91話 奪われた時の歯車
階段を駆け下りる。途中で何度も足を踏み外しそうになりながら、それでも走り続ける。息が荒い。雨があがったとはいえ、水たまりが散在する階段は、なんどもずっと向こうの最下段へと誘おうとしていた。
――時の歯車が盗まれた。
(しかもあの、一番守ってあった水晶の湖かよ)
一体、何があった。いや、自明だ。でも、アグノムが完全にやられるとは。そんな思考が浮かんでは消え、また浮かんで、頭の中を支配する。
最後の六段を、アルトは躊躇なく飛び降りる。足にじんわりと伝う衝撃を一旦休むことで回復させ、再び走り出そうとした矢先。
「――アルトさん、リィさん!!」
ソプラノの声がふたりを呼び止めた。ちょうど最下段にたどり着いたリィは、あっと声をあげて声の主と目を合わせた。相手もといヴァイスの琥珀色の瞳が、やけにまぶしく見えた。
ちょうどカフェから出てきたばかりだったヴァイスは、交差点の中央まで出て二人の様子をまじまじと眺めた。上下する肩と、強張った頬。何かあったことはすぐにわかった。
ヴァイスは、前置きとしての朝の挨拶もそこそこに、その笑みを不可解な面持ちに隠した。
「どうかされたんですか? そんなに急いで」
「あの、ねっ、えっと」
「あっお急ぎなら大丈夫ですよっ。引き留めてしまって申し訳ないです」
慌ててヴァイスは頭を下げた。自分はカフェの開店準備として看板を出しに来た身、ここでアルトたちを引き留めては迷惑でしかないと思ったのだ。
だが、礼儀正しく謝るヴァイスを見て、リィの頭で小さなチョンチーが光る。
「ねぇヴァイス、マリーネオも、すごい探検隊だった、よね? だったら、手伝ってもらえない、かな?」
「えっと、状況がわからないですが……そんな様子ですし、大層なことなんでしょう」
「ありがとう……! じゃあ、先にギルドに行ってほしいんだ」
ぱっと顔を華やがせる傍らで、アルトはトレジャータウンの方を睨んでいた。リィもそれがわかっていたから、一歩だけそちらに足を踏み出した。
「待ってください! おふたりはどちらへ?」
「ラピスとラスフィアを呼んでくるの!」
言うが早いか、アルトとリィは揃ってトレジャータウンの方へと駆けて行った。水たまりを踏んだ音だけをその場に残して、彼らの背はどんどんと遠ざかっていく。
結局、何が大変なのかはさっぱりわからなかった。引き受けてしまったからには、ギルドへ行かざるを得ないわけだけれども。朝のカフェも一定の客がいるわけだから、店を開けるのも気が引けるし――。
「ヴァイス! ねぇ、どうかした?」
そんな彼女の思考は、後ろから飛んできた双子の声で現実へと引き戻された。
カフェの中にも先ほどの会話の一部が聞こえていた。だから、マリーネオも気になってひょっこりと顔を出したのだ。
「今からギルドに行ってもいい?」
「えっ!? 突然だよ。構わないけど……でもなんで?」
「アルトさんとリィさんが今ここを通ったの。今、ラピスさんとラスフィアさんを呼びに行くって言って去っていったところ」
「ラスフィアさんを……?」
マリーネオは眉をひそめた。ラピスならまだしも、ラスフィアを呼ぶとなると、幻の大地に関することか、いずれにせよ重要事項であることは間違いなさそうだ。
「ただ、明るい顔には見えなかったし、それに」
マリーネオとヴァイスのランクを考慮したうえでの、「手伝ってほしい」。それが嫌な予感を助長させていた。
マリーネオはため息をついた。着けたばかりのエプロンのリボンに手をかけて、するするとほどいていく。
「……わかったよ。僕も一緒にギルドへ行く」
「カフェは?」
「店長に任せよう。ははっ、怒られはしないだろうけど……ちょっと申し訳ないね」
