94話 雨が上がった後に
「……?」
先頭を走っていたラピスは、ふと視界の端に映ったそれのため足を止めた。
場所はダンジョンを抜けたところ。どうやらすでに時が停止したようで、空は一面灰色に覆いつくされているし、強かったはずの風は跡形もない。宙に舞ったままの葉を避けて、アルトはラピスが目を止めたそれを手に取った。
「ダンジョンじゃねぇから、探検隊の落とし物とかなのか?」
「そうなのかもね。でもこんなの見たことないよ」
続いてリィもそれを少し後ろから覗き込んだ。見つけた張本人が早くしろと訴えるものの、少しだけと頼み込みながらそれを確認する。
石板のようだった。何やら文字が書かれているようだが、アルトにもリィにも読めるものではなかった。素材らしいひんやりとした手触りが指の中にまで入り込んできて、アルトは思わずそれを地面に置いた。太陽のないこの環境下、冷たいものについぞっと悪寒が走ってしまったのだ。
代わってリィがそれを手に取った。がそろそろラピス側も我慢の限界で、大きくため息をついて走る姿勢をとった。
「知らん。早く、先行きたい」
「あっごめんね……! これ気になるから持って帰りたいけどいいかなぁ」
「好きにすりゃいいんじゃね?」
「そっか。じゃあ……あっでもこれアルトが持っててもらえるかな。私遺跡の欠片持ってるから、こんなすごそうなものまで持てないよ」
えへへ、と笑う彼女を断ることができず、アルトは仕方なくそれをバッグにしまい込んだ。正直あまり気乗りはしなかったが、アルト自身もこれに何か秘密がありそうできになっていたから持ち帰り自体には賛成だった。
幻の大地には関係ないと分かっていても、ついそんなわくわく感がちらりと覗いて。あぁ職業病か、なんて自覚も湧いてきて、無意識のうちに自分のバッジに手を添えていた。
(ラスフィアもあれ、本当はギルドに戻るつもりなんてなかったんだよな)
元々「短期予定」として加入していた。それはあくまでギルドに加入することで調査の一助とすること、そして星の停止を食い止めるときに、自分の存在を待つ者がいないようにするための選択。
まぁ何を思っていたところで、今朝のあの親方に対してイエス以外の答えはできなかったのだが。
(正直俺もギルド抜けてぇよ)
余計なことを考えたくない。
ずっとここにいたいなんて幻想を持ちたくない。
――リィと、エルファと、これ以上一緒にいたくない。
今更、なども関係なしにあの親方が承諾するわけもないので、そんな選択のしようはない。わかっていても、そんな思いが胸をよぎる。
なんにせよ今考えても仕方のないことだ。アルトは舌打ちを一つしてから、背中からわかるほど不機嫌なラピスを急いで追いかけた。
きっとこの先も、時間は停止している。それが大陸中に波及するのも時間の問題だし、なにより元から短いタイムリミットが更に削られている。
一周回ったのか元から無かったのか。なぜか焦燥感に駆られはしなかったけれども。
暴れる潮風に煽られて、葉は行く先を見失う。逸れた軌道の上を炎が駆け抜けて、回り込むように澄んだ水流が地面を濡らす。
白銀は軽やかにすり抜けると、フリューデルの背後で光の剣を展開した。
「剣の舞」
「へぇ、性格が悪――っ!?」
エルファは慌てて横に飛ぼうとしたが間に合わなかった。
それは、単なる剣の舞ではなかった。きらりと赤い太陽を反射した光の剣は、舞い踊り切っ先をフリューデルに向ける。軽やかな短剣の雨は、彼らに逃げる隙を与えなかった。
「性格悪いね?」
「遮っても尚言うか」
「言わせてよそのくらいさぁ?」
負った切り傷の程度を指先で確かめながら、エルファは苦い顔をする。単に攻撃力を強化する技だと高をくくっていたのはこちらだとしても、そんな戦法があるだなんて咄嗟に思いつくわけがない。そんな言い訳を繰り返しながら、横目でリズムとシイナの様子を確認した。
想像以上に分が悪い。エルファは奥歯を食いしばって、声を張り上げる。
「リズム頼んだよ!」
「了解だよ〜! 煙幕ー」
リズムの放った黒煙は広がる。でも、スイの視界を遮るに至らない。召喚した刃で幕を切り裂き、スイはリズムとの距離を一気に詰める。
「ふいうち」
「うっ……。思ってた以上に手ごわいんだねぇ」
「……貴様が何をするつもりだったかは知らないが、余計な動きをされると目障りなのでな」
「んん〜、そっかぁ。じゃあ一個だけ聞くけどぉ。僕たちが傍観者で、エルくんと一騎打ちの方が良かった?」
