88話 さんせっと・うぃず・れいん
「……あの、」
かけられた声が自分に対するものだと気が付くまで、少々の間を要した。聞き慣れない気がしたから、つい、いやに丁寧な返事をしてしまって。
振り向いた自分の顔を見て、声の主はやわらかく微笑む。
「やっぱり、あなただった」
久しぶりに見るその顔は、最後に見た時よりも大人びて見えた。
湿った砂地を踏みしめる。普段のさらさら柔らかい感触はどこへやら、歩くたびに足裏に砂が絡みついて鬱陶しいことこの上ない。
気が付けば雨が降り出していた。それでもアルトは、海岸の洞窟へ――いつもラスフィアと待ち合わせる場所へと向かっていた。空模様がこれなので正確な時間はわからないものの、たぶんまだギルドの夕飯の時間には早い。そう踏んだのもあるし、それ以上に「今」、彼女に会わなければいけないことは、彼自身が一番理解していた。
雨脚の強まる海岸、霞んだ景色の端に黒い影を見つけ、アルトは思わず息をのんだ。
(来るタイミング一緒だったのかよ)
このまま見なかったことにして、いつもどおり、ダンジョンの奥地で落ち合おう。そうささやく自分と、今すぐにでも声をかけなければいけない自分が二重奏を演じる。
でも、迷う間もなく、アルトの足は動いていた。砂地に足を取られそうになりながら、彼女のもとへ駆けて。
「ラスフィア!」
「っ、――あぁ、アルトね。驚いた」
苦笑いして彼女は応じる。突然声をかけられるというのに彼女は慣れていなかった。なおさら、今は極力タウンにも足を運ばない、住民と出会わないように心がけているからこそ、一瞬警戒心が火花を散らすなどした。
「それはその、悪ぃ」
「いいのよ。私もさっきいてまでラピスとリィちゃんと盛り上がっていて、来るのいつもより遅かったもの」
思わずしてしまった舌打ちは、幸いラスフィアには届いていないようだった。アルトはすっかり雨水を吸った自身のスカーフを掴み、奥歯を噛みしめる。
ここでリィの名前が出るか。あまりにもタイミングが悪かった。
それなら、もう、聞くしかない。頭で理解しつつも、声は、喉は、その通りに動いてはくれない。
「あぁそう。シュトラは既に時の歯車を3つ集め終わったみたいよ。それで今日、サメハダ岩に手紙を残していってくれていたの」
笑顔で話していたラスフィアは、聞くアルトの様子を見てふっと首を傾げた。
「……どうかしたの?」
先手を打ったのはそちらだった。いつもと様子が違うことに気が付くのはそう難しくはない。アルトにしろ、ラピスにしろ、顔に出やすいからだ。
荒れ気味の海は、普段の穏やかさはどこへやら、鈍い波音ばかりを奏でている。
天気の良し悪しは、星の停止が起こっていないからこそ。
だとしても、なぜ今日、今に限ってこうも荒天なのか。アルトは濃い灰色の雲を睨んでから、口を開いた。
「星の停止食い止めるの、その、」
――やめにしない?
