75話 それでも
塞ぎそこねた耳から入り込むのは、久しく聞かなかった名前だった。
息を呑む、冷え固まった心臓が止まるまいと急加速に転じる。そんな『テナー』を差し置き、訝しげに声を出したのはアルトだった。
「……エストレジャ?」
情報処理が追いつかなかった。無論、テナーが過去にいないと聞いたときに驚いた面々は全員、その目を丸くしていた。
聞き間違いでなければ、それはアルトの苗字と重なるものだった。
「そうだ。お前と同じ……それがどういう意味を持つか。簡単な話だな」
愉しげに喉を鳴らしたメテオは『テナー・エストレジャ』の顔色を伺った。
彼女は一歩だけ、メテオから距離を取る。耳を倒し俯くことで余計な情報を遮断。どうにか声を出せる程度でいいから落ち着きたい、そう言い聞かせながら浅い呼吸の隙間に言葉を乗せた。
「いつから……いつ、気付いた、の」
「勘付いたのは随分と前だが、確信したのは未来に来てからだ。フッ、間違いではなくてよかったと心から思うよ!」
昂らせた声を憎むように歯を鳴らした『テナー』。
彼女が目線だけをアルトに寄越す。声から『テナー』の位置がわかっていたせいで、アルトはちょうど、彼女と目を合わせる形になる。
目に渦巻く激情は、それこそ未来で再会した際のラピスに匹敵するほどのものだった。
「お前が、『テナー』……」
わけがわからない。そう叫べるなら叫びたかった。
自分の正体でさえ呑み込めていない中で彼女のことを理解しようとしたって、愕然としたままの頭は思うようには動いてくれない。
「そのことをわかっているからこそ、お前は必死でシュトラとラスフィアの説得をしていた。ここで全てが終わることを恐れた」
彼女はアルトに向かって小さく口を動かした。かすかに聞こえた声にはっとするのも束の間、彼女はメテオを忌々しげに睨みつける。
「そうだろう、――ラピスよ!」
断言、迷う余地もないほどの鮮明さを以ってして。
テナー改めラピスは何も言わない、否言えない。瑠璃の瞳を揺らして、感情の波に呑まれているがままの状態だ。
「ちょっといい?」
キルシェがそっとラピスに近づき、身につけているリングを食い入るように見つめた。
「……やっぱり。テナーで間違いないわ、まさかとは思ったけど……」
彼女はかすかに頷き、眉間にしわを寄せるシュトラに視線を渡した。それと同調させて、ラピスはリングを見せつけるように、彼の目鼻の先へ手を突き出す。青い石がリングの紋章を光らせるのを見て、彼も不承不承な感は否めないものの納得の色は示した。
まだ驚愕の波紋が消えぬ場に次なる声を落としたのは、達観の姿勢を崩さぬ彗星だった。
「アルトの正体がわかってからは、テナーもポケモンになっているという線で探すことにした。アイツのことだ、アルトと再会しているならば必ず側にいようとする。そして、そのときには偽名を使うかもしれないことまで思慮しなければいけなかった」
アルトが元ニンゲンのリオル。テナーの姿がどうであれ、そんな彼と苗字が同じだということは波乱を巻き起こしても不思議じゃない。
たかが偶然だと割り切ってもらうのにも、それなりの時間が必要だろう。怪しまれないためには、敢えて偽ることが最善策。
無論、追っ手から隠れるという意味も為せるので、彼女はほぼ確実に使うだろうとメテオは推測していた。
「当然難航したがな。アルトがニンゲンと知ってからは同じチーム内の二人に目を向けた。……ラピスがテナーだという仮説を立てるのに苦労はしなかった」
「でもそれだけじゃあさすがに甘いでしょう? いくらテナーと雰囲気が似てる、といっても」
口を挟むのはラスフィアだ。姿も名も違う彼女を、ラスフィアですら最初は疑いもしたテナーを、そうも簡単に推測できるとは思い難かった。
メテオは右手の人差し指を立てる。
「一つはギルドの情報だな。少し拾った程度のものだが」
無愛想な子も、ラスフィアと話すときは楽しそう。そんな話はギルドを訪れたばかりのころ、過去での彼女の様子を探ろうとした際に聞いたものだった。
