13話 甘い香りは波乱を呼ぶ
レントもシルムも鼻歌交じりに帰路についていた。シルムはもちろん、コイルことファレンツが仲間になってくれたことが主な理由である。
眩い西日から目を背けるように、シルムは横で歌い続けるレントの横顔を眺めた。
「レント、結構鼻歌上手なんだね……」
「そう? ありがとう」
「まぁスコアとあんな約束してたから、もしかしたら、とは思ったけど」
その約束こそが、今レントの中で一番ホットな話題である。
ファレンツを仲間にした後のことだった。スコアは唐突にこんな提案を持ち掛けてきた。
「レントくんって楽器できたりする?」
言われたって、記憶喪失たるレントは答えに困る。音楽記号を冠した名前であることは確かなのだが、それと人間の自分の趣味とが必ずしもつながるわけでないのだから。
「うちのギルドの近くに楽器職人がいてね。最近入ったお弟子さんの練習用にユーフォをたくさん作ったそうだから、お礼代わりに譲れるよっていう提案」
「お、お礼、なの?」
「むしろ置場に困り始めているくらいなんだってさ。ギルドにも楽団はあるけど、そっちの予備楽器も今は多いくらいだし」
レントとシルムは顔を見合わせた。いくらそうだからとて、こちらが手伝えた話など、広場の案内程度のものだ。むしろスフォルにでも提案すべきなのではとさえ思う。
「まぁいらないなら全然いいんだけどね」
向こうも困る提案だったことに自覚はあるようで、「ごめんね」なんて言って手を振った。
レントの心がざわめく。楽器、ユーフォ。それを奏でる自分が胸に浮かんだような気がした。それならもう、とレントは胸に手を当てた。
「僕、えっと……記憶失って、気付いたらこの辺りにいたから、自分が楽器できるかはわからないんだ」
スコアとアルペジオの目が丸くなる。当然の反応だった。
「でも、楽しそうだから、興味はあるんだ」
「なるほどね……」
スコアから渡されたのは楽譜だった。ヘ音記号で書かれている低音楽器用のもので、リボンで結ばれて4枚がまとめられていた。始めに出てきた音符から順に、レントは目で追っていく。
「ふん、ふふふん、ふーん、ふーん、ふーん、ふん……かな?」
「正解。なんだ、読むのも早いし音も正確じゃん。経験者なのかもね」
スコアは楽譜どおりのハミングを奏でながら、ぺらぺらとそれをめくった。
「うん。じゃあユーフォあげるよ。今度郵便で送るね」
「い、いいの?」
「記憶がないって言っても、それだけすらすら読めるならきっと学はあるんだ。やってたのがユーフォか否かはわからないけど……でも、楽しめるとは思うよ。君が興味あるなら、ね」
そこに対しての答えはすでに述べてある通りだった。レントは花が開くかのような明るい気持ちを胸に、笑顔を見せる。
「お願いします」
「うん、いい顔」
スコアはにこっと笑うと、楽譜を半分に折りたたんで胸に抱えた。
「実は私もユーフォ吹きだったりするんだ。進化したらチューバに転向することも考えているけどね。……もし受け取ってくれるのなら、いつかビバーチェに遊びに来たときにでも合わせにおいでよ。うちは楽器好き大歓迎だからね」
そんなわけで、楽器を手に入れられることが決まったレントは、家に帰ってもなお高揚感が止まらなかった。普段なら眠くなり始めてもおかしくないのだが、今日は目が冴えたままだ。落ち着かなくて部屋を漁るものの、遊べるような目ぼしいものはなく落胆。
結局のところ、文字の勉強がてら本を読むことに終始した。わけだが。
「で、寝落ちてたと」
「うん。おはよう」
「本の上で寝るのよくないよ。ほら紙ぐちゃぐちゃになってるじゃん」
シルムはシワが広がらないように慎重に伸ばしつつ、その本を閉じた。
「ごめんね……」
「別にいいよ。だいぶ古い本で、元から折り目も多かったんだ」
私物だったので怒られるかと思いきや、シルムの返事は淡白だった。本の感想でも言おうかと記憶を探るが、いかんせん途中から寝てしまったので、内容に辿り着くまでが長いのなんの。
「あ、そうだ、ニンゲンの子がいた」
