08-動き出したらまたひとつ
「扉……?」
うっそうとした茂みに埋もれるようにして、それはあった。リピィテの住処と化している場所にある扉と、大きさや形は似ていた。
異なるのは、ペンキで塗られたように鮮やかな空色をしていたことだ。色が剥げているようすは、茂みの隙間から覗く範囲では見られない。新しいものなのかもしれない。
「とりあえず、開くかは調べたい、な……!」
ステミラーは茂みをかき分ける。絡んで小さな壁となっている細い草は手折りつつ、どうにか扉全体が見える程度には草をどかした。
ただ、扉に寄り添うようにして咲いた花だけは手折れなかった。儚げな薄紫色の花弁――紫苑だとステミラーは判断したのだが、扉と共にある様があまりに美しすぎたのだ。
「といっても、これ扉が内向きに開くんじゃあぶつかっちゃうけどね……」
ステミラーは取っ手に手をかけた……だけで事足りる大きさではなかった。両手でしっかりとしがみついてから、足で扉を蹴って後ろに引いたり、全速力で羽ばたいて前に押したり。しばらくそんな攻防を繰り返したのち、ステミラーは紫苑の隣に降り立って、上がった息を整えた。
「鍵がかかっているのか私の力が足りないのかわからない……っ!」
切実な思いだった。ライチュウほどの大きさを持つ扉に対して、ポケモンの中でも特に小さい種族のアブリボンはあまりに非力すぎた。ステミラーはふてくされながら、紫苑の花をいじりはじめた。
(こういうときには花団子に限るんだよね)
アブリボンという種族は、花粉や花の蜜を集めて団子を作る習性があった。ステミラーも例外ではなく、ごはんにおやつによくこれを食べている。
やがて彼女の手のひらに、一口サイズの団子が生まれた。ほんのり甘い香りがするそれを、ステミラーはぽいと口に放り込んだ。優しい甘さも、慣れない体力勝負の疲労をいやしてくれるようだった。
もう一度挑戦してみても、空色扉はびくともせずに。鍵穴にリピィテお手製の鍵をはめ込んでも、手ごたえはまるでなかった。もっとも、これに合わせて作っていないために当然だったのだが。
ステミラーは紫苑に手を振ってから、ゆっくりと飛び始めた。向かう先はもちろん、彼のところ。
「リピィテ!」
「やぁやぁいらっしゃい、はじめまして……じゃないんだっけ」
付け足された一言は明らかな変化だった。ステミラーはしばしきょとんとしてから、ぱっと顔を輝かせた。
「あれ、覚えてくれている?」
思わずぐいと距離を詰めてしまった。
初めての機械街で、数分で存在さえも忘れられた記憶は苦みを携えたまま胸の内にあった。だからつい、気持ちがはやってしまったのだ。
リピィテはそんなステミラーの目をじっと見つめてから、まばたきせずにこう答えた。
「誰かいたかなくらいには」
「あっじゃあ名前のほどは」
「ここに書いたんだよ。えっと、あぁそう、リピィテ。これは俺?」
期待でキラキラしていた顔は、段階を踏んで曇っていった。私の名前は憶えていないじゃん、と憤慨したい気持ちを抑えられたのは自慢したい。突き出されたのは油でにじんだメモ用紙。指さされた文字を確認するも、あまりに崩れた字であった。
「うん。読めないけど合ってる。リピィテ、あなたはリピィテ。そして私はステミラー」
「リピィテ。それが、俺。でええっと……あなたが、ううん?」
「ステミラー」
「……ミラー」
「スティ」
「ティ、あっ違うやステ……?」
「まぁいいや……自分の名前覚えてくれただけでも」
やはり、覚えるのが苦手なことに変わりはないようだ。初めて機械街に行ったとき、きちんと呼んでもらえたのは奇跡、どころか幻想だったのではとさえ思ってしまう。
ステミラーは首から下げた鍵に手を当てた。最初、リピィテにもらったものだ。もっとも要らなくなったものを譲り受けた、というほうが正しいが、それでもステミラーはこの時計付きの鍵を気に入っていた。
しばらくその動かない時計を眺めていると、ぽつり、とリピィテが呟いた。
「なんだろうね、この名前。不思議な気持ちになるんだよ」
リピィテはゴーグルをもてあそびながら目を細めた。彼が自分から必要なこと以外を離すのも珍しくて、ステミラーはつい鍵から手を離して食いついてしまった。
「懐かしい?」
「どうだろう。悪いね、言葉の意味もロクに思い出せないんだ」
でも、やわらかく目を細めるリピィテの横顔は、確かに懐かしさに浸っているように見えた。
その感傷を呼び起こすのは、どちらのリピィテなのだろうか。ステミラーが与えた名前か、はたまた元々の名前なのか。
「じゃあしっくりくる感じは?」
「さあ」
「試しに一人称“僕”にしてみたら、しっくりくるの意味わかると思うけど」
正直予想通りの返答であった。だからステミラーは、子供のような笑顔で、こう提案してみた。もちろん、台本もきちんと渡して、だ。ステミラーの声を追いかけるように、リピィテのおっとりふわふわした声が重なる。
「『僕の目の前にいるのはステミ……ラー、です』?」
「どうお?」
「やっぱりあなたの名前覚えづらいよ」
「そうじゃなくて!!」
本題をかわしたのが、わかってか否かが読めなくて、ステミラーはじとっと暗紫の瞳を覗き込んだ。
