87話 雨が降る前に
交差点の真ん中で、リィはそっと空を見上げた。
雲の色は暗くて、風も心なしか湿っぽい。明日か、今夜にでも雨が降るのだろうか。雨が降ったとて依頼をこなしたりダンジョンに挑んだりする日常は変わらないのだが、やはり寒いし見通しもよくない、足場もぬかるむという三重苦のため気乗りはしない。
「それにしても、灰色の空を見ると未来を思い出しちゃうんだよね」
辺り一面、モノクロの、もとい黒とグレーの世界線。物寂しい景色とよどんだ重たい空気を思い出して、リィはそっと地面に視線を落とした。
雲間から覗くやけに鮮やかな空色だけが、まだ「今は」暗黒の世界と化していない証明だった。
こんなに曇り空が憂鬱になるとも思っていなかった。リィは気を紛らわすべく、交差点の伸びる先を順に見渡した。まだギルドに帰るにも夕陽を見るにも早い。カフェも、営業はしているがリサウンド――マリーネオとヴァイスのブースは今日は閉まっていたことを、看板を見てからようやく知った。
それでもカフェに行くのが得策か、そう結論付けて足を向けようとしたとき。
「あっ、そうだ!」
ぱっと華やいだ顔で、リィは駆け出した。その方角は、西。トレジャータウンを抜けて、崖のそばまで一気に走り抜ける。
強い潮風に吹かれながら、体力もついたんだな、なんて小さく笑って。リィはサメハダ岩の中へと入る。
「ラピス、ラスフィア……? いない、かぁ」
そこにはベッドが置かれただけの空間。二人とも今は出払っているらしい。なんだ、と頭の葉をしょげさせて、サメハダ岩を去ろうとしたとき。
リィの視界の端で茶色いものがひらりと踊った。慌ててそれをツルで捕まえて、それが紙であったことを理解する。
書かれている文字に目を乗せて、リィははっと息をのんだ。
「シュトラ、から……!?」
慌てて全部に目を通す。シュトラらしいというか、走り書きに近いような文字ではあったが、読めないというわけではなかった。
『アルト、リィ、ラピス、ラスフィア、元気か?
俺の方は順調だ。時の歯車は既に3つ集めた。5つ集めたらそっちと合流するつもりだ。お前たちが話を通してくれたおかげで、番人たちとも戦わずに済んでいる。とても集めやすい、感謝する。
それでも、あまりポケモンの多い場所には近づかないように注意を払っている。まだこの世界のポケモンたちに信用されたとも思っていない。万一目撃されて、それがメテオにでも伝わったらいけないからな。アイツもいつ過去に戻ってくるかわからない。
じゃあな。お互い、星の停止を食い止めるために頑張ろう。 ――シュトラより』
最後まで読み終わって、リィは率直に「嬉しい」と感じた。
もちろん、宛名に未来世界の出身でない自分を入れてくれたこともそうだ。が、それ以上に、一刻を争う時の歯車集めの最中、こうして手紙を書いて、置きに来てくれたことが何よりもうれしかった。
感謝の文言も、シュトラに心を開いてもらえたようで、少しくすぐったい気持ちになる。
「うん、私たちも頑張らないと……!」
「――よく、そんなに独り言、言える、ね」
「えっ!? ……なんだ、ラピスかぁ。びっくりしたよ」
入口のところに背中を預けて、ラピスはじとっとリィを睨む。
「あたしも、なんだけど。……なんでいるの? アイツ、は?」
「ご、ごめんね……! えっと、えと、アルトはまだ帰ってきていないの。アルトに聞きたいことがあるからーって、で、私いないほうが話しやすい、ってことで、先に帰ってきてね」
(そんなに焦って話すこと?)
