74話 儚い希望
「――ディアルガ様」
凍りついた。それは空気も、表情も、自分の身体ごと。
凝然と張り付いた喉から声を出すことなど叶わなかった。いや、声どころか、息をすることさえままならない。
「グオォォォォォッ!!」
閉ざされた空気を粉々に撃ち砕いたのは理性無き咆哮。全身でその振動を浴びて、視界が震えるのを確認して、アルトはようやく理解した。拒絶、否定。からの認めざるを得ない眼前。
時の回廊の後ろにそびえ立つ険しい崖。その上からは、双眸と胸元の宝石が紅の光を放ち続ける。
(あれが、ディアルガ……。いや、“闇のディアルガ”)
紺色の体に走る幾筋もの夕焼け色の光。そこから感じるものは美しさではなく、目を背けたくなるほどの禍々しさだった。
圧倒的なまでの威容に、心臓が握りつぶされるような苦しさに襲われる。それでもなお、アルトはディアルガから目を離せなかった。
魅了されたからと言えたならどれほど気楽だったか。違う、恐怖心が目を逸らすことを許さないだけだ。
「どうした? さっきまでの威勢の良さは」
撫でるように紡がれるメテオの言葉に向ける感情さえ、既に湧かなかった。
噛んだ唇は微かに震えていて、頭が一面黒く塗りつぶされて。あぁこれが本当の恐怖なのか、一周回って冷静になった自分がそう囁くのを、アルトは胸に手を当てて聞いていた。
「シュトラさん……」
「くっ、ここまで、か……」
キルシェの最初の余裕も影を潜めていた。メテオの後ろで輝く蒼彩と、ディアルガとを見比べて口を一文字に結ぶ。
「戦うつもりだったけれど……ディアルガが相手となると」
ラスフィアも苦々しい表情を隠しきれていなかった。それになんでだ、と責め立てることさえ誰も出来やしない。
それほどまでに桁違いなのだ。そうでなければ、戦う前から力量差に慄いてしまうこともない。
「お前たちもよく頑張ってくれたが……すまないな」
――待てよ、シュトラ。
恐怖心に縫い付けられた足を振りほどきたい、なのに動いてくれやしない。今すぐにその口を塞ぎに行きたかった。アルトには、その次の句が想像出来てしまったから。
「降参だ。好きにしろ」
反論の声は欠片も上がらなかった、上げられなかった。ただ、悔しそうに呻く声がしたくらいで。
その反応に単眼を歪めたメテオは、シュトラを見下すような構えをとった。
「フッ、どうしたシュトラ。お前にしてはやけに諦めが早いな」
「まあな」
思いの外あっさりと返してしまったシュトラに冷たい視線を送るのが一名。彼女は体格差に沿ってシュトラの顔を見上げた。
「ふざけない、で! アンタもラスも、過去に戻れないのに……どうやって、星の停止を食い止めるの!」
吊り上がった目にシュトラを映したまま、ラピスは「それとも」と続ける。
「アンタは、この未来のままでいいって! そう言うの」
普段に比べたら随分と饒舌、そんな彼女に怒りの感情があることは火を見るよりも明らかだった。
ラピスはラスフィアの顔色を伺い、ディアルガを睨み、再びラスフィアと目を合わせた。
「ラス、全員が捕まったらって話、あたしにしたでしょ。……時の歯車を集めていた意味、無くなる、って!」
処刑場に飛び込まんとするラピスを止めたのはそんな言葉だった。
語気を強めるラピスから、ラスフィアは静かに目を逸らした。星の停止を食い止めることを第一信条とする彼女にとって、ラピスの文言はどう聞こえるのだろう。
「ラピス、さん……」
「ディアルガくらいで、何もしないで諦めてっ。それで、アンタたちは……この暗黒の未来を、守るつもりなの!?」
ラピスの泣きそうな声は、ひどく悲痛な色をしていた。彼女の想いは、アルトにも充分に伝わってきた。
ゼロじゃないかもしれない、勝機があるかもしれない。
そんなことくらい、アルトも思いはした。いつもならやってみなきゃわからないと、足を踏み出しているはずだ。それなのに何故、自分も「ディアルガを倒そう」と言い出せないのか。なぜ、威圧感に首が絞められたままなのだろう。
ラピスに腕の葉を強く引かれるシュトラ。彼の横顔を見て、アルトははっとした。
