06-停滞している時の中
歩いて歩いてまた歩く。たまに走って今度は休む。
そんなことを繰り返しているうちに息が上がってきて、その影は手近な木陰に腰を下ろす。新鮮な森の空気をはちきれそうなくらいに吸い込んで、そして時間をかけて吐き出して。
天然シャンデリアを楽しみながら、彼女は体重を幹に預けた。
「……どれくらい経ったんだろう」
そうぼやき、彼女は垂れ下がったマフラーの端を手に取って、レースの飾りをゆらりと眺めた。呟きを拾ってくれるのは森だけという寂しさが、心に冷たい水を注ぎ込んでいる。
(……立ち止まってても仕方ないんだけどなぁ。もうちょっと歩いてみようか)
歩くとは言ったが、アブリボンの彼女は飛んで移動する方が慣れている。もちろん歩いてもよいのだが、そんな綱渡りのようなことをして無駄に疲労を溜め込もうとは思わない。
そもそもが無謀に歩き、もとい飛び続けていたせいだろう。時間の感覚はとっくに狂い、疲労という概念さえ曖昧になりつつあるのだが。
湿った風が吹き抜けて、木の葉がひらりと横切った。無気力の海を掻き分けて、彼女はただただ突き進む。
特に危険もない、適度な空間が保たれた森の小道だからこそ、進むだけではすぐに飽きてしまう。同じことばかりがぐるぐると頭を走り巡って、進んだ気になりでも止まったまま。
その流れを断ち切るように、小さな鼻で適当な音楽でも奏でてみる、けれども。
「……飽きた」
約三歩にして挫折。退屈に包まれている間は何をしていても気だるいという、悪いぐるぐるリターンズ。
「本当に、数日前と変わらない景色だ。葉っぱ一枚でも動いてるの?」
ステミラーは顔を上げて、木漏れ日を恨めしそうににらんだ。
あれ以降、もう一度旧機械街を訪れて、昨日とは別の方角へと飛んでみた。そしたらこの通り、代わり映えのない森になってしまって、進む気力はどこかへ消えた。
(あの偏屈、本当に何者なんだろう)
ステミラーの頭には、そんな問いかけが浮かんで消えて。
この数日間、彼に対してわかっていることは、忘れっぽいことと機械いじりや鍵づくりばっかりしていることくらい。それ以外はすべて、謎。
思えば、初めて会った時から気になることばかり言っていた。
『珍しいな、自分の力で動くものなんて。俺以外のは何年振りだっけ、一十百千……さてさて足りるんだか』
『名前なんか忘れたよ。とうの昔に遥か向こう』
『他のポケモンなんていないもの』
彼の言葉を素直に解釈したのなら、リピィテは気の遠くなるくらい長くここに生きていて、名前も忘れるくらいひとりで暮らしていた、となる。
さらに、機械街に関しては、「自分一人で作った」とも言っている。いくら他のポケモンがいないとはいえ、何十個もの機械を一人で作って並べるなど、常識はずれにもほどがある。
「それで古い機械街とぼろぼろの最新機械でしょ、わけわかんないよ……」
夢ならばどんなに簡単にうなずけたか。夢にしてはあまりに長いし、森の音も香りも光も風も、すべてがリアルすぎておぞましいとさえ思えてしまう。
(それに、時間が経過しているのに空の色はこれっぽちも変わりやしない)
たとえ何時になろうとも、たとえ起きれる限り眠気を我慢しても、さんさんと降り注ぐ木漏れ日は色一つ変えないままだった。
むむ、とうなりながら、ステミラーは持っている情報を集めて組み合わせて、一旦離して組みなおして。そうしてたどり着いた仮定に、はっと息をのむ。
「時間、止まってる……?」
慌ててステミラーはぶんぶんと頭を振る。そんなこと、ディアルガが、そしてディアルガが住まうとされる時限の塔が壊れない限り起こらない。第一、そんな恐ろしいこと考えたくもない。
それはそれとして、ステミラーが気がかりなことはもう一個ある。
「リピィテ以外にポケモンがいないの、予想は一個あるけど、なぁ」
ステミラーは瞑目して、昔何度も耳にした事件を思い出す。
――『神隠し』。
それは、ステミラーがまだ幼いころに起こった事件だった。事件という文言ではあるが、実際には事故に近いようであった。ステミラーの周りでは、もっぱらオカルトとして広まっていたが。
(確か、ツタージャの男の子が友達と一緒に森を歩いていたら、隣にいたのに突然消えちゃったってお話)
その男の子の名前も、ステミラーはよく知っている。
「リピィテ・エターパー」
なぜか、ステミラーが“リピィテ”に与えた名前はここに由来するからだ。
