95話 憧憬リフレクション
沈む、潜る、泳ぎ舞う。
時折聞こえる泡音がはじけて、無重力の体に安らぎを与えるかのよう。
口の中に塩味が広がる。それを忘れさせにかかるのが、戦闘で得た傷に沁みこむ海水。
痛い、つらい、前は見えない。
寒い、苦しい、後には引けない。
伸ばした手は海水しか掴めないし。呼び出したツタは海流を受けて目標点から遠ざかる。
それももう、深青に呑まれて見えはしないから、まるで虚空を手繰るようなつもりになって。
誰かが、肩を掴んだような気がした。
「――大丈夫!?」
身を包む感覚が切り替わって、エルファはそっと目を開けた。ぼやけた橙色は、じんわりと形を為して、その正体を明らかにする。
「……シイナ」
「とりあえず陸まで連れてくから、だから、お願いだから、たぶん、今めちゃくちゃ痛いと思うけど」
幸い、手近な岩場までの距離はそう遠くなかった。シイナの焦った横顔に目を細めて、エルファは溜め息をついた。
「ねーえ、……俺助けてたら時の歯車見失うよ?」
「仕方ないじゃん!! じゃあそのまま死にたかったの!?」
「いいや? ありがとね」
――時の歯車を追わないでくれて。
助けてくれた感謝より、そんな言葉が口の中に生まれた。けれども声に出すのだけはぐっとこらえた。性格が悪い。自分でもそう思う。
「エルくん、シイちゃん!」
そんな彼らの上から、聞き慣れた声の珍しい色が降り注いだ。見上げれば、落ちそうなくらいに崖の縁に立つリズムが伺えた。
「リズム! 崖下まで降りてきてくれる!?」
「わかったよ〜!」
リズムは崖の様子を観察すべく下を覗き込む。ほぼ垂直な崖は、クライミングよろしく降りるには厳しい高さである。当然飛び降りたら大怪我は避けられない。素直に回り道をするしかないだろう。
エルファを適当な岩に引き上げると、シイナは即座に海へと引き返した。
「うちは時の歯車探すから! 先にギルドに戻ってて!!」
「……無謀だね」
エルファのそんなぼやきさえ耳に入れぬまま、橙色はその色彩を海に溶かす。
海にはそんなにわかりやすい目印もないのだから、落下地点がどこなのかも既に曖昧になりつつあるのに。エルファはそっと目を閉じて、轟々と鳴り響く波音の中に気持ちを溶かした。
やがて、耳に自然音以外のものが届いたのを合図に、エルファは静かに振り返る。
「大丈夫ですか!?」
「シイちゃんが泳ぐの得意でよかったよ〜…….」
「あなたも結構無茶するんですね」
上からマリーネオ、リズム、ヴァイスだ。当然ながらスイの姿はない。
波しぶきが岩場を削らんと繰り返し打ち付けていた。エルファは白波から目線を外して、彼らに向き直る。
(何言えばいいんだろう)
言いたいことはあるけれども、どれから言葉にしていいのかわからなかった。そんな逡巡をする中で、一足早くマリーネオが口を開いた。
「ヴァイスはここに残ってもらっていい? 僕は先にギルドに戻って報告してきます。探すのにも人出は欲しいでしょうし。……あっでも」
マリーネオは言葉を区切ると、エルファとリズムの様子を見比べた。どちらも戦闘の跡がうかがえる点は共通だが、マリーネオが憂慮した点はもう一つある。
「『塩症』、草タイプのあなたなら知っていますよね? 一刻も早くギルドに戻るべきだと思います」
塩症、それは塩害と同義となる、草タイプ特有の症状。草タイプのポケモンが塩を被ったままでいると、枯れなどの体の異常を引き起こすものだ。だから、塩水、もとい海水に浸かった後はなるべく早く塩を落とす必要がある。
傷口に塩が沁みている状態に加えてこれがあるのだから、マリーネオの言うとは正論だ。
「でも俺は残ります」
「……いくらシイナさんが大事だとしても、自分の身を優先しましょう」
「そういう意味じゃないんですけどね?」
エルファはちらりとリズムの顔を垣間見た。
リズムが残ってくれて、かつ、「それ」を伝えて動いてくれるならいい。だけど、彼自身は「迷っている」と明言していた。
結局、自分が残るのが確実なのだ。いくら普段からリズムを信頼していても、そこは譲れない。
「エルくん。……僕も、ギルドに戻るべきだと思う。塩症のこともそうだしぃ……」
リズムは空を見上げた。嵐の一過の快晴は透き通っていて、真ん中にはまぶしい太陽がきらめいていた。
「時間の停止、この近くまで進んでいるんだよ。シイちゃん待ちたいのはわかるけど、ここに皆いたら、最悪は……」
それ以上は言わない。言えない。言わなくても伝わる。
エルファは嘆息した。わかってはいたが、反対意見しかない。それでも、残りたい理由があって、あって。
(……なんでシイナが回収して戻って来る前提なの?)
