90話 証を手に
「こ、これが、幻の大地に行くための証?」
リィの手、もといツルの中にある遺跡の欠片は小刻みに震えていた。それだけの動揺が、リィにはあった。
もちろんそれは波紋を描くように弟子たちにも広がっていくし、アルトだって唖然として彼女たちの様子を眺めていた。
「お主、これをどこで……」
「どこで、って言われてもちょっと難しいんだけど……。結構前のことにもなっちゃうし」
一心に注目を集めたリィは、気恥ずかしそうに頬を染めてうつむく。でも、とくんと胸が高鳴る感覚が確かにあった。
はじめは面食らっていたギルドの面々も、次第に高揚感を顔に出していく。そのうちのひとり、キマワリのソラも、手をぱたんと叩き合わせて声を弾ませた。
「すごいですわ! リィがこれを持っているってことは、もしかしてリィは幻の大地に行くための資格を持ったってことなのかしら?」
「それはわからんのう。それを持つ者が資格を持つ者とは限らないからの。単に幻の大地の鍵を開く扉に過ぎぬかもしれぬ」
「それでも! この模様が幻の大地に関係しているのは間違いないんだよね? それだけでも十分だよ♪」
長老の神妙な顔つきとは対照的に、マルスはセカイイチを手にした時のような笑顔を見せた。その純真な表情と、周囲のボルテージに押されるように、長老は小さくうなる。
「むぅ、そうじゃのう。……ってお前さんたち、本気で幻の大地に行こうと思っているのか? 単なる言い伝えなのじゃよ?」
慌ててそう言おうとも、ここ、プクリンのギルドが揺らぐはずはない。
マルスはしっかりと長老の目を自身の黄緑色に映してから、もう一度口角をあげてみせた。
「うん、そうだよ♪」
「な、なんと! そりゃビックリじゃ!」
マルスは顔だけでくるりと振り返った。その先には、こわばった面持ちの相棒。
「チャト! この模様は……見たことがあるよね?」
「「「ええっ!?」」」
皆の視線が一斉にチャトのほうに流れる。突如浴びた注目を気まずそうに受け止めながら、チャトは雨粒のカーテンを下げた窓の向こうへと視線を流した。
「は、はい。ここから北西に行った入江の、磯の洞窟というところ、ですが……しかし」
「うん。わかっている。あそこにはとても手ごわいヤツがいるよね」
一転、ギルド内にはぴりりとした緊張感が走った。雨も止んで、物音ひとつしないほどの静寂に包まれた中、誰かがぽつりと声をこぼす。
「とても……」
「手ごわい敵、でゲスか……?」
「しかも親方がそう言うレベル、だと?」
もれなく、ギルドの面々は親方の実力のほどを知っている。
種々の伝説、あるいはたびたび発揮されるハイパーボイス――もちろん戦闘ではないセーブされたものの威力。その彼が自ら手ごわいと称す敵の存在、緊張しないわけがなかった。
「みんなちょっと聞いて」
凛とした声は、まさしくマルスのもの。それなのに、いつもとは別人のように聞こえた。
「僕たちは依然、磯の洞窟の奥深くでこれとよく似た模様を見たんだ。だから、そこに遺跡のかけらを持っていくことで何かわかるかもしれない。でもね、そこには……とても手ごわいポケモンが潜んでいる」
皆が固唾を飲む。チャトもまた、険しい顔つきのまま、黙りこくっていた。
親方様直々に言われては、自分たちがするべきことなんて。
「ヘイヘイ! そんなんでビビってなんかいられねぇぜ!」
「ワシたちは探検隊なんだぜ!?」
「勇気をもっていきましょう!」
――立ち向かうこと、ひとつじゃないか。
声には出さずとも、ギルドの意思はまとまっていた。精鋭ぞろいのこのギルド、未知なる大地への手がかり、かつ世界を守るための鍵が賭かっているとあらば、この程度でしぼむことはないのだ。
マルスはふっと口元を緩めた。頼もしい弟子たちの、凛々しい顔つきを一瞥して、しっかりとうなずく。
「みんなありがとう♪ ……でもね、あそこは本当にてごわいよ」
だから、マルスは声を張り上げた。みんなの士気を、ひとつにまとめるように。
「今日はしっかりと準備を整えて、明日磯の洞窟に出発しよう!」
「「「おおーーーっ!!!!」」」
弟子たちはみな、こぶしを突き上げて湧き上がる高揚感に身を任せた。もっとも、一部を除いて、にはなるのだが。
