6話 ひとりぼっち
「おはよー、元気?」
「元気だな、お前は」
「寝たら治ったってわけで、俺は平常運転でーす」
くるりと一回転し、遅れて追いかけてきたスカーフを手で捕まえて、エルファはにやっと笑う。完全にいつも通りの彼だった。
対してのアルトは一切の回復の兆しがない。むしろ体力が消耗しきるのも時間の問題になってきたから、昨日よりも気持ちは苦しいくらいだった。そんな中自慢げに回復報告されても素直に祝えるわけもなく、アルトはもう帰れ、とばかりにエルファに背を向ける。
相対的にとても元気な今日のエルファは、アルトの気だるげな様子をじっと見つめた。
「もしかしてなんだけどさぁ、未来世界って風邪とかなかった? 免疫機能ある?」
突然そう言い出したエルファに、ラスフィアは「そんなことは」とやんわり否定する。
「帰ってきた団員が熱出して寝込むことは」
「それ風邪じゃなくて疲労だと思うんだよねぇ」
元々生存するポケモンが限られた世界だ。生物に宿るその類のものは衰退していてもおかしくはない。
そして衰退しているとあらば、伴ってポケモンたちの免疫機能だって衰退する。生まれた時から無菌室に居ては抗体を持てないのと同じことだ。
「いやあのね、免疫機能ないってことならさ、治りにくいってのもそうだし……そこの未来出身のおふたりさん移されたらまずいんじゃ?」
「……」
エルファとしてはその点がかなり心配だった。移るのももちろん、その後で重症化しないだろうか、長引かないだろうか、と。
しかしラピスはそんなもん知らんとふいを顔を逸らした。ラスフィアも知識の中で粘ってはいたが、実感のわかない話なのでなかなか納得に辿り着かず発言しないままである。
どう付け加えるべきか。長いスカーフをなぞるエルファの横で、しかしシイナは勢いよく床を叩く。
「いや、それ以前に! アルトは昨日ちゃんと寝たの?」
「寝れねぇよ、こんなんで」
「わかるけど寝なきゃダメだからね!? 治るものも治らないから!!」
シイナは彼を横にするためにぐいぐいとアルトの肩を押すが、無理をさせまいと手加減をしているために寝かすには至らない。アルトとシイナの攻防を頬杖に手を当てて眺めながら、エルファはぽわんと言う。
「あ、移して治すっていう方法は実際にあるんだけどさぁ」
「……あれ、今の話の流れだと」
ようやく″風邪がうつる″のイメージがついて、ラピスとラスフィアも先程のエルファの言葉に立ち返る。自分も体調を崩すのはあまり望ましいことではない。かといって完全に別室で過ごすのも心配が勝って不可能なのだが。
そんなことより、エルファの発言によってリズムがにこにことご機嫌模様になりつつある方が顕著だった。
「ヴェレちゃんがやるやつだぁ」
「いつものねー?」
エルファもにやにやとして、口元に手を添えた。
「いやほんとうちは被害者だからぁ! ヴェレは風邪うつす天才でしょ!?」
「俺たちうつされたことないでーす」
「普段はエルファとかリズムといるくせに! 風邪引いたときだけうちにべったりになってうつすんだよ!? 酷くない!?」
徐々にボリュームアップするシイナの声は、低調なアルトの頭には受け入れがたかった。じわじわと広がる痛みに耐えかねて、アルトは仰向けに寝転がった。
「うるせぇんだよ、いつも以上に」
「ごめんなさい……」
そう囁いてしょぼくれるシイナに目をくれてやる余裕はない。目を腕で覆って、自分の肌の熱さを知る。
「お前さ、……どうせ移ったんなら、全部貰ってくれりゃ良かったじゃねーかよ」
「いやそんなコントロールできるもんでもないからね……? あと俺で治そうとしないでね?」
「そうじゃねぇけど、……なんでもね」
「さすがに何言おうとしたか察せないよそれ?」
早く治りたいのは本当だった。体の節々が痛くて熱いし、歩くだけで息切れするほどに体力の消耗が激しい。こんな状態とは一刻も早く別れたいことは事実だった。でも、それ以上に、夢が鮮烈で痛烈になるのがアルトには耐え難かった。
