01-深奥アンティーク
歩いて歩いてまた歩く。たまに走って今度は休む。
そんなことを繰り返しているうちに息が上がってきて、その影は手近な木陰に腰を下ろす。新鮮な森の空気をはちきれそうなくらいに吸い込んで、そして時間をかけて吐き出して。
天然シャンデリアを楽しみながら、彼女は体重を幹に預けた。
「……どれくらい経ったんだろう」
そうぼやき、彼女は被っていた帽子を脱いで、歯車の飾りをかちゃかちゃといじった。呟きを拾ってくれるのは森だけという寂しさが、心に冷たい水を注ぎ込んでいる。
(……立ち止まってても仕方ないんだけどなぁ。もうちょっと歩いてみようか)
歩くとは言ったが、アブリボンの彼女は飛んで移動する方が慣れている。もちろん歩いてもよいのだが、そんな綱渡りのようなことをして無駄に疲労を溜め込もうとは思わない。
そもそもが無謀に歩き、もとい飛び続けていたせいだろう。時間の感覚はとっくに狂い、疲労という概念さえ曖昧になりつつあるのだが。
湿った風が吹き抜けて、木の葉がひらりと横切った。無気力の海を掻き分けて、彼女はただただ突き進む。
特に危険もない、適度な空間が保たれた森の小道だからこそ、進むだけではすぐに飽きてしまう。同じことばかりがぐるぐると頭を走り巡って、進んだ気になりでも止まったまま。
その流れを断ち切るように、小さな鼻で適当な音楽でも奏でてみる、けれども。
「……飽きた」
約三歩にして挫折。退屈に包まれている間は何をしていても気だるいという、悪いぐるぐるリターンズ。
結局退屈を溶かす方法をだらだら考えるのが一番の暇つぶしかと。そう結論づけようとしたとき、アブリボンは勢いよく顔を上げた。
そして目を閉じ、感覚の全てを聴覚に注ぎ込む。
(今何か聞こえた……木の葉の音じゃなさそうだったけど)
浄化されるような、というにはちょっと穏やかさが足りない。どちらかというと物騒な鋭利さ、まるで金属によって弾き出されたようなものだった。
――というのが退屈しのぎの産物でした。
まぁきっとそんなわけで、まやかしの事が起こったんだろう。あの一音がやけに頭に刺さったまま、そして再び動き出す。
音の考察に明け暮れるのは、結果的には良い時間潰しにはなったんだけれども。
「……えっ?」
マボロシじゃなかったと知るのは、それで案外肩透かしを食らった気になるものだ。
違和感にゼンマイを巻かれるがまま、その光景の異質さに息を呑む。
地面一面に積もっているのは木の葉でも、ましてや雪でもなんでもない。鈍く、一部鋭く輝くそれは、一つを手にとりようやく理解。
「鍵……それもこんなにたくさん」
草原の顔して並ぶ鍵は、大小新古、錆び具合に至るまでまさに千差万別。アンティーク好きの一端としては心惹かれるべきなんだろうけど、あまりに圧巻すぎて感情が追いついていなかった。
ただの森、のはずだ。それともここは、森風景の壁紙が貼られた鍵屋さん? はたまた鍵の廃棄場?