グレンはその様子を微笑ましそうに眺め、目元を綻ばせた。
「ほっほっほっ。幻の大地など昔話にすぎぬと思っておったが、年を取ると頭が固くなっていかんのう。夢を追ったその先にはロマンがある。ワシにも夢を見させてくれ、頑張るんじゃぞ!」
「うん! 本当にありがとう、長老! 頑張るよ!」
「僕からも! ありがとうね、グレン長老!」
リィとマルスが華やいだ笑顔でお礼を述べる。リィがぺこりとお辞儀するのに合わせて、大きな頭の葉も一拍遅れて垂れ下がった。
「なんのなんの。お礼なぞいらぬぞ。ほっほっほっ」
そう言って、グレンははしごの方へ向かっていった。その背中を見守りながら、探検隊たちは賑やかに話し始める。燃えてきた、そんな声もちらほらと聞こえてくる。
「さあみんな! 今日は解散♪ 明日は頼んだよ!」
マルスの掛け声に再び威勢の良い返事を揃えてから、弟子たちは元気いっぱいにギルドを飛び出していく。
「アルト! やったよ、幻の大地、行けそうだね!!」
ぱたぱたと駆け寄ってきたリィの目はうるんでいた。両方のツルで遺跡の欠片を大切そうに胸に抱えて、リィは花が咲いたような笑顔でアルトを見上げた。彼女の浮き立つような気持ちは、思わずつられて笑顔をこぼしてしまうほどで。
反面、やはりアルトの気持ちは重たいままだった。
(たぶん、磯の洞窟ってところに行けば、エルファが言ってた「渡し守」に会えるんだよな)
つまり、行くための手札はすべて場にそろったということ。
まだ何も決め切れていなかった。幻の大地に行く覚悟なんて、かけらもないままであった。だから、リィの今までにないはしゃぎっぷりを見て、ただただ胸に針が刺さってズキズキと痛む。
「ラピスたち、今いるかなぁ……! 早く報告しに行かなきゃね! 行こう、アルト?」
後戻りなどできないと悟った。
――やっぱり、元の自分のとおり、星の停止を食い止めよう。
――たとえ、リィと二度と会えなくなっても。
――数えきれない犠牲を生んだとしても。
描いた心象を胸に焼き付ける。悩んでる暇なんてないのだ。もう、幻の大地はすぐそこにあるようなものなのだから。
アルトも、耳をふさぎたくなるような気持ちを押さえながら、重い足をはしごに乗せた。
やがて、広間からポケモンたちの影が消えてから、マルスはふぅと息を吐いた。透き通った黄緑色の瞳に相棒を映して、元気にその名前を呼んだ。
「チャトは明日ギルドで待機ね♪」
「お、親方様! お言葉ですが……私にも行かせてください! 磯の洞窟へ!」
「ダメ。もうあんな危険な目には遭わせられないよ」
そう言い聞かせるマルスの目は真剣そのもの。チャトは言葉を詰まらせた。脳裏に浮かぶ過去が、喉を閉じていく。
それでも、チャトは振り払うように羽ばたいて、声を張り上げた。
「でも! だからこそ行きたいのです! 磯の洞窟へ!!」
しばし、沈黙が訪れる。マルスはくりくりとした瞳を瞼の中に隠して、静かに考え込んだ。
得策とは思えなかった。だが、それはチャト自身だってわかっているはずだ。そして、チャトがここまで自分に頼み込むことななどごくまれであり、かつ、本気であること。それは長年彼と共に過ごしたマルスには手に取るように理解していた。
「……わかった。じゃあ明日になったらメロディと一緒に行ってもらうことにするよ。メロディをあの場所に案内したほうがいいと思うしね。でも、十分気を付けてね」
「あ、ありがとうございます……っ!」
「あと、僕はちょっと思うところがあって今から出かけてくる。留守は頼んだよ」
「かしこまりました。お任せください」
きびきびとした姿に、マルスは頬を綻ばせた。しかしそれもつかの間、マルスは自身の部屋に戻ると、散乱した物の中から的確にバッグを拾い上げた。
その中に手を入れて、黒いバッジ――ギルドの長となることを認められた“最高ランク”、ギルドマスターランクの証たるバッジをまじまじと眺めた。
ひらりと茶色のマントを羽織り、バッジを胸元に取り付ける。そして、常に持ち歩いている青い宝玉の存在を確かめて、芯の通った声で呟いた。
「ね、ししょー。僕頑張るよ」
自身が師と仰ぐ、唯一の探検家の顔を胸の内に描いて。
