78話 夜明く雲間
何も運ばぬ風を大きな葉で全面に受け、リィは目を細めた。
昨夜の、というよりはこの夜の方が近いのかもしれない。とにかく話し合いとしては、明日から時の歯車を集めるという結論に落ち着いた。
「時の歯車が無くなるとその地域の時が止まる、っていうのは一時的なものなんだよね?」
「そうだ。時限の塔に時の歯車を納めれば元に戻る」
というのは数刻前のリィとシュトラの会話だ。
ラピスが眠気と戦っていて話を聞いていない、などということはつゆ知らず。朝になったら歯車収集を開始するということで、会議はお開きとなった。
そんなわけなので、夜もそろそろ終わりだというこの時間に起きているのは身の程知らずとでも形容できよう。寝不足でダンジョンに入るなど言語両断。
しかしまぁ、リィも遅くまで寝ていた身なので寝るに寝れず。
(でも、こんな時間までアルトに雑談に付き合ってもらう、っていうのも悪いし……)
少し前まではそうしていたのだが、向こうも少しは寝てみるとのことで中断。おやすみとは交わしたものの、リィは眠りの世界への道を辿れぬままだった。
結局彼女は暇を持て余し、サメハダ岩の崖の淵に立って海を眺めることに。水平線は夜闇に紛れて確認できず、繰り返す波も穏やかすぎて変化に乏しい。
(退屈だなぁ……誰か起きていてくれたらいいんだけど)
「ここにいたのか」
「えっ、きゃあっ!? ……ってシュトラかぁ、びっくりした」
「いきなり悲鳴上げられる方も大概驚くがな……」
「ご、ごめんね……っ」
話し相手を求めた瞬間だったから、その機の良さも含め二重に驚く。
サメハダ岩から顔を出したシュトラは、呆れ顔でリィの隣までくると、深い藍染めの海を目に映した。
「……アイツの、メテオのことでも考えていたのか?」
おもむろな問いかけに、リィはゆっくりと首を横に振った。
「そうじゃないよ。まさか処刑されるだなんて思っていなかったけど……。でも、シュトラやラスフィアの話を聞いて、未来でメテオが言っていたことが本当なんだって」
ふっと強めに突き抜けた風に煽られたリボンを、リィはやさしく抑えつけた。
木が被る帽子がさらさらと音を立てる。そんな感覚の懐かしさに浸りながら、彼女はかすかに顔を下げた。
「あと、アルトやラピスは未来から来たんだなってこととかを考えていたの」
「アイツらか……。外見だけじゃさっぱりわからんな」
「だよね。性格なんかは似てるなぁって思えるけど」
怒りっぽいところとか、すぐ動いちゃうところとか。
リィが苦笑すると、つられてシュトラも表情を和らげた。やっぱり中身は相変わらずということだろうか、シュトラの顔には郷愁が浮かんでいた。
視界の端に光るものを見つけて、リィははっと顔を上げた。見ればさざなみが競うように煌めき、それを受けてさらに輝きが広がって。
そして海の反対側へ向き直り、その眩しさに目を細めた。
「朝陽だ……!」
リィの表情までを巻き込んで、波間はさらなる光を放っていく。
東、すなわちトレジャータウンの方角から顔を覗かせた太陽。透明感のある光彩はあらゆるものに色を与え、一日の始まりを穏やかに告げる。
「……綺麗だな」
「うん……! ずっと未来にいたからなんだろうけど、太陽が昇るのがすごく新鮮に感じるよ」
縁を金色に輝かせた雲には思わず目を奪われる。一つ、また一つと光を帯びる雲の美しさなど、今まで意識したことがあっただろうか。
いや、当たり前のようにそれを享受する日々の中、わざわざそうする者も多くはない。リィもその一員だった。
「俺はあの世界しか知らなかったから、この世界で初めて太陽を見たときに衝撃を受けたんだ。……だからこそ、あの暗黒の世界を変えねばと強く思った」
そう語る口ぶりには、隠しきれぬ喜びと決意が滲んでいた。
世界に満ち溢れる情景が、その暖かさが。彼にとっては――いや、未来に生きた者に与えた印象の深さは、きっとリィには及びもつかないほどに鮮烈なのだろう。
いよいよ眩しくなってきて、シュトラは手で目元に傘を差した。しばらくそうして朝の音に浸っていたのだが、ふとリィの方へと振り返った。
「リィ、お前に一つ聞きたかったことが」
「ん?」
朝陽に心を奪われていたリィは、ワンテンポ遅れてそれに反応する。
「未来でディアルガたちに囲まれて絶体絶命だったあのとき」
思い返すだけで、全身が絶望感に締め付けられる。ディアルガの咆哮さえも耳の奥で唸り始めるようだった。
「あの状況の中、お前だけは最後まで諦めなかった。俺やラスや……皆が諦めていたのにだ。あれはどうしてだ? なぜあそこまで気持ちを強く持てたんだ?」
