scene1
頭がひどくぼうっとしている。
目が覚めていることは分かるものの、目の前は真っ暗で何も見えず、自分の身体の先端部の感覚が戻らない。まるで熱でも出たみたいだ。でも、吐き気や頭痛はない。埃っぽいにおいが辺りに広がっていることだけが、今僕に分かることのすべてだった。
どれほどの時間が流れたか分からないが、ようやく意識が冴えてきて仰向けになることができた。目も開いた。あまりよく見えない。埃っぽさは相変わらずだから、きっと相当な粉塵が舞っているのだろうと思った。それとも、僕の視力はこんなにも悪かったのだろうか。
どうやら、僕が寝そべっているのはソファーのようだった。背伸びをすれば、その両端に手と足がついた。
意識は相変わらずぼうっとしている。反して、体のほうはえらく元気で、周りを取り巻く状況を調べたがっている。操られるように身体を起こす。薄汚れたコンクリートの壁。土で汚れた窓ガラスから差し込む淡い太陽光。そして、錆止めのペンキが剥がれ落ちた、おびただしい量の赤いかす。一言で言えば、廃墟だった。どこかの廃ビルの中だと僕は推測した。最後の人間が去ってから、十年、二十年と月日を重ねたのだろう。割れたコンクリートの隙間から、一部植物が葉を伸ばしている。
ペンキかすを踏めば、ぱり、という音がする。足の裏に嫌な感触が残る。だがそれも最初だけのことで、すぐに慣れた。
誰かが住んでいた痕跡があった。ペンキかすの下には絨毯が敷かれていたし、棚の上にいくつかの電化製品もある。どれも埃を被っていて、触るのも躊躇われる。それに、今の僕に必要だとも思えない。僕が欲しいものとは、どこか違っているような気がする。
ここで、はたと思い及ぶ。一体、僕はここで何をしていたのだろう。誰の目にも付かないような場所、僕は何をしにこんな場所に来たと言うのだろう。ここで目を覚ます以前のことを思い出そうとすると、霧の壁に阻まれるように上手くいかない。
棚の中に、一冊の本があった。背表紙が破れ、手に取ってみるまでそのタイトルは読めなかった。表紙は水色と緑で彩られた空の絵だった。おもむろに、それを手にとって、僕は読み始めた。
空に浮かぶ孤独な島では、人はいつか島から永遠の晴空の中に身を投げ出さなくてはならない。そんな掟のある世界の話だった。話の中で、主人公はその掟に逆らい続け、最後には島そのものを破壊してしまう。とても悲しい話だ、と思った。
読み進めるにつれ、字が段々見えにくくなってきたと思えば、どうやら辺りが暗くなってきたようだ。どうやら、夜が近付いているらしい。
ふと顔を上げると、何か白いものが部屋の端の方にぽつんと佇んでいるのを見つけた。暗さのせいではっきりとは分からなかったが、そいつは微動だにせず、ただひたすらにこちらを見つめているように見えた。
「……?」
目をこすってみたが、そいつは確かにそこにいるようだ。幻ではないらしい。
どうしようかと思いあぐねているうちに、僕の意識は寸断された。誰かが僕に声をかけたからだ。
「あなた、誰」
甘ったるい女性の声だった。僕は驚いて振り返る。暗さのせいではっきりとは分からなかったが、どうも人間ではないようだ。彼女は二足歩行ではあるものの、鼻は口ごと尖っているし、太い尻尾もある。髪の毛に見えるくるくるの白い毛は一つ一つがやけに縮れている。
「ひどい臭いね」
彼女はくぐもった声で言った。僕はあたりを嗅いでみる。
「そうかな。あたりのにおいは分からないや」
「そりゃそうよ。あなたのことだもの」
一瞬彼女の言葉の意味が分からず、ぽかんと口を開けて止まった。彼女はふっと笑う。
「あなた、ひどい臭いよ」
腹も立たなかったのは、多分未だに頭がぼうっとしているからだろう。
