タブトーク(Young.alive.in love)
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 明らかに異常なレベルのタブンネが一番道路に発生した。
 カノコタウンのポケモンレンジャー事務所。電話を受けた所長は、コールを呼び出した。
「どうしました、所長?」
 コールが顔を覗かせた。レンジャーの赤い制服は動きやすさを重視して作られているが、この男が着るとどうも締まりがなかった。ぼりぼりと頭をかきながら、面倒くさそうな顔をしている。目のくまを見るに、恐らく先ほどまでどこかで居眠りをしていたに違いない。所長は問いただそうかと思ったが、話を続ける。
「あぁ、トレーナーから報告があってな。本来一番道路にいないはずの高レベルのタブンネが見つかったそうだ。今行けるのはお前しかいないから、ちょっと見て来い」
 うーん、とコールは唸った。
「一番道路を散策するトレーナーなんて、最初のポケモンを貰いたての若い連中ぐらいでしょう。ちょっとくらい強いポケモンがどこにいてもおかしくないですし、気のせいじゃないですかねぇ」
 コールはポケモンレンジャーの資格を取って、三年目の若手だ。入りたては良く働く男だと思っていたのに、最近は中だるみと言うべきか、妙に気力のない言動が目立つ。所長の悩みの種は、専らそれだった。
「言い訳してないで行って来い!」
「はい、すみません!」
 慌てて踵を返し、出かける準備を始めるコール。所長はため息をついた。

 コールはレンジャー用の道具が一式揃ったリュックを背負い、事務所を出て自転車を走らせた。所長のカミナリに少し反省はするものの、気だるい気持ちが抜け切れない。季節は春、ようやく安定して温かくなってきたのだが、それが逆にコールの眠気を誘っている。現在、午後三時。日が暮れるまでに終わればいいのだがと、コールは思った。怒られた手前、何も成果を上げずに帰るわけにはいかない。ポケモンレンジャー全員に支給される赤いハットが飛びそうになり、手で押さえる。風が吹いて、花びらが宙を舞い始める。地面に埋まった看板が見えた。「この先、一番道路」。
 先に続く道路を見る。道は二つある。一つはカノコタウンから真っすぐに伸び、カラクサタウンへと続く大きな道路。もう一つは、大きな道路の途中から脇に逸れる道だ。舗装もされていない、明るい森へと続く林道。その分岐点でコールは自転車のブレーキをかけた。後輪が砂利で滑る。邪魔にならないように自転車を脇に止め、林道に向かって歩いていった。
 人が三、四人並んで歩けるほどの広さの地面が、しっかり踏み固められている。カノコタウン出身の新米トレーナー達のものだ。彼らは旅立ちを迎えるとまずこの森で力を磨く。野生ポケモンと戦い、ポケモンバトルの基本的な感覚と判断を実戦形式で身につける。この辺りの野生ポケモン達の力は弱く、技を何度も繰り出さないと決着がつかない程度。判断ミスが命取りになったりすることはまれなので、ポケモンバトルの練習にはうってつけだ。
 それでも、不慮の事故が全く無いとは言い切れない。トレーナー達の安全な環境づくりの意味も込めて、この小さな森の環境を整えるのがコールの仕事だった。不穏な事態が発生すれば、緊急出動もありえる。今回がまさにそうだ。
 異常なレベルのタブンネ、と電話主は言っていた。この森の野生らしからぬ、強力なポケモン。下手に放っておいては、この森がトレーナーにとっても野生ポケモン達にとっても危険な場所になりかねない。タブンネは温厚な種族だ、と言われてはいるが、パニックになれば力だって出す。本人にとってもためにならない話だ。所長の言わんとするところは、大体こんなものだろう。
 コールはタブンネが本当にいるのか、未だ半信半疑だった。新米トレーナーの見間違いであるのではないかと考え、そうあってくれと信じていた。厄介事に関わるのは、誰だって嫌なものだ。

 適当な場所に立ち止まって、耳を澄ませてみる。自分の音を全て消し、全方向の音を受け止めようと努める。ぼうっと立ちつくしていると、うっかり気を許したポケモンが寄ってくる。
 後ろから、がさりと音が聞こえる。草むらから誰かが顔を出す音だ、と直感した。音の主を脅かさぬように、ゆっくりと振り返る。
 ピンク色の頭と、黄色の身体。小学校に入りたての子どもと同じくらいの身長。大きな耳にくるんと丸まった細長いものがリボンの端のようだ。青い瞳で、こちらをじっと見つめてくる。タブンネだ。コールはリュックからレベル測定器を取り出し、そいつに向けた。
 やはりか、とコールは落胆した。事実は自分の望むようにはならないものだと思った。機械が示した数値は、ポケモンリーグに出場するトレーナーのポケモン相当のレベルだった。そこまでとなると、自分の一匹しかいない手持ちでも太刀打ちできる自信はない。コールは機械をリュックに戻し、背負い直してタブンネに向き直ろうとした。その時だった。
 気付かぬうちに、タブンネはコールのそばまで近づいていた。コールの身体がびくっと震える。タブンネは両手を上げた。一瞬のうちに、数々の思いが頭を巡る。これはマズい。高レベルであるということは、人間を簡単にいなす力があると言うこと。逃げなければ。しかし、それはあまりにも一瞬のことで、抵抗することさえできなかった。タブンネの両手がコールの身体に触れる。
 何が、起こったのだろう。
 その瞬間、頭の位置は変わらないのに、急に地面が消滅して、コールはすとんとその場に落ちた。リュックが腕から離れ、服が全て身体から余ってしまった。衣類が身体から離れてしまう。身体が縮んでしまったのか、とコールは思った。いや、しかし、そんなことって。
 尻もちをつく。顔が完全に服の中にすっぽりと隠れて、視界は真っ黒だ。尾てい骨の上あたりがやたらと痛かった。細い器官を挟んでしまったかのような。腰の辺りにできものでもできていたのかと思った。声を上げそうになる。
 痛む部分をさすろうと、手を伸ばす。しかし、手がお腹の真ん中までしか届かない。やはり、手が短くなってしまったのか。身体をよじって、何とか触れてみた。ふわふわとした感触がある。これは、なんだ。全身から、汗が吹き出す。嫌な感じがする。
 コールは慌てて服を脱ぎ捨て、リュックを求めた。確か中に鏡があったはずだ。自分の身に何が起きたのか確認しなければ。リュックを見つけ、手を伸ばす。
 伸ばした手は、自分の知っているそれではなかった。ピンクとレモン色のツートンカラー。指先は小さく、赤ん坊のような手。明らかに、人間のものではない。まさか、まさか。鞄の中の鏡を取り出し、自分の姿を映した。見ずとも答えは分かっているようなものだったが、鏡を見るまでは信じまいとした。もしかしたらそうではないのではないかという思いがあった。だがそれも空しく、身体から剥がれ落ちた。
 映った姿は、タブンネそのもの。間違いなく、自分の身体だ。
『これは復讐だよ』
 後ろから、誰かが呟く。甘い女性の声だった。コールは振り返る。人間の姿はない。さっき自分に触れたタブンネが、そこにいるだけだった。まさか、彼女が喋っているのか。タブンネの目は相変わらず虚ろで、生気を感じられない。ふわっと近づいて、コールの身体が恐怖に震えるうちに、タブンネはコールを押し倒した。
 タブンネはコールに覆いかぶさっている。顔が影になってよく見えない。
『ずっとやられっぱなしになってる方の気持ちを知れよ、人間』
 しかし、口元でうすら寒い笑みを浮かべたのははっきりと分かった。タブンネは小さな両手でコールの首を掴む。タブンネは全体重をコールに乗せ、コールの首を絞めていく。コールはタブンネの腕を取り払おうとした。だが、人間とは違う感覚で、力を上手く伝えられない。苦しい。息が出来なくなる。身体中の流れが止められる。深く暗い闇が、まぶたの裏に映った。徐々に闇が視界を支配していく。
 耳のひだに、タブンネの手が触れた。その瞬間、嫌な音が身体の中に流れ込んだ。誰かが殴られたような、鈍い音。それをあざ笑うような、そういう音。
 意識を失いかけたその時、タブンネの手が緩んだ。コールは勢いよく息を吸い込み、むせた。視界が元に戻っていく。タブンネの顔が、青い瞳が映る。彼女は涙を流していた。コールは困惑した。そして、何かを決したかのように、瞳に鋭さを込めた。両手をもう一度、コールの顔にかざす。また首を絞められるのかと思ってびくついた。だがそうではないらしい。タブンネの両手から黄色い光が溢れ出す。そして、光線が放たれる。眩しさに目を閉じた。
『本性出せよ、この悪魔』
 タブンネは言葉を吐き捨てた。タブンネの手から放たれる光線が、コールの心を分断する。コールは意識の中に、何か別の存在が現れるのを感じた。一度溢れたら最後、絶対に抗うことのできない、赤い闇。骨の髄から漏れ出して、徐々にサイズを増し身体を支配しようとする。心臓の鼓動が早くなる。止めたいと思っても、既に身体のほとんどは闇に飲み込まれてしまっていた。体系だった自分というものが壊れて、体じゅうを探してももうどこにもない。息が荒くなっていく。ごくりとつばを飲み込む音がいやに響いて、赤い闇に意識の全てを奪われた。