(あの星の停止の夢、今まで以上にはっきりしてやがる)
それが経験した思い出だけならまだ良くて、ifの世界論まで語ってくるのが相当にタチが悪かった。
時限の塔で自分が目覚めずに泣き崩れるリィ、星の停止に巻き込まれて幻の大地で立ち尽くしたままのラピスとラスフィア、それが正しかったと自分の手を取るヴァイス、全てを認められないマリーネオ。
セレビィを目覚めさせられなかった未来で、抗いようもなく悪夢に沈む――。
「思ったんだけどぉ、チコリータって風邪治すのできないの? 状態異常治すのは得意だよねぇ、風邪薬みたいなのもどうかなぁって」
「え、あっ……できる、かも? あのね、私、小さい時はよく風邪引いててね、お薬は苦くて飲めないから、アロマセラピー使ってもらってたの」
そんな声にはっとして、アルトはちらりと発言者を覗いた。暗い霧に沈む思考に、やわらかな光が射した気がしたから。
「先に言えよ」
「ご、ごめんねっ! でもね、お薬ほど効くわけじゃないし、ママは上手なんだけど、私は詳しいやり方はよくわからなくて……。それでも良ければ頑張ってみるけど、上手くいくかは」
いつも以上に早口で、普段よりも自信なさげなリィの様子でも、アルトは独り言のように口を動かす。
「……少しでも楽になれるなら、十分だから」
「う、うん。頑張ってみるね……! えっと、こう、かな……!!」
リィはアルトの手をそっとツルで取った。彼女が力を込めるのと共に部屋には優しく、しかし爽やかな花の香りが漂う。
慣れなくて、新鮮で、それでいて心地よい。瞼を閉ざすと、今までに見た花々の全てを一面に描いたような景色が思い浮かぶようだった。そんな景色に身を預けたアルトの意識は、たちまち深く沈んでいく。
うっすらとまどろみながら進んでいくと、花も草も見えなくなって、何も感じなくなって、そう思った矢先に何か聞こえてきて、何の色もなかった景色は灰色に色づいて、よく見るとさっきの花畑もそれを照らす空も全部同じ色で――。
寝息を立てるや否や、リィのツルを振り解いて、アルトは横向きに丸くなった。
「ご、ごめんね、うまく治せなかったかな……」
リィは振り解かれたツルをしまうのも忘れ、不安げにつぶやいた。その横をするりとすり抜けたリズムは、アルトの額にちょんと手を乗せた。
「んん、熱は下がってるんじゃないかな。上出来だと思うよ〜。それよりはたぶん」
「……ほしの、ていし」
「やっぱり……かなーり気に病んでるよねぇ」
リズムは皆の方に振り返り、首を傾げた。
「他のみんなはどうなのさぁ? 何か今も気に病むこと、あるの?」
「フルート」
「解決したんじゃ!?」
「でも嫌なもんは嫌なの……っ。一生、許さん」
「俺と倒しに行くー?」
「行く」
「即答!! えっこれ止めた方がいいのどうなの!?」
静かに視線を交わしたラピスとエルファの思いは随分と強固なようで。ふたりとも一度抱いた感情を手放さないタイプだ、さすがのシイナも迷わず止めるのを躊躇ってしまう。
場が静かになってから、ラスフィアも瞼を閉じて口を開いた。
「……私は特にない、かな。アルトが今でも思い詰めることとしたら、リィちゃんをひとりにしたことくらいかと思うけれど」
「う……」
「むしろ、それ以外に思い当たらない。私たちと離れた後、時限の塔にいる間には何もなかった……というか、まぁ後々まで思い悩むほどのことはなかったでしょう?」
「う、うん。時限の塔登って、ディアルガと戦って、それで……あ、あれ」
引っかかるものがあって、リィは言葉を止めた。何か忘れていることがあるはずなのに、ちゃんと辿ってみてもその違和感が入る余地が見当たらない。リィの心はもやつくばかりだ。
「あれ、ディアルガと戦って、て……でも時の歯車はちゃんと嵌められたから、みんながいなくなって、わたしひとり、で……だよね。合ってる、よね」
