97話 さんらいず・うぃず・ゆー
その夜は驚くほど穏やかだった。
ラピスも久しぶりにメロディの部屋にいた。だからといって何か特別な会話があるわけではなかったけれど、こうチーム三名がここで過ごす夜など、未来世界を訪れる前以来だろうか。随分と前の話に感じる。
「すごい……! こんなに綺麗な曲があるんだ!」
夜、リィはアルトから時の歯車を借りると、そうはしゃいでいた。これに関してはラピスもうるさいとは言わない。ただし、あたしも聴きたいと物欲しげな視線を送るだけだった。
「みんなで聴けたらいいのにな」
「ずれずに鳴ってるはず、だから。5個集めれば、一応は……。でも、やっぱり、いつもの場所に置いとくのが一番響く、と思う」
結局のところ、時の歯車を囲むように輝く緑色の玉座に座らせるのが、「ときのはぐるま」を1番響かせられるということか。そう結論付けた矢先、すぅと気の抜けるような寝息が聞こえた。
「……寝てる」
気付いたらリィは、時の歯車片手に笑顔を浮かべていた。穏やかな旋律と、無事に奪還できた安堵感で眠くなってしまったのだろう。
アルトはリィを起こさないように、そっと彼女から時の歯車を回収する。
「待って、あたしも聴きたい」
「俺も聴きたい」
アルトとラピスの視線がばちりと火花を立てる。
けれども、リィのむにゃりとした言葉を成さない寝言に仲裁されて、あっさりと緊張は解ける。
それは日付が変わるには少しだけ早い、いつもに増して星の綺麗な夜の話だった。
徐々に意識が覚醒していく。ぼやけた思考が繋がっていき、耳から流れ込む音につい微睡みそうになるのを、上半身を起こすことで阻止する。
アルトは耳元においてあった時の歯車を眺めた。結局、アルトも聴きながら心地良さに寝落ちしてしまむたらしい。結果として起きた瞬間からそれを聴けたのだから後悔はないのだが。
「それでね、遺跡のかけらの秘密を解くって夢が叶うのがすごく嬉しくてね」
弾んだ声が寝起きのアルトの頭を覚醒へと導く。誰の声と判断し得るに足る解像度に至るとともに、アルトは目にも留まらぬ速さで振り返った。
「え、リィ!?」
「あっアルトおはよう。始めてアルトより早起きできたかな……!」
えへへ、と少し自慢げなような、照れたような笑顔を浮かべるリィとは対照的に、アルトは彼女と窓の外とを慌てて見比べた。
「……あ? え、俺寝坊してねぇよな?」
「大丈夫。まだ、日の出の時間、少し前くらい、だから」
ラピスは明るみ始めた窓辺に座ってそう答えた。鳥ポケモンのさえずりが優しく響いている。
「私が起きるの早かっただけだよ。今日はね、ラピスよりも早かったの」
「すげぇ……けど、寝れてんのか?」
「大丈夫だよ。昨日早く寝たから。あとはやっぱり、緊張とか嬉しさとか、いっぱいあって」
「それ寝れてなくね?」
彼女が大丈夫と言うのだから良いのだろうが。少しだけ心配にもなるが、二度寝しろと言うほど時間に余裕はないので仕方なく黙る。
リィはにっこりと微笑むと、ほんのりと光が差す窓に手をかけた。
「なんか、不思議な気持ちなんだ。誰も行ったことがない場所を探すってだけでもすごくわくわくしたのに、遺跡の欠片がその秘密にも関係ある、って知って」
開け放った窓から、涼しい風がふわりと流れ込む。
「ずっとね、遺跡の欠片の秘密を解くことが夢だったの。それがいよいよ叶う! って思ったらすごくうれしくなっちゃってね」
遺跡の欠片を抱いて、リィははにかむ。流れ込んだ風が、まだ畳まれたままのリボンを優しく揺らした。
「これもね、アルトと出会ってなかったら、一緒に探検隊やってくれるって言ってくれなかったら、絶対に叶わないままだったの。だから……ありがとう」
「……あぁ」
「アルトは、幻の大地に行くのどう? わくわくしている?」
「俺、は」
乾いた唇を噛みしめる。よりによってなぜその質問を、今、自分に、振ってくるのか。困っているから、さっき生返事をしたというのに。
「……リィが、んなに嬉しそうで、なんか」
こうじゃない、と頭を掻く。この次に、どんな言葉を繋げばいいのか、余計に困ってしまう。
「すげぇ、うらやましい、っつーか」