リィのたどたどしい話し方が、唐突に声をかけた自分に由来するものだとラピスは気が付いていない。ふぅんと流して、バッグからリンゴをひとつ取り出す。先ほどまでの探索中に見つけたものだ。
しばらくそれとリィとを交互に見比べてから、ラピスはリンゴを半分に割った。
「ん」
「えっと、くれる、の?」
「……おなかすいた、けど、一個は多いし」
「あはは。ありがとう、ラピス」
笑顔で受け取ったリィからふいと顔をそらして、ラピスは曇天を映す海を見つめた。
(やっぱり、苦手、だ……)
まっすぐに目を見てお礼を言う、そんなことできる方がおかしい。なんていうのがラピスの本音だ。
そもそも、目を見て話す機会などなかったのだ。せいぜい、ちゃんとした星の停止対策の会議だったり、過去に渡る際の話し合いだったり。そんな重要な場面程度である。お礼だって、言う機会も言われる機会も数えるほどしかなかった。
それだけ「特別」なことなのだ。そして、
「――えっと、ごめんね、何か悪いことしちゃった……?」
こうすぐに謝るのなんて、まぁアルトも小さい頃はそんな節もあった気もするが。
「……えっ?」
「えっ、て。ほら、苦手、なんて言ったから、私何か悪いことしちゃったかなって、思って」
慌てて顔を戻すと、リンゴを片手もとい片ツルに持ったままおろおろとするリィの姿があった。
――声に出ていたか。
迂闊だった。ましてや内容も、相手も、タイミングも最悪だ。
頭を抱えたい気持ちをどうにかため息にとどめて、気分転換にリンゴを一口かじった。
「すぐ、そう言うの、が」
口の中にじゅわっとあふれる果汁。鼻腔まで吹き抜ける甘酸っぱい香り。噛むたびに鳴る軽やかな音色。
「……ヘン、だなって」
言葉選びがヘタクソだと、自分でも思う。ヘンはさすがに、相手があのリィなのだから、余計にヘコませる可能性もあったのでは。
でも、じゃあ、なんて言えばいい。相手の気持ちを推し量ってまで言葉を紡ぐことなんてなかったラピスには、そんなことわかりやしない。
どう、しよう。口の中のリンゴを飲み込んで、ラピスはバツが悪そうに目をそらした。
「そっかぁ。ヘン、かなぁ」
曇り空を見上げて、リィは苦笑する。
「でもね、ありがとうも、ごめんねも、後から言うんじゃ遅いんだよ」
リィは少し頬を赤らめて、気恥ずかしそうに、それでもまっすぐと言葉を繋げる。
「後から送った手紙十枚の『精いっぱいのありがとうごさいます』より、先に言う『ありがとう』の一言の方が、気持ちって伝わるなって。そう思うの。それに、後から言うほうが言いづらいし」
「……そ」
もう一度、ラピスはリンゴを一口かじる。こんなに美味しいリンゴなんて、初めて食べた。たぶんきっと、この後食べるどんなリンゴより、美味しいんだろうな。そう思うと、少しリィに負けた気にもなって。
「一生、真似できない」
「えへへ。今回は褒められてる……?」
「……そんなつもり、じゃない、けど」
ちょうど顔をのぞかせたラスフィアが会話に加わるまで、あと5秒。
「星の停止を食い止めるなんて、簡単じゃないんだよ」
<だから僕はこのまま星の停止が起こるなら、食い止める理由はないよ>
「あの世界をどう思っていようが勝手だけどさ」
<たとえ、哀しい世界だったとしても、希望がなかったとしても>
「『等しく、命は紡がれているんだよ』」
あなたが、こんなに哀しそうに微笑んだのは初めて見た。
自分が反対する理由はない。異論はない。それは彼への偏心だけにとどまらない、それが自分の意見にもなったから。
苦しい、これ以上、言葉を紡ぎたくない。地雷を踏みぬいてまで、伝えることなのか、そんな迷いがいまさらの撤回を要請してきたって。
自分の思いを貫きたい。貫かなきゃいけない。
――ねぇ、お兄ちゃん。
「時の歯車の研究、だったのにね。ずいぶんと壮大な話に発展したものだよ」
そう苦笑して、ジャノビーは開いていたノートを閉じる。表紙にはなんのタイトルも書いていないものの、エルファはそれが何についての話かは知っていった。もっとも、10歳離れた兄の複雑な思考の産物であったため、理解できている部分は多くはなかったが。
エルファは開いていた本をぱたんと閉じると、幼げな顔立ちの目をすっと細めた。
「ふーん、やっぱりお兄ちゃんはすごいよね」
「ふふ、ありがとう。でもねエルくん、もしも、の話で聞いてくれていいんだけどさ」
ジャノビーことエルファの兄、バウムは万年筆をノートの表紙に挟んだ。金色のシンプルなラインが、差し込んだ夕陽にきらりと光る。
「例えばさ、未来から来たポケモンがいるとするよ」
「ずいぶん飛ばすね?」
「セレビィなら時渡りできるからね。完全に不可能とは言えないさ、確率が低くたってね。……もし、そんなポケモンが過去を変えたら、彼らの生きてきた世界につながる過去はなくなるわけだよ」
わかるようでわからない、ふわふわ不安定な理解のまま、エルファは話に耳を傾けていた。
そんなことも、バウムにはお見通しだった。詳しく説明してもよいのだが、それはまた後日にでもまわすことにしよう。そう決めて、バウムはにこりと微笑んだ。