 どこかで丸くなっている自分に気がついた。起きようと思って背伸びをすると、急に視界が明るく開けた。
 誰かの家のリビングだ。広くはないものの、窓から差し込む光が部屋を明るくし、狭さを感じさせないようにしていた。一人暮らしだろうか、モノが少ないように思えた。あるのは、緑色のソファに、ガラスのテーブル。引き出しのついた背の低い木の棚、その上に薄型テレビ。テーブルの上に置いてあるモンスターボールが、開きっぱなしで揺れている。もしかして、自分はこのボールから出てきたのだろうか。モンスターボールの中はポケモンにとって快適な空間になっているとは言われているが、実際に見る機会なんてそうそう無い。どうやって入ったらいいかも分からないし、少し勿体ないことをしたな、と惜しい気持ちになった。
 両手をまじまじと見つめる。どうやらまだ自分はタブンネの姿のままらしいことを知る。
『あら、おはよう』
 廊下側から、タブンネが顔を出した。一瞬、自分を襲ったタブンネかと思ったが、別人だとすぐに分かった。何から何まで全て違うように見えた。具体的に違う点を挙げるとすれば、彼女の場合目元が少し離れている。瞳の輝き方も全然違う。自分と同じ動物の顔は見分けられるのだ、という話を思い出す。タブンネの違いがはっきりと分かってしまう自分が、少し悲しい。
 それにしても、このタブンネも喋っている。自分がポケモンだから、ポケモンの言葉を理解できるのだろうか。そんな疑問はさておき、今は彼女に話を合わせた方がよさそうだ。おはよう、とコールは返した。
『ここは、一体どこだい? それに、君は……』
 コールは言った。そのタブンネは窓のそばに寄り、外を見た。暫くののち、彼女は答える。
『ここはカラクサタウンのアパートリプレ301号室よ。私はミミ。ポケモンレンジャーしてるフィデルのお手伝いをしてるの』
『フィデルだって? それってまさか、あの?』
 コールは思わず聞き返した。ポケモンレンジャー界では、名の知れた人だ。まだレンジャー歴は自分より数年上なだけの若手だが、ポケモンを傷つけない独特のスタイルによって暴れるポケモンを宥めてきた凄腕の先輩レンジャーだ。少なくとも、コールにとっては憧れの存在であった。新人研修の時に一度彼女の仕事を見る機会があったが、このミミとのコンビネーションは抜群で、尊敬の念を抱くようになった。彼女が黄色いビードロを吹き混乱状態のポケモンを宥める姿は、身近な夢のモデルにふさわしいものだった。
「おはよう、ミミ」
 廊下側から、一人の女性が顔を出す。ピンクのチェック柄のパジャマを着ていたが、すぐにフィデル本人だと分かった。思わず、顔を覆ってしまう。どうしよう。今、自分は憧れの彼女の家にいる。正直な話、彼女に対して思うところは憧れだけでなく、一人の男としての好意という意味も含んでいるのだ。
「きみもおはよう。もう落ち着いた?」
 フィデルはしゃがみ、目線をタブンネに合わせて頭を撫でた。さらさらとする。優しい感触に思わず目を閉じる。全身が緊張し、心臓の鼓動が早くなる。憧れの人からの思わぬアプローチ。しかも、向こうは自分が本当は人間だということにすら気付いていないせいで、遠慮がない。手を乗せたまま、フィデルの瞳がじっとコールを見つめた。
『あ、あの』
 直視に耐えられず、思わず目を背けた。しばらくするとフィデルは、安心して、ここは大丈夫だからね、と言ってコールの頭をぽんぽんと叩き、別の部屋に行ってしまった。
 ひとまず予期せぬ緊張は去り、コールはため息をついた。心の余裕が出来たところで、フィデルの言葉を不思議に思った。ミミに尋ねてみる。
『ミミ、落ち着いた、ってどういうことなんだ?』
『ええっ!?』
 ミミは声を上げ、大げさに驚いたリアクションを取った。自分の意識がないうちに、信じられないほどのことをやってしまったらしい。
『あまり記憶がなくてさ』
 コールは苦笑した。あの光の後、一体何があったのか。コールは知りたいと思った。何から話そうか迷っているのか、ミミはもじもじしていた。
『一番道路におかしなくらい強いタブンネが出た、っていう報告があったらしいんだけどね、その子を助けに行ったレンジャーが行方不明になっちゃって、それで代わりにフィデルと私が止めに行ったの。あなたすごい暴れようだったわよ。シンプルビームはむちゃくちゃに撃つし。フィデルのビードロもぜんぜん効かないし。あくびをしたらすぐに眠ってくれたからよかったけど、ちょっと怖かった。あれは興奮しているというより、何かにすごく怒ってる、って感じだったなぁ』
 どうやら、勘違いされているようだ。コールが対処しようとしたタブンネが、いつのまにか自分ということになっている。ミミやフィデルは恐らく、一件落着と思っているだろう。でも、本当はまだ何も解決していない。
 人間としての自分は、行方不明扱いされているようだった。あの場に服もリュックも置き去りにしてきたのだ。救援を呼ぶほどの大事と判断された以上、誰かがそれを見つけ、回収してくれたのだろうが、それについては元の姿に戻ってから考えることにしよう、と決めた。
 シンプルビーム、と聞いて、思い当たる節があった。もしかしたら自分を襲ったタブンネが最後に放った光線はそれかもしれない。特性をたんじゅんにする技。それがどういうわけか、人の理性を失わせる方向に効果がシフトしたのだろう、と推察した。つまるところ、自分の特性を書き換えられることで、一時的にただの獣にされていたのだ。
『ねぇ、何に怒ってたの?』
 ミミは首を傾げながら聞いた。
『うーん、分からないな』
 コールは苦笑した。自分が何かに怒っている? 少し深く考えてみたが、心辺りはない。強いて言うなら、首を絞められた時に聞いたあの嫌な鈍い音だ。誰かに殴られた時のような、あの鈍い音には非常に嫌悪感を覚えた気がする。