スイはすっと目を細めた。
「いようがいまいが変わらん。目に触るだけでな」
「うん。じゃあ、変わるって言わせてあげたいなぁ」
「――エルファ!」
「ありがと、シイナ!」
宙を舞うそれをエルファはぱしっと受け取り、即座に口に放り込んだ。この間二秒、しかしスイの動体視力は「それ」の正体をしっかりと見定めていた。
「……猛撃のタネ、か」
「そうだよ。俺の目的はあくまでアンタに対する恨みを晴らすこと。このくらいしても文句ないよね?」
「構わん。それで俺に並ぶ威力を得られるとでも思うならな」
「言ってくれるじゃん? アンタひとり、俺だけで十分なくらいだよ――!」
エルファが左手を空高く掲げる。その手のひらに蛍のように現れた光の粒は、みるみるうちに肥大化していった。普段の三倍はくだらない速さで、いつもの二倍の大きさに育ったそれに、エルファは手を振り下ろすことで発射の合図とする。
「エナジーボール!!」
「その程度でよく言う。……辻斬り」
スイだって無策で見ていたわけではない。エルファとの会話の最中から、つまり彼が猛撃のタネを口に含んだ時から、自らのツメに得意技の準備を仕込んでいた。
夜闇のツメが、生命力にあふれた球体を切り裂く。瞬間、球は弾け、轟音が風音に乗る。衝撃派を姿勢を下げてやり過ごしたスイは、力強く地面を蹴って飛びあがった。そのまま身長より高い岩に飛び乗ると、冷徹な瞳でフリューデルを見下ろした。
「剣の舞」
「二回目はさせないよ! グラスミキサー!」
「炎の渦ー!」
剣の舞が完成する前に、スイは飛来する二種の技の対応をせざるを得なかった。ワンステップで岩から降りて直撃を避け、それでもなお避けきれぬものは辻斬りで薙ぎ払う。
そうして開けた視界に、宙に舞う水飛沫がきらめいた。
「アクアジェット!!」
「……そっちが本命か」
でんこうせっか同様、素早さに特化した技で、スイは避けきれない。避けない。だからこそ、転機。
「辻斬り」
「――っ」
ゼロ距離から放たれては、シイナの方も直撃を免れることはままならない。いくら溜めが短いからと言って、剣の舞で強化された得意技はそう軽くはなかった。咄嗟に腹を押さえたシイナを、スイは静かに見下ろし、旋風をまとう。目に見えないから、それが技の構えと判断するまでに少々の間を要する。――それを、隙と言う。
「っ、シイナ離れて!!」
「かまいたち」
エルファが手を伸ばすより早く、数多の風の刃が彼らに降る。攻撃範囲はスイの近くにいるシイナだけにとどまらない。ひゅん、風を切る音が耳に届いたら、それはもう手遅れなのだから。
運よく被弾が少なめだったリズムは、即座に体勢を持ち直して、スイに向かう。
「スピードスター!」
初速度はふわり、ゆるやかだった星々は、一度狙いを定めたら一直線に走り抜ける。一部軌道を外れて踊る星があるのも、彼の技に個性を付していた。
絶対必中、だからスイは打ち消すことを第一に置く。その隙にシイナは飛ぶようにその場を離れ、乱れた息を整える。
「めちゃくちゃ強くない!?」
「そりゃそうでしょ。アグノム倒すくらいだよ?」
「いやそれ相性の問題かと思った」
「……まぁそれもあるけどさ、シュトラとラスフィアを合わせたくらいの戦闘力は見積もっとくもんだよ。戦ったことないけど」
「今さら言う!?」
「弱いとでも思ってたの? ……相応の実力がなきゃハイリスク冒してまで歯車を盗ったりしないよ」
「いやそうだけど! そうだけど、でも」
スイの周りに漂う光の粒を眺めて、シイナは苦しげな顔をする。あの様子から察するに、スピードスターは一定量打ち砕かれている。
シイナが言いたいことも、エルファは察していた。想像以上に強い、と。
わかっている、強いことくらい。ただ、シイナとエルファで想定の基準が乖離していただけで。
(こっちの技は、だいたい打ち消していて、たまに避けてる?)
打ち消すという仕様上、しかも主たる武器が前足のツメであることから察するに、かけらもダメージが入っていないわけではないだろう。ないはずだ。それ以上に、こっちのダメージが大きいだけで。
スイの得意とする斬撃技と、崖上まで吹き抜ける潮風と。絶妙に相性が良くて、切り跡が形を訴えるように痛む。
「エルファ、普通に戦っちゃ無理だよ。『時の歯車を取り返すことを最優先にして』って親方様も言ってたし」
シイナの説得を、エルファは右から左へと流す。
――別にアルトが考えている理由じゃなくて、単純に取り返したいだけだよ?