苦笑してから、彼は再び店内へと消えていく。すみません、と元気のいい声がここまで聞こえてきた。
準備ができるまでの間、ヴァイスは崖の上にそびえる特徴的なテントを見上げていた。曇り空の下のプクリンテントは、顔に影を落として見えた。
ここ最近、どうも引っかかることがあったのだ。ヴァイスは息を長く吐いて、そっと目を伏せた。
(あなたが、ここに顔を出したのが一番の驚きなんですよね)
所変わって、ギルドの広間。苦し気にせき込むアグノムに、チリーンのリンは黙って手当てをしていた。
体についた傷跡は深かった。相手は相当な手練れだったようで、アグノムもやりきれない顔で傷口を睨んでいた。
「説明はみんな揃った後で」と宣言された手前、今話しているポケモンはいない。話したいことも聞きたいことも、今口を開くべきではないという空気に押されているのだ。
呼吸にさえ気を払うほどに張り詰めた空気と、うるさいくらいの静寂。やがて、ぱたぱたとした足音が、それを破った。
「ただいま……っ!」
そんな声とともに現れたのは、息を切らしたリィと、疲れた様子は見せないものの思いつめた表情が抜けないアルト。
そして、次に梯子を下りてきたのは、黒い体毛に黄色の輪っか模様を特徴とする身体。
「――あっ」
そのポケモンことラスフィアは、自分たちに向けられた視線を誤魔化すように、前足を握りしめて目を伏せた。
ギルドへ帰りづらいことなどわかっていた。だが、その心配をするより早く、ギルドに足が向いていた。だから、心の準備など、できていなかった。
気まずそうに顔をそむけた彼女に、即座に声をかけたのはシュトラだった。
「悪いが、早いところ話を進めたい。ラピスは?」
せっかちな性格故の発言なのだが、それにより口を開けるほどには気まずさは軽減された。
ラスフィアは目を伏せたまま、温かみのない声で答えた。
「単に注目を浴びるのが嫌とか、そんなところじゃないかしらね。知らないけれども。来てはいるわ」
「……聞いてる、から」
ため息交じりにはしごから降りてきたラピスは、でんこうせっかでリィの後ろに隠れた。リィの特徴である大きな葉っぱは、小柄なラピスがかくれんぼするには程よい大きさだったのだ。
ラピスらしい。全員がそう感じる中、リィひとりだけはくすぐったそうにしていたが。
再び、場に沈黙が訪れた。本題に入ろうにも、ラスフィアたちとギルドの面々との、物理的な距離さえも大きくて。とても話をできる隊形ではなかった。そのテーブルにつくための一歩だけが、どうしても踏み出せなくて。
「ラスフィアさん」
やがて沈黙を破ったのは、高くて、でも大人っぽい芯の強さを感じる声だった。
「……おかえりなさい!」
え、そう声を漏らしたのは誰か。普段通りの笑顔のマリーネオに、一同、釘付けになった。
その視線をものともせず、マリーネオはぺこりと頭を下げた。
「あのとき、あなたのことを何も知らないまま攻撃してしまって、すみませんでした。もっと、話を聞けばよかった。なんて今言っても遅いんですけれども、ずっと後悔していたんですよ」
頭を深々と下げたまま、マリーネオは淡々と言葉を紡いでいく。その様子に、当のラスフィアはもちろん、他のポケモンたちも困惑していた。
ただひとり、マリーネオだけはにっと笑って、ラスフィアに手を差し伸べた。
「だからってわけでもないんですけどね。僕にも、手伝わせてください。時の歯車奪還作戦」
「もちろん、私も手伝いますよっ。スーパーランク探検隊、チーム“リサウンド”――ふたりいないと成り立たないんですよねっ」
ヴァイスも、マリーネオと鏡写しになるように手を差し伸べた。
ラスフィアは呆気に取られて、しばらく双子の手を眺めていた。その手を取ることが躊躇われた以上に、差し伸べられるとも思っていなかったから。