だからこそ光を。そう手を伸ばし、過去への路を求め続けられたのは彼女だけだった。
その強さがどこからくるものなのか、シュトラはずっと気になっていた。
リィは淡い色の空を仰いで、「うーん」と考え込む仕草をした。紅桃の瞳は早足で泳ぐ雲を鮮明に映し出している。
「私もよくわからないんだけど……でもきっと、皆がいてくれたからじゃないかなぁ」
私一人じゃあんな風には思えないもん。
恥ずかしげに笑うと、リィは懐から何かを取り出した。それを見る目には様々な思い出が流れている。
「これはね、遺跡の欠片っていうの」
「何か不思議な模様が……始めて見るな」
様々な色が争うことなくまとまり、一つの紋章を作り出している。その神秘的な形は、朝陽に負けず劣らず目を奪いにきていた。
リィはその模様を優しく撫でつつ回想を始める。
「この謎を解くことが私の夢なんだけど……でも私意気地なしで。ギルドに入ることすらできなかったの。……そんなとき、アルトに出会ったんだ」
あのときと同じ波音を聞き、あのときと反対の太陽に見守られながら。リィは懐かしむように言葉を紡いでいった。
「最初っから怒られっぱなしでさ、ちゃんとしろーって……。でもね、諦めずに立ち向かっていく姿とか見てたら、私も頑張ろうって思えたんだ」
強敵にも臆さず抗い続ける、そんな勇気を彼女は眩しく思っていた。
「だからじゃないかな。あのときも最後まで頑張れたのって」
言い終えたリィは、遺跡の欠片を抱いて「なんてね」と付け加えた。それから誤魔化すように朝陽に意識を向け始めたので、シュトラはふっと表情を和らげた。
「……わかる気がする。俺も未来で共にいる間、アイツにたくさん支えられてきた」
シュトラはすっかり明るくなった空を見上げた。真っ白な雲を物珍しげに眺めつつぽつりと呟く。
「……アイツは幸せ者だな。リィのような友達がいて」
夜の色はすっかりどこかへ行ってしまい、澄んだ風がさあっと木の葉を揺らした。トレジャータウンの方からは朝の支度らしき音も聞こえ始めている。
二人は朝の空気を存分に吸い込むと、サメハダ岩内部へと戻っていった。
まだ夜は遠いというのに、その場所はひしめく木々に光が遮られて仄暗かった。
少し湿った風が流れ、リィはその不気味さに矮躯を縮ませる。
「ここがキザキの森……」
シュトラは肯定の返事をしつつ、辺りを見渡していた。
「以前来たときと雰囲気が違う気がするが……気のせいか」
「そう? 番人が現れたりしたのかもね」
「笑えねぇ……!!」
本当だったらなかなかに恐ろしい推論を述べたラスフィアは、ラピスに叩かれかけるも華麗に回避。
時の歯車を集める一行が最初に向かうことにしたのがここ、キザキの森だった。サメハダ岩からの距離こそあるが、番人がいないため騒ぎを起こしにくい。そんな理由からの選定だ。
「とりあえず、アグノム達は時の歯車を戻すって言ってた。なら奥に行けばあるはず、だよな」
「恐らくね。……ごめんね、あのときちゃんと回収できていればよかったのだけれど」
「ううん。私たちこそ未来に連れて行かれちゃったから」
「……もういい、でしょ。行こ」
むすっとした顔のまま、ラピスは先陣を切ってダンジョンを進み始めた。
確かにあの場で回収を完了させていれば楽ではあったが、何もラスフィアが全面的に悪いわけではない。ラピスはそう思うからこそ、ループしそうになる応酬を即座に断ち切っていた。
そんな彼女の後に続いて四人もダンジョンへと足を踏み入れる。
容赦ないお出迎えをしてくれるのは案の定、時の破壊に心を狂わされたポケモンだった。ラピスはそれを冷ややかに睥睨すると、愛用しているフルートを取り出した。
ラピスはすっと口をつけると、透明感のある音でメロディを奏で始める。
「懐かしいな……」
シュトラがそんな感慨に浸る合間に、ラスフィアはそのポケモン、チェリムの背後へと回り込む。
「お迎えありがとうございましたっと……騙し討ち」
小さく舌を出しての一撃は、ラピスの攻撃で減っていた体力を限界まで削り倒した。
余裕。そんな様子の二人と、早く先へ進まんと歩を進めるシュトラ。彼らを追いかけるアルトは、
「やっぱりラピスならできるんだよな……なんでだ」
とフルートを睨みつけた。薄い銀色から紡がれる旋律はいつだって魅力的だ。氷のような透明感も、雪のような儚さもすべて内包していて。
アルトのぼやきに、ラピスは気だるげに聞き返す。
「何が?」
「楽器で攻撃するのだよ。未来でやったんだけど全然できねぇし」
バッグに入ったままのトランペットケースに手を当て、アルトは嘆息。ちょっと憧れがある分、コツなんかを教えてもらいたい気はあるのだが。
