プロローグ
プロローグ
 それはきっと、記憶に留めてはおけないけれど。

 冷え切った自分の手を、華奢な手が静かに包み込んで温めてくれていた。
 怖い、怖い、震えが止まらない。伝わる温かさとは裏腹に、心の奥底は凍えたままだ。震える度に、その手の温かさがじんわりと染み込んで、目元から涙があふれる。

「いいな、私も――になりたいのに」

 頭をたたくのは幼さの残る少女の声、彼女は、自分と、……どんな関係だったのか。

「ううん。絶対なってやる! そしたら会いに行くね、とびっきりカッコよくなってさ!」

 頭の中が霞む。生まれ育った自分の部屋が、思い浮かべようとした大切な少女の顔が、名前が、存在が、霧中に紛れて形を失う。一刻を経る度に、頭が溶けていくかのように、記憶が、消える。

「だからそれまで待っててよ。何年先かわからないけど、絶対また会おう! ね、約束だよ」

 だから、怖い。
 忘れたいと願ったって、本心では忘れたくなんかなかったんだ。

 体の感覚さえなくなって、ついに上下も認識できない浮遊感に見舞われたとき。聞こえたのは、先ほどの記憶の中の声とは違う、直接耳に届く柔らかな声だった。

「あなたなら大丈夫です。……いってらっしゃい」

 ――自分なんかで、大丈夫なわけがないのに。
 どうしてそんなに、まっすぐな声で、背中を押してくれるのだろう。


音々 ( 2020/08/12(水) 21:55 )