98話 許してないけど
奥に繋がっていたダンジョンを、焦り半分に駆けていく。もどかしかった。目の前に階段があれと、何度願ったことか。そんな思いのせいか、いつもより階段が見つかりづらかったように思えたのは。
洞窟も深くなってきて、海水で滑りそうな階段を降りると、すぐに複数のポケモンの影がうかがえた。
先頭にいたアルトはすぐに技を繰り出せるように、と右手を強く握る。天井から滴る水の音だけが、時間の経過を教えていた。でも、それがしばらく眺めても動かなかったから、アルトは握りしめた拳をゆっくりと解放した。
「……えっ」
それが何のポケモンの影か。近付いて認識するや否や、アルトはぴたりと足を止めた。リィも横から覗き込むと、慌ててぱたぱたとその影たちに近寄った。
「ドクローズ!!」
「ヘッ、なんだお前らかよ……ゴホッ」
傷だらけで倒れている紫色の三匹に、リィの目は揺れる。避けたような痕や、青んだ傷は、目を逸らしそうになるほど痛ましかった。
「一体どうしたの……? まさか、あの強敵?」
「ケッ、知ってるなら教えてくれりゃあ……」
「ったって俺たちに教えるわけがないよな……」
「ヤレン、クルガン……。デスポートも、すごく、痛そうだけど、大丈夫?」
せき込む三匹に、リィはぐっと唇を結ぶと、意を決したように自身のカバンに手をかけた。
リィはカバンの中からオレンの実をあるだけ取り出して、ひとつずつ彼らの顔の前に置いた。アルトが止めようとするが、声を形にできず、彼女の行動を見守ることしかできなかった。
「これ、少しだけだけど……」
「クククッ。ここまできて俺様たちの心配をするとは、どこまでもおめでたいやつだな……。俺たちだったら心配無用だってのによ。なんて言ったって、あのペラップ、チャトが俺様たちの怒りに火をつけたからな」
「チャトが? ……ねぇチャトは!? どこにいるの?」
リィの顔がさっと焦りの色に染まる。音も気配もその影も、チャトが近くにいる様子はなかった。
「アイツは後から来て、俺様たちが倒れているのを見ると散々文句を言って去っていったぜ。たぶん奥に向かったんだろうな」
やはり、ひとりで先に行ったか。状況からそう考えるのが妥当とはいえ、嫌な予感が的中したことに、一同は胸騒ぎを覚えた。
「俺様は本当にムカついたぜ。こんなところでくたばれねぇ、ここを必ず這い出てアイツを倒す、ってな。……まぁ、考えようによっちゃあ、諦めかけてた俺様たちはアイツに元気をもらったとも言えるのかもな」
「元気をもらったって、それでもすごく苦しそうだよ?」
くりくりと透き通ったリィの桃紅の瞳に、デスポートは嘆息する。
「俺様はお前に、いやお前たちにさんざんいじわるをしてきた。嫌な思いもたくさんしただろう……。それなのにお前は、俺様たちのことを心配するっていうのか?」
「そう、だね。うん。いっぱい嫌な思いしたよ。したけど、でも」
リィは言葉を区切った。誰も口を挟まない、挟めない。
やがてぎゅっと唇を結んでから、リィはデスポートの目をまっすぐに見つめて、芯の通った声で述べた。
「こうやって、目の前でこんなにボロボロなのに放っておけないよ」
彼女の声を聞いて、デスポートは呆れ顔で目を伏せた。なぜそこまで純真でいられるのか、彼には及びもつかない領域だった。いや、彼だけでない。その場にいた全員が、リィの無垢でまっすぐな目に胸を打たれる。
デスポートは手、もとい前足を投げ出した。そこからは白く小さい石が顔を出して、軽やかな音と共に二回転する。
「あっ、いせきのかけら……!」
「おっと、手が滑っちまったぜ、クククッ。体もロクに動かねぇから、これだとお前らに取られちまうなぁ……クククッ」
「デスポート……」
嘘だ、って、リィでもわかった。だって、笑顔だったから。落としたそれを拾おうとしないから。だって、――リィの目を、優しく見つめていたから。
「俺様はいせきのかけらを落としただけだ……。それを拾うかどうかは、お前の自由だぜ」
「……! あ、ありがとう!」
目の縁いっぱいまで、溢れそうな涙を飲み込んで、リィは顔を上げた。静かにいせきのかけらを拾い上げると、アルトとラピスのほうに振り返ってへにゃりと笑った。
「フンッ、なぜ礼を言うんだ。本当におめでたい奴だな、クククッ……。それよりあのペラップのことでも心配するべきだな……」
「そ、そうだ! チャトは……!」
「アイツが奥へ行ったのはだいぶん前だぜ。お前たちも早く行くんだな……」