「うんそうだね。開いてたページからして4ページくらいしか読んでないのわかってるから無理に今感想言わなくていいよ」
シルムの腕ほどある本の厚みから考えると、読み終わった部分がいかに少ないかわかる。が、絵本でもない、慣れない文字が一面に記された文章を読んでいたのだから、時間がかかるのは仕方ないのだ。
「シルムは頭いいんだね。その本、書いてある言葉も難しくて」
「そうかな? ……でも歴史考察だから、ここで暮らしていくんなら知っといて損はない内容だと思うよ」
「うん。この世界のこと気になるから、またそれ読みたい」
シルムはうなずいてワンルームの家を見渡した。そして、ため息。
この家には棚一つもなかった。そもそも家具自体、入ったときからあった机やランプがそのままあるだけなのだ。
シルムは机の上に本を仮置きした。背伸びしてもなお、分厚い本を置くのは大変だったようで、置いた瞬間に鈍い音がした。
「しばらくレントの家に置いとくね。読み終わったら返してくれれば」
「……一年かかるかも」
「亀の歩みじゃないんだからさぁ」
「かめだもん」
「見たらわかるけど」
レントは自慢げな顔だった。シルムはてきぱきと準備を済ませると、レントの手を引っ張るように外へと出た。瞬間、鳥ポケモンたちのさえずりに包まれ、朝の風がスカーフを揺らす。のがいつもの朝なのだが。
「ケケッ、ここかぁ? 救助隊ララバイさんがいるってところは」
何やら出待ちさんがいらして、ふたりその場で固まった。
「どちらさん? 救助依頼……でいいの?」
「いいや? なんたって俺たちも救助隊だからな、その必要はないのさ! ケケッ」
シルムの顔が一段と険しくなった。今答えたのは中央にいる紫色の丸くて大きなポケモン、ゲンガーだった。そのとなりにはチャーレムとアーボも控えていた。それぞれ笑顔ではあるのだが、それが逆にララバイの警戒心をあおった。
「しかし何もねぇぜ、ここ」
「殺風景なところだね」
「ケッ、こんなところで救助隊やろうだなんて信じられないぜ」
次々とそう言われ、レントの中でふっと熱が起こる。シルムが案内してくれて、自分も気に入って、暮らしている家なのだから、知りもしない相手にこう言われる筋合いもないのだ。
「っ、水路あるし……どこが殺風景なの?」
「ううぅーーっ!!」
ばしゃん。そう音を立てて飛び出してきたのは水色のちびっこ。
それはぺたぺたと歩いて、ララバイとゲンガーたちの間に入ると、どんと胸を張った。
「うっ! うぅー!!」
「ケッ、なんだぁコイツ?」
自分の何倍もの大きさの体躯から見下ろされても、そのウパーはきりりとした目を崩さなかった。
「う、ウタちゃん……。危ないから、おいで」
「うーーっ! う、うっ!」
レントがたしなめても彼女は引き下がらない。仕方なくレントは彼らの間に立ってゲンガーを見上げた。
種族のせいで、目の前にいたときの威圧感は想像を超えた。ゲンガーはもう少し愛嬌があると無意識に思っていたのは、たぶん、ゲンガーの身長がニンゲンと同じくらいだったからだろう。
「こんな年端もいかないおちびちゃんまでこき使ってんのか、ケケッ。なかなかだな」
「そうじゃない……! ウタちゃんは救助隊の仲間じゃないけど、でも」
「――あっ、こんなところにポストが!」
レントの反論はそんな陶酔しきった高い声に遮られた。見れば、チャーレムとアーボが、紙が隙間からはみ出たポストを囲んでいた。
ゲンガーの口元がにっと上がっていく。それを見るレントの頬を冷や汗が伝う。ゴーストタイプがもたらす悪寒だけではない、さらなるものが重なった。
「ホントだ! 中見ちゃおうぜ!」
「待てっ!! 何するんだ!」
大きな口から笑い声をあげるゲンガーは、止めようとするシルムの首根っこを掴んで引き留める。もがいて逃げ出そうとするも、首筋から冷えていく身体は動きを鈍らせていった。ただ、開けられたポストを、嬉々として覗き込むアーボとチャーレムを眺めることしかできなくて。
「おおっ! 救助の依頼が入ってる!」
「これは美味しいわねぇ〜!」
「みんないただくことにするか。ケケッ!」