 フィデルが戻ってきた。パンとミルクを両手に携えて、ガラスのテーブルに置いた。ランチョンマットを忘れた、と言って、自分の朝食をテーブルに置いて慌てて取りに行った。彼女が戻ってきた時、ぐぅとお腹が鳴った。あぁ、ごめん、二人のご飯も用意するから、と言って、フィデルはまた台所に戻る。戻ってきた時、その手にあるものを見て思わずぎょっとしてしまった。自分もポケモンに食べさせているから見たことのある袋。ポケモンフーズだ。これを食えって言うのか。コールは冷や汗をかいた。
 茶色い塊が、お皿に盛られる。傍目にも、あまり美味しそうには見えない代物。いただきまーす、と、一人と一匹の声。ミミはポケモンフーズを口に含み、ゆっくりと噛んで食べる。おしとやかだが、一歩踏み出す勇気が出なかった。
「食べないの?」
 フィデルは聞いた。コールはフィデルの顔を見つめる。
「いいんだよ、食べれなかったら。無理しないでね」
 そう言って、フィデルは優しく微笑んだ。胸の奥から、つんと湧きあがってくる切ない気持ちを感じた。タブンネの姿になっても、まだ彼女に対する人間としての気持ちは持ち続けられていることに一抹の安堵を覚えた。流石に頭を撫でられるのは想定外過ぎて緊張を禁じえなかったが、今は落ち着いてそんなことを考えていた。
 思考は、折角好きな人が用意してくれた食事を食べないのは失礼だ、という結論に至る。ここで引いては男がすたると、妙な意地が生まれる。ええい、ままよ、とポケモンフーズを口に含んで噛んでみた。
 うまい。コールは驚きを隠せなかった。一口、もう一口と、次々にポケモンフーズを口に運ぶ。これはこんなにうまいものだったのかと、ある種の感動さえ覚えた。
 次々に口に放りこんでいく姿を見て、フィデルはにっこりとほほ笑んだ。その姿に気付いたコールは、やってしまった、と思った。女性の前でみっともないところを見せてしまった、とどぎまぎした。もちろん、そんな風に今のコールを見る人間は一人もいなかった。

 食事が終わり、フィデルは別室で着替えを済ませた。フィデルはさてと、と呟いた。
「ねえ、タブンネ君。きみを今から育て屋に預けに行こうと思うんだ」
 フィデルは目線をタブンネの高さに合わせ、真剣な面持ちでコールを見つめた。
 真面目な話なのだろう、ということはすぐに分かった。
「きみは誰かに育てられたポケモンなんだよね。
 バトルを見たときに分かったよ。野生には野生の、トレーナーに育てられたポケモンにはそれらしい癖があるもの。……野生で生きることは辛いことだと思う。だから一旦預かってくれる人の所に、きみを連れて行こうと思うの」
 少し、フィデルの目が涙っぽくなっていた。言い分は分かる。だがコールは首を横に振った。振らなければいけない、と思った。
「きっと良くしてくれる。その後なら、野生に戻りたければ戻ってもいい。だから、一緒に行こう?」
 コールはもどかしさを感じていた。この説得を自分が聞いたところで、何にもならない。コールは下を向く。
『僕は、』
 コールは顔を上げ、口を開く。そして、一気に喋り出す。
『僕は行きません。だって、本当は僕は人間なんです。本当に見つけるべきタブンネは僕じゃない。僕をこんな姿にしたやつがいる。フィデルさん、偶然だけど、こんなところであなたに会えてとても嬉しかった。もしかしたら、タブンネを育て屋に連れて行くところまでがあなたの指令なのかもしれません。この任務が失敗することで、あなたの顔に泥を塗ることになってしまうかもしれない。けれど、それは勘違いなんです。本当は、僕がやるべきことなんです。あなたに任せてしまっては、僕はあなたに顔向けできなくなる。だから、あなたと一緒には行けません』
 コールは呼吸を忘れるほどの勢いでまくしたてた。全ての思いを吐露しきったその時、まるでさっきまで潜水をしていたかのように息を大きく吸い込んだ。
『人間には私たちの言葉は聞こえないわ』
 ミミは少し憐みを込めた目で、コールを見つめた。その視線が、コールの心を突き刺す。目のやり場を無くし、俯いた。ポケモンの言葉は人間には伝わらない。当然だ、とコールは思った。だって、自分もポケモンが喋る姿を見たことがない。人間には聞こえないのだ。今喋った言葉も、人間にはただの鳴き声にしか聞こえなかったのだろう。届けたかった言葉が伝えたい相手にだけ届かない。やるせなさが、コールの肩に重くのしかかる。
『でも……あなたが人間って、本当なの?』
 ミミは聞いてきた。コールは頷いた。
『今行方不明って言われてるポケモンレンジャーがいるだろ。あれ、実は僕なんだ。別のタブンネを追っていたら、そいつに襲われて、こんな姿にされてしまった。何をされたのか分からないし、元に戻る方法も分からない。
 だけど、もう一度その子に会えば何か分かるかもしれない。その子がどうしてこんなことをしたのか知りたい。あの子は、僕に任せてほしいんだ』
 こんなことを、ミミに言っても仕方がない。それは分かっている。この決意が、正しいのかどうかも分からない。けれど口に出せば、自分のやるべきこと、望むべきことがはっきり分かる気がした。
 あのタブンネを、助けてあげたい。レンジャーの道具も、自分を証明するものも何も無いけれど、彼女と交わせる言葉がある。あの子を助けるとしたら、今しかない。他のレンジャーが気付いて、彼女に手を伸ばす前に。
 行かない意思表示として、コールは首を振った。フィデルの目をじっと見つめた。タブンネの青い瞳が、思いを伝えてくれればいいと思った。フィデルは、じっとコールの目を見た。人間とポケモンの言葉は通じなくても、彼女は会話しようとしている。
 フィデルは、ゆっくりと目を閉じた。
「他にやるべきことがあるんだね。それも、きみ自身の力で」
 コールは頷いた。フィデルは暫くの後、分かった、と答えた。行き先は一番道路かと聞かれ、コールはまた頷いた。フィデルはモンスターボールの開閉スイッチをコールの方に向けてかざした。
「ボールに入れて連れて行くよ。その方が早いでしょ」
 フィデルはにっと笑った。