「……なんて、エルくんが未来から来たポケモンと会う機会があったら、ちゃんと考えてみたらいいんじゃないかな」
「えー、想像つかないけど。もし、本当にそんな未来から来たポケモンがいるんだったら、俺は――」
「――ちゃんとアンタたちが生きてきた未来が存在するとわかりながら、それを犠牲にするとわかりながら、星の停止を食い止める筋合いはない」
エルファは淡々と、それでいて芯の通った声でそう述べた。
少しずつ風は強くなってきた。夕方に近づきつつあるこの時間でさえ、太陽を分厚い雲が覆いつくしたせいで夜の手前だと錯覚する。
黙りこくったままのアルトを見据えたまま、エルファは次の句を繋ぐ。
「それが俺の答えかな。まさか、本当に未来から来たポケモンと出会うだなんて思わなかったけど……さすがお兄ちゃんだよ、見透かしていたのかな」
――「お兄ちゃん」。
彼の兄については話は聞いた。リィたちがヴェレと会ってきた日の晩、アルトも一緒にフリューデルの部屋に行って兄弟談議に花を咲かせていたからだ。
といっても、もっぱらエルファの兄のことであったのだが。それで彼がエルファとヴェレはもちろんのこと、リズムやシイナにまで深く好かれていることも十二分に理解していた。就寝時刻だとチャトに怒られるまで、彼らが楽しそうに語り倒していたのだ。
「ま、その後色々ありすぎて頭から抜けてたけど……よりによってお兄ちゃんとアルトで繋がるの、本当に皮肉なもんだね」
風に流されたスカーフを押さえて、エルファは改めて、まっすぐにアルトに向き合った。
「俺が言いたいことはそれだけだよ。別に帰ってラスフィアかラピスに聞いてみるでも、このまま俺を倒すでも、アンタの好きなようにすればいい」
そして、すたすたとアルトの方に歩み寄ったかと思うと、苦笑して手を差し伸べた。
「アンタが動いたとおりに俺は動くからさ、別に俺自身はアンタを敵に回そうだなんて思っていないし。……奪っちゃってごめんね?」
手に載せていたのは、正真正銘、アルトのバッジ。
投げ渡すでもなく、きちんと目の前まできて手渡しをする。それが彼なりの誠意であると察するのは難しくなかった。
アルトはそれを受取ろうとして、彼の手の上に自分の手を運んで。でもバッジに触れないまま、エルファの瞳を見据えた、――睨む、ではなく。
「なぁエルファ」
「うん?」
「正直さ、お前の言ったことが本当でもうそでも、お前を一回倒さねぇと気が済まない
い」
エルファは何も答えない。口元だけ僅かにほころんでいて、それは諦めにも、呆れにも、その他色々な感情への解釈の余地を残していた。
「でも、さ。今ほんと、わけわかんねぇんだよ。いきなりそんなこと言われたって、何が正解かなんてなんもわかんねぇ」
結局、これだった。
今自分がどう動くべきか、以上にどう動きたいのかもわからない。感情任せに動くことの多いアルトがこう思う、真に困惑であった。
「あとさ、リィ待たせてんだよ。ギルドにも戻らないといけない」
「そうだね。俺達には帰るべき場所がある、あの門限すんごい厳しいギルドに、ね」
エルファはくすりと笑い声をつけ足した。
お互い、ここで戦う意思がないことは明確だった。下手にここでやりあって、傷だらけかつ遅刻でギルドに戻ったりしたら、それこそ怪しまれるでは済まない。
「だから」
アルトは一旦言葉を区切り、深呼吸をした。湿っぽくて生ぬるい風は、オーバーヒートな頭を冷やすには力不足だったけれど。
「一回、ラスフィアに会って、お前が言ったこと聞いてきたい。そのうえで、」
そこで、言葉は詰まった。
なんて表現すればいいのか、頭の中に浮かんでいるようで、でも言葉として出てこない。
でも、エルファはちゃんとくみ取っていた。アルトの手に彼のバッジを握らせて、精いっぱいの笑顔を作った。
「いいよ、初めて会った時の再演、なんてね。俺は好きだよ?」
くるりと身をひるがえした彼に、青いスカーフは遅れて追従する。ばさり、風になびいた音が、やけに大きく聞こえた。
そのまま二、三歩歩いてから、エルファは視線だけこちらに寄越した。
「それじゃあ、俺は一足先に帰るよ。……あぁ別に、一緒に帰りたいならそれでもいいけど?」
「そんな気分じゃねぇよ」
「どうせ普段からそういうよね? ……うん、ごめんね。あいにく俺も今日に限っては同感なんだ」
少し物寂し気な声を残して、エルファは自分のバッジを起動した。
独特の音と共にあふれた光と共にエルファを見送って、アルトはひとり、トゲトゲ山山頂に取り残される。
ぽつり、アルトを支配するのは孤独感。
バッジをありったけの力で握りしめて、気の抜けた足は体重を支えることもできなくて、その場にぺたりと座り込んだ。
雷の音が山に何度も反響する。頬を一粒の雨が駆け下りてゆく。
「……帰り、たくねぇ」
ぽつりとこぼれ出た本音を、拾ってくれる相手はいない。
――ついしばらく前、未来にいたときは、あんなに帰りたいと思えたのに。
思いなんていとも簡単に覆されるものだと、下り坂の天気の下、アルトはひとり、流れる時に身を預けていた。