「……ふふっ」
やがて、緊張の解けた笑みが、口の端からこぼれた。ほわりと胸元が温かくなるような、少し久しぶりの、素の笑顔だった。
「ただいま、なんて言っていい場所ではないけれど」
「……それを言ったらまぁ、おかえりって言うべきは僕じゃないんですけどね」
目を合わせて、そう笑いあってから。改めて全員が、この召集の場についた。
そうなるとラスフィアも真剣なモードに入って、声のトーンを落としてシュトラに声をかけた。
「……それで、『時の歯車が盗まれた』ことについてだけれど」
「あぁ。アグノム、話せるか?」
「うん。どうにかね」
傷跡がまだ痛むようで、顔をしかめてはいるものの、声には芯が通っていた。
いくら夜が明けたとて、曇天の下のギルドに差し込む光は多くはない。いつもより暗い部屋は、この場の空気をさらに重たくするようだった。
アグノムは一度深呼吸してから、顔を上げて話し始めた。
「時の歯車を守る水晶はあのときのまま、僕はシュトラが来るのを待っていたんだ。その時が来る少し前のことだったよ、アイツが現れたのは」
アルトたちが水晶の洞窟に行ったとき、アグノムが展開した水晶の防壁。時の歯車を強硬な水晶の向こうに隠すそれは、いくらシュトラとラスフィアが協力しても壊すことはままならない丈夫さだった。
アグノムは奥歯を噛みしめる。ぎり、とした音が聞こえてきそうなくらいに強くて、アグノムの胸の内を表すようだった。
「すごく強かった。相性も悪いし、容赦がなくてね。……僕を倒せば、あの水晶は崩れてしまう。時の歯車を取っていくアイツを目に焼き付けるのが精いっぱいだったよ」
すかさず、ラスフィアは手を上げて質問した。
「犯人はわかる?」
「アブソルさ。角にグラデーションがあるのが特徴だったよ」
こっそりとため息をついたのが一名、説明に引っ掛かりを覚えたのも数名。
前者ことエルファは、どこまで発言すべきかを悩んでいた。もちろんこのまま黙っているのが楽なのだが、彼に対して無関係といえる立場ではないからだ。癪だ、と舌打ちしたいくらいの気持ちを抑えながら、前で展開される話に耳を傾けたままでいた。
「どこに行ったかまではわからない。いくら特徴のある外見だったとしても、人気のないところを通られたら目撃情報にも期待できない。追うのは難しいと思うよ」
唇を強く結んだアグノムには、諦心の色が伺える。状況が後手に回ってしまっている現実を受け止めている顔だった。
次に手を上げたのは、ヘイガ二のカティだった。印象のある口癖と良く通る声は、振り向かずとも誰か判別できた。
「ヘイ! 他に時の歯車はないのか?」
「……ないわけではない。けれども、ね」
それに答えたのはラスフィアだった。だが、歯切れの悪い回答に、一同は首を傾げた。
「遥か離島の火山の中にある、という話は言われている。けれどもそこに行くのも容易ではないし、ダンジョンもずっと手ごわいし……何より、存在する保証もできない」
「そっか。確かめられていないんだね」
さみしげな眼をするリィに、ラスフィアはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、存在自体はしたのよ」
「えっ……? でも今、あるかわからないって」
リィは困惑していた。その反面、アルトは一つの結論に辿り着いて、舌打ち交じりに呟いた。
「時空の叫び、か」
「そうよ。その映像がまぁ、その……ポケモンが、時の歯車をマグマに投げ捨てるものだったのよ」
「……それも、未来で見てた映像だから」
「時の歯車があること自体は確実『だった』。同時に、どのタイミングかは定かではないにしても、失われたものである。それも時が動いている時代で。だから……取り戻す方が確実だと思うわ」