ゲンガーは興味を失ったおもちゃを床に捨てるようにシルムを放り投げる。せき込みながらも、シルムは立ち上がり、地面を蹴る。
「それはオレたちの依頼なんだ! 横取りなんかしないでよ!」
手紙を数えていたチャーレムは、飛びかかるシルムを見ると、それを頭上に掲げた。扇子のように広げたのは、枚数を見せつけるためだった。
それにシルムははっとする。あれほどの手紙が届いたことは今までなかった。すべて依頼か、それとも協会から何か通知が来ていたのか。……取り返さなければ、それさえ確認できない。
「ケッ、誰がやったって解決すりゃあいいじゃあねぇか!」
「だったら掲示板にでも行けばいいでしょ!? なんでオレたちから奪おうとするんだ!」
「それでこそ悪の救助隊『イジワルズ』だからな!」
「まぁ本当に悪いことしかしていないんだけどな。ホラ、救助隊って建前があった方が何かとごまかしがきくだろ?」
ゲンガーは最初に救助隊とは言っていた。でも、今しがたアーボが言ったとおりであるが、とてもそうは見えないのだ。シルムが取り返そうとジャンプしても、チャーレムが手を伸ばして掲げるそれには届かず、歯噛みするばかりだ。
シルムの睨みを、彼女は優越に浸り見下ろしていた。
「アタシたち、世界征服を企んでいるのよん」
「せ、せか、世界征服……?」
シルムが「うげぇ」と顔で訴えるのも気に留めず、チャーレムは恍惚とした表情で手を合わせた。
「そうよ。そのためにカネを稼いで仲間も集めているのよ、ケケッ。世界をわがものにするためにな!」
「そ、そうなんだ。壮大だね!」
ゲンガーが両手を広げ雄大に述べようとも、シルムの疑心に満ちた顔は晴れなかった。むしろそれを聞き流し、依頼を取り返そうと再び手を伸ばしにかかった。が、それは空虚を切るに終わる。
「行くぜ、キャサリン、ピョートル!」
「了解よ、シック!」
「大漁だなぁ、へへ」
一目散に逃げながら、そんな会話のこぼれ音だけが聞こえてきた。
ゲンガーがシック、チャーレムがキャサリン、アーボがピョートルというらしいが、それを覚える気にすらならなかった。
シルムは蓮の葉が浮かぶ水面を冷ややかに見下ろしてから、開け放たれたままのポストにのろのろと歩み寄った。
「やっぱりポスト空だ……せっかく届いたのに」
ポストに依頼が届くのはシルムの憧れだった。直談判してきたダグトリオの件を抜けば、コイルたちの電磁波の洞窟以来の直接依頼だったのだ。加えてアーボが述べた「大漁」のひとこと。チャーレムが掲げていた複数の封筒。思い出すだけでやるせない。
「う……」
「ううん。ウタちゃんは悪くないよ。一緒に文句言ってくれてありがとね」
シルムはしょんぼりとしっぽを垂らした幼子の頭を撫でた。それにぴょんと元気を出すものの、シルムの作っただけの苦しそうな笑顔を見て、すぐにまたしおれてしまった。
シルムの気持ちはわかる。それが誰がやってもいい依頼だったらまだ諦めはついたかもしれない。けれど、「ツマミから聞いて『ララバイに』頼んだコイルたち」のような、そこから交友が広がる依頼があったとしたら。
ふたりとも思うところは一緒なのだ。ただ、悔しい。解決すればだれでもいいなんて、限らないのだから。
沈むふたりとちびっこひとりの頭上をはばたく影があった。それはどんどん大きくなってきて、ポストの上で足を止める。
ペリッパ―だった。頭に乗せた赤い帽子と、下げた郵便バッグから、彼の職業は自明だった。
――スコン。
軽やかな音がポストから響き、シルムの目は少しだけ輝きを取り戻した。
ペリッパ―は何も告げないまま、次のポストへと向けて羽ばたいていった。それを見送るよりも早く、シルムは淡い期待を込めてポストを開けた。
「うん。……レント、掲示板に行こう」
そこには一枚の紙が入っていた。大きく「異変の洞窟、続報!!」なんて書かれていたわけだが、それはシルムに一瞥されただけでそのままポストに閉じ込められた。
レントはもう一度水色の小さな頭をなでると、唇を噛んで歩いていくシルムを小走りで追いかけた。