93話 反逆の対旋律
道いっぱいに広がった水たまりを飛び越えて、露をまとった草を踏みぬいた。はじけた露が、足に絡みついた泥を払ってくれた。
久しぶりの朝日はまぶしくて、エルファは目を細めて行く先を見据えた。ギルド自体が大陸西方にあるから、どのダンジョンに行くにしても、まずは東向きに走る必要があるのだ。
「エルファー、今どこに向かってる?」
「適当」
「適当!?」
「だって当てがあるわけじゃないからさ、強いて言うなら俺の直感だけど。……シイナが見当付いている、っていうんなら先頭代わるよ?」
「い、いやないけど!?」
エルファは、どのようなルートを辿るかは考えていた。しかし、それを相談か共有かしようとした矢先にドクローズとメロディとエンカウント。思考回路は中断されたし、リズムやシイナからしてみればとりあえず動いているだけに見えている、それも理解していた。
「とりあえず海沿いに行こうと思ってるよ。まぁ滝つぼの洞窟も身を隠すにはいいかもしれないけど、知ってるかは微妙だしさ」
小さな川沿いの道へ出て、エルファはそこの水をひとすくい口に含んだ。水底が見えるほどに透明な水は、クールダウンするにはちょうど良い温度であり、すっと頭が冴えるような心地がした。リズムとシイナも川辺でしばしの休息をとる。
エルファは口元をぬぐうと、川面に映り込む自分の顔を見つめた。鮮明に見えずとも、自分が思いつめた顔をしているのはわかっていた。
「どうせスイのことだし性格悪いことするでしょ、マグマに捨てるじゃないけどさ」
「えっ、“スイ”って? エルファ知ってるの?」
「…………」
一瞬振り向きかけて、抑制。
口が滑った。発言を取り消せるのならそうしたいところだ。エルファは誤魔化すようにもう一口水を口に含んでから、ゆっくりと振り返った。
「……何が?」
「えっ、いや今スイって言ったから誰のことなのかなって」
これがリィだったら、「聞き間違いかもしれない、ごめんね」くらい言ってくれたかもしれない。シイナは良くも悪くも追及しがちなタチなのだ。
どう誤魔化すか、思案するほどに彼女の視線が気になって、リズムに助けを求めたくなる。が、彼に頼む方がよほど不自然だし、そもそもの本人は石で水切りをしていた。普段ほどの明るい表情ではなかったのだが。
エルファは嘆息して、シンプルな手で妥協することにした。
「聞き間違いじゃない? アイツ、って言っただけだから。時の歯車がシュトラたちの手に渡らないようにするには自分で持っているのが最善だもんね。合理的だけど性格悪いな、って思っただけだよ」
「え、うん。わかった……」
釈然としない表情のシイナを差し置いて、エルファは身を翻した。
「行くよ、リズム?」
「わかったよ〜! さっきねぇ、新記録出せたんだよねぇ。ちょっと面白くなっちゃって」
「へぇ、じゃあ俺も練習しないといけないかな? 水切りに関しては負けたくないんだよね」
「面白そうって思ったけどあれ苦手だった……!! リズム今度教えて!?」
「いいけどぉ……前やったとき」
「全然上達しなかったのは事実だけど掘り返さないで!?」
「自分で言っていくところ嫌いじゃないよ?」
「煽ってる!? ねぇ煽ってるよね!!」
そんな閑話も挟みつつ、一行は南へ向かっていく。途中、出会うポケモンに話を聞いてみるも、有力といえるほどのものはなくて。そもそもアブソル自体を見たことがない、なんてポケモンもいたくらいだった。
そんな中たどり着いたのは、小高い丘が連なる台地であった。岩の階段を上って、少し高くから景色を眺めた。この丘を越えれば海が見えるはずだ。遠征の時に通った沿岸の岩場にもほど近い。エルファは岩陰に入って少し体を冷やしつつ、広がる空の色を目に落とす。
「……え?」
その異変は、全員が、すぐに気が付いた。