 モンスターボールから放たれる赤い光に包まれて、コールの身体はボールの中に吸い込まれていった。ボールはフィデルの腰のベルトに付けられた。ボールの中の空間は広いとは言えないが、地面はふかふかで、眠ることもできそうだった。天井からは外の景色が見えた。自分は今、小さくなっているのか。コールは不思議な気持ちになった。
 町外れ、一番道路の看板が見えたところで、フィデルはコールとミミをモンスターボールから出した。
「これ以上詳しい場所には連れていけないけれど、頑張ってね。私、きみを応援してるから」
 フィデルは言って、満面の笑みを浮かべた。ミミも同じ表情だ。
『二人とも、本当にありがとう』
 コールは言った。そして振りかえろうとした途端、ミミに呼び止められた。
『あなた、フィデルに恋をしてるでしょ』
 ふいに、ミミが呟いた。なぜ分かったと言わんばかりに驚いた顔をして、コールは固まっていた。
『分かるわよ。ずっとぼうっとしてたもの。フィデルのことを見ながら』
 ミミは右手を口元に当てて、穏やかに笑った。
『恋って素敵よ。全てが幸せに見えるんだもの。私もしたことあるわ。一目ぼれで、二度と会うことはないでしょうけど……いつ会ってもいいように、私はいつも恥ずかしくない自分でいたいと思う。だから、あなたもそうであってほしいの』
 ミミは少しだけ目を伏せた。そこに込められている意味は、祈りだけではないのだろう、とコールは悟ってしまった。タブンネの身体は、耳が良く聞こえるようにできている。そして、音から他人の気持ちを知る力も備えている。そんな話を、今になってようやく思い出した。コールの心は、無意識のうちに敏感になっていた。ミミの祈りに、憂いが隠れている。
「どうしたの?」
 フィデルが首を傾げた。コールははっとして、我に返った。いつの間にか憂いの理由を読もうと、膨らんだ想像に囚われていたらしい。コールは首を振った。
『いや、何でもないですよ。行ってきます』
 笑みをフィデルに見せ、振り返った。

 コールは息を切らせながら走っていた。タブンネの足は短い。思ったようなスピードが出ずもどかしい。想像していたよりもずっと長い距離をひたすらに走った。身体の重さに、ひどく負荷がかかる。息がつらい。途中で川を見つけたので、水分を補給した。両手で掬うには手が小さ過ぎたので、顔を直接川の流れに突っ込んだ。砂利が少し口の中に入る。川の中につばを吐き出す。口の中が粘っこい。顔を手で擦る。
「見つけたぞ、タブンネ」
 真後ろから、声が聞こえる。こちらの気を引くためにわざと言ったのか。コールは振り返る。ガタイのいい人間の男が、モンスターボールを持っている。それを投げると、中から光と共にシルエットが浮かび上がり、実体が作り上げられていく。ヒヒダルマ。頭の中で、もうひとりのコールが呟く。自分より少し背の高い、しかし遥かに身体の大きいダルマのようなポケモンがコールを睨んでいた。大きく裂けた口と開かれきった目が異様で、身体がすくんで動けなくなった。
 ヒヒダルマの鼻息が、ぶわぁっと大きく吹きかかる。大きな瞳から目を離せない。両手が震えて止まらない。顔が引きつる。
『ご、ごめん、痛いのはいやなんだ』
正直な気持ちを、口にしてみた。体はタブンネでも、中身は暴力なんて振るうことも振るわれることもない人間だ。逃げよう。一歩、距離を置こうとした。緊張感でふらふらする。倒れないようにしっかり地面を感じながら、後ずさる。
 ふん、とまたヒヒダルマの鼻息。その音はさっきより激しい気がする。
「ヒヒダルマ、ばかぢから」
 後ろのトレーナーが指示を出す。ヒヒダルマが腕を振り上げる。
『知るか』
 その巨大な拳が振り下ろされる直前、ヒヒダルマはそう言った。
 がん。鈍い音が全身に響いた。身体の中身が偏って、空白の部分ができる。頭だ。頭をえげつない力で殴られたのだ。頭にぶつけられた暴力が、全身を揺らした。揺さぶられた身体はバランスを失い、どさりと倒れる。痛みは後からやってきた。衝撃の波が足まで渡り、跳ね返ってまた空白の頭に戻ってきたとき。あぁ、あ、と言葉にならない声が漏れた。息を吸うのが苦しい。小さい呼吸が、だんだん大きな呼吸へ。それに呼応して、頭の痛みはひどさを増していく。我慢できない。言葉にならない声は、叫びへと変わった。
『アンタさぁ、痛がりすぎ。経験値のくせに。頭おかしいんじゃないの?』
 そういえば、とコールは思い出す。ヒヒダルマの声のトーンは、妙に高い。しゃべり方も何だかゴツゴツしてなくて、むしろ意外と柔らかい感じがする、などと気の抜けた考えが脳裏をよぎった。確かに、頭はおかしくなってしまったのだろうな、と心の中で呟いた。現実がそろそろ嫌になってきた。仰向けになってみたら、空が広い。
「戻れ、ヒヒダルマ。……アイツがこんなに弱いはずもないしなぁ、ハズレかよ、くそ、タブンネめ、どこにいやがる、イラつくなぁ、くそっ、あの野郎、タブンネの見分けなんか付くかよチクショウ」
 さっきのトレーナーが、ヒヒダルマをボールに戻してからぶつぶつと呟く。がさがさと草をかき分けて、また何処かへ去っていく。どうやら自分は用済みらしい。待て、一体何がハズレなんだ。
 これがタブンネ狩りか。コールは無性に悲しくなった。ポケモンはバトルをすることで成長のエネルギーを得る事が出来るが、その成長具合は相手の強さと種族によるそうだ。その中でも、タブンネはかなり成長度の高いポケモンと言われ、重宝がられている。
 コールは拳を握った。力の限り、強く。暴力的な痛みを覚えると、どうやらそれは怒りに変化するらしい。拳で地面を打つ。地面は響かず、鈍い音がする。腕に泥がべっとりついてくる。頭のズキズキとする部分から声が響く。お前一人じゃ何もできやしない。肩書も道具もポケモンも無いお前なんか、ただの役立たずだ。牙があったことさえ忘れた家畜だ。フィデルの家で死んだように一生閉じ籠っていればよかったのだ。
『ちくしょう……』
 自分の周りを飛び交う虫の羽音がぶんぶんと煩かったが、どうすることもできなかった。