当時はともかく、テナーのその辺りへの潜伏を考え始めた頃に回想すれば、確率はゼロではないのではという考察も生まれた。無愛想と称されたピカチュウが、という。
その上で召集のときに口を挟んだと考えれば、可能性は少しなら上げられる。
「……それなら、未来で確信したっていうのは」
アルトは低く重い声でそう問いかけた。先程の説得の話かと一瞬思ったが、メテオの返答はまた違うものだった。
鷹揚とした態度で、彼は二本目の指を立てた。
「これが決定打だったよ。……ヤミラミの一匹と対峙した際の技構成、というのがな」
「……う」
息を呑むとともに、ラピスは目を見開いた。
当のヤミラミはすぐに判別できた。彼の反応は、メテオの推理に感嘆している他の仲間たちとは一線を画していたからだ。ラピスは彼に対する忌々しげな舌打ちとともにスカーフを握りしめる。
「……気をつけてたつもりだった、けど……」
冷静に思い返してみれば、確かに電気以外の技を――ピカチュウが覚えない技を使ってしまったという記憶に手が届く。
ニンゲンだとしても使えるのは異質と言えるのだが、それが彼女を特徴づけている点に間違いはなかった。
「つい手が滑ったとでも言うべきか、まぁこれだけでも十分わかる。そこにさっきの説得も乗じれば完璧だろう?」
メテオはアルトたち六人を眺め回して、それぞれの反応に愉快そうに目を細める。特に、素性を暴かれた二人に目を向けた彼は、堪えきれぬ笑いに身を任せた。
ラピスはそれを睥睨すると、長く息を吐き小さな声を乗せる。
「……ふざけてる」
全てを凍らせんとするような声色も、この場では相手の愉楽を加速させる結果しかもたらせない。ラピスは奥歯を噛み締めつつ、止まらぬ感情の流れに身を焼かれていた。
動揺している、というのはこの場のほぼ全員に当てはまった。
思わぬ形で自身を知った者も、
望まぬ形で自身を知られた者も、
打てる手を探し続ける者も、
希望の託し先を失った者も、
回廊の扉の鍵を握る者も、
そして――。
「メテオさん……ううん、メテオッ!!」
それでも光に手を伸ばす者がいた。
憤怒の色に目を染めて、抱いた敬意を全て切り捨てる。その声にアルトがはっとするのも無理はなかった。
それこそアルトやラピスや、フリューデルの面々なんかに比べたら随分と温厚で平和な性格だ。だからこそ、下手くそで不器用な、そんな敵意を構える彼女に心が揺れた。
「フッ、覚悟はできているようだな」
「み、みんなっ!」
リィがちらりと五人の顔色を確認する。
ともにここまで来た二人の正体。当然信じられないものの、それは彼女がいま懸念すべきところではない。驚くことも呆然とすることも、そんなの皆が今やるべきことじゃない。
過去に帰ってからゆっくりびっくりすればいいんだ。
だからどうにかして、時を煌めかせている蒼彩へと手を伸ばしたい。
「皆、諦めちゃだめだよ! 何か考えなきゃ……」
「諦めるなというが……この状況をどうするというのだ!?」
シュトラはディアルガに向かって忌々しげに舌打ちをした。あの存在一つ、この六人で立ち向かってなお勝ち目があるかわからない。そこに更に加わる戦力を 見て絶望視するのも当然だった。
託す希望もかき消され、目の前にある時の回廊に触れることも叶わない。
そんな彼の表情に苦しげな反応を示したリィ。それでも何か、一つでも、道を拓く手を探さねば。
「そうだ! キルシェ、時渡りで時の回廊に入ることはできないの!?」
ヤミラミたちが爪を鳴らす音の中で、リィは小さめの声で持ちかけた。それにあっと声をあげたアルトとは逆に、キルシェの反応は苦いものだった。
「ディアルガがいるから難しいわ。時を司るポケモンだから……時渡りを使ってもすぐに破られちゃう」
そうする間にも、ヤミラミたちはどんどん包囲網を狭めてくる。攻撃開始までの秒読み態勢に、リィはうっすらと冷や汗を浮かべた。
処刑場でのことが思い出され、喉が凍り張り付くのを感じる。残された逃げ道はそれしかない、そう信じるリィは、なんとかして声を絞り出す。
「ちょっとだけでも十分だよ、お願い……っ!」