何度考えてもそれしかないはずなのに、それで合ってるはずなのに、なぜ、こうも、手に届かないものがあるような感覚がするのか。なぜ、不安になって、手が震えそうになるのか。何か忘れていないか、と聞ける唯一の相手は今聞ける状態ではなくて。リィは目を泳がせた。
「ま、その辺は起きてから確認すればいいと思うよ? それより俺さー、独り言でだけここまで言うのがなんかなって思うね」
戻ってきてからのアルトは、ある意味で前の通りだった。
「そこまで思い詰める? とは言わないよ、過ぎたことだとしたってさ。でもさぁ……ラスフィアに黙ってんなとか怒ってたんじゃないの? 今になってもまだ、一人で黙り込むんだ?」
エルファはアルトの首元に指を立てた。
気が付けば辺りは暗かった。
あの後すっかり深く眠っていたようだ。夢も見たような気はするが、あまり多く記憶に残ってはいない。朝からこの時間までとなると相当な睡眠時間だが、その甲斐あってか身体は随分と軽くなった。
身体を起こし、部屋の机に置かれていた水筒を手探る。熱が出ている間は水分を取れ、というのは、シイナから聞いた知識を口酸っぱく言うラピスの影響で、この機会に随分と染みついた行動だった。
「ん……あ、おはよう。どう、かな?」
聞こえた声の方に目を向けると、ランプに照らされながら柔らかく微笑むリィの顔があった。
「だいぶ楽になった。……ありがとう」
「ううん。良くなったのが一番だよ。それにしても……本当、アルトの言う通り、早くやれば良かったね。そうしたらもっと早く落ち着いたのに……ごめんね」
「いや。こっちこそ、ずっと依頼とか任せてたから」
アルトは口いっぱいの水を飲み込む。冷たい水が口を、喉を、冷やしていく感覚に心地よさを覚えながら、部屋を見渡した。
「ラピスは……いない?」
「あ、うん。ラスフィアの部屋行ってる。出て行ったのは少し前なんだけど……すぐ戻ってくるか時間かかるかはわからないなぁ」
アルトは一旦息を潜めて周囲の部屋の音を探った。が、ラピスもラスフィアも声が大きいタイプではないし、聞こえるのは他の部屋から聞こえてくる歓談ばかりだった。
「そういえば、あの、今日ね。ちょっと気になったことがあってね。えっと……時限の塔に行ってからのことなんだけど」
「…………」
ちょうど、アルトも聞こうとしていたことだった。リィに視線を向けて、次の言葉を待つ。
「時限の塔に登って、ディアルガ倒して、時の歯車納めて、その後でアルトとお別れして……で、いい、よね? 今日みんなとお話ししてたとき、何か違和感があって……アルトならわかるかな、って」
アルトは目を伏せて小さく息を吐いた。ここまで、聞こうとしていたことをそのまま、向こうが話題提起してくれるとは思わなかったのだ。
「なぁ、リィ。星の停止って、誰かが起こしたものだと思うか?」
「ええっ。ど、どうなんだろう」
唐突な質問に困惑しつつも、リィは真剣に考えを巡らせた。
「時限の塔が壊れちゃったのが原因だったよね。なら……うーん、わからないけど、誰かが技を当てるとか、そんなくらいで簡単に壊れるものじゃないと思うよ。だから誰のせいでもないんじゃないかなぁ」
彼女の言い分はわかる。でも、″彼女″がそれを言うはずがない。たとえ、少しの時間をおいて記憶が薄れたとて、完全に忘れるものとは思い難い。
アルトは一度深呼吸をして、俯いたまま問いを重ねる。
「……俺が、星の停止を起こしたのって」
「怖い夢見たの……? 大丈夫だよ。アルトはちゃんと星の停止を食い止めてくれたんだよ。私、ずっと隣にいたもん」
リィは優しく告げると、アルトの横にちょこんと座りにきた。
「今日はね、ピカチュウみたいな形の雲を見つけたんだ。あとはそうだなぁ、トレジャータウンにね、この時期だけの花が咲いてて可愛かったの。治ったら一緒に見に行きたいな」
楽しげに語ると、リィはまっすぐにアルトの目を見て、にこっと笑いかけた。
「やっぱり私、アルトと星の停止を食い止めることができて……今まで通り時が流れているの、すごく嬉しいなって思うよ」