ギルドで聞いた話が想起される。手ごわかったと、やられたと。いくらチャトが当時より強くなっていたとしても、ひとりで挑むのが危険であろうことは容易にわかる。
リィはいせきのかけらを胸に抱くと、大きく深呼吸をした。
「本当にありがとう。私たちは先に行くけど……みんなも頑張ってここを出てね」
「フンッ、ドクローズを甘く見るんじゃねぇよ。クククッ」
リィは後ろにいた二人に声をかけた。彼女の目はまっすぐで、助けに行こう、という力強い意思が感じられた。――弱虫、なんて言われていた彼女は、もうここにはいない。
「アルト、ラピス、行こう!」
ずっと会話を黙って聞いていたふたりは、彼女の成長を感じ取っていた。もちろん彼女の長所である優しさはそのままに。
あのドクローズだ。アルトやラピス以上に、リィは彼らに標的にされたし、そのたびに傷ついてきた。だから、いまだドクローズを許しているとは言い難いもやを抱える二人は、その温かい彼女の色にはっとさせられる。
だから、リィは優しい。
だから――言えない。
だから、決めた。最後、そのときまで、「真実は教えない」と。
アルトは締め付けられた胸を抱いて顔を上げる。残っていた迷いはすべて消えた。
更に奥地へと向かっていくリィとラピスを、彼もまた追いかける。その途中、倒れこんだままのドクローズの横で足を止めて、彼らを見下ろした。
「……ありがとな」
「ヘヘッ、どうした。らしくねぇな」
翼を裂くような傷を負ったクルガンがそう吐き捨てる。思えば、リィの次にであったポケモンが彼らだったか。案外長い付き合いだったものだ、歩いてきた軌跡の中に、彼らの足跡はいくつも残っていた。
「幻の大地の話なら、いつか聞かせてやるよ」
その一息で、表情を変えないまま。アルトは顔を隠すように、滴り落ちた海水で湿った道を駆け抜けていった。
水を蹴り飛ばす音が、一音ずつ減衰していくのを聞きながら、浮く力を失ったヤレンが届かない背中に吐き捨てる。
「ケッ、探検隊が話を聞くだけで満足できると思うかよ。いつか俺たちも行ってやるからな……ゲホッ」
せき込むヤレンを横目に、デスポートは途切れそうな声で問いかける。
「お前たち、動けそうか……?」
「それは無理ですよう……」
「あれだけ派手にやられちゃあね……。翼も思うように動かねぇっす」
子分二人の返答を聞き、デスポートは自嘲気味に笑った。
「そうか……。お互いざまあねぇな、クククッ」
メロディの手前、少し強がった口調を心掛けてはいたが、本心で苦しいと訴える声は一切隠せていなかった。
幻の大地に行く夢は絶たれた。そのはずなのに、未練も後悔もなくて、ただやり遂げたような気持ちだけが胸を占めていた。
「ケッ、しかしアニキー、最後の最後でちょっとだけいいヤツになっちまいましたね……」
「うるせー、クククッ……」
「でも、俺はそんなアニキもちょっと好きですぜ。へへっ……」
「うるせー、クククッ……」
「チャト!!」
リィは求めていた背中を見つけると声を上げた。洞窟の中とあって、その声は何重にも豊かに響き渡った。少し遅れて到着したアルトもその残響を聞けるくらい、それは長く響いた。
チャトは周囲に視線を巡らせるのに併せて、ちらりとメロディの様子を伺った。
「お前たちか! 油断するなよ、ヤツらはすぐそばにいる。姿をちらっと見つけたんで追ってきたんだが、ここまできて見失ってしまってな」
「見失うーって、隠れる場所もあんまり見当たらないけど……」
どこも岩壁ばかりで、空間を見渡すのに一切の障害はなかった。しいて言えば、奥へと繋がるらしき、ひときわ細い通路。ここにいないとなれば、もう候補はそこしかなかった。
(なんだろう、この言いようがない不安は……。ヤツらをちらっと見るだけでも何か思い出せそうなんだが……)
息を張り詰めたまま、チャトは記憶を漁る。ずいぶんと昔の話だから、辿り着くまでの道のりは長く、その間にも周囲への警戒を怠りはしない。
「……そうだ!」
ようやく探し当てた、記憶の宝箱を開けば、霧でかすんでいた記憶が鮮明によみがえってくる。
「以前ここでヤツらに襲われた時、ヤツらは突然現れた。で、その場所はというと……」
チャトはゆっくりと顔を上げた。上げて、上げて、その視線は天井に辿り着き、止まる。
――あぁ、あのときと同じだ。
「気を付けろ! ヤツらは上にいる!!」
「えっ!?」
思わず三名は天井を見上げる。同時に、そこにいたポケモンたちも、地面――もとい天井を蹴って、リィの前に降り立った。一匹は軽やかに。二匹は重厚感のある地響きと共に。