「絶対に、アルトたちを幻の大地に連れていく」
「ほっほっほっ。しかし良いのう、若いもんは」
長い長いギルド前の階段を、グレン長老は一歩一歩踏みしめるように降りていく。
途中何度か足を止めては、眼下に広がる賑やかな街並みや、生い茂った木の向こうに輝く波のきらめきを目に映した。
自分の中にも沸き立つような高揚感があった。夢を追う若者たちの背をもう一度思い浮かべてから、グレンは最後の一段を降りた。
「ワシももっと若ければ幻の大地に挑戦したのにのう」
そう呟いた瞬間、どこからともなく現れた影が行く手を阻んだ。
「ケッ、待ちな、爺さん!」
「な、なんじゃ!? お主たちは!?」
目の前には、紫色のポケモンが三匹。その中央で笑みを浮かべているスカタンクは、独特の笑い声を携えて、一歩グレンへ歩み寄った。
「俺様たちはドクローズ、探検隊さ。俺様はリーダーのデスポート・トクシンだ」
「へへっ、爺さんプクリンのギルドに用があったのかい?」
スカタンクことデスポートに続いて発言したのは、ぱたぱたと羽ばたくズバット、クルガン。彼はグレンの後ろに回って退路を塞ぐ。
「ケッ、なんか楽しそうなこと呟いていたじゃないか?」
「幻の大地がどうとかな、クククッ」
「わ、ワシはただ……」
ドガースのヤレンも、にやにやとあくどい笑みを浮かべてグレンに詰め寄った。
だがその瞬間、クルガンがぴこりと耳を動かした。
「だれか来るぜ!」
「ケッ、ギルドの弟子たちかな」
ヤレンもデスポートも、忌々し気に舌打ちをする。
出くわしたら面倒なことになるのは自明だ。遠征の一件の後、すぐさま姿を消したのだからなおさら。
デスポートは周囲を見渡した。やがて、交差点のある一方向に視線を定めると、デスポートはにやりと口角を上げる。
「爺さんよ、詳しい話はあちらで聞かせてもらうぜ。ククククッ」
「ひぃ〜〜っ……」
情けない声を上げつつ、しかし通行人の影は近くにはない。
グレンはなすすべもなく、ドクローズに連行されていくのだった。
「――おい! アルト、リィ!!」
翌朝、まだ日も昇りかけの時間、メロディの部屋を爆音が揺らした。
朝方のアルトでさえ起きていなかった時間だ。アルトは不機嫌さを隠しもしないまま、眠い目をこすって来訪者を睨む。
「まだんな時間じゃねぇだろ」
「それが、緊急事態だ! 今すぐに来い!!」
顔を真っ青にして、豪快な足音を立てながらドゴームの後姿は広場の方へ消えてゆく。開きっぱなしにされたドアの先では、弟子たちが駆け足で広間に行く様子が絶え間なく見えた。スカーフを巻いていない後ろ姿も散見されたことから、相当な事態だとうかがえる。
最初半目だったリィも、すぐさま覚醒した。アルトとリィは、お互いに顔を見合わせて、きょとんとその様子を眺めていた。
「お、おはよう。このタイミングの緊急事態、って……何があるんだろう?」
「わかんねぇけど、行くしかねぇだろ。たぶんもう皆集まってんだろ」
体は寝たがっている。それなのに目はしっかりと冴えていて、胸に漂う予感はあまりよくないものを訴えていた。
アルトとリィも、すぐに部屋を出て、ざわざわとする広間へ顔を出した。
緊急事態。それを示すだけのポケモンがそこにいたことで、アルトもリィも思わず目を見開いた。
「シュトラ!? それに……」
彼が抱きかかえていた、傷だらけの青いポケモン。確かに見覚えがあった。
「アグノム! 傷だらけだよ、どうしたの……っ!?」
シュトラとアグノム、そしてこのタイミング。昨日磯の洞窟探索に向けて士気を高めていた弟子たちは、一転、暗い顔あるいは戸惑った顔をしていた。
一番前まで飛び出したリィを観測すると、シュトラは眉を上げた。
「む、アルトにリィか。悪いが、ラピスとラスフィアも連れてきてくれないか」
「う、うん。でも、これってどういう……」
あのシュトラが、サメハダ岩ではなく、「ギルドに来た」という事実。すなわち、ラスフィアとラピスを加えた三名では到底対処できないと踏んだ、それほどの事態。
なんとなく、予想はついてしまった。けれども、聞き間違いではないかと疑ってしまった。
「単刀直入に言う。――時の歯車が、盗まれた」