マグマに打ち捨てる。それは、時が停止して、水の流れさえも彫刻と化す星の停止下でのできことではない。未来世界を駆け抜けた面々は、そこまで思いを巡らせたうえで、心を決めていた。
アルトはつい、ラピスとシュトラの横顔を伺ってしまった。二人とも顔色一つ変えていない辺り、この話自体は本当なのだろう。実際どんな映像だったのか、もう一度見てみたい気も否定はできないが、今はそれどころではない。
ギルドの面々もそれぞれ、取り戻す方向でいくと決めたようだ。ぽつぽつと生まれていた話し声は、やがてひとつにまとまっていった。
それを見計らったかのように、手をたたく音が一回、場に響いた。
「うん、決まりだね♪」
「あっ、親方様! おかえりなさいませ!」
その正体はマルス。昨日、チャトに留守を頼んでいた外出からようやく帰ってきたようだった。
何事もなかったかのように話に加わってきたマルスに、一同は唖然とする。夕飯の時に彼が出かけていると知っていた面々はすぐに合点がいった。だが、そうではないラピスとラスフィアは、普段と違う風貌のマルスを怪訝な目で見つめていた。
どこから聞いていたのだろう、と一部ポケモンがツッコむのも気に留めず、マルスはすたすたと自室に向かっていった。
「ただいま、チャト。それじゃあチーム編成はチャトにやってもらって」
自室に消えた。かと思うと、いつもの「たあぁーーーっ!!」が前触れなくギルドを揺らした。身構えも何もあったものじゃないため、皆が遅れて耳をふさぎ、その爆音に顔をしかめた。
やがて、にこにこと再登場したマルス。その手には、一つのバッジが握られていた。
「はいこれ、ラスフィアのバッジ♪」
「……脱退したから、もう使えないはずでは?」
「それなんだけどねー、書類を連盟に出していなくて♪ だからラスフィアはずっとここにいることになっていたんだ」
けろりとして説明するものの、かなり重大なことだった。皆がぽかんと口を開く。あの親方だから、で済む問題ではなかった。
あのとき、ラスフィアは指名手配犯のシュトラと行動していた。つまり、それと同等の扱いにはなっていたはずで、それを抱えていたギルドとなると――少し思いを巡らすだけで、大変さが身に染みるようだった。
「だからあのときはちょっと大変にはなっちゃったんだけど……こうしてまたラスフィアが戻ってくれたから問題ないよ♪ ともだちともだち!」
「……えっと、別に戻るとは」
バッジを受け取りながらも、ラスフィアは困り顔だった。
もちろん、バッジを持っていることは何かと便利であるため、この奪還作戦の間持たせてくれる分にはありがたい。だが、それとギルドに戻るのとはまた別の話だった。
「うぅ、たあぁ……たああ……!!」
――だが、マルスがその選択をさせるわけがなかった。
彼のうるんだ瞳と、泣きそうな声に合わせて、ギルドが揺れていく。全員が危険を察知するし、対処法もひとつしかないとわかっていた。
床に伏せながら、アルトは痺れを切らして叫んだ。
「あぁもう戻るって言え!! 嘘でいいから!」
「うっ……戻ります、戻ります。それで良ければ、ですけれ、どっ!」
途端、揺れは収まって、ラスフィアは思わずバランスを崩した。前足からこぼれ出たバッジを拾い直して、まじまじと眺める。
「良かった〜! ともだち、ともだち〜!!」
ラスフィアは一瞬目を伏せたものの、すぐに笑顔を浮かべた。それが作り物であることは、アルトにもすぐにわかった。今まで見た中で、一番つらそうな笑顔に見えたから。
「それじゃあ時の歯車奪還作戦、行くよっ! たあああぁーーーーっ!!」
「「「「おおーーーっ!!!」」」」
そんな彼らを差し置いて、マルスの真剣な顔が、声が、ギルドをひとつにまとめ上げていた。