 何者かの足音が聞こえる。身体を動かすのがおっくうで、目を閉じたまま耳を澄ませた。人工物の固い音ではないことから察するに、人間ではなさそうだ。草を労わるように歩く足音は、コールの方に近づいてきた。
 今、足音の主はコールの真後ろにいる。コールの顔が日陰になる。コールの顔に触れるか触れないかの距離に、それは手をかざす。柔らかい光がぽう、と放たれる。桃色とも、橙色ともつかない光がコールを包む。コールは目を閉じていながら、その光を存分に味わった。まぶたのフィルターを通すと、より自分の身体に取り込まれやすくなる気がした。そうやって、光の一つも逃すまいとしているうちに、身体が楽になっていった。緊張した筋肉がほぐれて、頭の痛みも消えていく。大きく息を吸えるようになる。
 目を開けて、光を放った誰かの正体を確認しようとした。
『大丈夫?』
 彼女は優しい声で語りかけた。コールは目を開けて、体を起こす。彼女の顔を見る。メスのタブンネだった。頭をさすってみると、痛みは引いていた。こぶもできていない。
『ありがとう、もう大丈夫。今のはいやしのはどう? 凄いね』
『ありがとう』
 彼女はにっこり笑って、右手で波動の光を作って見せた。オレンジ色と黄色の混じった光が自己主張する。その光を消すと同時に、彼女の瞳からも光が消えた。
『酷いよね、あいつら。タブンネを倒せばポケモンが早く育つからってさ、あんな風に殴るんだよ』
 人間が去った方向を見据えながら、吐き捨てるように言った。コールは彼女と同じ方向を見つめながら、頷いた。自然と近寄っていき、耳と耳が触れそうになる。
『あぁ、ひどい。でも、人間に復讐することもひどいとは思わないか。例えば、僕をこんな姿にしたりね』
 コールは真っすぐに彼女を見据えた。流すように、空気に溶け込むように軽く、コールは言葉を放つ。きっと、彼女の心にはその方が引っかかるだろうという気がした。彼女は目を一瞬見開き、あからさまに視線を下に逸らす。さっきよりも陽気な口調で、コールは続けた。
『君を見て一瞬で分かったよ。君が僕をタブンネの姿にしたってこと。あれもわざの一つだろう? 僕の見立てでは、なかまづくりだと思うんだけど、どうかな』
 彼女は下を向いたまま、しばらく固まっていた。
『……ごめんなさい』
 消えて無くなりそうなほど、小さくかすれた声。微かに肩が震えている。全て図星なのだ、とコールは察した。
 その時、不思議なことが起こった。彼女のいる地面がきらきらと輝き出して、その後ろに白い道が空の方に続いて行くのが見えた。うねりながら空に昇って行く、煙のような白い道。瞬きした瞬間、それは全て消えてしまった。一体なんだったのだろうか、コールには判断しかねた。少なくとも、彼女の技ではなさそうだ。
 一瞬呆気にとられていたが、再びコールはタブンネに向き合う。そして、小さな腕で彼女を引き寄せた。ふわりとした感触が、全身を伝う。お互いの耳が顔にかかる。耳の下の触角から、彼女の心の音が伝わってくる。不安、怯えの音だ。コールは彼女の触角を自分の頬に当て、心の声を送った。怖がらないで。その想いを心臓に乗せる。
『いいんだよ。その話、詳しく聞かせて貰えないかな。僕の名前はコール。人間の時はポケモンレンジャーをしていた。君の名前は?』
『……モモ』
『いい名前だね』
『そんなんじゃない』
 暫く沈黙が続く。コールはモモの言葉を待った。
『この名前を付けてくれた人間は、凄く嫌な奴だった。あいつは、私をサンドバッグにするために私を育てたんだもの』
 モモは俯き、また顔を上げる。
『野生のポケモンや他のトレーナーと戦わせてくれて、最初はただただ強くなるように育ててくれたんだと思ってた。だけど途中からね、おかしかったの。バトルに出しても指示は出してくれないし、ごはんもあまり食べさせてくれないし。私、毎日あいつの仲間とバトルして殴られてたの。どれだけ攻撃されて痛い思いしても、あいつは何も言ってくれない。反撃したくても、攻撃するための技をいつの間にか全部忘れさせられてた。だから、何とかしたくても何も出来なかった。相手の技を守る方法が分からなかった。忘れさせられてたのよ、全部。毎日殴られて、あいつは私になんて言ったと思う? 「いいぞモモ、よくやった」だって』
 モモの語気が荒くなる。ひどい、とコールは思った。モモは再び、自嘲気味に語る。
『タブンネって倒すと沢山成長できるって言うじゃない? あいつは他の仲間に倒させるために、私を育てたのよ』
 最初にモモの身体に耳の触角が触れた時に流れ込んできたどす黒い感情の意味を知る。自分はこれに怒りを覚えていたのだ。あまりにも理不尽だ、と思った。
『人間なんて、大っ嫌い。あいつらの形を思い出すだけでも、凄く嫌な気持ち。だから、それから会ったトレーナーのポケモンは、ボコボコにしてやったの。でも、そんなことじゃ私の気は収まらなかったのよ。人間に私の気持ちを分かってもらうなら、同じ目に合わせるしかないじゃない』
 モモはぐっと拳を握った。
『それで、僕をこんな姿に?』
 コールは聞く。こくり、とモモは頷く。
 急に、モモの身体は硬直した。口をもごもごと動かしながら、目はどこにも焦点が合わなくなる。その理由を聞こうとしたが、その原因に察しはついていた。声だ。荒っぽく草をかき分けながら、下品に話す声が聞こえたのだ。とても苛立っている様子で、片方は怒鳴り、片方は投げやりな口調だった。
「だーかーらー、一番道路には入って行ったんだろ?」
「そこまでは見たけど、それ以上は分かんねぇよ。森の奥の方へ行ったんだ」
「じゃあこの辺りにいるんじゃねぇか? 早く見つけろよ。そろそろレンジャーの奴らも気付いてんだ。バレたら俺もお前もどうなるか考えても見ろよ。ヤだろ? 分かったらさっさと探せ」
「分かったよ。チッ」
 怒鳴っている方の声には聞き覚えがある。ヒヒダルマを使ってきたあのトレーナーだ。自分を倒した後何処かへ去ったかと思ったが、戻って来たのか。あまり彼の姿を見たくないな、とコールは思った。モモの怯えようからしても、鉢合わせすることは避けたかった。人間達との距離はまだ遠い。コールはモモの肩を抱き、身体を隠せそうな草の陰に連れて行った。何処かへ行ってくれ、と必死に願いながら、草をかき分ける音を聞きとり続ける。自分たちとの方向とは離れていく。
『大丈夫?』
 コールは聞いた。
『大丈夫』
 そうは言ったものの、快調とは言えそうにない顔をしている。モモはその場にしゃがみこんだ。コールもそれに合わせる。
『あいつら、何者?』
『私をバトルのサンドバッグにしたやつと、育てたやつ。何でこんな所に』
 モモの声は震えていた。怒りと恐怖が混じった声を、絞り出すように発する。
『きっと、モモを探しに来たんだ』
 見つからないように、コールは二人の姿を覗き見た。モモは口をぎゅっと固く結んで、視線を落としたままだった。二人の男はそれぞれに草むらをあさっていく。ミネズミが一匹驚いて飛び出したが、そんなものは意にも介さず、手当たり次第に草むらを覗き見ていく。まだコールとモモの隠れている場所とは程遠い。
 モモの話を思い出して、彼女の見た彼らの姿を想像した。抵抗も出来ないのに、執拗になぶられ続ける毎日。怖かったし、悔しかったろう。コールは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。
『よし』
 コールは力強く言った。二人の姿を見ながら巡らせていた思考が、一つの終着点を見つけた。コールはモモの手を両手で力強く取り、彼女の顔を見てにんまりと笑う。モモの視線がゆっくりとコールの方へと向けられる。
『今からさ、あいつらに一泡吹かせてやろうぜ』
『えっ?』
 モモは問い返す。コールは続ける。
『本当に君が許せないのはあいつらなんだろう? だったらあいつらに一泡吹かせてやらなきゃ、意味がないじゃないか。なあに、バチは当たらないさ』
『でも、あいつらの強さは半端じゃない。私なんかすぐにボコボコにされちゃうんだよ。三回もわざ食らったら立ってられないもの』
 モモはコールの手をぎゅっと握った。
『本当は、本当はあいつらに仕返ししてやりたい。でも怖いの。もし失敗して捕まったら、またあそこに戻らなきゃいけない。そういうこと、どうしても考えちゃって止まらないの』
 モモはぎゅっと目をつぶった。彼女の小さな手が震えているのが分かる。だが、コールは胸の内から、その手を止められるほどの勇気がふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。
『大丈夫さ。僕がついてる。僕は君を、助けに来たんだ』