空の向こうには、嵐をもたらすかのような巨大な雲。空を飲み込むかのように、朝の光を食いつぶすように両手を広げているそれが、まばたきをするたびに迫ってきていた。
暗くなった雲の下で、木が灰色に染まるのが見えた。周囲から、少しずつ、風の音が減っていくのを感じた。
そして、――背筋が凍るかのような、恐怖。
「っ、ダンジョンに入って!!」
「うん!!」
エルファはそう叫んで、看板付きの洞窟に向かう。もともと探検隊やキャンプ客も多く訪れるらしいここは、丁寧にダンジョンの入り口を示していたのだ。
洞窟に駆け込んで、しばらく走ると、急に視界が開けた。無事ダンジョンには葉入れたようだ。部屋で眠っていたイシツブテが寝ぼけ眼でこちらを見上げた。その横にはオレンの実が確認できた。
「起こして悪かったね? グラスミキサー!」
「悪気はなかったんだよ!? 水の波導っ!!」
オレンの実を掴んでから飛びかかってきたイシツブテを、エルファとシイナが得意技で打ちのめす。木の実を食べる暇さえ与えず、相手をノックアウトさせてみせた。
転がり落ちたオレンの実を、リズムが両手で拾い上げた。それを見つめながら、いつもより低い声で踏み込んだ。
「今のってたぶん」
「時間停止の波だと思うよ。まぁ確かめてて俺たちが停止しちゃうんじゃ話になんないし、推測だけどね」
「もしかしたら、ダンジョン出たら時間が止まってるかもしれない?」
「かもしれないね。まぁダンジョンも防波堤にはなるから、実際どうなっているかはわからないけどさ。……ま、俺としては止まっていてくれてた方が、安全に動けるからありがたいかな」
エルファの言うことに間違いはなかった。すでに時間が停止したところを歩く分には、自分たちが停止に巻き込まれる心配はしなくてもよい。あの未来世界を歩いているのと同じ状況にすぎないのだから。
ともかく、ダンジョンを抜けないことにはどうにもならない。だから進む、しかないのだが。
「……エルくん〜、階段たぶんこの、最初の部屋まで戻らないと行けないと思うなぁ」
やっぱりダンジョンの探索には向きつつも、突破には向いていなかった。エルファは行き止まりの部屋を見渡してから、バッグに手を入れた。
「……と思うじゃん?」
「そ、それは……っ!?」
シイナがあっと声をあげた。エルファの両手には一つずつ、この場を切り抜ける最適アイテム「せいなるタネ」が乗せられていた。
エルファはにやっと笑ってから、片方をリズムの方へ放り投げた。
「じゃ、行こっか」
「いいよ〜!」
「いや待って待ってねぇ待って!? うちのは!? えっあの待っ」
「うーん、それは心当たりないですねえー」
「そっか。ありがとうございます、シュシュちゃん」
それをいつもより落ち着いた声で述べて、マリーネオは手芸屋の店員に頭を下げた。店員ことシュシュは、ミミロルらしくぴょんと跳ねてひとつ向こうに見える机を示した。
「ところでマリーネオさん、ヴァイスさん!」
「あっごめんなさい、今日は急ぎなので、長居はできないんですっ」
「あれぇ!? まぁ確かに急いでいそうな様子ですけど……少しくらいッ」
「ごめんなさい、危機的状況なんですよ。……僕たちが本物の探検隊に戻るくらいには」
マリーネオの真っすぐな双眸に見つめられ、シュシュは黙り込んだ。せっかくだからデザイン案の検討に付き合ってもらいたかったし、雑談もしたかったし、彼らのコーヒーが飲みたかった。だがこうも言われては引き留められない。シュシュは色鮮やかなビーズがきらめく耳をぱたんと倒して、頬の横で手を開いた。
「また落ち着いたらご贔屓に!」
「お互い様ですねっ。それでは」
「きちんとした挨拶もできなくてごめんなさい!」
モノクロの双子は、ドアベルの軽やかな音だけを残してその姿を消していった。
一人残された手芸屋の中で、シュシュはとぼとぼと机に向かう。久しぶりに彼らと会ったらこれだ。朝早いからまだ客足も多くないし、むしろ開店時間前だし、端的に言えば暇だった。