その言葉に嘘はない。ただ、取り返すかどうかは二の次の話。エルファ自身はただ、スイに一矢報いたいだけなのだ。それが「本当の理由」。
だから道具を駆使してでも奪還する。彼をそうさせる理由はここにはないのだ。
「なんてまぁ能力上げさせてはもらったけどさ、だからこそ……俺は俺の目的を果たすよ」
シイナが呼び止めるのも気に留めない。エルファは地面を蹴って、眼下にスイを捉える。
「グラスミキサー!」
溜め無しで放ったそれは、普段通りのものに近い。つまり、今強化されている利点を活かしきってはいない。
それでいい。
グラスミキサーの制御を慣性に任せるや否や、エルファは尾に意識を集中させる。案の定、葉の渦はスイにダメージを与えるに至らなかったけれども、次の技の準備時間を稼ぐには十分だった。
「斬撃返しだね、リーフブレード!」
ぱ、とダストが光った。大きく振るった尾はダメージになるほどの命中はしておらず、流れるような体毛の先を切り裂く程度に留まった。きらきらと舞い踊るそれに思わず目を奪われそうになるが、あいにくそんな暇はない。
「つばめがえし!」
「シャドークロー」
軽やかに舞うエルファに、スイは正面から立ち向かう。
エルファの手に、今度こそダメージを与えた感覚が握られる。同時に、左腕には貫くような痛みが突き抜けた。
「やっちゃった」
エルファが近接戦を避けていたのは、他でもない、スイの苛烈な斬撃のためだった。
元の戦闘力もさることながら、剣の舞で強化してある物理攻撃。かつ、彼らの間にある確執。特にエルファに対しては、単なる戦闘の域に留まらないほどの傷を負わせにかかる可能性だってあった。
でも、遠距離攻撃頼りでは埒が明かないのだ。そして最初から無傷で帰れるだなんて思っていない。つもりもない。
「ま、物理技の気分だし?」
エルファは姿勢を低くしてスイと一旦距離を開ける。そこを通り抜けるのは、一筋の炎。付随して、煙幕が辺り一面に広がる。
せっかくリズムが視界を奪ってくれたものを無駄にしたくない。お礼は心の中だけにとどめて、取り出したオレンの実の果汁を傷口に絞る。それから残った実を口に放り込んで、勢いよく噛む。残っていた果汁から、個性たっぷりの香りが鼻に抜けた。
煙幕の中から火の粉が舞う。同時に目の前の黒煙が裂ける。そこめがけて放たれた水流を、スイは予想通りだと言わんばかりに呼び出した刃で切り裂いた。
「リーフブレード、っと!」
得た隙で、エルファは再び尾を振るう。萌ゆる緑色の光が、スイを切り裂かんとより強く瞬く。
対応しきれなかったスイはそれを受け、鋭い視線でエルファを睨んだ。
「よかった、ちゃんとダメージは通ってくれるんだね?」
わずかに声が弾んだ。直後、傷跡がえぐってくるダメージが案外大きくて、エルファは一瞬だけ顔をしかめた。相手が毒使いじゃないのがせめてもの救いか。
「ダメージさえ与えられれば満足ではないのか――剣の舞」
「いや? こんな絶好の機会をそれだけで終わらせるわけないじゃん……っ」
剣の舞を妨害しようと、エルファはグラスミキサーを展開しようとした。しかし伸ばした手は途中で地面に落ちる。いくらオレンの実を使ったとて傷が治りきったわけではなかったのだ。
そのままスイは更なる火力を得て、エルファは光剣の残滓に身を削られる。
「ふいうち」
――避けられないな。
高速で繰り出されたそれをもろに受け、エルファは苦し気に咳込んだ。喉が焼けるように痛む。防御姿勢を取らなければ連撃を受ける。わかっていても、体は思うように動いてくれはしない。
「水の波導!」
「スピードスター!」
これが単騎だったらここで詰んでいた。二種類の軌跡に感謝を込めながら、エルファは後衛へとまわる。
「……正直どう?」
「僕はちょっと厳しいかなぁ」
「めちゃくちゃキツイ!」
前線をリズムとシイナに譲り、エルファはしばしの回復に専念する。かまいたちを溜めさせなければ、そんなに遠距離の攻撃が飛んでくるわけではない。ここまでの戦闘から下したその判断は、決して間違ってはいない。
ただ、前衛が想像以上に激戦を強いられるだけであって。
「リズム!」
炎をまとったリズムを迎え撃つ夜色のツメ。それは二回目の剣の舞によりさらに強化されていて、いともたやすく彼を退けた。