やはり何か引っかかるものがあるのか、リピィテは自らの名前を声に出しては首をかしげるのを繰り返していた。
(やっぱり、元々自分の名前だったから憶えやすかったのかな……)
すっかり覚えた様子のリピィテをぼんやり眺めながら、いい加減私の名前も覚えてほしいと無言の文句を送る。しばらくこんな時間が続いた後。
「……くしゅん」
「誰かが噂しているのかもね」
鼻をこするリピィテに、ステミラーはそう言って微笑んだ。その返しに、リピィテは怪訝そうな顔を示す。おそらく意味が分かっていないのだろう。
「噂してくれているうちは忘れられていないってことだよ、リピィテ。待っててくれているお方いるよ?」
「そうかな」
「そうだよ!? そのひとりと知り合いになったんだけど話聞く?」
「興味ないかな」
「ひどい! 他人にもう少し興味示そう!?」
冗談っぽく聞こえるが、これが本音で切実だった。彼がステミラーの名前を一向に覚えてくれないのは、確かに彼の記憶デバイスが手狭なこともあるのだが、彼女自身にかけらも興味を示していないからというのも大きいのだ。
「あのね、リピィテ」
ふわりと階段に足をかけたリピィテに、ステミラーはそっと声をかけた。
「リピィテのこと、待っているポケモンがいるの、本当だよ。何年もずっと、帰って来るの待っているんだって言ってた」
「ふぅん」
「もしリピィテが忘れていたって、リピィテのこと忘れていない子がいるんだよ。だから」
一度言葉を区切って、息を吸い直した。
「だからさ、この森抜け出そう? 会いに行こうよ、一緒にさ」
リピィテの瞳は揺らがない。興味がない、の顔である。もちろんこれで彼が動くようならば、そもそもステミラーは一人で森を探索することなかったのだ。
当然のように、奥の手は用意してあった。ステミラーはすうっと息を吸い込んで、リピィテに手を伸ばした。
「ここにあるのに似たような、不思議な扉を見つけたの。でも私ひとりじゃ開けられなくて、リピィテに鍵作ってもらわなきゃいけないかなって」
――人質にしてしまってごめんなさい。
ステミラーは頭を下げた、心の中で。オーパーツと話した大樹の近くにあった、青い扉に対してだ。
こうでもしないと動かないのだ、この偏屈は。
「……これも開けれてないけどね」
「でも、それだけ何回も挑戦して、でしょ? たまには他の扉に挑戦してみたら、それ開けるヒントにもなると思うの」
すっかり興味の色が薄れていたリピィテがようやくこちらに目を向けた。枯れ気味尻尾の先っちょが、ほんの一瞬ぴこんと跳ねた。それをステミラーは見逃さなかった。
リピィテはもう一段階段を上がりながら、小声でこう言った。
「仕方ないね」
「良かった! それじゃあ一緒に森抜けよう、キミを待ってるポケモンいるから」
飛んで二段上の彼と視線を合わせて。にっこりと笑うステミラーに対して、彼のまなざしは冷ややかだった。
「それは嫌だけど。せっかく作った機械街、俺が放置はできないよ」
「え……」
きっぱりとした回答だった。ステミラーは唖然として、リピィテと後ろにある扉とを見比べた。
確かにあれらの機械街、「自分が作った」と言っていた。それならたくさん思い入れ、きっといっぱいあるだろうけど、まさかこの森で一生暮らす覚悟を決めるほどとは予想外だった。
「俺のための機械街、そう簡単に放り出せないよ」
「それはそうかもしれないけど……でも、だって」
二度言われたら、返したかった言葉は喉で止まってしまった。どうしたらもう一度説得できるか。おろおろするステミラーの傍らで、リピィテは腰に付けたポーチに手を置いた。
「あなたが森を出たいなら、勝手に抜ければいいだけさ」
「……本当に、キミを待っている子、いるんだよ。何年も、ずうっと待っていて、今も探してくれているかもしれないんだよ」
ぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。リピィテは既に忘れてしまっているとしても、確かにそんなポケモンがいる。それはオーパーツもそうだし、彼が示唆した存在「親友様」なんて最たるものだろう。
ステミラーは頭をひねって、いくつもの言葉を絞り出す。どれなら届くか。そう考えるのも無駄だって、わかりもしないままなのに。
やがて、階段をもう二段上がったリピィテは、視線だけで振り返った。
「でも」
ステミラーは上目遣いの構図のまま、次の句を待った。
「……そんな偏屈がいるなら、ちょっとは会ってもみたいかな」
「偏屈が誰か教えてあげようか、リピィテさん!?」
それは、リピィテなりの肯定であった。そう理解するのは難しくなくて、ステミラーは彼と並んでから、空を仰いだ。橙色に染まった木漏れ日をまぶしそうに見つめて、ステミラーはそびえる扉へと向き直る。
(どうにか引きずれそうですよ、オーパーツ様。そして「親友様」)
姿も知らない二人にそう心の声を送って、ステミラーはこくりとうなずいた。
――絶対に、帰ってやるんだ。リピィテと共に。
アテがあるわけでも、作戦があるわけでもないけれど。ステミラーの、リピィテを引きずりつつ森を抜ける心意気は、まっすぐ前を向いていた。
これはまだ、動き出したばかりの物語。