1話 まどろみのうつつ
それは、良く晴れたお昼前のことだった。
ポッポのさえずりが響く森の中で、一匹のポケモンがせっせこと走り回っていた。
「ああああもうお昼じゃん! カルたちはどうせ二度寝しているから起こしに行かなきゃいけないし、お昼ご飯も……せっかくだし一緒に作るか。あぁもうちゃんとしてよ大人なんだからさぁ!」
そんな独り言をこだまさせるヒノアラシ、名をシルムという。胸元には八面体の宝石が、若々しい草木と同じ萌葱色を弾かせていた。
シルムは木の実をカバンに詰めて、良く晴れた空を薄目で見上げる。今日はやることが多い日だった。料理に使うハーブや、ここ最近消費量が増えている薬草も、今日でストックが切れたから買わなければいけない。
忙しいが、午前を乗り切れば暇だ。午後は何をすべきか、長い一日を毎日予定で埋めるのは案外大変なものだった。
ひゅん、と風が吹き抜けた。
まるで歌うかのような風の音とともに、それはひんやりとした温度で頬を撫でた。
(なんだろう、ヘンな風だ……。この後雨になるって空でもないのに)
気温に比べればずいぶんと冷たい風だった。念のため、午後出かけるときにはレインコートを持っていこう。
なんて、頭の中でやることを組み立てながら、シルムは水を汲みになじみの池へと足を運ぶ。しかし、そこはいつもと様子が違っていて、シルムは静かに息を殺した。
「……ポケモン?」
池のほとりには、とても自然物には見えない水色が伺えた。周囲に誰もいないことを確認して、木の陰からそっと様子をうかがう。が、それが動く様子はかけらもない。
やがて心配が募って、シルムはそっとそのポケモンに近づいた。それでもポケモンが起き上がる気配はない。
「ねぇキミ、大丈夫?」
「……んー、んん」
「寝ぼけてるみたいな声出さないでもらえる?」
「ん……あれ」
水色のポケモンは、覗かせた赤い目をぱちくりとさせると、それをきらり、と輝かせた。
「ヒノアラシだ、珍しい」
「め、珍しいって……キミも大概じゃない?」
「そうかなぁ、ニンゲンなんていっぱいいるよ?」
「に、ニンゲン?」
シルムは一歩後ずさる。面倒な相手に話しかけてしまったかもしれない、と後悔が胸を占める。そもそも、彼の姿は“ニンゲン”には見えなかった。
「ねぇキミ、そこの池を覗いてくれる?」
「んー、わかった」
今にも寝落ちそうな、とろけそうな声とともにポケモンは立ち上がった。ふらふらりと揺れながら池の縁まで歩いて、倒れこむようにそこを覗き込む。落ちないか心配なようで、水タイプなんだし落ちても無事だろうから一回そのまま落ちて目を覚ましてくれないか、なんてシルムは思ったわけだけれど。
「……えっ」
そんな思いは、彼が放った一言で掻き消えた。
「僕、ゼニガメになってる……?」
どこから言及すればいいんだ、とシルムは頭を抱えた。ゼニガメ本人はじっと池を覗き込んだまま発言を止めてしまったし、その尻尾はぴこぴこと動いていた。このままでは埒が明かない、とシルムは諦めて、思った通りを遠慮なしに述べることに決めた。
「うん、どこからどう見てもゼニガメだよね……?」
「うん。本当だね。見て、甲羅ついてるよ。ゼニガメらしいね」
「そうだね……?」
「わ、すごい、尻尾もある」
「……そうだね」
「尻尾って自分で動かせるんだ。楽しい」
「そうだね!!」
「あ、ひんやりしてて気持ちいい。眠くなりそう」
「そう……いや待ってよ!?」
シルムはとろんと目を細めたゼニガメを慌てて止める。むしろ、今にも寝そうな顔をしてくらり、と体を傾けられたせいで、咄嗟にそう体が動いてしまった。
「えっ、キミはなんなの!? ゼニガメじゃないの?」
「んー、さっき言ったとおりだよ。僕はニンゲン。でもさっきゼニガメになったみたい。よろしくね」
「は、はぁ……? なんで?」
