な違和感となって、全てが僕を暴力的に振り回す。手が震える。体の内側から、全身に力を込めなければ耐えられない。
頭を腕で抱えようとする。首が長くて、腕が短くて、首をかなり無理矢理に曲げて抱え込む。その感覚でさえ、違和感を覚え、本来あるべきはずの「心の軸」から離れていく。
「ねぇ、大丈夫?」
呼吸の加速が止まらない。回転が、止まらない。あらゆるものが加速して、吹き飛ばされていく。
力を、込めなければ。
触れているミザリーの柔らかい感触が、中途半端にしか感じられない。曖昧さは全て違和感でしかない。僕はミザリーを殴った。少し吹き飛んで、倒れるミザリー。
他に触れているものは何だ。気持ち悪い感覚わわもたらすものはなんだ。僕は浮き袋を噛み千切ろうとした。
「やめて」
全身が気持ち悪くて、彼女の声がまるで耳に入らない。尻尾を噛む。痛い。その痛みが少しでも遠心力を和らげてくれるのならば、厭うことは何もない。
「やめてってば」
ミザリーの叫びが遠くで響いたような気がする。
急に、僕の全身が痙攣した。遠心力の元から、心の軸のイメージから、何もかもから覚めるような雷の衝撃だった。全身から、力が抜けていく。そのまま、目の力まで失われて、僕はそのまま眠りに落ちた。
「……起きたのね」
僕の顔を見ていないはずなのに、彼女は気付いた。自分のしでかしたことを申し訳なく思い、何も言えない。
周囲には、甘い匂いが広がっていた。ミザリーの放つそれとは違う。食べ物の糖の匂いだ。
「食べましょう。食べながら、話して」
彼女の声から、感情を読み取れない。どちらかというと、それは僕の後ろめたさのせいだ。
「あなたの中で、何があったのか知りたいから」
地面に並べられたお皿の上に、様々な種類の果物が並ぶ。彼女は、ヒメリの実をぱくりと食べた。僕も、見たままに食べたいと思うものを掴み、口に運んだ。そういえば、この廃ビルに来てから初めて食事をする。食べている途中で、こんな味だったかと一瞬違和感を覚える。どことなく、自然の食物とは違うにおいが混じっている気がする。だが、僕はあまりにもお腹が減っていたせいもあり、さして気にもせず食べ続けた。
僕は、自分の中に突如湧き上がったイメージを彼女に伝えた。変かな、と伝えると、でもあなたにとっては真実なんでしょう、と返された。
彼女は常に、優しい。僕を傷つけない。僕の不安定な心を、優しく包んでくれる。
「ありがとう」
「何が」
「何でもないよ」
僕は微笑んだ。
それから、僕たちは平穏な時を過ごした。部屋の中で1日は過ぎ去った。僕は字が読めない彼女のために、本を読んであげた。部屋を探せば、何冊か出てきて、彼女がとてもそうして欲しそうだったからだ。大げさな身振り手振りを加えてみたり、その後の展開を予想してみたり。小さなことで一喜一憂して、僕らは笑いあった。時間なんて、どこかに忘れたかのように。
それから、特に意味は無いのだと良いのだが、喉が渇いたな、と思うことが増えた。