頭の中を涼しい風が吹き抜けた。いくらシイナが力を尽くしたとて、広大な海に打ち捨てられた一粒の宝石を、簡単に見つけられるわけがない。しかも「水中」、陸ほど色彩を目印に探せる環境でもない。
(あーでもそっか、マリーネオさんが救援呼ぶってなったら時間の問題なのかな。いずれにしても、海もろとも時間が止まるのとどっちが早いんだ、ってことだけど)
瞑目して考える。明らかにここに残るのは悪しき選択。傷の治療もままならない中、塩を浴びた状態のままなのはもちろん、時間停止の波は気長な猶予などくれはしない。
「でも、残ります」
賭かっているのは、自分の身ひとつではないのだから。
「本当は、うーん……というよりは普段なら、無理やりにでもギルドに戻ってもらうんだけどぉ……。僕、知ってるから。エルくんがそう言うなら、止めないよ」
知っているから、その言葉の真意はエルファにしか伝わらない。
「まぁギルドに戻らせるのが本当の優しさなんですけどね。わかりました。僕だけでギルドに戻る、これでいいですか?」
「お願いします」
三名がうなずいたのを見て、マリーネオはバッジを起動させた。見慣れない色のバッジが、煌々と光を放ち始める。
本当はリズムだってダメージを受けているから戻る方が良いのだが、エルファのあの様子を見たら彼も残ると言うことも同様に確からしかった。だからマリーネオはわざわざ確認もしなかった。
「ただ、いくらシイナさんが戻ってくる前だとしても、時間の停止に巻き込まれそうになったら即刻帰還してくださいね」
シイナを見捨てろ、なんて意味ではない。不必要な犠牲を生まないためにはそうせざるを得ない、万一その時が訪れたのなら。
マリーネオの姿は忽然と消える。辺りはうるさいくらいの風音と、轟々と鳴り響く波の音が支配していた。
「ヴァイスさん、ギルド時代の話聞いていい?」
「いいですよ。スイさんのことを知りたいのか、単に暇つぶしで全体的に知りたいのか測りかねますけど。前者からでいいですか?」
エルファは頷きながら、スカーフをひらりと巻き直した。夏の快晴空のような色が、潮風を浴びてばさりとたなびく。その横で、リズムが冷えた体を温めるために火の準備をし始める。
真昼の眩しい日差しが乱反射する中で、ヴァイスは語り始めた。
通りかかったポケモンは、そろって首を傾げた。シイナは頭を下げては、次へ、次へと泳ぎ進めるが、手がかりの一つさえありはしない。
当然だろう。シイナの、ブイゼルの手のひらに収まる程度の青い歯車だ。だだっ広い水中で目立つものではない。
おまけに、先日の荒れ模様のせいで海水は冷たいし、海流は想像以上に強い。体力を奪ってくるには十分な条件であった。
途中で出会った親切なチョンチーの応援の言葉を胸に、シイナは岩の上や隙間にも目を配る。周囲に気を払う一方で、シイナの頭には回顧録が流れ始める。
――「一緒に行く」、そういったときに向けられた目は今も覚えている。
「……本気で言ってる?」
エルファの迷惑そうな顔は、たぶんきっと、本当に迷惑だと思っていた。
まぁリズムが「いいよ〜!」なんてお気楽に言ってくれたのもあって、三名で探検隊を組むことになったのだが。
彼がそう言うのも無理はなかった。幼馴染三名の中では唯一、戦闘が得意なわけでもなかったし、むしろ一緒にダンジョンに行けば足を引っ張ることさえあった。
彼ら三名の幼馴染としての付き合いは、それこそ物心ついたときにまで遡る。気づいたら一緒に遊んでいて、覚えていることから仲が良かった。
「こんなもんかなっ」
目の前に伏すオニスズメを見下ろして、昔日のエルファは得意げな顔をする。これは四年前、彼らが十歳だったころだ。
「ひのこ〜!」