 コールは作戦をモモに伝えた。やることは単純で、コールが二人のポケモンを相手取り、二人がバトルに集中している間にモモが後ろから一発かますというものだ。控え目に言えば作戦と言うには程遠いものかもしれない。成功させるには、タイミングと、素早い行動がカギだ。
『本当にコールが囮でいいの? あなたをこれ以上危険な目に合わせるわけにはいかないわ』
 それを聞いて、コールはぐっと目をつぶって笑った。
『いいんだって。イメージトレーニングはばっちりだからさ。君がうまくやってくれたら、どれだけ傷付いても僕は助かる。だから、頼んだよ』
 コールはモモの肩にぽんと手を置いた。

 がさがさという音が近づいてくる。手当たり次第に探す二人組の片方が、そろそろモモとコールを引き当てようとしていた。目の前の草がかき分けられたその瞬間、コールは飛び出した。あたかも、音に驚いてあわてたポケモンであるかのように。
「おわっ」
 やせ型の男は思わず声をあげた。思い切り跳び上がったコールの身体は男の横をかすめていく。しかし勢い余って着地に失敗し、腹から地面に突っ込むコール。草がクッションとなり、痛みやダメージは殆どないのが救いだった。ゆったりとした動作で立ち上がり、男の方を見据えた。ヒヒダルマを使ってきた方のトレーナーだ。
「おい、タブンネいたぞ!」
 男は遠くの草むらを漁るもう一人の男に向かって叫んだ。
「ホントか!」
 妙に嬉しそうな声に、嫌らしい期待が混じる。ヒヒダルマを使うトレーナーの方へと走ってくる。コールは彼ら二人が固まって、ちゃんと自分の方に意識が向けていることを確認した。
「いいか、絶対に逃がすなよ」
 指示を出す男。こっちが、モモをサンドバッグ用に育てた張本人か。コールはひとりごちた。
「分かってるよ」
 上から見下ろす二人の男の視線が重力となって襲いかかる。二人はモンスターボールを取り出し、投げた。出てきたのは、ヒヒダルマとズルズキン。
 ヒヒダルマはコールの姿を見て、あらと呆れたような声を上げる。
『またアンタ?』
『知ってるのか』
 隣のズルズキンが聞く。
『こいつさっきボコボコにしてやったばっかだし。チキンで頭がおかしいの』
『ふーん』
 またこちらに向き直る。どうやら、ポケモン同士は別種族であっても個体の区別がちゃんとついているらしい。とは言え、こいつらにはそれをトレーナーに伝える手段が無いし、見たところそんなにトレーナーの意図を気にする様子でもない。コールはにやりと笑った。果たして効くのかどうか分からないが、試してみる価値はある。