「ワシはカブトプス!」
「そしてオムスター兄弟!」
「ナワバリに入ってくるとは……いい度胸をしているなぁ!!」
カブトプスが鎌を振り上げる。チコリータの体程度簡単に刻めてしまうほどに、大きくて、鋭利で、――彼女の眼前をかすめた。
咄嗟のことで悲鳴すら上がらない。声にならない声は、鎌が大気を裂く音にかき消される。
「リィ!!」
アルトが手を伸ばしても届きはしない。ラピスの放つ閃光も、高速で振り下ろされるそれに僅かに届かない。
やめてくれ、そう叫んだ声が岩壁に弾かれて洞窟中を飛び交った。
リィは恐る恐る目を開けた。想像していた音は聞こえたのに、自身の体に何一つ変化は怒らなかったから。
ぼやけ、曖昧な視界は、幕が上がるほどに解像度を増していく。
「ちゃ、チャト……?」
チャトだ。チャトだけど、チャトじゃない。だって、チャトはこんな色をしていない。していないんだ。していない。そう、だからこれはチャトじゃなくて……。
「……お前らに手出しはさせない」
「フンッ、自分から盾になってソイツをかばったのか。愚かなヤツめ」
カブトプスは興味を失った顔で腕を下ろした。リィの目の前で翼を広げていたチャトは、がくり、と片足をくじいた。
冷淡にチャトを見下ろしていたカブトプスたちだったが、やがて、ヒゲをぽむりと叩き合わせたオムスターによってその顔色は変わる。
「思い出した! コイツ、前にもここに来たことあるぜ!? んで、そのときもこんな感じでやられてたわ!!」
「同じことを? 本当に愚か者だな、グハハハハッ!!」
高らかな煽笑が、三重に折り重なった上で洞窟内に響き渡る。
「なんとでも言え。コイツらは、ワタシのかわいい、おとうと弟子なんだ!!」
たとえ何を言われようと、嘲笑われようと、チャトの目は光を失わない。立っていられなくなったとて、それは変わらない。
「ハッ、そのザマでよく言うなぁ!」
カブトプスが鎌を振りかざして嘲笑する。横に控えるオムスターたちも、表情は同じまま、体を淡く光らせていた。技を溜めているのは明らかだった。
アルトも、リィも、ラピスも、戦う準備はできていてる。でも、負傷したチャトに被害が及ばないようにする手筈が整っていない。
「あたしが先戦う、から、チャトをお願い……!」
ラピスの頬から電流が迸る。横に薙ぎ払った手から繰り出されるのは「でんじは」――まずは、動きを制限しよう。そういう一手だった。
それぞれ体の痺れに顔をしかめる。が、これもそう長く続くまい。ひとまずチャトを安全なところへ、とアルトが動いたところで。
「――派手にやってんねー? ま、俺が言えた話じゃないか」
聞き慣れた声だった。だから、アルトは振り向きさえせず、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「遅ぇよ、お前」
「ごめんって。……ここまで惨状になってると思わなかったの」
エルファは右手を握ったまま、ため息交じりにそう言った。リズムとシイナも到着したのを横目で確認してから、彼は気だるげにリィを呼んだ。
「これ、アンタのでしょ。中継地点辺りに落ちてたんだけど」
「え、あっ、本当だ。私のバッジ……」
エルファが手の中から見せたのは、アルトと、ラピスと同じ色のバッジ。まぎれもなくリィのものだった。
ドクローズに遺跡の欠片を奪われるとき、同時に落ちたらしかった。最初に手にした時とはずいぶん違う色をしていて、探検隊として歩んできた道のりが刻まれている。大切なのは言うまでもなかった。
「まぁ俺たちが見つけたからいいけどさ、すごく大事だからねそれ。……あと、よりによってバッジって、色々思うところがあるからやめてくれない?」
「ご、ごめん……。ありがとう」
エルファはバッジをリィに手渡しながら、流し目でアルトを見据えた。彼の言わんとすることは、二人の間でのみ正解として交わされる。
シイナはチャトの様子を確認して絶句したものの、ぐ、と息を飲み込んで、カブトプスたちの前へと躍り出た。奥歯を噛み締めて、両腕に水流をまとう。
「チャトの手当ても、コイツらの相手も、全部うちらがやってあげるからっ!」
「みんなは先に行っておいで〜。僕たちなら余裕だよ」
リズムもチャトの横に付いてそう微笑んだ。でもそれは一瞬だけの表情で。すぐさま傷の様子を確認し、できる手当てを検討し始める。
そして、エルファもまた、横目で乱戦の幕を開けるシイナを静かに眺めていた。
「……お前ら、つーかお前、さ。協力してくれてん、の?」