「……あんまり、楽しみじゃないの?」
しまった、と咄嗟に発言を取り消そうとした。それにどうして、と自問して、あぁリィを落胆させたくないからかと自答する。
「そうだよね。誰も行ったことがないから何があるわからないし、もしかしたらすっごく強いポケモンが待ち構えているかもしれないし、不安だよね」
(そうじゃねぇよ。でも)
本音を知られるくらいなら、この程度の誤解をしてくれたほうがいっそ平和である。だから、アルトは目をそらしたまま、小さくうなずいた。
二人のやり取りを、ラピスはうつむいたまま聞いていたが、やがて唇を噛んで口を挟んだ。
「リィ、あの、ごめんね」
どうしたの、とリィが首をかしげたのを、ラピスは見てすらいない。
「――幻の大地に来ないで」
は、と溜め切った息を吐き捨てた。ラピスは胸の内が締め付けられる思いのまま、リィの反応を挟ませないうちにと言を重ねる。
「守れない。守ってる余裕があるほど、あそこは甘くない。あたしたちがアンタと関わったから巻き込んだだけ、アンタは、ただ平和に暮らしていればそれでよかった。だから、……ごめん、ね。もう、大丈夫、だから」
「ありがとう、ラピス」
羽で包みこむかのような声とともに、リィは笑った。
「でもね、私も行きたい、ううん、行く。確かに私はみんなに比べたら弱いから、足手まといになると思うの。弱虫だし、迷惑なのかなって、すごく悩んだの。わがままかなって」
それは彼女自身が一番気にしていた。周りからも、ドクローズからも言われるくらいで、事実リィの実力は、未来で生き抜いてきた面々には及んでいない。
「私が探検隊になりたかったのはね、遺跡の欠片の秘密を解きたかったからなの。その夢が今、叶おうとしているの」
いつかの夜を思い出す。『それが私の夢なの』なんて、リィが語ったあの夜は、いつのことだったのか。ずっと昔のようで、案外最近なのだろうけど。
「アルトは私が探検隊になるのに手を引いてくれた。ラピスはチームに入ってくれて、すごく強くて憧れてて、あっ最近いっしょにお出かけできたの嬉しかったんだよ。また行きたいね」
えへへ、とリィは笑う。
「ラスフィアも、シュトラも、未来世界でどうすればいいかわからない私たちを助けてくれたの。ふたりがいなかったら今の世界に帰ってこれなかったし、星の停止の本当のことなんて知れなかった。それなのに」
もうやめてくれ、とアルトは胸の内で叫ぶ。声にならない吐息だけが、何事もない呼吸の顔として掻き消える。
「それなのに、私だけ最後は置いてけぼりなんてさみしいよ」
(本当にさみしいのはそっちじゃないのに)
結局言えないままだった。アルトもラピスも気持ちを言葉にできなくて、でも抱えているモヤを彼女に悟られないように必死だった。
アルトはラスフィアに言った。「ならなんで言ってくれなかった」と。彼女は答えた。「卑怯だとわかっていても、そうせざるを得なかった」と。
でも、自分がその立場になってみて、はじめてきちんとわかる。
「私もアルトと、ラピスと、ラスフィアと、シュトラと。みんなと一緒に幻の大地へ行きたい」
きっぱりとした彼女の答えを、夢を見る輝く瞳を、まっすぐな決意の心を、どうして折ることができようか。
訪れた沈黙の破り方なんて誰も知らない。ただ、アルトはひとこと、そういうだけで精いっぱいで、それは沈黙と同じくらい静かな声だった。
「……リィが来たいならそれでいいよ」
それは何のやさしさでもない。ただ、彼女が夢を叶える様を見届けられるのなら、いや、彼女がそれを望むなら、それ以上、アルトが阻むことはない。できない。
ラピスは黙ったまま、ベッドわきに置いてあった腕輪を奪うように手に取った。ふたり、嵌められているラピスラズリがきらめくのを目に映した。
「絶対後悔するって、約束できる、のに」
「絶対後悔しないって約束するよ」
そこにそれ以上の言葉は生まれなかった。静粛のまま、それぞれ、スカーフを、リボンを、アクセサリーを、いつも通りに身に着ける。朝陽はすっかり昇りきっていて、そろそろ朝礼の時間にもなる頃だろう。
アルトはひとつ深呼吸をした。空よりまぶしい青色を、落とさないように静かに拾い上げて、もう一度その旋律に耳を傾ける。
