86話 見えない命題
「少しだけいいかな、旋律さん」
トゲトゲ山の頂上を、湿った香りの風がゆっくりと吹き抜けた。
「もとい、リーダーさん。俺が話したいのはあなたなんですけどね?」
そう言って青い軌道を自身に纏わせた、彼は表情を変えないまま一足分歩み寄った。
どうしてアルトたちがここにいると知っているのか。その解は、彼の正体を知れば自明なものであった。
「エルファ?」
「朝ぶりだね。ま、俺がわざわざここに追いかけにきたってことは、後は言わずもがなだよね?」
「幻の大地の手がかりわかったってこと……?」
「正解。アイツに会えた、っていうと尚近いかな」
エルファはスカーフをゆるめ、ゆっくりと深呼吸した。よく見れば肩は上がっていて、相当急いで追いかけてきたであろうことがうかがえる。
当然だろう。アルトたちより遅く出発したのだから、このタイミングで追いつける彼のダンジョン攻略速度はかなり早かった。
「えっと、少し休む?」
「いやー、大丈夫。ダンジョン自体は難しくなかったしさ?」
ま、階段見つかんないなんてこともなかったし、なんて言って目を細めたエルファに、アルトはむっと頬を膨らます。いくら戦闘が楽になったからと言って、階段が見つからなければ進むのに時間がかかる。今回のアルトも平常通りではあったのだが、その平常があまりサクサクとしたものでもないわけで。
「……お前に先に着かれてたら本気で殴ってたわ」
「えー、それは運と実力の問題だし? それより、ちょっと聞きたいことがあってさ。まぁ軽い話でもないからこそ今ここまで追いかけて来たんだけど。あんまりギルドで話すのも気が引けるもんだからさ、どうしたもんかなって。とりあえずそれだけ」
平常運転は忘れずに。それとは別に、心なしか早口かつ遠回しな言い方は、アルトにとってはもどかしくて仕方がなかった。
「幻の大地のこと、でいいんだよな?」
「そうだよ。ま、俺がアンタに聞きたいのはもう少し別の点。そこがあんまり他の方々に聞かれてもねってこと」
エルファは視線を横に流した。
「えと、じゃあ私離れていた方がいいかな……?」
「その方が助かるかな。大事なところはギルドでも話すつもりだからさ」
リィは少し首を傾げた後、わかったと言いながらうなずいた。
「うん。久しぶりにカフェも行きたいから、待ってるね」
じゃあね、にっこりと笑って、リィの体は淡い光に包まれる。バッジの持つ転送機能だ。
彼女を見送ってから、エルファは顔だけをアルトの方に向けて話し始めた。
「それでね? これラスフィアにでも聞いたほうがいいのかなーとか思ったんだけどさ、ほら俺が会いに行って話せるかわからないからさ」
「あー、まあ、アイツも気まずそうにしてたしな」
「でしょ? ラピスだって論外じゃん」
「否定できねぇ」
「ってなるとアンタしかいないんだよね。ま、記憶喪失ーとは言ってだけどさ」
記憶喪失のことを先回りして言われてしまったため、アルトはなんとも言えない歯がゆさを覚える。見透かしている、と否が応でも伝えてくる点、エルファと話すのは苦手だったりするのだ。
「で、なんだよ」
「あっ少し機嫌悪いね? リィいた方がよかった?」
「そんなんじゃねぇっての!」
「怒んないのー。本当大事に思ってるようで安心しましたよっと」
そう言って口角を上げる様、なんとなくイラっとして、アルトはわかりやすい舌打ちをかます。その様子さえエルファは楽しんで、へえと目を細める。そんないつも通りのやり取りを少し交わしてから、改めてエルファは話を切り出した。
「俺だって幻の大地のことは調べていたよ。提供できる情報も少しはあるかもしれないし、あぁそれも共有しないといけないね? でもさ、その前に一つだけ言わせてもらいたくて」
まばたきひとつ、アルトの方を向いていた視線は、その間に遠くの空を見つめていた。
深々と息を吐いて、エルファは優しげな声に、言葉を乗せた。
「星の停止を食い止めるの、さ。やめにしない?」
――何を言ったのか、はじめは理解できなかった。
それはあまりにも唐突だったから。頭の中に散らばったピースが、じわりじわりと形を成して、アルトはぽつりと言の葉をこぼす。
「星の停止を、起こせってことかよ」
「ま、端的に言うとそうなるね。せっかくそんな世界から帰ってきたところで悪いけど――さっ!」
向かってきたアルトを、エルファは軽やかによける。アルトの右手には青い光、もとい波導――はっけいを使っていたのだと推測できる。
纏わせた波導をそのままにエルファを睨み、アルトは狙いを定める。
「とりあえず一発やらせろ、っての!」
「グラスミキサー、と。……あのさぁ、会話する気あんの? ダンジョンのポケモンじゃないんだからさぁ。まさかここで狂暴化しましたーとか言わないでしょ?」