「これがお前たちの最期だ! ヤミラミたちよ、かかれッ!!」
「「「ウィィィーーーッ!!」」」
迷いの時間を許すことなく、ヤミラミたちが一気に間合いを詰めてきた。
瞬きの度に縮まる距離は、自身の終わりへのカウントダウン。無論、そんなことはさせない。
「時渡り!!」
手を伸ばせばヤミラミの爪が届く。そのタイミングで丁度短い詠唱を終えたキルシェによって、六人の体は白銀の光に包まれた。
一人六本、計三十六の爪が目鼻の先に迫る。眩しさにヤミラミが片手で目を覆い、光に包まれた面々が目を瞑った。
邪悪な爪が光に届く。しかし触れることができたのは光芒の残滓のみだった。
「ウィィ……?」
「消え、た……?」
絡み取られるように暗闇へと溶け込む光。その美しさに向ける目はなかった。
六人がすでにそこを発っていたせいで、ヤミラミたちはただ互いの顔を見合わせることしかできない。
メテオは焦心を露わに拳を強く握った。
「逃がすか……ディアルガ様!!」
呼びかけに答えるように、ディアルガの胸元の宝石が鋭い光を帯びる。それに呼応して体に走る夕陽色の模様も光り始めた。
ディアルガの周りの暗闇が紅く色づく。そうして文字通り染まった闇を揺らしたのは、ディアルガ自身の狂気の咆哮だった。
「グオォォォォーーーッ!!」
空気が裂けるほどの轟き。その中で一際甲高く響いたのは、ガラスが砕けるような音だった。
メテオは弾かれたようにその発生源、もとい時の回廊至近へと意識を向けた。そこには今しがた消えた六人の姿。
さして高くはなかったとはいえ、地面に叩きつけられる形となったせいで、皆苦しげな表情を隠せていなかった。いや、理由はそれだけではない。
「あと少しだったのに……!」
自身と時の回廊との位置を確認しながら、ラスフィアは悔しげに呟いた。彼女は素早く立ち上がり、半ば叫ぶようにしてキルシェの名を呼んだ。
呼ばれたキルシェが祈るような仕草をするとともに、時の回廊からの光がより一層強まる。扉を開いたということだろう、僅かだか風のようなものも感じられる。この感覚も随分と久しいものになるが。
「今飛び込めば間に合うわ! 時の回廊へ早く!」
手を合わせた状態のままのキルシェは、他の五人を視線だけで見やった。そこには否定を許さぬ強情の色が滲んでいた。
「ま、待って! キルシェは」
「私なら大丈夫、絶対に捕まらないって言ったでしょ?」
キルシェは小さく肩を揺らして皆へと振り返った。その後ろでは、メテオやヤミラミたちが逃がすまいと追ってくる姿が確認できる。
そんなことはお構いなしに、キルシェは唇を綻ばせて彼らに手を差し伸べる。
「必ず星の停止を、歴史を変えてね!」
言葉なんてなくても十分に気持ちは伝わるのに。彼女の想いの全てを賭けた声は、五人の背中を力強く押した。
「すまない!」
「それじゃあね、いってきます」
「……アンタも気をつけて」
「ありがとう、キルシェ!」
緑、黒、黄色、黄緑。それぞれの軌跡を描きながら、四人は時の回廊へと身を託した。
けれどアルトだけはすぐに動けなかった。キルシェと目を合わせて、何か言葉を返そうと口を開く。けれどもそれは、他でもない彼女自身によって遮られた。
「ほら、アルトも。……お姉ちゃんに心配かけすぎちゃだめよ?」
キルシェは困ったように微笑むと、前からアルトを押して回廊へと向かわせた。
「ああ! ……できる限り、な」
アイツのことだから、いらないところまでも心配してきそうだ。
アルトが最後の軌跡と共に青い光へと飛び込む。その顔にかすかな笑顔を携えたまま。
「させるか!!」
「させないに決まってるでしょう!?」
手を伸ばしたメテオに、キルシェは不敵に口元を歪めた。刹那、彼女と時の回廊はともに眩い光を放ち始める。
眩しさに思わず止まってしまうメテオ。彼が再び開いた目には、キルシェも時の回廊も映らなかった。
淡い光の欠片と、荒々しい風姿を見せる崖。それを悔しげな目つきで睨みつけた彼は、岩肌を力任せに殴りつけ、湧き上がる敗北感に身を任せた。