やはりそうか。違和感が解けて、むしろ安堵感に包まれる。
(「俺が起こした」星の停止の記憶を、失ってる)
アルトからしたら、消滅から復活した自分たちのことをリィが覚えていてくれたことは喜ぶべきことだった。いや、アルトからではなく未来組から。リィではなく過去の世界の皆が。
何せ未来世界は消えたのだ。自分がいた痕跡、すなわち自分たちに関する記憶がまるごと消えたとしても、アルトは運命を呪いはしなかった。むしろその方がリィは楽になれるだろうとは思った。
一方で、自分が作った未来のことを、唯一知っているはずの彼女がその記憶を失っていることは、その未来を自分一人で抱えることとなるわけで。
「……苦しい」
自分の作った暗黒の未来は過去のもの。
しかしその未来への思いはずっと背負い続ける覚悟はできていた。
でも、それを吐き出せる相手はいない。唯一共に歩んだ上でここにいたはずのリィも、こうなっては苦しさを共有できない。
自分の中だけで燻って、影を落として、首を締めて、脳を止めて、暗がりに落ちて瞼を閉ざす。
「えっと、あの、私で良ければ聞くよ? みんなが消えちゃうのは確かに言いにくかったかもしれないけど、でも……私、今度は、ちゃんとアルトの力になりたいよ」
既視感、追想、未来、この場所。
結局どうあがいても結論は同じだ。
つらいんだよ、やさしくされるの。
声になんかできない。ましてやあの未来を忘れたリィにこれを言って、何が前に進もうか。全部話してあったことを言って「あったんだ。信じて」、そう言えばいいのかもしれない。でも、先程のリィの「ずっと隣にいたから」を聞くと、ラピスたちが見た幻覚の話も相まって、単に記憶を失っているだけではないのかもしれないと不安がよぎる。だから、言えない。
まぶたの上に腕を乗せ、背中を壁に預ける。真っ暗で狭い視界の中で、暗黒の未来は何度でも蘇る。誰かの作り物で、遊び舞台でしかなくて、なのに守らなきゃいけないなんて思ったあの未来を。
全てがまやかしだと、自分の悪夢に過ぎないのだと、そう思い込んで記憶を塗り替えられたのなら、まだ少しは気楽になれたのだろう。
どうせ言えないのだから、優しくしないでほしい。
ガラスの向こうで差し伸べられる手が一番苦しいのだから、なんて。
それならあの暗黒を繰り返すだけだ。思い切って、アルトは自らの閉じた口をこじ開ける。
「……嫌な夢見たときって、どうしてる?」
「え、えっ……と、ぅ」
「リィ?」
目に見えて狼狽えるリィに、アルトは思わず手を伸ばす。その手は彼女の手に触れる前に、音もなく下ろされたのだが。
「嫌な夢、って言うの、よくないかもしれないんだけど……あのね。私、ひとりぼっちの間、みんなが消えちゃったときと全く同じ夢見たり、戻ってくるんじゃないかって夢を見たりしてたの。そのときは、ね。……え、えっと、ね」
「……わかった、ありがとう」
それ以上聞けなかった。震える声に、これ以上の言葉を乗せさせるのは酷であるとわかったから。
リィだって辛かった。辛くて辛くてどうしようもなくて、そんな彼女の様子は周りから痛いほど聞いた。
「まぁ、声はかけられないよね? ……俺なんて特に、さ」
「本当に顔合わせなかったなぁ。夕方に散歩に行くのはよく見たけど……帰ってきたときに明るい顔してたってわけじゃなかったし」
「どうしてほしいかはわかるんだけど、うちらじゃどうしようもなかったからさ……」
ある日、そう語ってくれたフリューデルの言葉は、優しい語り口のはずなのに胸に深く刺さっていた。
(もう、大丈夫だから)
そんな思いを、繰り返してもらうくらいなら。
どうせ自分が起こして自分が消した未来のことだ。ひとりぼっちで背負う方が、道理じゃないか。
そう、消滅の話は自分ひとりの問題じゃなかったから言わなかったことを責められたって文句は言えまい。でも、これは全部全部、ひとりだけ知らない、覚えていない話だから。
首元に両の手を添えて。
「夢なんか、あんま見たくねぇよな」
そうやって、笑ってしまえ。