20話 谷底の怪物
「あああぁもうおなか痛い……緊張かなぁ。うう」
――ダンジョンに入ってからもこの調子だ。
ナガレからここ、沈黙の谷に潜む怪物のうわさを聞いたシルムは、すっかりその怪物に恐怖し、ダンジョンに入るのさえ長々と愚痴を言って躊躇っていた。
しっかりしていて、依頼を奪われるようなことがあっても勇敢に相手に立ち向かっていたシルムだったからこそ、この反応はレントにとって意外だった。
「シルム、そんなに怪物とか苦手?」
「え、うーん……。いや、怖いわけじゃないよ。怖くはないけど、でもすっごく恐ろしいヤツみたいじゃん。しかも怪物ってくらいだし、絶対強いじゃん。戦って勝てるかもわからない。すごく危険。オレたちだって小型ポケモンだから食べられちゃうかもしれないし、本当に何されるかわかんないんだよ。だったら行きたくないって思うのが普通だと思うんだよね。うんいる可能性がある時点でダメだよ、やっぱりここは来ちゃいけない場所なんだよ」
語りを聞く集中力はこのあたりで途切れた。それから、とまだシルムは延々とその先を紡ぐが、レントが興味をなくしていることには気が付いていない。
(怪物……。ポケモンだと思うけど)
どんな生き物だろうとレントは夢想に耽る。せっかくポケモンになったわけなので、相手がポケモンで会話できるのならきっと楽しい。それはそれとして、ポケモンではない一風変わった怪物だとしても興味を惹かれる、シルムには悪いが。
「ねぇなんで笑ってんの」
「ごめん。怪物が気になるなって」
「笑い事じゃないよね!?」
あまりの剣幕にレントはびくりと跳ねあがってしまう、
「ご、ごめん」
「あぁうん、オレもごめん。……うぅ、なんでレントはそんなに平気なのさぁ」
見てすらなくてこれだ、実際に遭遇したらどうなるのだろうとレントは不安に駆られる。彼がこれでは怪物と戦える気もしない。やっぱり怪物とは会いたくないなと思い直して、レントは行く手を阻むカモネギを見据えた。
怪しい森に比べたら視界は広いし階層も少ない。ひときわ広い空間に出た、すなわちダンジョンを抜けたときに「こんなものか」と首をかしげたくらいだった。
耳鳴りしか聞こえないほど静かな谷だった。冷え込んだようでぬるいような、淀んだ空気にシルムは身震いする。
「本当に怖いのはここからなんだよね……」
「えっと……。あ、そう、ワタッコ!」
話をうまく繋げないと悟ったレントは、くるりと辺りを見渡した。一面の岩肌の中で、しかし一点にだけ白色が見えた。よちよちと近づいてくるそれに、レントもシルムも駆け寄っていく。
「あ、あの、救助隊の方ですかっ」
両手の綿で体を抱きながらそう聞いてきたのは、紛れもなくワタッコ。探していた相手で間違いなかった。レントはそっと手を差し出して微笑んだ。
「そうだよ。良かった、無事だったんだね」
「はい。でも、か、カザカミさんが……」
「カザカミが? 何かあったの」
シルムの真剣な顔を見て、ワタッコは谷の奥を指し示した。レントとシルムは一目散にそちらに走っていく。
甲羅を背負って短い脚で走るには少々長い距離だった。ひりひりとする喉元を抑えつつ、レントはそこに横たわる白い影に目を丸くする。
「カザカミ……?」
純白の毛並みの両側から伸びた二つの葉のうちわが、彼が救助に向かったダーテング、カザカミそのものであると告げていた。
ぽかんとするレントとは裏腹に、シルムの行動は早かった。すぐに駆け寄って彼の呼吸状態を確認する。
「ねぇ、しっかりして! 何があったの!?」
「っ、俺のことはいい、から……」
「よくない! 一緒に街へ――」
「早く逃げろッ!!」
カザカミが叫んだ瞬間、辺りは不意に暗闇に包まれる。目の前にいたはずのポケモンたちは誰一人として目視できなかった。途端、底冷えするほどの風がスカーフを吹き飛ばしにかかる。ぞっと悪寒が走って、シルムは思わず叫ぶ。
「みんな無事!?」
「うん……!」
「は、はいっ!」
帰ってきた声はその二つ。そして、