はじめ“リピィテ”を見たときに、リピィテ・エターパーと重なってしまったのだ。大きくて重厚感のあるゴーグル、暗い紫色の瞳、そして――ツタージャという種族。
だから咄嗟に思い浮かんだその名前を、彼の名前として与えた。
(本当に、リピィテ・エターパーなのかなぁ)
機械いじりが好き、なんて特徴も一致してしまったのだ。
結局、『神隠し』は一度は話題になったものの、男の子は見つからないまま、未解決事件と化してから何年も経過していた。それがオカルトとして子供たちの間に引き継がれていたり、未解決事件の代表として名を連ねたりは今もしているのだが。
類似事件が起こったという話もあったが、虚言や創作の類も多く、ステミラーは最初のもの以外は話半分にしかしていなかった。ともかく、
(もしかしたらここが、リピィテ・エターパーが迷い込んだ世界で。私が二回目の『神隠し』の被害者、なんてね)
そんなこと、あるわけがないのにね。そう一蹴するステミラーの横で、この仮定がすとんと腑に落ちる自分がいた。
そうすれば、リピィテがずっとひとりでいることに頷けてしまうのだ。もちろん、“リピィテ”がリピィテ・エターパー本人であるという図式を無意識に前提に置いてしまっているせいもあるのだけれど。
「そっか。何年もずっとひとりでいたから……名前も使わな過ぎて本当に忘れちゃって。覚えることなんて何もないから、覚え慣れていない感じになっていたのかな」
真偽なんて知らない。ただ、そう思い込んでおくことで、名前を全然覚えてもらえなかった過去に、理由を付けたかった。
ステミラーは深く息を吐いた。退屈しのぎの空想にしては、よくできた方だと自画自賛する。静かに腰を上げてから、同じ景色を繰り返す森の向こうを見据えた。
「……『神隠し』なら、早く出てきてよ、神様」
ドライバーを回す。転がり落ちたネジを金属の皿に乗せて、リピィテはそっと板を取り外した。
何十年と使っていない機械だった。どう劣化しているかわからない状態で使うのは危険だから、点検でもしてみようかという、そういう魂胆だった。
「これ、見たことあったっけ。設計図、俺が書いたはずなのに、全然思い出せないや」
持ち尽くす機械知識を総動員し、設計図と機構を見比べて、部品の役割をてきぱきと判別していく。ひとりで何十何百という機械を作り、扱って来たリピィテにとってはこの程度お手の物だ。
その一方で、自分の作った機械のことですら、忘れてきている。そのことにリピィテはひとり焦っていた。
「旧機械街の機械、最近使っていないから、さてさてどこまで思い出せるか」
自分一人しかいない世界で、自分が機械の使い方を忘れてしまったら、機械はただのオブジェと化して歴史の中に消えていく。
そこまで考えて、はてとリピィテは首を傾げた。
(そういえばさっきまで誰かいた気がするや。でも)
顔どころか、種族も名前も思い出せない。黄色かった気がするが、それさえも確証が持てなかった。振り返っていても彼女――だったか彼かすらも思い出せないポケモンの姿は見えない。
幻覚だったか。長年一人でいたから、そんなことが起こってもおかしくはない、とリピィテは首を振る。しかし、その誰かの面影は消える気がしない。
「確かにいたと思うんだ。今回ばかりは絶対に」
でも、名前も一つも思い出せない。交わした会話もひとつも思い出せやしない。何かあった気がするのに、掴めそうなモヤは浮かぶのに、具体的な言葉はただの一文字も湧いてこなかった。
「あぁでも、ひとつだけ。……り、リピート、違う、こうじゃなくて、リピ」
頭の中で霞んでいる文字列に、すべての音を順に当てはめていく。
今、思い出さなければ。さもなくば、忘れてしまう。あのポケモンが言っていたことの一つでも残しておきたくて、計算式を書き並べるのと同じ速度で頭を回す。
「リピィテ。あぁこれだ。なんども言われた気がするけど、どういう意味だっけ」
――だめだ、もう思い出すのは限界だ。
ポーチの中からペンを取り出して、手にした設計図の隅にその単語を書き落とす。なぜか大事な気がしたから、メモを取らねばと使命感が働いた。文字さえも思い出せなくなって、どうにかそれっぽいものを書いて、ひとまずその「リピィテ」の単語を形に起こすことに成功する。
「でも、どう大事なのかもわからない。……覚えることなんてなさすぎて、覚え方なんて覚えちゃいないよ」
変わり映えのない日々、ひとり気が遠くなるような時間繰り返した頭に、「記憶する」なんて領域は既になかった。