「ヒヒダルマ、ばかぢから!」
「ズルズキン、裏に回ってとびひざげり!」
 二人が指示を飛ばしてくる。ヒヒダルマがハンマーのような腕を振り上げる。その間に、コールの背中に回り込もうとするズルズキン。挟み撃ちだ。
 一度でも技を食らってしまったら、痛みで動けなくなるのは目に見えている。コールはヒヒダルマの方を向きながら、聴覚を研ぎ澄ませた。ぎりぎりヒヒダルマの腕が当たらない距離を保つ。
 後ろの方で、空気の流れが変わった。土を蹴る音がする。ズルズキンのとびひざげりが間違いなく近づいてくる。右か左か、自分もどちらかに跳ぶしかない。コールは右に跳んだ。その瞬間、左腕にぴしゃりと鞭打つ感覚が走った。ズルズキンのとびひざげりが、腕に当たったのだ。だが、幸運にもかすめただけに終わる。少しひりひりするが、まだ動かせる。
 ズルズキンは勢い余って、ヒヒダルマの方にとびひざげりを飛ばしてしまう。
『邪魔!』
 苛立ったような声を上げたヒヒダルマ。
『おい、や、』
 やめろ、とズルズキンが言う前に、ヒヒダルマは腕を振り下ろす。がん、と鈍い音が響き、ズルズキンは地面に叩きつけられた。起き上がって来ない。戦闘不能だ。
「おい、何やってんだよ」
 ズルズキンの方のトレーナーが怒鳴る。ヒヒダルマの方のトレーナーも態度を硬化させ、返事をせずにヒヒダルマに怒りの矛先を向けた。
「馬鹿野郎! 何やってんだヒヒダルマ!」
 ヒヒダルマはふんと鼻息を鳴らした。起き上がったコールは、軽いショックを受けた。こいつら、チームワークがまるでなってないじゃないか。自分のやりたいようにワガママをやっているだけ。哀れ過ぎて、逆に愛着さえ湧いてきそうだ。
『君は、僕を倒すのかな』
 コールがしっとりとした声で言うと、ヒヒダルマはコールの方を注目した。ヒヒダルマは間延びした声で答える。
『あー、そうなんじゃない? 経験値ちょうだいよ。いっぱいくれるんでしょ』
 コールはふっと笑うと、ヒヒダルマの顔にそっと近づいた。
『経験値よりもっといいもんあげるぜ』
 コールはヒヒダルマの口に、自分の小さな手を当てる。そして両手をヒヒダルマの身体に乗せ、体重をかけてヒヒダルマの額にキスをした。それは桃色の光となって、触れた部分から徐々にヒヒダルマの身体を覆っていく。
『愛してるぜ』
 この高めの声からするに、きっとこのヒヒダルマはメスだろうという確信があった。だからこのわざ、メロメロは効果があるかもしれないとコールは考えた。
 しかし試しにやってみたら、まさか本当にポケモンのわざを使えるとは。桃色の光が出現した瞬間、やってみるものだなとコールは心の中で苦笑いを浮かべ、ポケモンの身体の不思議を実感した。ただイメージを浮かべてみただけなのに、どうしてこんなことが出来たのか、コールにも良く分からなかった。
「おい何してんだ、さっさと攻撃しろ!」
 後ろの方でトレーナーのどちらかが叫ぶも、その指示にはどちらも従わない。ズルズキンはヒヒダルマのばかぢからのとばっちりを受けてダウンしているし、ヒヒダルマの顔はコールを見つめてはいるものの、妙にぼうっとしている。メロメロの餌食になってしまったのだ。
『おやすみ、お譲ちゃん』
 と、コールは大きく口を開け、大きなあくびをする。ふわぁあ、という気の抜けた声が、三匹のポケモンの間に響き渡る。ヒヒダルマの目はしばたいて、やがてその場にこてんと倒れてしまった。

『さて』
 コールは振り返る。無傷なのに倒された二匹の手下をボールに戻し、次の手を探そうと腰に手を伸ばす。コールは一歩、また一歩と二人の男に近づいていく。
「みっ」
 人間にはこう聴こえる声で、コールは鳴いた。それにはっとして、二人の男は顔を上げる。その顔はどちらもひどく歪んで、しわくちゃだった。コールは目を閉じて、大きく息を吸い込んで、右手を口に当てた。
 二人の焦ってボールを探す手が段々とゆっくりになり、頭の位置も不安定になって、前後に揺れ始める。その揺れは次第に大きくなっていき、まぶたも完全に閉じていた。後ろからもう一匹のタブンネが姿を現したが、この男達はもう気付くまい。眠くて眠くて、もうきっと音も聞こえないはずだから。
 乱暴な音を立てて、二人の男は地面に倒れた。もう一匹のタブンネ――モモが頭のそばに立って見下ろしても、反応はない。
『こいつら、気付かなかったのかな』
『気付いてないと思うよ。ぐっすり眠ってる。シンプルビームが効いたみたいだな』
 コールが戦っている間、モモは物陰からずっとシンプルビームを少量ずつ二人に浴びせ続けていた。知らず知らずのうちに二人の思考や判断力は甘くなっていき、あくびを見せると身体が過剰反応するほどになっていたのだ。
 モモは一度だけ、コールの顔を見た。コールは大きく頷くと、モモはまた二人の男の寝顔を見下ろし、そっと両手を彼らの頬にくっつけた。そして、人間はどこにもいなくなった。