その威力を目の当たりにしたシイナも、遠距離戦へと切り替えようとする。だが、スイの連撃はそれより早い。
「痛……っ」
そして、重い。数秒相手の動きを封じるには十分すぎるほどに。当然それも、スイにとっては転機となる。
「かまいたち」
「間に合って、エナジーボール!」
焦った。だから、手元が狂った。
エルファの手を離れたエナジーボールは想定の軌道を外れていく。当然スイには命中せず、かまいたちの準備を許す。
スイが目を開くとともに駆け巡り始めた風の刃は、当て損ねたエナジーボールもろとも、フリューデルに降り注ぐ。
(今のは完全に俺が戦犯だよ)
その方向にはシイナがいた。かまいたちが切り裂いてくれなければ、もしかしたら命中させてしまったかもしれない。そんな思いがエルファの胸を締め付ける。
――完全にやらかした。
加えて、風の刃の猛攻は今までよりも重かった。全員、ダメージが蓄積された状況だから、体感はもっと重かった。
息を吐ききって、一気に吸い直す。それでも頭がくらくらする。圧倒的に劣勢だと認めざるを得ないが、これを切り返すほどの策はない。
(どうしよう。でも焦ったら、またやっちゃうかもしれない)
指の先が震えていた。焦りはより増幅されて、過呼吸寸前まで喉を絞める。
間違って当てるのが怖い。だったら、近接戦に切り替えよう。そう思考するエルファの頭からは既に、剣の舞を重ねがけしているという状態が頭から抜けていた。
「つじぎり」
「リーフブレード!!」
持てる力を使い尽くす勢いで振るった。それなのに、スイには届かない。
体は弾き飛ばされて、小石が散らばる地面に叩き付けられる。肺に残っていた空気がかけらも残らず吐かれていった。口の中に砂が入るが、それを吐く余裕はない。
苦しい。そこに否定の隙が入る余地もなく、エルファの視界を霞ませる。
「無理じゃん、これ……」
一度知ってしまった苦は、そう簡単に頭から抜けない。
近距離戦は危険すぎる。かといって遠距離となると、エルファは自信をもって技を打てなくなる。
(俺が前衛に行って、リズムとシイナに遠距離攻撃してもらう?)
確かに案のひとつだが、それで決定打を打てるわけではない。それに、残っている体力と受けた傷跡を考えると、エルファ自身の命の危険性が大きすぎる。いくら特性「しんりょく」を発動させたってそれは変わらない。
打開策がない。考えるだけの時間も、向こうは与えなどしない。
「どの程度なら生き残る?」
「……へぇ、生かす気はあるんだ?」
「そこまで手を染めるつもりはないだけだ」
リズムもシイナも相当疲弊している。戦闘を続行することが望ましいとは言い難い。エルファはふらつく足で地面を蹴り飛ばして、なんとかスイと距離を開ける。
――逃げるのが最善手かもしれない。
甘えだと分かっている。わかっているのに、そんな案が浮かんでしまうほど、自明な劣勢だった。
(それすっごい悔しいんだけどね)
エルファはスイの翠瞳を睨む。
今、自分はどう動くべきか。どんな判断を下すべきなのか、――どうしたいのか、なってほしいのか、その理想論は、どこ。
「――さすがですよ、本当」
そんな思考は半ばで打ち切られた。
「追いかけるって言われた時は正直半信半疑だったんですけど……信頼に値しますね。最も、いい意味ではないんですけど」
マリーネオは呆れ顔でそう述べた。横に立つヴァイスは、透徹した目で戦痕を観察している。
その乱入者にスイはばっと振り返ったが、正体を確認するとすっと瞑目した。
「その装備、探検隊仕様か。お二人のその様子は久しぶりに見ましたが、コイツらの助っ人にでもなるつもりですか」
「違いますよ。僕たちはどちらの味方にも付きません。1vs3vs2です」
確かにマリーネオもヴァイスも、カフェで見るのとはまた異なった雰囲気だった。マリーネオの前髪を留めるピンが、日差しに照らされて一度瞬く。
言葉をそのまま呑むのなら、これで形勢が有利になるわけではなさそうだが、しばしのインターバルになるのであればひとまずはそれでよかった。
エルファはすっと目を細めると、彼らに不愛想に質問を投げかけた。
「『久しぶり』、ねぇ。知り合いだったんだ?」
「そうですよ。僕たちがこの大陸へ来る以前から、ギルド時代からの知り合いです。だからこそ、僕はあなたとスイさんの関係性の方がよほど謎めいていますが」