行くしかない、行くと決めた。行くんだ、行かなきゃいけないから。
もやのかかった心象に目をつむったまま、アルトは自分のバッグに時の歯車を大切にしまった。トランペットのケースと並んでいるのを確認し、冷たい手でバッグを閉じてから嘆息する。
(結局、あれ以来ラスフィアと話してねぇんだよな)
時の歯車が奪われた話の時に彼女はいたものの、アルトと言葉を交わしたわけでもないし、裂け開いた溝は砂粒ひとつさえも埋まっていないままだ。心配すべきところは他にもあって、
(教えてもらっていた技、習得しきれてない)
その日はもちろん特訓などできなかったし、それ以降も付き合ってもらってはいない。天気が悪かったから、奪還作戦があったから。言い訳に値する出来事はあるけれど、本当の理由がそこにないことはアルト自身わかっている。
だから本当は怖い。彼女と会うのも、メテオたちと対峙する可能性も、――そこに行くことさえ、何もかも。
だから、今、元気いっぱいのリィと覚悟を決めたラピスが一足早く部屋を出ても、その後に続くための一歩を踏み出すのが重たかった。
『それなら行かなきゃいいじゃないか』
そんな声が聞こえた気がしたから、逃げるように部屋を飛び出したわけだけれども。
「それ以降に色々あったのもあるんだが、親方様が『たあああぁーーー!!』で解決したものだからな……」
チャトが仕掛けを前に頭を抱える。リィとリズムが横から覗き込んで、何の変哲もない岩壁に首をかしげた。
磯の洞窟の入り口を開くため仕掛けはいとも簡単、とはいかず。
それでも記憶を頼ったり、リズムが思い付きで関係のあることからないことまで何でも口を挟んだり、しばしの格闘の後。
何もなかった岩壁から、突如光があふれだした。何か文様が浮かび上がったようにも見えたが、瞬きのうちに収束してしまったため確認には至らなかった。
そこに現れたのは洞窟の入り口だった。先ほどまではなかった、つまり仕掛けを解いて先ほどの光が放たれたとともに出没した、隠されてた入り口。リィがおおっと声を上げて、真っ先に洞窟の中を覗き込んで、総員に声をかけた。
そして、今。ダンジョン攻略は至って順調であった。
「葉っぱカッター!」
リィが巻き起こした葉は、ひとつの群を為して桃色のトリトドンを取り巻く。ぬめりに阻まれでぐちょりとしおれつつも、抜群の相性の良さを活かして相手の体力を削る。
あとはアルトが波導弾を打ち込むことで、完全なる勝利を収める。
アルトの技選びを見て、ラピスは独り言のようにつぶやく。
「相手近いのに、それ、なんだ」
「なんか、触りたくない感触してそうだし」
「……それはそう」
ラピスが言い切るとともに、場に突如として歌声が響いた。豊かな音色と、心落ち着くような旋律は確かに美しいが、味方の行動として心当りがないイコール警戒すべきという図式は必須のスキルである。あったが、その次に同じポケモンが技を巻き起こす方が早かった。
「ハイパーボイス!」
思わず耳をふさぎたくなるような大音量が、閉鎖された洞窟空間に幾重にも響き渡り、互いに干渉しあう。アルトは思わず一歩飛びのいてから、その音の発生源を睨んだ。
「っあー、技かよ」
「技じゃなかったら何だというんだい!」
「『たあああぁぁー!!』とかそういうやつかと思ったんだよ!」
アルトはその使用者ことチャトと、目を回しているパウワウとを見比べた。技である以上起これはしないし、これでもパウワウの耳元で使ったようなので文句は言えまい。しかし技が技だ。近くでばしゃり、と水飛沫を上げて去って行ったヒトデマンも、流れ弾で身の危険を感じたのだろうか。
そんなことがありつつも、水タイプが多いダンジョンだから苦戦はせずに進んでいた。リィがトリトドンとの連戦をこなしながら、「ちょっと実力ついてきたかな……!」なんてこぼす一幕もありつつ、運よくすぐそこにあった階段を下りる。
そこはポケモンの気配のない、広く静粛な空間。中継地点とみてよさそうだ。アルトは伸びをしながら、先へと続く暗い通路を睨んだ。
「あともう少しだね……! 緊張してきたよ」
リィがそう声をかけてきたのを、アルトは目を合わせないまま答える。