『今晩中に、コールは元の姿に戻れると思う』
『本当?』
 ぐっすりと眠りについた二匹のタブンネを遠巻きに見ながら、モモとコールは川べりに座っていた。もともとタブンネ達が身に着けていた衣服や道具は全てはぎ取られ、コールの手元に置いてある。
『なかまづくりの効き具合は自分で調節できるの。あなたにかけたわざは三日分くらいだから、そろそろわざが解ける時間のはずなのよ』
 シンプルビームによって記憶を無くして暴れ回っていた日が二日。捕獲されて、今日が三日目、というところか。
『そっか。こいつらの服を持ってきたのは正解だったかもしれないな。さすがに人間に戻ったら、裸じゃあいられないしね』
 コールは白いポロシャツをつまんで持ち上げる。顔を近づけて、においをかいだ。とりわけ嫌な感じはしないので、大丈夫そうだ。コールは大きく頷く。モモは呆れて、肩を落とした。
『あいつらはどれくらいあの恰好のままなの?』
『二日ぐらい、かな』
『僕より短いじゃんか』
 コールはおどけて言ってみたが、モモの顔は真剣そのもので、少し涙を浮かべていた。
『私、あなたをそんな姿にするまで人間なんてどうなってもいいと思ってた。誰でもいいから、滅茶苦茶にしてやりたいって思ってた。だけどそれは、当り前のことなんだけど、違うんだって気付いたの。滅茶苦茶にされた分だけ、辛い思いをするのは誰でも一緒なんだって。私は、あの二人に私たちの痛みを分かってもらいたいだけ。あなたのこともあってちょっと気が引けてたこともあるけど、二日もあればきっと十分な分かってくれるはずだと思うから』
 川が夕日に照らされてきらきらと輝くのが目に入った。そうだな、とコールは答えた。
 太陽が沈み、空の色が橙から藍色に変わると、周りの音まで変わった。川の流れる音だけだったところに、どんどん虫の鳴き声が重なっていく。生き物たちが活動を終えようとフェードアウトする空気の振動に変わって、別の活動が始まる音だ。コールはこの瞬間が好きだった。一度終わりかけたものが、何か別の力によって形を変えられ、魂が自由に飛び回れるようになる。そんな予感がするからだ。レンジャー活動が夕方終わってもあえて夜になるまで帰らなかったために、所長に怒られたこともあった。
『コールは人間に戻ったら、どうするの?』
 モモは聞いた。
『そうだな……まずは帰って所長に報告しないと。今僕は行方不明ってことになってるわけだし、みんな心配してるだろうから。モモはどうするの』
 コールの質問に、モモは答えが見つからない様子だった。
『どこにも行くところがない、か』
 モモは頷く。
『じゃあさ、僕と一緒においでよ。実を言うと仲間のポケモンが一匹しかいなくてさ、結構カツカツだったんだ。君みたいなのが居てくれると凄く嬉しい。だから……どうかな』
 コールは笑みを浮かべた。モモの目は一瞬見開かれ、少し伏せられる。
『本当に、いいの?』
 一言一言、確かめるようにモモは言う。コールは大きく頷く。
『もちろん。だって言ったろ? 君を助けに来たんだって』
 大きな笑顔を浮かべて、コールは右手を差し出す。出してすぐ、よく考えたらタブンネは握手なんてするのか疑問に思い、軽率だったかと引っ込めようとした。しかし、モモはその手を両手でしっかり取って、ぐっと握った。
『ありがとう』
 両手は肩の方へ回り、モモはコールに飛びついた。耳のひだにモモの顔が触れて、彼女の心の音がはっきり聞こえた。彼女の中から怯えるような不安の音は、もう聞こえてはこなかった。
 音が消えたと思って目を開けると、目線がさっきより高くなっていた。自分に抱きつくミミの足が地面から離れて、抱っこをしている形になる。彼女の身体は、ずっしりと重たかった。コールは長くなった腕で、しっかりと抱きしめた。
 近くで、タブンネの悲鳴が二つ上がった。何と言ったのかは分からないが、きっと想像を超える悪夢が身に降りかかったのだろう。



「いやー、今日もありがとうございました。こういうこと頼めるの、やっぱりフィデルさんしかいないですよ」
 コールは頭をかきながら笑い、カップの中のコーヒーを飲み干した。カラクサタウンの坂の上に立つ喫茶店の中で、コールはフィデルと向かい合って話していた。仕事の上でタブンネを捕まえる育てることにしたのだが、タブンネはどうやって育てればいいのか良く知らないので教えて欲しい、という体で会うことにしたのだ。話し始めはぎこちなかったコールも、何とかタブンネのことで話を盛り上げていくうちに、すっかり打ち解けた雰囲気で話すことが出来るようになっていた。
 モモとの出会いに関して、具体的ないきさつは話さなかった。まさか先日捕獲して家に連れ込んだタブンネが自分だったなんて言い出すわけにもいかない。それに、何よりこの話の詳しいところはモモと二人だけの秘密にしたいと思っていたからだ。
「いやいや、全然気にしないで。私で良ければ、いつでも呼んでもらっていいんだよ」
 フィデルは微笑み、コールを見つめた。そんなに真っすぐ見つめられると、直視できない。コールははにかんだ笑みを浮かべて、視線を下にやった。背中がきゅっと小さくなる。
「は、はい、ぜひ」
 しどろもどろになりながら、コールは返事をした。改めて、自分はまだまだ敵わないなと思った。
「うちのミミも喜んでるみたいだしね」
 フィデルはちらと横を見る。ミミとモモが、何やら楽しそうに話しあったり、お互いの顔をぺたぺた触り合ったりしている。どうやら二匹は気が合っているらしい。
「あ、ごめん、そろそろ行かないと」
 フィデルは腕時計を見て、かばんを手に取った。
「いえいえ、今日はありがとうございました」
「どういたしまして」
 フィデルはミミをボールに戻し、コールの後ろにはモモが後を追い、喫茶店を出る。階段を先に降りたフィデルは、途中でコールの方に振り返った。
「それじゃあ、ここで。楽しかったよ」
 フィデルはレンジャー用の帽子を被った。これからまた、自分の仕事へ向かうのだと言う。
「あの、もし良かったら、またお話聞かせてくれませんか。モモもミミのこと好きみたいですし」
 コールはモモの頭を撫でてやる。モモはフィデルにお願いするように見上げていた。フィデルはモモに微笑みかけ、またコールの方を向いた。
「いいよ。また誘って。それじゃあ、また」
 フィデルはコールに手を振り、振り返って坂を上っていく。颯爽と、真昼の太陽のもと、光輝く白い道を真っすぐ歩いていく。その姿が恰好良くて、自分は彼女に憧れているのだ。
「さすが、決まってるなぁ」
 フィデルの姿を見つめながら、ぼそっと呟いた。また誘ってと言われたことが夢のようで、今いる場所が現実なのかどうか分からなくなりそうだった。
「あっ」
 コールは声を漏らした。フィデルの上る道が、さっきよりも高いところまで続いているように見えた。その道は、遥か空の向こうまで、煙のように高くまで伸びている。まぶしさに瞬きをした瞬間、その道は消え去っていた。
 自分の頬をぴしゃりと叩き、両手を上に伸ばす。
「僕もまだまだ、これからだ」
 空は良く晴れていて、気持ち良かった。そろそろ自分も一番道路に戻ろう。フィデルに見合う男になるために。
「あ」
 坂を下っていると、細い路地に一匹のモグリューがきょろきょろと辺りを不安げに見回しているのを見つけた。路地に少し入り、辺りに誰もいないことを確認してから、モモの耳元でぼそっと呟いた。
「いつものあれ、頼むよ」
 コールは手をモモに差し出す。モモはこくりと頷くと、コールの手に触れた。一瞬のうちに背が縮み、コールはタブンネに姿を変える。
『こんにちは。こんなところに一人で、どうかしましたか』
 コールはモグリューに声をかける。
『あ、タブンネさん……どこでどう間違えたのやら、私、迷子になってしまったみたいで……お腹も空いたし、もうどうしようかと』
 がっくりと肩を落とすモグリュー。
『大丈夫ですよ。任せて下さい。僕はあなたを、助けに来たんです』
 コールはにっこりとほほ笑んだ。



乃響じゅん。 ( 2012/09/01(土) 08:00 )