「あぁ、そうだね」とだけ告げてみたら、彼女は笑って、ただただ僕の瞳を覗き込むように見つめてきた。僕はこんな瞳を、どこかで知っている。きっと彼女のものではない。彼女の瞳には、現実感が欠けていた。
そうだ、現実感。僕は思わず口に出した。目を覚ましてから感じられないのは、それだ。意識がはっきりしない。空気も流れない。単調さだけがひたすら続く部屋の作り。彼女は僕の独り言には取り合わず、
「何をしてたの?」
と尋ねた。
「あぁ、本を読んでいたんだ」
そう言って、僕はぼろぼろの本を彼女に見せる。
「あなたが?」
彼女の驚きがあまりに大きく、逆に僕の方まで驚いた。
「不思議かい」
彼女はソファに腰掛けて、次の言葉をゆっくり吟味した。
「あなた、ポケモンの識字率ってどれくらいか知ってる」
「さあ、分からないな」
僕はかぶりを振った。
「人間と暮らすものだけで言えば、0.033%よ」
彼女は告げる。
「やけに正確だな」
「二年前にアカギ製薬っていう人間の会社が調査したらしくてね。流石に野生を含めた数字までは出してなかったみたいだけど。それを覚えていただけ」
彼女はなぜか毅然とした態度で告げる。
「どうしてそんな話をするんだい」
そう言うと、彼女はますます不思議そうな顔をする。まただ、と僕は思った。
「変わった人ね」
「言ってくれれば、僕も腑に落ちる」
つい僕は、声を荒げてしまったのかもしれない。彼女は少し表情の翳りを見せて、ほんの少し押し黙った。
「ごめん。悪かった。きっと君に言えないほど意外な部分が食い違っているんだ。僕はきっと何か、大事なことを見落としているんだと思う。それも、多くの人間が持っている前提の、さらにもっと前の前提を」
彼女の顔を見れば、頷きも首を振りもしなかった。そろそろ、太陽の恩恵は完全に消え去ろうとしていた。ビルの中は真っ暗で、彼女の顔でさえもぎりぎり見えるか見えないかというところだった。
ふと、僕の頬に何かが優しく触れた。暗闇の中だが、目の前に現れた顔が、彼女のものであるということは、すぐに分かった。彼女の声の響きのように、甘ったるい匂いが鼻の奥の奥の奥の奥まで、ひたすらに広がっていった。
彼女は言った。
「みんな、臭いのひどいときっていうのは、決まっているの」
どんなときだい、と僕は尋ねた。
「足りないとき」
彼女は答える。
「お腹が空いているとき。よく眠れなかった日。すっぱりと止めた煙草が恋しくなったとき。ずっと大事にしていた誰かが、何かの拍子に自分の手元から離れていくとき。人もポケモンも、そう言うときは寂しくて寂しくて堪らないの。ぽっかり空いた穴を埋めるために、無くした何か代わりを探そうとする。「私は今、何かを無くしています。穴を埋めてくれそうな方、いらっしゃいましたら是非私のところへきて下さい」ってね。そんなメッセージを、全身から発しているの。……あなただってそう。気付いていないだけで、きっと大事な何かを無くしているはず」
ひたすらに同じ調子で、彼女は語りかける。僕の耳にはそれはとにかく心地よくて、正直話している内容などどうでも良かった。彼女の声を途切れさせたくなくて、僕は相槌を最適な回数を最適なタイミングで送った。思いつく限り、最も良いタイミングを。
「僕も、誰かを無くしてしまったんだろうか」
僕はぼそりと呟いた。
「ええ、きっと」
その声には、優しさと、ほんの少しの後ろめたさが隠れているのが、分かってしまった。彼女は僕の心に空いた穴を埋めようとしてくれているのだろうか。彼女には、僕の穴を埋めることは出来るのだろうか。彼女は、自分にそれが出来ると、思っているのだろうか。
その答えを知るのは、幾つかの夜を越えた後になる。