進むにつれて、早く終わってほしいような、逃げたいような、立ち止まりたいような、忘れたいような、色々な思いが混ざってはアルトの心を波立たせていた。
「……ラスフィアとシュトラ、今頃どのあたりにいるんだろうな」
「うーん、どうだろうね。親方様のことだし、もうとっくにふたりを見つけていて、こっちに向かっているかもしれないね」
そんな他愛のない会話で、アルトは休まらない休憩をとる。気晴らしにと飲んだ水がむせ返りそうになって、息ごと呑み込んでやり過ごした。
そう悠長にするつもりもなかったから、リィが行こうかと声を上げるのも、それに全員がうなずくのも早かった。
「うん。ここからも頑張ろうね――きゃっ!?」
「リィ!?」
「同じ手に引っ掛かるとはな、ククッ」
からん、と音を立てて、それはリィの手元を離れた。
突き飛ばされたリィに咄嗟に駆け寄りつつ、アルトは乱入してきた声の主を睨む。
「チッ、まだ諦めてなかったのかよ」
「そりゃあだって、幻の大地に行けるチャンスなんて見逃せるわけがないよなぁ?」
『ドクローズ』のリーダーであるデスポートは、ゆったりとした動きで遺跡の欠片を拾い上げた。トレジャータウン近くで一旦対峙してもなお、だ。相当幻の大地に執着していることは容易にうかがえる。
「ねぇ、返してよ! それがないと、」
「ないとなんだい? 俺たちが幻の大地に行く、それでいいじゃないか! ククククッ」
「……うるさい、のっ!!」
ラピスの放つ閃光が洞窟中に弾ける。それが放電の形を為す前に、デスポートは遺跡の欠片を自慢げに掲げた。
「いいのかい? これが割れちまったりしたらさぞ大変だろうなぁ」
ラピスは悔しそうに引き下がる。デスポートの、そして後ろに控えている二匹の、あくどい笑みがより一層メロディを追い込む。
だが、そんな緊迫した空気を、一匹のポケモンが打ち破った。
「いやーお久しぶりですねドクローズさん! 皆さん遠征の時に急にいなくなったもので、ワタシずっと心配していたんですよ!」
思わず「は?」とこぼした者が数名。ニコニコと歩み寄るチャトに、デスポートはケッと吐き捨てるように呆れ顔を見せた。
「心配ねぇ、クククッ。お前らは本当におめでたいヤツらばかりだなだな、クククッ」
「あ、あれれ? 一体どうしたんですか……?」
「コイツらはずっとギルドを騙していただけなんだよ! リィに突っかかって、俺たちの邪魔してきただけだ!」
「そ、そうなの〜〜!?」
「ケッ、当然のことさ」
「今まで騙されていたお前たちがマヌケなだけだ。ヘヘッ!」
チャトはメロディとドクローズをせわしなく見比べる。この状況、肯定するのには十分だろうが、まだチャトの中では整理しきれていないようだった。
同時に、ドクローズの妨害が、全てチャトたちの視界外で行われていた事実、そのずるさに辟易する。
「とにかく。ようやく遺跡の欠片を手に入れた。あとは幻の大地へ行くだけだな。あばよ! マヌケども!! ククククッ」
言うが早いか、紫色の三つの影は最深部へと消えていく。あまりに早かった。逃げ足の速さか、何かアイテムでも使ったのか。ともかく一瞬のうちに姿は消えてしまった。
チャトは地団太を踏んで、ばさりと羽ばたいた。紅潮した横顔は、純度の高い感情に染まっていた。
「うぐー! アイツら、ワタシを騙していたとは……!! 許せない! 絶対とっちめてやるよ!」
「あっ、チャト! い、行っちゃった……」
手、もとい前足を伸ばしてぽかんとするリィに、ラピスは引きずらんとする気迫でひとこと。
「行くよ」
「えっ、あ、待って!」
何、と不機嫌に述べるラピスに、リィは慌てて弁明をする。咄嗟に口をついてしまっただけで、何を述べたかったわけでもなかったからだ。
「でも、えっと、あの強い敵ーっていうのもいつ出会うかわかんないよなぁって思って……」
「いたらそのとき、でしょ。今は遺跡の欠片の方が大事」
ラピスはひとり、最深部へと駆けていく。それを少し遅れて、アルトとリィも追いかける。
ただ、中継地点には一つだけ置き去りにされていたものがあって。次なる来訪者は、それを拾い上げて嘆息した。