そこに元気な声が響いたかと思うと、エルファの真上から叫び声が降ってきた。それはそのまま、後ろの方へと遠ざかっていく。
「うん。ナイスだよ、リズムくん」
「ふふ〜ん。お兄ちゃんに褒められるの嬉しいねぇ」
「ふふ、ありがとう。僕もリズムくんにそう言ってもらえて嬉しい」
横にいたジャノビーはしゃがんでリズムの頭を撫でてから、むっとしているエルファに向き直る。
「最初この鳥ポケモンたちは3匹で襲いかかってきた。エルくんとリズムくんで1匹ずつ倒している間に、もう1匹は死角に入っていた。……ここまで大丈夫?」
1匹倒して満足してしまったことが隙となった、ということだ。エルファは不満げな顔をしつつも、自分の非であることを認めざるを得ないため、しぶしぶ頷いた。
「……シイナが倒してくれれば良かったのに」
「無理だったんだよ!? 上に行っちゃって技当たらなくて!!」
そう抗議するシイナの足元には水たまりができていた。たぶん、みずでっぽうの残骸だろう。
「まぁそれも改善点なのは言うまでもないけど……。そういった事態まで想定して立ち回るのも大事だよ。わかった、エルくん?」
まぁそんな調子で、戦闘については三名ともバウムに教えてもらっていた。身近で戦闘が得意と言えば彼が最上位に上がること、エルファの兄という接しやすい立場にあること。そして三名とも、その大きさにばらつきはあれど、彼を慕っていたからだ。
じゃあ、誰が一番バウムを慕っていたか。それは当然のように実の弟になる。
「お兄ちゃんみたいになりたい」
それは口癖の一つだった。幼い時から変わらない、彼を貫く一つの思い。
「じゃあ追いついてごらん。まぁ今のエル君じゃ僕の五分の一に及ぶかもわからないけれどね」
「仕方ないじゃん、十歳も離れているんだよ?」
「それはそうだし、今追いつけとは言っていないよ。指数関数的に伸びるのならなおさらね。……でも、エルくんは十年後、僕と同じレベルに立てるって思っている? 今の状態で」
エルファは返す言葉を失って黙り込む。バウムの言うことは正論なのだが、それを容赦なく論じてくる厳しさも持っている。笑顔かつ声色が穏やかなのか救いか、余計に厳しく見えるのか。
「僕に追いつくと言ったからには、追いついてもらえるだけのことは教えるよ。ただ、僕は立ち止まらないから。十年前の僕に追いつけたら上出来なくらいじゃないかな」
それさえも遠い目標になることをエルファは知っていた。周囲に鬼才と言わしめるほどの並外れた戦闘力、頭脳面も高いレベルにある。家系の特徴をより色濃く持って生を受けた、通称「神樹」。対するエルファは、ずいぶんと平凡な才に留まっていた。だから兄にあこがれて、もがいてでも追いつきたいと願った。
「じゃあ、お兄ちゃんが十歳のときどんな感じだったの?」
「弟ができるって嬉しくなったかな。それからお兄ちゃんらしくなろうって進化もしてね。はじめてエルくんを見たとき嬉しかったな」
「あのさぁ、そうじゃなくて……ありがと。お兄ちゃん好き」
「ふふ、僕もエルくん好きだよ」
こういう彼らの関係性は、リズムもシイナもよく知っていた。幼馴染なのもあって、気づいたらエルファと共にバトルの訓練をしてもらうこともあった。リズムはそれが功を奏してそれなりの実力を持っていた。
ただし、シイナはそこまでに至っていなかった。
「え、待って! キツイって……!」
「そっか。シイナちゃんはあれかな、戦闘だけをやりたいわけじゃないんでしょ? 無理をする必要はないからね」
圧を感じる言い方だが、バウムにそのつもりはないし、これが事実。
じゃあシイナ自身、他に何がやりたいかというと、純白の紙に見つめられるだけにとどまってしまう。戦闘は必須能力として最低限身に付けられれば良くて、強くなりたいとまでは思わなかった。いや、過去には思った。