いかんせん相手はラピス。 何より先に冷たく往なされるのは必然だった。
「……馬鹿なの?」
「結果的に上手くいったからいいんだよ!!」
「……それでどうにかなる相手って」
「すごーくエルファみたいだったの。ね、アルト」
「は?」
口を挟んだリィの言葉に、ラピスとラスフィアが怪訝な顔をするのも無理はない。シュトラは例のアイツか、などと言いつつ眉間を押さえていたが、一体彼の中のエルファ像はどんな進化を遂げているのか。
そんなことはさておき、リィはラピスの隣に立ってフルートを眺めた。
ピカチュウになるときに一緒に縮んだのか、今の彼女に対しては不便の無さそうなサイズ設定である。
「ねぇ、それってニンゲンだったときも使っていたの?」
「……そうだけど」
無愛想にリィに対応しつつ、足元に落ちていた黄色グミを拾った。心なしか目が輝いている辺り、彼女もピカチュウ慣れしつつあるようだ。
アルトはさっきのイラつきが消えぬままに問いかけを繋げる。
「小さくなってるんなら音変わったりとかしなかったのか?」
「別に?」
「すげぇな!?」
思えばアルトのペンダントやラピスのリングも、特段大きすぎたりはしていない気もする。
ますます謎が深まるが、考え始めるとまた混迷の海に溺れるのが目に見えている。そこに行き着いたアルトは首を振って考えを払うと、改めてダンジョンへと目を向けた。
「意外と敵ポケモンいねぇんだな」
「あ、さっきいたけど倒しちゃった。ほらここエスパータイプ多いし」
「余裕だな!!」
いたずらっぽく笑うラスフィアの力量が恐ろしい。そして「お任せあれ」という風に前足を握ってみせたのだから尚更。
笑顔で怖いことをさらっと言ってのけるのも、過去で会ったばかりの彼女からはあまり考えられなかった。
距離の縮まりを実感する反面、ラスフィアの笑顔が少し怖いものに見えつつあるアルトとリィだった。
森という割に炎タイプが多いせいで、一行にとっては中々厄介だった。草タイプ二名を抱えている上、あちらにはにほんばれで炎タイプを強化してくるポケモンさえいる始末。
「森の中で炎撃つなよ!」とは暑さに耐えかねたアルトの談だが、これには全員が迷いなく頷く結果となった。太陽のない未来からの帰還直後だから、余計に暑さには弱い状態なのだ。
そんな一幕を挟みつつ、ダンジョンの最奥部へ。
挑戦者を出迎えるのは、溢れ出るような翡翠色の光彩――などという想像がいかに甘いものか、理解するのに時間はかからなかった。
「……なん、で」
アルトはペンダントトップがあるべき場所に無意識に手を当てる。ようやく絞りだせた声は、風無き森に長く響きを残した。
最奥部まで来てなお、番人の気配というのは感じられない。それはよかったし、目的の時の歯車も眼前にある。
問題はない、順調なはず、だったが。
「時の歯車は戻ってる、それなのに……」
生命の色は微塵も感じられない。宙を舞う木の葉は、まるで絵のようにそこに張り付いたまま。
そう、「時が止まったまま」なのだ。
透き通った蒼穹の歯車は、一切の輝きを放たずにその場に佇んでいた。いや、光はある。けれどもそれはほんの僅かで、暗いからこそ存在がわかるだけで。周囲を明るくすれば簡単に見失うほどだ。
シュトラはそれに一度目を向けると、音もなく手を伸ばした。
「……」
「えっ、ちょっと何してるのっ!?」
「見ての通り、時の歯車を取っただけだ。既に時が止まっているなら今更どうしようと変わりはないだろう」
淡々と返しながら、シュトラは手際よく時の歯車を仕舞い込む。対するリィは黙ったままの反応しか出来なかった。
ラスフィアはその様子をじっと眺めていたが、やがて目を伏せると、低めのトーンで話し始めた。
「……まさか、時の破壊」
「えっ?」
振り向いたリィに対して、ラスフィアは首を横に振った。
「なんでもない、わけではないけれど……。リィちゃん、この後トレジャータウンで情報を得てきてもらってもいい?」
推論を並べ立てながら話しているのだろう。リィに向けるべき目は彼女の思考を映すように揺らいでいる。
突然の提案にきょとんとするのも束の間、リィはこくりと頷いた。
「任せてっ。私も気になってたし、探ってくるよ」
「ありがとう。……この世界で何が起こっているのかを知りたいの、お願いね」
「……見つからないようにな」
ラスフィアとシュトラの言葉に、リィはにっこりと微笑んで言った。
「大丈夫、ちゃんと気をつけるよ」
その声を最後に、森からは一切の音が消えた。
キザキの森を後にする道中、ラピスはぐるぐると考え込んでいた。……その思考に気がつく者は、本人以外にはいなかったのだけれども。