自身の周りに展開したグラスミキサーを防壁にエルファは嘆息する。手を前に伸ばして、いつでも防御態勢に移れる構えを崩さないまま、エルファは首をもたげた。
「……喋っていい?」
「っ、んなのっ」
アルトは勢いよく地面を蹴って、エルファとの距離を詰める。エルファ自身それは想定の範囲内、あらかじめ備えていたグラスミキサーの防壁で難なく攻撃を防いだ。
「いいわけねぇだろ!!」
そう吐き捨てながら、左腕をかすめた切り傷がアルトを冷やしていく。さっきエルファが言ったことを、自分が聞き間違えたのではないか、と。この状況下、冗談でも星の停止を迎え入れようだなんて言うわけがない。
それに、そもそも、何も話を聞かないで、攻撃するのも――でも。
「じゃあもう一回言ってみろよ! なんで、あんな……っ!」
「だからさぁ、それを話させてくれないのって俺は聞いてる、のっ!」
エルファはスカーフを乱雑に後ろに流し、首元からツタを呼び出す。対してのアルトは、手を前にかざしてエネルギーを溜め込む。
「なんでそう、やりあおうとするかな」
エルファは、しんくうはをかわしきることはしなかった。代わりにアルトとの距離を詰め、首から伸びたツタに全神経を注いだ。
「だからさ、話聞けって……言ってんだけど!!」
「っ、く」
ぐらりと視界が揺れて、瞬間重力に従って上半身が落ちた。足に絡められたツタによりバランスを崩したのだと理解する頃には、地面はゼロ距離にあって。
閉じた瞼の中では、衝撃によって光がちかちかと明滅していた。
「……頭冷えた?」
「そんなの、」
答えるまでもなく否だった。冷えたと思っていた頭も体も、現在進行形で熱せられているようなもので、冷静さが戻る気配など微塵もない。
足に絡んでいたツタは徐々に緩んでいく。エルファはツタを戻しながら、深く深く息を吐いた。それは心を鎮めるための深呼吸にも、短慮なアルトへの嘆息にも見えた。
「ほんと、さぁ」
エルファの口から漏れたのは、怒気をはらんだ吐息。
「短気だとは知ってたけどさぁ、あんまりにも予想以上だね。あれかな、ラスフィアやメテオに裏切られて、逆にシュトラには救われるし……誰も信じる気がなくなったってこと?」
正論だった。アルトは口をつぐんで、地面へと視線を落とす。
本気で怒っているのだと、否が応でも理解させられた。
エルファが遊びでここまで感情を込めることはない。アルトの挙動を睨む視線に温度はなくて、そこまで来てようやく、自分の行動の身勝手さまで頭が回る。
(でも、じゃあなんであんなことを唐突に……)
「それにしても、やっぱりってところだね。聞いてなかったでしょ、このこと。だって知らないほうが絶対にいいからさ」
アルトは何も答えない。答えるとて、何が、とかその程度の言葉しか続けられない。
やけにもったいぶらせてくるエルファの手の内が読めなくて、下手な言葉などつなげられないのだ。
「……ちゃんと話聞ける?」
「聞きたくねぇ」
「じゃあいいよ。別に、知りたくない情報無理に聞かせるつもりはない。悪かったね、怒らせちゃって」
じゃあね、とつぶやいて、横顔に影を落とす。その手に握るバッジの色は、メロディのものと同じだった。
「ただひとつだけ伝えざるを得ないわけだけど」
そこで言葉を区切って、哀しげに目を細めて。
「……俺が言ったことは、本気だったからね」
そう言って取り出したバッジを起動――するでもなく、『もうひとつのバッジ』をもう片方の手に載せる。
「これで話を聞かざるを得ないね?」
「は――」
最初、何を言われたかわからなかった。
次点、彼の手を見比べて、ようやく飲み込んだ。
「俺の、バッジ……っ!!」
「そうだよ。知りたくないなら聞かせるつもりはないと言ったけど、知るべき情報なら聞かざるを得ないわけで」
冷静さを欠いたままの頭では、エルファの発言をきちんと整理することはままならない。向こうも向こうで遠回しに言うものだから余計に、だ。
「っあーめんどくせぇなお前は! そこまでして何が言いたいんだよ!! だいたい、」
「――リィを、さ」
ひゅんと喉が鳴った。リィ、その名前がやけに重く感じた。
彼女に聞かせたくない、自分が聞かなきゃいけない。最初の彼はそう言っていた。だからこそ、彼女の名前を出されると警戒心が沸きたつ。
「ひとりにする覚悟ってできてるの?」
「……あ?」
「あぁ別に、リィがそこまで思慮するに当たらない存在なら別にいいけど」
「んなわけねぇよ、つーかなんでそんなリィにこだわるんだよ」
予想と違う方向の話が来て、アルトの頭はさらに混乱する。
エルファは嘆息してバッジをふたつともしまい込んだ。
「星の停止を食い止めるってことはさ、そうやさしいものじゃないんだよ。別にアンタ自身があの世界をどう思っていようが勝手だけどさ」