(だって、みんなのレベルが高すぎる)
神樹と謳われるバウム、それに追いつくための努力を欠かさないエルファ、そしてなんでも挑戦し卒なく身に着けていくリズム。
井の中のニョロモが大海を知らないのなら、シイナは荒れ狂う海しか知らなかった。周囲のレベルの高さを幼くして知り、伸びることに諦めを抱いた。
だから、そこで立ち止まった。
だから、差が開いた。
だから、今でも彼らの実力には遠く及ばない。
決して幼馴染としての仲が決壊したわけではない。ずっと彼ららしい会話で、いつだって盛り上がってきた。ただ戦闘力という点で追いつけないと知ってしまった、それだけで。
「――本気で言ってる?」
そう言われて、返す言葉に困った。
もっとも現実は、返答に悩む間もなくリズムが踊りながらうなずいてくれたおかげで、すんなりと話が進んだのだが。
「僕はいいよ〜! 楽しいからねぇ、またよろしくね〜シイちゃん」
「あのさぁ? まぁ……俺も別にいいけど、来れるの?」
言葉のない言葉の中には、色んな意味が含まれていた。家族からの了承はもちろん、実力、修行の日々、その他すべてを包括した確認の問いかけ。
シイナはうなずいた。両親は快く背中を押してくれたが、妹ことヴェレにはひどい反対をされた。「ヴェレがいなきゃ何もできない」「おししょーとせんせーの足引っ張る」「ヴェレの方が戦える」。最後の真偽はともかくとして、なかなかの辛辣っぷりであった。
「まだ全然戦闘力追いついてないのは事実だけど……!」
「あーじゃあさ、話しかけやすそうな探検隊にでも手合わせお願いしてみるとかどう?」
「そんな探検隊いる!?」
「そのうち会えるんじゃないかなぁ。ふふん、楽しみだねぇ」
「楽しみ!? どこが!?」
これが彼らのいつも通りの会話。その日は一旦自分たちの家に帰って、翌日街を出る予定に胸を弾ませた。せっかくだし、ダンジョンも街も、いろいろと寄り道をしながらギルドを目指せばよい。どうせギルドに入ってしまえば、あまり休みはないのだから。
――そして幼馴染は、苦楽を共にするチームメイトへと昇華した。
「強くあって、優しくあって、例え手厳しくたって一生ついていきたいと思える、世界一カッコいい」
「同い年なのが信じられないくらい、なんでもできるし、色々とついていくのに精いっぱいだけど」
そんなあなたに、
「お兄ちゃんみたいに」
「エルファみたいに」
――なりたかったな。
ぐらり、と上下が反転した。違う、そう感じただけか。わからない、酸欠気味の頭では判別できない。
体が重くなってきた。上を見上げて理解、だいぶ深くまで潜っていたらしい。まぶしい水面は空くらいに遠く見えた。
虫ポケモンが天空高くを舞えないように、水タイプにだって適した水深というものがある。彼女自身も普段から深くに潜るわけではないから、ブイゼルの中でも限度は浅い方だし、慣れない分余計に体力を消耗する。
(一回浅いところいった方がいいかな。でも、そんなことしてる余裕ないし)
こぽり、口から泡が溢れる。苦しい。視界が霞んで、白泡は海の色にぼやけて溶ける。
もしかしたら今目の前にあるのかもしれない。そんな妄想をしては、鼓舞して、現実を見る前に妄想で上書きする。一刻も早く見つけたいとはやる気持ちと絶対に見つけなければならないプレッシャーで、指の先までが鼓動に合わせて震えるようだった。
(……体力、もっとほしいな)
そのとき、ごうっと音がして、海流の向きが切り替わった。抗う体力も持たないシイナは、暴れる海流に身を奪われる。
流れの上の方で何かがきらりと光った。かと思えばみるみるうちに近づいてきて、その全貌を露わにする。
それはとても大きな、初めて見るポケモンだった。