半開きの口に音が入ってきたのは、そんな疑問に縛られているときだった。
「――ああ、気のせいじゃなかったや。夢見夢想の非現実、そんなことも思ったけどね」
はっと顔を上げた。アブリボンは前後左右、上から下に至るまで即座に視線を走らせる。
リズム感は意識してるのか否か。一瞬歌に聞こえて、吟遊詩人でも訪れているのかと勘ぐってみたが、わざわざこんな森奥で唄う意味もないと頭を横に振った。
「……誰?」
ようやく出した声は震えていて、でもそれがどうしてなのかを勘ぐる余裕はなかった。
もう一度辺りを見渡して、ようやくこの場に何があるかを理解した。
厳かに佇む赤錆色の壁。蔦が縦横無尽に走り、我が物顔で葉を広げている。
大きさはライチュウくらいのものだろうか。あまりに景色に馴染みすぎていて、更には鍵草原に気を取られていたせいで、なかなか気がつかなかったけれども。
「珍しいな、自分の力で動くものなんて。俺以外のは何年振りだっけ、一十百千……さてさて足りるんだか」
壁の両脇にそびえ立つ木の枝には、橋のような形で板が渡されている。同じように蔦が絡みついた板の上、鎖がじゃらりと効果音。
明らかに異質、わかりやすく異常。なのに風景の全てが調和して、彼の存在もまた、綺麗に溶け込んでいた。
「やぁやぁようこそ。あなたはウツツかマボロシか。……こんな使い方で合っていたっけ?」
鈍い色の光が計四つ。そのうち二つは深紫、双眸だと知るのに長い時間はかからなかった。
「俺はさぁさぁどうだろう? ……まぁまぁあなたの思うまま、好きにしてくれていいけどね」
何言ってるんだこのポケモン。
そう思うのは不可抗力だ。状況理解で精一杯だったから、訴えることさえままならなかったんだけれども。
まばらな光を浴びながら、そのポケモンは大きな目を細めた。
かと思うと身軽、というには重そうなものを色々身に着けたまま板から飛び降りて、着地するや否やアブリボンの顔を覗き込んだ。
「えっ、こんなポケモンいるんだ。知らなかった、いや忘れてた?」
「った、当たってるって!」
頭に付けた機械風デザインのゴーグルが、彼女の顔にごつんと当たった。小柄な彼女はほんの少しだけ飛ばされて、それでも相手も小柄故、さして痛手とならずなり。
アブリボンはおでこを押さえ、そのポケモンを頭からつま先までじっくりと眺めた。
「……何が気になるの?」
「いやこんな森奥にいるあなたがだよ……」
既に噛み合わなさを肌で感じ、アブリボンは重く溜め息をついた。
種族名は確かツタージャ、だっただろうか。緑を基調とした細い体躯に、薄黄の模様がひらりと乗っかる。
そんなしなやかさとは裏腹の、サイズが合ってるか不安になるほど重そうなゴーグル。それに、尻尾に掛けられた鎖と南京錠。尻尾がぺたんと垂れているのはきっとそれの重さのせい。
それほどまでにアンバランス、なのにどこか馴染んでいた。
「とにかく……道に迷っちゃったみたいなんだけど、出口がどっちかわかる?」
手弄りにゴーグルを調整していたツタージャは、こてんと首を傾げた。
「さぁね? 長らくここに居すぎてさ、何がなんだかわからない。そんな感じだから」
「念のため聞くけどふざけてないよね?」
「もちろん。何をどう見てそうなるか、俺にはちょっと不思議だよ」
歌のようなリズム感も、口ぶりも。もっと言うならその内容も。とても真剣さを感じるベクトルではなかった。
「じゃあなんであなたは……あ、名前聞いてもいい?」
「さぁ?」
「さぁ、ってあのね……」
ひらりと両手を広げ、何も知りませんのポーズ。また長らく云々か、アブリボンの方も眉間を押さえてしまった。
「名前なんか忘れたよ。とうの昔に遥か向こう。そんなあなたはどうなのさ?」
「あっこれ話すのすごく疲れる相手だ……。私はステミラー。ステミラー・ブレイクで種族はアブリボンですー」
むすっと頬を膨らませながら、ステミラーは腰に手を当てた。マフラーのようなものが軽く揺れたのを、ゴーグルツタージャは無愛想に横目で流す。
「はー、なんかたくさん言われた気がする」