「それはわからないなぁ。今僕がなんでここにいるのか、ここがどこなのかもわからないし、住んでたのは……あれ」
ゼニガメは触れていた尻尾から手を離して、瞳の焦点を合わせないままぽつり、とつぶやいた。
「どこ、だっけ」
そこに偽りが含まれていないことを、シルムも即座に理解した。だから、少しだけ疑っていた「僕はニンゲン」の一言も、少しだけ現実の色を帯びた。
「ごめんね。なにも思い出せないや。とりあえず僕は元ニンゲン、今日からゼニガメのレント。レント・エコンモートっていうんだ。それだけしかわからないけど、よろしくね」
「ふーん。なんていうか、面白い名前だね。音楽記号?」
「うん。苗字もどっちもそうだよ」
こう答える辺り、一般常識もろとも消し飛んでいるわけではなさそうだ。
レントはちらちらと凪いだ水面を眺め、自身がゼニガメであることを確かめていた。でもその口角は上がっている。本人は楽しんでいたのだが、逆にシルムの中の「変わったヤツだ」という印象を根強くする結果になった。
「オレはシルム。シルム・アルレット。見てのとおりヒノアラシだよ。でもさ、ニンゲンなんておとぎ話の存在だと思っていたし、どこから来たかわからないって……キミ、えっと、レントはこの後どうするの?」
「そっかぁ、おとぎ話なんだ……。どういうお話があるの?」
「えっと、災厄と戦う英雄伝説とか……って違うよ! 行くあてがないんだよね?」
「そうだね。うーん。夢かもしれないから今から一回寝て、起きてから考えようかなって思ってた」
「どういう発想なの? え、寝るの? 昼間なのに?」
「昼寝したことないの……?」
「むしろなんで昼間に寝ようと思うの?」
話がズレていることに気がついて、シルムはもどかしさを覚える。知らず知らずのうちに相手のペースに引き込まれてしまう。彼にとっては、話すのが苦手なタイプだった。
何を話そうとしていたのかもわからなくなり、シルムは頭を抱えた。すると、
「誰かーーー!! 助けてー!!」
突然、甲高い叫びがふたりの脳を貫いた。
叫び主はバタフリーだった。あっちへこっちへ上へ下へとせわしなく飛び回っていたが、やがてレントとシルムを目に留めると、ふたりに縋ってきた。
「あぁちょうど良いところに! わたしの息子を助けていただけないでしょうか!」
彼女が羽ばたくにつれて鱗粉が撒き散らされる。レントはそれを避ける術なく、2回ほどくしゃみをした、が彼女は気に留めないままだった。
「私はブラッセと申します。先程、突然地割れが起きて、そこに私のツマミが落ちてしまい……あぁどうしましょう! 大丈夫でしょうか……」
ツマミ、というのが息子の名前らしい。バタフリーことブラッセはレントの肩を掴んでぐらぐらと揺さぶってきた。この動揺具合からして、受けないなんていった暁が恐ろしいところだ。
「わかった。オレたちが助けに行ってくるよ」
「ああありがとうございます! どうかよろしくお願い致します……!!」
バタフリーに案内されて、二人はその現場へと到達する。心配そうに地割れの覗き込むポケモンや、怯えて小さくなっているポケモンも伺えた。
見ればなるほど、深い地割れだ。その幅は、ゼニガメ三匹は余裕で通れてしまうほどに広かった。
「この中だね、わかった。行くよレント!」
「え、えっ?」
レントの視界はぐらり、と半回転した。あれ、と思ってから、ようやく自身の左手をしっかりと掴む力に意識が向く。シルムが手を引いて、地割れに自ら飛び込んだのだ。
「ま、待って! そんな飛び込んだら……」
さすがのレントも身の危険を感じて声を上げる。が、それがシルムに届いたところで後の祭り。落下は落下のまま、暗い先の終着点は見えないまま、無機質で冷たい風ばかりがレントの瞼を閉ざす。
地面は案外、すぐに現れたようだった。