「……なぜそれを知っているんですかねー?」
「この際なので白状してしまいますが……以前、あなたたちが話しているのを盗み聞きしてしまったんですよねっ。アルトさんたちが未来世界へ連れていかれる前くらいでしょうか」
嘘だろ、と当人たちが頬を引きつらせる。彼らの間に穏やかな会話などないのだから、余計に。
「一瞬あなたの探し人かとも思いましたが、まぁ違いますよね」
「どうしたらそう思える?」
「可能性の話ですって。そのくらいじゃないとあなたがこちらの大陸にいる理由が掴めなかったんですよ」
スイの殺意に満ちた目に、ヴァイスは肩をすくめた。
その一方、フリューデルサイドには、「彼らのギルド時代からの知り合い」という言葉が重く響いていた。カフェの常連なんてそんな気楽な関係性ではなさそうだ。
会話の内容から、完全に手を組んでいるようには見えない。見えないけれども、リサウンドがスイ側に就く、3vs3になる可能性が否定できない。
「ね、リサウンドさん――」
踏み出そうとした足は、伸ばそうとした手は、言うことを聞かず動作を拒む。その理由はいたって単純だ。なぜなら、ぴんと耳を立てたマリーネオが、淡い光をまとっていたから。
「会話に入るなとまでは言いませんけど、あまり部外者に手を出してもらいたくないんですよ。悪く思わないでくださいね、エルファさん」
「だからって動き止めなくたっていいじゃん!?」
シイナの抗議に対して、マリーネオは耳を開いたまま嘆息した。右手のひらでフリューデルを指し示し、淡々と言葉を紡ぐ。
「エルファさんに戦意がないならそうしていましたよ。あなたたちの確執に関して僕は知りませんし、僕自身の目的はフリューデルさんと同じです。それなのにそんなに殺意ある目で技の準備し始めたら、僕だって先手を打ちます。万一でも巻き込まれたくはないので」
マリーネオの耳がゆっくりと閉じる。それに伴って、エルファを拘束していた得体のしれない力は弱まって、ついには霧散する。
事実、エルファはエナジーボールを溜めようとした。マリーネオとヴァイスがどう動くにせよ、スイを倒さなければいけない事実に変化はないから、いつでも発射できる用意はしておこうと、と。もっとも、エルファの心象もあって、技の形を為すことさえなかったのだが。
その様を横目で眺めていたヴァイスと、苦い顔のエルファと。一瞬視線が交錯し、互いに向けた一言が胸をよぎる。けれどもエルファは飲み込んで、ヴァイスもため息に乗せて吐いてから改めてスイに向き直った。
「スイさん。私たちの主張は『時の歯車を返してほしい』、それだけです。……あなたと争うつもりは微塵もないんですよ、お願いできますか?」
「いくらリサウンドさんとはいえ、それで退く程度なら、最初から時の歯車なんぞに手を出したりはしない」
「あなたが応じないのなら、リサウンドはフリューデルさん側につきます。いくら一線を退いているとはいえ、あなたに隙を作るくらいたやすいですよ」
「知っている」
スイは至って冷静にそう答えた。
「旧知の方という意味でも、無謀という意味でも、リサウンドさんを敵には回さない」
スイの前足に澄んだ蒼碧がきらめいた。見間違うことはない、「時の歯車」。見惚れるくらいに透明感のある色彩は、まるで宝石のようだった。
美しい。いくら時の歯車が手のひらサイズの小ささだって、間近で見なくたって、その感想が揺れることはなかった。
スイは身を翻した。かと思うと、崖の縁へ一気に跳躍。
瞬間、蒼い歯車はスイの元を離れる。きらり、光ったのが見えたのは、一瞬の話。それは海に向かって垂直落下していった。
「待って――っ!」
手を伸ばす、届かない。前へ、届け。
「エルファっ!!」
「エルくん!?」
「エルファさん!!」
瞬きの間だけ、無重力になった気がした。
地面がない。掴むものもない。
崖の下はこんなにも広く海が広がっていたんだ、そんな感慨も浮かんで消えて。
迫る海面を睨んで、痛いくらいの風圧に目を細めて、エルファは重力に身を委ねる。
目線の先で歯車が白い王冠を被る。エルファは来るべき瞬間に備えて瞼を閉じる。風の音も、波の音も、今まで聞いた中で一番大きく聞こえた。
全身が冷え行く感覚に襲われたのは、それから一さえも数えないタイミングでの出来事だった。