――体を貫くかのような、甲高くて、谷中に響き渡る雄たけびひとつ。
それは明らかに、カザカミとは違う声。すなわちこの谷底にいたもう一匹のポケモンの声だ。レントとシルムが固唾を飲む中、風を切る音が鈍く鳴る。
「どけ! コイツは我の眠りを妨げたのだ! 邪魔するやつは容赦しない……。もちろん、貴様らもな!!」
途端、空を一筋の雷が走った。
それは一途に天を下り、レントたちの目の前ではじける。まぶしさに加え、岩が砕ける音と、飛ばされた礫をやり過ごすのは容易でない。声の主の種族も、何か技の準備をしているのか否かも、確認する余裕はなかった。
再び目を開けたときには、辺りは普段通りの明るさを取り戻していた。しかし明らかに異なるのは大きく裂けた地面、レントとシルムを覆いつくす影、そして。
「カザカミがいない……っ!」
シルムは奥歯を噛んで大影の主を睨み上げた。レントもおそるおそる、その巨体を持てる視界全てで映す。
それはとても大きな鳥ポケモンだった。黄色と黒で彩られた体は、一度掴んだ視線を離さない。相手が一度羽ばたくたび、重ったるい風が鈍くレントのスカーフを揺らした。
「キミ、は?」
数時間前の自分に見せてやりたいくらい、控えめな声しか出なかった。怪物がどんなのかと胸を膨らませていた自分は、呼んでも起きてはくれなかった。
鳥ポケモンはギロリとレントを見下ろすと、フンと鼻を鳴らす。
「我が名はサンダー。雷の司!」
「伝説のポケモンとか聞いてないよ……」
高らかに宣言するサンダーの傍らで、シルムはレントの横にぴったりと引っ付きながらそうぼやいた。
レントとて、「伝説」を冠す重さくらいは理解できる。見上げるほどの大きな翼に、響き渡るような重厚な声。その所作からも彼がどんなポケモンかは容易に想像できた。
サンダーは一度羽ばたいてさらに高度を上げてから、レントたちを睥睨した。
「ダーテングを助けたくば『雷鳴の山』に来い!」
言い終えると同時に放たれたサンダーの雄たけびが、この沈黙の谷に風を吹かせた。
二の句を継がせないうちに、サンダーははるか遠くへ飛び去って行ってしまった。しばらくその場に固まっていたシルムは、やがてレントの手を取りながら、脱力してその場に座り込む。
「こんなつもりじゃなかったってば……」
恐怖からか、震える彼の手に、レントはそっと自分の手を重ねた。
ワタッコもまた、シルムにかける声を探しながら、綿に顔をうずめて震えていた。
――救助失敗の味は、もう賞味したくないほどに苦かった。
救助基地に戻ってきた三匹を、依頼主のワタッコ――ナガレは、それはそれは盛大に歓迎してくれた。ワタッコ二人は抱き合って、その再会の喜びを分かち合う。
しかしその宴も長くは続かない。助けられた方のワタッコ――ワタリ、という名らしい――は俯いて、綿毛を力なくしおれさせた。
「でも、私が助かった代わりにカザカミさんが……」
連れ去られたカザカミのことを思い、シルムはぐっと唇を噛んだ。目の前にいながら助けられなかったことは、彼の胸に重くのしかかっていた。シルムはやがて意を決して、顔を上げた。
「教えてよ。沈黙の谷で、一体何があったのか」
「はい。カザカミさんはうちわで風を起こして、岩場にいた私を助けてくれたんです。しかし、そのとき風が雷雲を切り裂いて……そのとき、あの怪物が姿を現したのです」
「サンダー……アイツ」
「サンダーだと!?」
シルムが物々しく呟くと同時に聞こえた第三者の声。その方向へ振り向いて、レントもシルムもあっと声を上げる。
「フレデリック!? 『FLB』のみんな、聞いてたの?」
救助隊『FLB』――以前、ナガレが依頼を断られていた際に、仲裁し、カザカミを救助へと向かわせたポケモンたちだ。ゴールドランクの名声にふさわしい威厳は相変わらずである。
そのリーダーであるフーディン、フレデリックはララバイに歩み寄ると、長いヒゲに神妙な顔つきで手を添えた。
「伝説の鳥ポケモンの一匹、ずっと眠っていたと聞いたが」
「カザカミが起こしちゃったってこと?」