エルファの言葉と重なって、慌ててアルトは口をつぐむ。言いたいことがどうであれ、ラスフィアにこんなことを言っては冗談では済まない。
しばらく考え込んで、どうにか絞り出した文字列は、決して上手なものではなくて。
「……どう、思ってんだよ」
「どう、って」
ラスフィアの瞳が揺れる。まさか『あのこと』じゃないか、との危惧が、彼女の胸の内を駆け巡る。
「このまま食い止めたら、そしたら、俺たち、未来で生きてきたヤツらは」
ラスフィアは目を伏せた。自分に予想がついた中で、一番痛い質問であったと。
アルトの様子を見れば、結論を知っていることなど容易に読み取れる。だからあえて、ラスフィアは飾らない言葉を、荒い波音に載せた。
「――消える、それだけよ」
「……そう、かよ」
お互い、目をそらす。二人の胸の内を占めるのは、後悔、ただひとつ。
――言うんじゃなかった。
アルトも、ラスフィアも、何も言えない。ただ雨に打たれるまま、沈黙の時間だけが過ぎていく。
気まずい。それ以上に、戸惑い。発言が取り消せるのなら、迷いなく消していただろう、というほどに。
やがて沈黙を破ったのはラスフィアだった。それまでの優し気な瞳は隠れて、睨むような目つきへと変わっていた。まるで、水晶の洞窟で敵対した時のように。
「その話、結論まで知っていたようだけれど、どこで聞いたの?」
彼女自身、圧をかけるつもりはない。しかし、感情を押し殺した声は、静かな威圧感を携えていた。
「エルファから、だよ。で、お前にも確認しないと本当かわかんねぇっつーか、納得がいかなくて」
「――私から真実を聞いて、納得できた?」
はいか、いいえか、二択のみのシンプルな問いかけ。しかし、アルトはそれに答えられないまま唇を噛んだ。
「真実を聞いて」、その言葉がアルトの頭の中で反響する。そう、事実なのだ。もはや、うるさく鳴り響く心臓の音も、真っ白に染められた思考も、ない。そうなんだ、それだけの思いが、すとんとアルトの中に落ちていった。
「エルファくんがどうして知っていたのかは、私は追及しないわ。でも、その通り、星の停止を食い止めれば、私たちは消滅する」
これで三度目の、事実。淡々と述べるラスフィアに対して、掛けられる言葉はやはり一つ。
「……なんで」
「そういう運命だからよ。私たちがディアルガやメテオに追われていたのもそのため」
「なんで、そこまでわかっていて」
「そこまでしないと変わらないからよ」
ラスフィアの瞳は依然冷たい。彼女はきっと、未来世界にいたときにもこんなやり取りをしたことがあったのだろう。感情を一切込めることなく、ただ彼女の芯にある、作成済みの回答カードのみを静かに差し出していた。
「あんな暗黒の世界で生きていくくらいなら、自分たちが消滅してでも、この世界を変えたい。そういう決意で過去に来たの」
迷いはない。まっすぐな瞳を据えた彼女が、この問題を知ってからどれほどの時間が経ったのか、どれほどの強い決意を持っているのか、今のアルトが知る由はない。
だが、そんなことは、今は関係ない。
「ならなんで、最初に言ってくれねぇんだよ!!」
「っ、」
「言いづらかったのはわかるよ! でも、俺とお前と二人きりのときはあったろ!」
本音が、堰を切って流れ出す。
毎日ここに通って修行に手を貸してくれていた。たとえリィには隠したとて、元々そのことを知っていたアルトには改めて告げるべきだったのではないか。
「なのに、なんで、言ってくれなかったんだよ……!」
<記憶喪失の悪用なら、なおさらタチが悪い>
エルファの一言を反芻して、ぐらり、とアルトの視界が揺れる。
そんなに大事なことなら、きちんと考える時間が欲しかった。悩んで、その結果、後悔しない選択をしたかった。
「……できることなら、あなたには知らないでいてほしかった」
ラスフィアは静かに、語り始めた。
雨音は嫌にうるさい。雨をしのぐという発想さえ、2人にはない。ただ雨に打たれたまま、言葉を選んで行く。
「過去のあなたもそうよ。そうやって、過去に行くこと、ずっと悩んでいた」
違う、過去の自分は、決めていた。決めていたからこそ、過去に来た。
それなら、過去の自分の決意をそのまま、たとえ記憶をなくしたとて、今のアルトは引き継ぐべきなのだろう。かといって、そんな簡単に飲み込み切れる話ではない。
「ようやく覚悟決めて、過去に来たと思ったら記憶喪失」
いつか見た夢がふと瞼の裏に浮かぶ。
<来たくないならいい。足手まといなだけ。……戦えないくせに>
<……迷ってるくらいなら来ないで。あたしの気持ちが揺れる>
背を向けたニンゲンの影。その正体は、過去のラピス。