空いた手を広げると同時に、湿った突風が彼の長い青スカーフをはためかせた。
「未来を生きるポケモンたちにも、等しく、命は紡がれているんだよ」
「……だから、なんだよ。んなことくらいわかってるよ」
「じゃあもうハッキリ言うよ。あんたの性格的には最初からそうするべきだったけど、俺も言いたいことじゃないんだ」
エルファはイラついた様子を隠しもせず、大きく息を吐いた。普段と違う彼の雰囲気は、やけに大人っぽくて、遠い存在に見えて、アルトは息をのむ。彼が口を開いて、声を発して、それが言葉としての形を成すまでが、いやに長く感じた。
「――星の停止を食い止めたら、未来のポケモン全員消えるよ」
案外、普段通りの声が出るものだった。
声が耳を通して自分に返ってきて、そしてようやく、言葉の重みを理解した。頭が真っ白になるようで、体から全ての温度が抜け落ちるようで。アルトを直視できずに、乾ききった唇を噛んだ。
案外、普段通り言ってくれるものだった。
声が頭を二、三周浮遊してから、それでようやく、話の意味を理解した。視界が真っ白になるようで、世界から全ての温度が消え失せるようで。直視したエルファからは、普段の余裕など微塵も感じられなかった。
「……は、それ本気で」
「言ってる」
きっぱりとした即答。
笑わせてくれる、なんて言えればよかった。
「聞いてなかったでしょ。ずるいよね、ラピスもラスフィアも。いずれ伝えるにしたって、ここまで動いてからじゃ遅い。……記憶喪失の悪用なら、なおさらタチが悪いけど」
「は、ちょ、待てよ、どういう、つーかなんでお前が」
「知ってるかって? ちょっと星の停止について深入りした経験があっただけだよ、俺が世界で一番尊敬するお方と共にね。……今日会ってきたやつはまぁ、それで知り合ったんだけどさ」
あまりにあっけらかんと述べるエルファの瞳はまっすぐで、とてもうそを言っているようには見えない。
でも、まさか、そう思いながら、アルトはかすれた声で問う。
「お前、未来の出身じゃねぇ、よな?」
「そうだよ。お兄ちゃんもスイ――が今日会ってきた世界一嫌いなアイツなんだけど、みんな違うよ」
「なら本当のことかわかんねぇだろ」
――そうだ、これが、相手がラスフィアなら話は別だ。
未来出身でない、生粋の過去の民であるエルファに、何がわかるというのか。ましてや、記憶がないとはいえ未来出身の自分にそれを言えるのか――アルトの頭にはそんなことがぐるぐると回り始めた。
エルファ自身、その返答は想定の範囲内だった。自分が言ったところで信ぴょう性について言及される、そんな流れはわかりきっていた。
「……メテオがさ、なんであんな必死に、俺たちを騙ってまで星の停止食い止めようとしてたか、わかる?」
「それ、は。あの世界をそのままにしたいとか」
「なんで?」
「なんで、って、んなの知らねぇし」
「じゃあ質問を変えるよ。メテオがただの悪者と思ってる?」
「……そう、だよ。お前はまだアイツのこと信じてるとか」
「そういう話してないよ。それより、答えに間が空いたのはなんで?」
「…………」
なんで、それにどう、答えれば、自分の考えは、どこだ。そもそも、あるのか。
ついに黙り込んだアルトに対し、エルファはそれ以上の追及はしない。ただ、震える指先でスカーフをなぞって、ひとことだけ聞こえない程度の声で呟いてから。
「タイムパラドックスってあってね。過去のない未来は存在しない、星の停止のない未来が存在するためには、アンタたちが生きてきた未来を、消すしかない」
返す言葉は、ない。
過去のない未来はない、それは至極単純で、でも、納得せざるを得なかった。
理解が追い付いていない。自分が、消える。いや、それだけじゃない。
ラピスも、ラスフィアも、シュトラも、キルシェも、――メテオやヤミラミたち、ディアルガにだって等しく降りかかる運命だというのか。
「そこまでして書き換えたいの? 暗黒の世界が憎いの? ……たとえ、そこで暮らすのが過酷だとしても、希望がないとしても、逃げ出したいと願ったって」
真っ白に染め上げられた頭の中、畳みかけるエルファの声はやけに響いて。
遠耳に雷鳴がとどろいたことすら、ふたりに気が付く余地はない。
「無限に続く『未来』を生きる、数えきれないほどの命を消し去ってまで! 食い止める必要があるの!?」
「ふざけんなよ! んなの、俺に言われたって、」
「俺のセリフだよそんなの。ずいぶんな覚悟で過去に来たものだよね。それ自体は記憶失う前の『自分の決意』だったわけでしょ? 知らないから関係ないだなんて言えないと思うんだよ」
つばを飲み込んで、エルファは小さくため息をついた。
「ね、ふざけんなよ――アルト」