レントが首をかしげるが、フレデリックは目を伏せて「いや」と遮った。
「彼の風はきっかけにすぎない。そもそも、あの谷に風が吹かないこと自体がおかしかったのだ。最近よく起きている自然災害が原因だろうが」
「サンダー、『眠りを妨げられた』ってすごく怒っていた」
レントはしょんぼりと俯く。あの怒り具合、「容赦しない」ときっぱりと言い切る語気、とてもなだめられるものではなかった。カザカミを攫ったのもまた、その怒りによるものなのだろう。
『FLB』の一員であるバンギラス、バランは幹のように太い腕で頭を掻いた。
「ソイツを鎮めなきゃなんねぇんだが、アイツは手ごわいぞ。電撃が強力だ」
「わかっている。だから慎重に行かなければ」
『FLB』の三匹がうなずきあう中で、シルムは「ねぇ」と声を掛ける。
「オレたちも行くよ、ダーテングを助けに」
「なんと! それは危険すぎる。サンダーの電撃は強力だ。お前たちの実力では無理だ」
「それでも行かなきゃいけないんだ!!」
シルムの叫びが響き渡った。後に残る静寂を、シルムは我が物として語る。
「まだ、救助は失敗なんかじゃない。ここに助けるチャンスがある。――だったら行くしかないよね、レント!」
得意げに笑って見せる顔は、いつも通りの頼れるシルムだ。差し出された手を、レントも握り返そうと手を伸ばして。
「それに、サンダーなんて怖くもないよ! ねっ」
(……ん?)
シルムの期待に満ちたまなざしに、レントは違和感を覚え、その場に固まる。
今日一日、ずっと鬱々としていたのは誰だったか。そのせいでダンジョン攻略の間に話し相手になってもらえず、寂しい思いをしたというのに。
レントは意を決して、その場にぺたりと倒れ込んだ。
「あっ、アイタタ。突然おなかが」
――秘儀、シルムの真似。
これで「うぐっ」などと気まずい顔をするものとレントは想定し、俯けた顔で微笑んだ。ちょっとしたいたずら心であって、当然のように仮病である。
しかし、シルムはその様子を見下ろしながら冷静だった。
「あ、レント、やったな。……気にしないで! レントったらいつもフリだけなの。いつもおなかが痛いフリをしては困らせてくるの」
「シルム……」
どうして、とレントは遠い目をした。当然おなかなんて痛くはないが、心に冷たい風が吹き抜けた。腕に刺さる小石の感触がより一層のむなしさを掻き立てる。
「オレ、この救助を失敗で終わらせたくない。カザカミを助けたいんだよ。だからお願い、オレたちにも行かせてください」
シルムの懇願に、フレデリックは瞑目して熟考する。やがて、長いヒゲを一撫でして、彼は重い口を開いた。
「……わかった」
「! やった、ありがとう!」
シルムは後ろで聞いていたワタッコ二匹に振り返ると、手を握って「やってくるよ」の合図。ふたりもまた、身を寄せ合いながら顔を輝かせた。
「こちらこそありがとうございます!」
「カザカミさんは私を助けてくれました。どうか何卒、よろしくお願いします!」
ふたりだって、カザカミを心配する気持ちは同じである。フレデリックは「うむ」とうなずいて、レントとシルムをまっすぐに見据えた。
「雷鳴の山へは二チーム別行動で行こう。その方が行動しやすいだろうからな。では、ともに頑張ろう」
それだけ言い残して、フレデリックは踵を返した。夕陽色に染まった背を向けて去って行く様に、レントもシルムも思わず「カッコいいね」と声を揃えた。そしてワタッコたちも、今一度頭を下げてから、夕闇に霞む街道へと去って行った。
ふたりきりになったララバイの救助基地前。レントはふっと襲い掛かった眠気に目がくらみそうになるも、なんとか目をこすって、シルムに問いかけた。
「ねぇ、シルム。さっきはどうして」
「なんのこと?」
「えっ」
「オレおなか痛いなんて仮病使ったことないもん」
「……シルム?」
ぷいと逸らした顔は赤く染まっていた。見慣れない顔に興味はあったけれど、これ以上言っても怒られるだけだろうしと、レントはむなしく口をつぐんだ。