自分がいかに悩み倒していたのか、彼女の数言から読み取ることは難くない。悩んでいた理由が不明なままでも、これだ。未来を旅立つ前にも、何度もこうしていたという事実は、記憶はないはずなのに実感だけが胸の中にじわりと広がる。
「このことを知ったら、また悩む。それどころか、“また”私たちの敵になるかもしれなかった。でしょう?」
ましてや、今の自分はどうだ。
リィがいて、ギルドの面々がいて、探検隊として生きる。平和とは少し違うかもしれないけど、毎日が目まぐるしくて刺激的な日常が存在する。
ラスフィアの言うことに異論はない。今、自分がラスフィアたちの味方であるとは、言えない。
「水晶の洞窟で戦った時点で、少なくとも私は、あなたと共に星の停止を食い止めるのは無理だと悟った。この件を抜きにしたって、あなたが私たちに再び手を貸すとは、もう思えなかったから」
あれ以降ラスフィアと共に過ごす日が来るなんて思いもしなかった。それだけ、自分はラスフィアを敵視していた、それに相違はない。事情があっても、事実は変わらないのだ。
空が光る。雷鳴が轟く。
まだ、ラスフィアの感情は見えない。事実を淡々と述べるのみで、アルトの内心さえも正確に読み取っている。
「いずれ伝えるつもりだったと言えば嘘になる。あなたが何も知らずにいるままなら、迷わずに星の停止を食い止めに行けるから。本来のあなたと同じように」
ようやく、ラスフィアの目に光が映った。しばし雨音に支配された間をおいた上で、強く結んだ唇からはっきりと述べる。
「卑怯ってわかっていて、それでももう一度敵対するのが嫌だった。それが私の意見よ」
今、アルトは自分の感情の名前がわからない。
言葉をもう一度頭で繰り返して、繰り返して、噛み砕いて、それから呑み込む。
アルトはちらりと西空に目を向けた。分厚い雲に覆われていて夕焼けはかけらも見えない。わかっていてつい、ここでトランペットを吹いていたときの癖を発動してしまった。
「ラピスもおんなじ、だよな」
「でしょうね。あなたを過去に連れて行くのに最後まで反対していたわけだし」
水晶の洞窟で、わざわざ身を隠してまでどちらの味方もしなかったくらいだ。敵対したくない、その思いはもちろん今だって同じだろう。
「……っ、あ、どうすれば、いいんだよ」
そんなの、自分だって同じだ。
誰かと敵対したくはない。だからといって、素直に星の停止を食い止めたとすれば、リィと、ギルドのみんなと、会えなくなる。
それで、それだけで済めばアルトだけの問題で片付く。
現実、そうではない。世界中、時間を超えたその先のポケモンたちまで巻き込まざるを得ない。自分一人の手で対応できるようなものでは、決して、ない。――それが、エルファの述べた論理。
星の停止の起こった未来は、土台と、柱となる過去をを失い、存在できなくなる。生まれなかったはずの未来となれば、消滅する。その破壊を引き起こす。それが、今自分たちがやろうとしていた――やっている、行動。
「だとしても、でも、食い止めなかったら」
彩度を失った空が瞼の裏に浮かぶ。生気のない木々から剥がれ落ちた葉が、宙に浮いたまま動かなくなる様も、鮮明に思い出せる。
実際に見たからこそ、変えたかった。変えようと、思っていた。
「……私たちは」
やがて、アルトの思いをおよそ聞ききったラスフィアは、そっと口を開く。アルトも、目元をぐいと拭ってから、真っ赤な目で彼女を睨む。
「星の停止を食い止める。それはあなたがどういった結論に達して、行動しても変わらないわ」
ラスフィアは一歩のみ足を進めた。方角は町の方、そろそろ帰るという意思でもある。
「好きにすればいいわ。あなたが過去の世界でこんなに楽しそうに過ごすなんて思いもしなかったもの。今ある幸せは大事にした方がいい」
それだけ言い残して、ラスフィアは雨を気に留めないまま歩き出した。やがてアルトを追い抜いて、二歩後ろに行ったところで、アルトは奥歯を噛み締めた。
「なんで、エルファもラスフィアも、俺の好きにしろ、って……!!」
かなぐり捨てたそれは、目の色と同じ、眩しい赤色のスカーフ。探検隊として歩き出したときにもらった、毎日身につけていたそれは、雨に打たれてばらばらと砂をかぶる。
「好きも何もあるわけねぇだろ!!」
それが優しさであると、アルトは気がつけない。
そこまで言うのならいっそ、自分がすべきことを示してくれた方が楽だったのかとさえ思う。こうしているうちにもなお、幻の大地に行く準備は着々と進んでいる。シュトラが時の歯車を集めきるのなんて時間の問題だ。
ラスフィアはアルトに背を向けたまま、俯いている。だから、ひとこと、震えた声で呟いたそれを聞き逃さなかった。
「リィとなんか、出会わなきゃよかった」
それが本音なのかもわからないまま、帰らざるを得ない状況。お互い、ただただ足が重たかった。