「名前と種族しか教えてないよー!」
目の前でひらひらと手を振ったステミラーを見て、ツタージャの方はへらりと一笑顔。
「ああごめんごめん。それで名前がなんだって?」
「ステミラー」
「うんそうそう。それでステ……ス、スなんとかだっけ」
「ステミラー」
「まぁなんだっていいや」
「さすがにそれはないよ!?」
この仕打ちはひどい。ステミラーは彼のゴーグルをぺしぺしと叩くと、耳の場所はよくわからないからこの辺りであろうというところに飛び立って。口元に手で筒を添えると、苔っぽく湿った空気を存分に吸い込んだ。
「す、て、み、ら、ぁ!! いい! 覚えた!?」
「ああごめんね」
「悪気あるの?」
「いやいや、興味のあることだったなら、すぐに頭に入るでしょ?」
「つまり私の名前に興味などないと」
「そうそう」
「悪気あるのこのお方!?」
彼の方が笑顔だからこそ、真偽のほどが定かではない。単に面白がられているだけなら勘弁願いたいところなのだが。ステミラーは地面に降り立つと、身長差に従ってツタージャを見上げた。
「それにしても、名前を忘れたってどういうことなの?」
「しっくりぴったりそのまんま。一人で長く居すぎてさ、名前なんか要らなくて」
「念のため聞くけどふざけてないよね?」
「もちろん。何をどう見てそうなるか、俺にはちょっと不思議だよ」
「さっきと同じ質問したら一字一句違わない回答をいただいたわけですが」
ゴーグル紐の長さはあっちにこっちに長く短く。手持ち無沙汰な彼が、落ち着かなげに弄り回している証拠だ。
そのうちあっと声を上げると、ツタージャはステミラーと目を合わせた。
「そんなに名前が欲しければ、あなたが勝手に付ければいいよ?」
「あの、なんでお前の好きにさせてやろうみたいな言い方されたの?」
「だって俺には必要ないから」
ひらり、と葉が目の前を横切った。ツタージャはそれをぼんやりと目で追い、つられるようにステミラーも繰り返す。
それが地面に降りたとき、あっと声をあげたのは、マフラーもどきの彼女の方。これは名案だと口角を上げると、声は半音高くなった。
「それならさ、他のポケモンからどう呼ばれてる? あだ名とかならあったりしないの?」
食い気味での質問に、ツタージャは気だるげな半目で応じた。
「他のポケモンなんてもの、あなたくらいしか覚えてない。つまりはそう、誰とも会わないんだ」
「え、ええ……」
前の部分とさして変化のない回答に、ステミラーは目尻を下げた。
繰り返される対話の度に、彼女の中には無限に確かな疑問が湧いてくる。それはもう、話題に困ることはないだろうと言うほどで。
足元に転がっていた鍵を足で退けた彼は、不思議の塊と形容しても間違いにはならないだろう。
「まぁまぁとにかく、俺には行きたい場所がある。着いて来るならそれでもいいし、来ないんならばそれでもいい」
「あっ、うんそうなんだ……? じゃあご一緒させていただきます。それと」
特に行く当てもない、というのはもちろん。迷子生活の中でようやく会えたポケモンと、このままお別れはご遠慮したい。
「名前。……リピィテとか今思いついたんだけど」
「あなたが好きに呼べばいいよ。それで、えっとなんて言ったっけ」
「リピィテ」
「リテ……うん?」
「リピィテ」
「まぁなんだっていいや」
「このやり取りも二回目ですけどねぇ!!」
由来まで語ってやろうか、なんて意気込んでいた彼女のせっかくの心意気は、無関心に折り曲げられて。
ただまぁ、想像以上にぴったりな名前だったのではと、このやり取りの傍らでステミラーは思った。
「あなたの名前も忘れたし、俺の名前ももう忘れた。でももしあなたが使うなら、出来る限りは覚えるよ」
リピィテはそれだけ言うと、森の更に奥を見据えた。歯車だらけのゴーグルを、すちゃっと上に持ち上げると、およそ道には見えないような、木々の隙間の細い道を、すたすた歩いて行ってしまう。
ステミラーは一瞬唖然としたものの、見失うのには変えられず。器用に小道をすり抜ける彼を、不器用に飛んで追いかけた。