「面白い一日になると思ったのにな。それにしても色違いって。そうそう見ないですよ」
なんて独り言に熱中していたら、足元に硬い何かが当たった。ビーズにしては大きい。そっと足をどけて、その異物の正体を確認する。
鮮やかな桃色の小石だった。最近「滝つぼの洞窟」で探検隊に取ってきてもらったものである。とはいえそう多く仕入れたわけでもない、貴重なものだ。
「あああああ!! 割れてないからセーフ!? いやでも踏んじゃったらお店には出せないよねでもあああああぁ!!!」
「……また何かしたんですかねあの子は!」
「そういう子です、シュシュちゃん」
場違いな悲鳴は手芸屋からのもの。そう断定するのも容易くて、双子は揃って呆れ顔を浮かべた。
それはそれとして、だ。マリーネオは歩みを止めないまま、強まる風に目を細めた。
「つい色違いって言っちゃったけど」
「あ、スイさんなので大丈夫」
「あぁそっか……あ!? えっ!? え……?」
思わず身を固めて、マリーネオは目をぱちくりとさせる。対照的にヴァイスは涼しげな顔をして嘆息した。相方の自然な態度にむっとして、マリーネオはヴァイスの右手を握った。無意識のうちに力が入っていたものの、向こうがそれを気にする様子はないままだ。
「確かにスイさんっぽいけど、でもなんでそう断言するの? 『疑って』ないよね?」
「……裏付けはできる。この前リサウンドにいらしたときと違う日に、私は彼を見ていたし、話を聞いていたから」
「僕聞いてないよ。いつ? ねぇ、大事なことだよね? だって、」
ついヒートアップした額に、つめたいものが添えられる。それが握っていないほうのヴァイスの手だと断定するのに時間はかからなかった。翡翠色と琥珀色が交錯して、しばし音のない会話を繰り広げる。
やがてヴァイスは目を伏せると、マリーネオの額から左手を降ろし、緩んだ彼の手から右手を引き抜いた。
「フリューデルさんを……エルファさんを追おう」
脳裏に浮かぶは、引きずりそうなほどのスカーフを華麗になびかせるツタージャの姿。
「彼ならたぶん、絶対、スイさんを見つけられる」
そして、夜の足音を示すような色合いのアブソル。
「だってあの方、悪運強いから」
知ってた。そのことは、メロディとフリューデルがカフェで鉢合わせたときによく議題になっていたから。エルファの煽りとアルトの反論と、シイナの反論にリズムの正論、リィの苦笑とラピスのため息。そんな論争を聞いていてもそうだし、普段彼らと世間話として聞く探検の話を聞いていてもそう思うことはよくあった。
その彼が、『会いたくもない』相手をこの大陸中から探すことくらい、不可能じゃないはずだ。
――なんてそれっぽい論理を並べつつ、半分は希望的観測でもあったのだが。
「わかったよ。でも」
そこで言葉を切ると、マリーネオは何か言おうとして口ごもる。言葉になりそうでまとまらない、失敗したクッキー生地みたいな思考が、頭の中でぱらぱらのまま混ぜられていく。
やがてそれは完成もしないまま、二人は足並みをそろえて歩き始めた。
「……俺の直感すごいと思わない?」
海を眺めていたスイは、静かに振り向いた。
白銀の体毛も、夕焼けめいた肌の色も、夜を迎えるかのようなツノのグラデーションも。海を背後にしたそれらはあまりに美しくて。それはもしかしたら、先ほど時が停止していく様を見たばかりだから、余計にそう見えただけなのかもしれないけれども。
スイは何も言わないままエルファを見据えていた。
「癪に障る、それだけだ」
「本当だよねー? ギルドで言われてさ、居づらいったらないよね」
エルファは風に流された自身のスカーフを捕まえた。手に収まりきらない端が、海風を受けてばたばたと暴れる。
風が強いのは、単に海に近い丘だからなのか、それとも時間の停止を間近に控えたゆえの最後の足掻きなのかさえ、確かめる由はなかった。