「そうだよ。言ったじゃん、証明はアンタが手に持ってるそれですよーって」
「だけどお前、あー……」
確かに、彼が時の歯車を持ち帰ってきてくれたのは事実だし、磯の洞窟への同行に立候補したのも目の前で見ていた。
だからこそ、トゲトゲ山の頂上で、思いをぶつけてくる彼と重なって、ずれて、違和感があった。
「お前のことだから、ここで、止めに来ると思った」
「へぇ、俺のことわかってますーみたいな言い方してくれるじゃん? しかもずいぶん遠慮なく、さ。俺はアンタに理解されるほど簡単なヤツじゃないよ」
「っ、わかってるよ! でも」
言いかけた口に何かが触れた。それが、エルファの首から伸びたツタであると認識するのは容易な話だった。
「……ごめんね」
は、とアルトは目を見開いた。哀しげなようで、笑顔なようで、無表情にも見えて、でも懐かしむようで、未来を見つめているようにも見える。そんな彼の表情は今まで見たことがなかった。
彼がそうしている間、たとえ物理的に口をふさがれていないとしても、何も言えない。
「覚悟が足りてなかったんだなって思ったよ。時の歯車を取り返したのはまぁ、スイのこと嫌いだっただけなんだけど、さ。でも時の歯車を海に投げられた時に、俺身投げしちゃったんだよね。それを追って」
予想を超えた事実に、アルトは一音の感嘆符さえ発音できない。そこまでして取り返していたとは思いもしなかったから。
「ま、それで無意識に体が動いて、あー俺そっち側だったんだなーって。……ま、結局のところ、自分が星の停止を生きたくないとかそんな話だったかもしれないけどね」
エルファは顔を上げると、自嘲気味に笑った。
「だって俺、弱虫だからさ?」
本当に、それだけの理由じゃないだろ、とアルトは思った。代償について知ったのはここ数日の話じゃなかったはずだ。そして、彼は大切なことまで軽はずみに扱ったりしないとわかっている。
だから、本当に彼を突き動かした、別の決定打があるはずなのに、聞けない。口元に沿うツタがそれを阻む。
「別にアンタがどういう決断をしようが、もう俺は止めない。俺は俺のできることを、俺が改めて考えた決意の下、行動するだけだよ」
「それで、時の歯車も、ここも」
エルファは目を伏せた。これ以上、ここに対して言うことはない。その意思はアルトにもしっかりと伝わった。
「本当さ、楽しかったよ。半分は遊び相手としてだけど……でもさ、一緒にはしゃげる時間、すごく好きだった」
伸ばしていたツタは彼の元へと戻っていく。それでもなお、言われた言葉に何も返せないで、いつも通りの表情といつも違う声色を焼き付けることしかできなかった。
「じゃあね。もしまた会えるんなら、今度も同じように接するね?」
「二度と会いたくねぇ!! 本当、お前だけは出会ってから今までずっと嫌いだよ!」
咄嗟に出たのはいつもの調子。もう、それしか言えなかった。今他に言うべきことはあるのかもしれないけど、彼と紡いだ日常の言葉しか、もう、形にできなかった。新しい言葉なんて、考えられもしなかった。
エルファはふっと口角を上げた。しばらく荒い呼吸をするアルトを静かに眺め、彼のもう一言を待っていただけだった。
「でも、さ。……ここ、頼んでいいか」
彼なら言うと思った。だから、もう一言を待った。
エルファは左手を横に広げると、顔を少し傾けて笑う。
「そういうつもりだってばー。ほら、シイナはもう応戦してくれてるし?」
「ねええええぇぇぇ普通にしんどいからエルファ早く助けて!!」
「えー? 仕方ないなぁ。あと一時間耐えて?」
「無茶な!?」
シイナは涙目で訴えると、水流に自身を包んだ。そのまま水の弾丸となって地を蹴り、麻痺から解放されて攻撃力に満ち溢れたカブトプスの鎌を避ける。でも、彼らの攻撃がチャトやその介抱をするリズム、言葉を交わすエルファたちに向かないように、あわただしく技を放って阻止してくれたいた。
巻かれたスカーフが青い円弧を描いて、主人たるエルファを追う。
「じゃ、行ってらっしゃいってことで。会えなくなる日を待ってるよ」
「行ってくるよ、また会えるとしたらお前ぶん殴るけど」
「あははっ、楽しみを増やしてくれるじゃん?」
巻きついたスカーフを片手で薙いで、エルファは戦乱の中心へと舞い降りていった。
もう、ここでメロディにできることはただひとつしか残されていなかった。アルトは地面を蹴って、振り返らずに奥へと抜けていく。その後ろを、リィとラピスに追いかけられながら。
(お前のそういうところが)
――本当に嫌いだった。