「ねーえ、これは俺がアンタを嫌いだから言うだけなんだけど」
シイナがふたりをせわしなく見比べているのを、当人たちは知らない。
当然だった。だって、時の歯車を盗ったポケモンと、さも当然のように、知り合いかのように話すのだから。それも単なる顔合わせ程度ではない、何かしらの因縁があると。そう察するに容易いだけの情報を、今の会話は持っていた。
「時の歯車俺に渡してくんない?」
対してリズムは、聞いたことを目で見ているだけだったからさほど驚いた様子もなかった。だが、エルファが動かない限り動けないのも事実だった。
エルファのことだから、星の停止を食い止める意図の如何もあるのだが、スイの思い通りにさせたくないという思いもあるのだろう。それこそが、単なる嫌いにとどまらない、因縁の中身。
「……俺が貴様に従うとでも思ったか?」
「いいや? なんなら共闘しよう、って言っても拒否されていたろうな、って思うよ」
そしてスイは、エルファがどんな立場であれ敵対してくるのは想定済みだった。
元々協力関係は結んでいたとはいえ、当人たちの関係は最悪以外の何物でもなかった。スイ自身もエルファのことを好きではないし、彼がまともに協力するなど微塵も思っていなかった。その点では信頼していたのだ。
「だからさ、ありがとね?」
彼を囲うかのように、いくつもの葉が渦を巻いて臨戦態勢を取っていた。彼が顔を上げて、上げた口角を見せるのに合わせて、切っ先は白銀をとらえた。
「これでアンタを……気兼ねなく倒せるから、さ!」
当然、それが命中することはない。スイが瞼を下ろすと同時に現れた風の刃が切り、あるいは撃ち落とす。その程度エルファも想定済みだったし、それにより隙を作れるとも思っていなかった。
スイは萌黄色の瞳を覗かせて、霧散する二種類の刃を静かに見下ろした。
「バウムにでもなった気か?」
「気安くお兄ちゃんの名前呼ばないでくれる?」
エルファは後ろに利き手を回し、バックステップ。瞬間、彼らの間を一筋の火の粉がよぎる。
「――おじゃまするねぇ」
それは、エルファのハンドサイン「乱入よろしく」を受け取ったリズムだった。エルファと場所を入れ替わり、ほわほわな雰囲気を崩さぬままスイを見上げる。
「お取込み中で申し訳ないけど、僕はエルくんの動く通りに動くから仲良くはなれないかもなぁ。リズムって言うよ〜、よろしくねえ」
「……毒気抜けるな」
「ふふ〜ん、元からなんだよねぇこれ」
場違いだろうと訴える睥睨を鼻歌で受け流す。
スイはちらりと顔を上げる。とっくに見えていた残り一人とちょうど目が合って、それぞれの表情を浮かべる。スイはどんな奴だといううっとうしそうな顔、そしてもう一方は、準備できていなかったようであたふたとしていた。
「え、えっと、お邪魔します!? シイナです! ……なんで自己紹介してるんだろう!?」
「別に言う必要なくない?」
「貴様らがやりだしたんだろう」
「なんでふたりでツッコむ……わあっ!?」
シイナとエルファにそれぞれまがまがしい紫色の刃が撃ち込まれる。それことサイコカッターをエルファは飛ぶように避けるが、逃げ遅れた尾とスカーフがそれぞれ傷を負う。威力をそこそこにした軽いものだったから、回避が間に合わなかったのだ。
でも彼はそんなもの気に留めない。むしろ、良いチュートリアルだとばかりに口角を上げた。
「ならさ、俺も言うしかないよね? ……エルファ・ゲハイムニス。チーム『フリューデル』のリーダーってところかな」
エルファの首からスカーフが零れ落ちた。純青の軌道が、風向きを力強く示した。それは彼が結び目をほどいたことに由来する。
動きやすさにすべてを賭けるという、本気で行くという、意思。
「ねぇスイ、……これが俺の、守りたい世界だよ!」
(なんて、本当は建前なのに)