その顔には悲嘆が滲んでいなかったのだ。ラスフィアは水中に放り込まれたような表情なのに対して、だ。ラピスも同じことを感じたようで、不満げに歯を食いしばる。
するとシュトラは「いや」と首を振った。
「確かに俺は諦めたが、まだ希望はある。キルシェも知っていると思うが……過去に行ったのは俺とラスだけじゃない」
「えっ、他にも仲間がいた、の……?」
恐る恐る聞き返すリィに、シュトラとキルシェは揃って頷いた。ラスフィアは何も答えない。俯いて、ラピスから目を逸らしたままだ。
「あと二人、それぞれ俺とラスとペアを組んで行動することになっていたんだ。時の回廊を渡っている最中のトラブルではぐれたんだが……きっとアイツらは過去にいる」
ラピスはシュトラの葉から手を離した。そっと、はらりと、無意識のうちに。
「アイツらってことは……ラスフィアの相棒の子もはぐれちゃったの?」
「……ええ、ちょっとした事故で、ね」
ラスフィアは俯いたままそう返す。暗さも相まって、その表情に浮かぶ色をリィは読み取れなかった。
シュトラはだから、と時の回廊を眩しそうに見つめた。
「アイツらなら、俺たちの代わりに星の停止を食い止めてくれるはずだ」
それを聞いたメテオは肩を揺らした。やがて両手を広げると、快哉を叫ぶように笑い始める。
「フッ……フハハハッ!!」
「……何がおかしい?」
声を出したのはシュトラだったが、その思いは六人共通であった。アルトは憎悪の、リィは困惑の、シュトラは訝しげな視線をそれぞれメテオに向けた。
まだ笑いの余波に揺られたまま、彼は言葉を継ぎ始める。
「お前たちの他に過去に行った奴ら……。ちなみに、ソイツの名前は? 言ってみろ」
「……何が目的だ? お前だって知ってるだろう」
シュトラの怪訝な顔つきは更に深いものになっていた。いや、シュトラだけでなくキルシェも。
「フッ、言えぬのか」
「そんなことはない。……わかった」
シュトラは顎を引いて、切れ長の目を細めた。
「ラスフィア、テナー。そして俺の相棒であり親友の――」
テナー、という名前にアルトは引っかかりを覚えた。どこかで聞いた、けれども思い出せない。
確かに知っている。でもどこで。
しかしアルトがその記憶に辿り着く前に、聞き捨てならないことがシュトラの口から流れ出た。
「――アルト。アルト・エストレジャだ」
「は……」
疑った、自分の耳も、シュトラも。
今度こそ確かに記憶にあった。知っている、その名に覚えがある。なぜかなんて愚問、答えるまでもない。
「俺の、名前……?」
ディアルガからの威圧感も、自身を支配していた恐怖心も全て忘れた。代わりにアルトを満たしたのは果てなき疑問だった。
いや、ただの偶然、単なる聞き間違い。そう首を横に振ろうとするアルトを止めたのは、同じく困惑に溺れるリィだった。
「ま、待ってよ! アルトは、ここにいるのがアルトだよっ!?」
くりくりとした桃眸を見開いて、震える声で彼女は述べる。リィはアルトとシュトラ、それにラスフィアを何度も見比べた。
「ね、ねぇラスフィア! どういうことなの?」
「……。シュトラの相棒の名はさっき言った通り、アルトくんが、ううん――アルトが名乗ったものもその通り、ってことよ」
潜めた声はやけに淡々としていて、焦りも驚きも見せない色だった。ラスフィアは目を伏せ、口元を固く結んだ。
戸惑いを隠せないリィは、何度も何度も頭に疑問符を浮かべている。そんな彼女に対して、次に口を開いたのはシュトラだった。彼はゆっくりと、落ち着かせるようなテンポで首を振る。
「いや、違う。俺の知っているアルトはリオルじゃない。……ニンゲンだ」
「……待て、よ」
いよいよ会話が頭に入らなかった。
ここまできて何を、どう否定できようか。全員が言葉を繋げなくなって場に沈黙が落ちる。
静かだからこそ、倍速になった心臓の音がよく聞こえた。呼吸を忘れていたことに気が付いて、慌てて息を吸い込む。
そんなアルトをよそに、メテオは全身から溢れ出る痛快さに身を任せ沈黙を破った。
「フッ、ハハハハハッ!! シュトラよ、そこにいるのがお前の相棒に違いない!」
「何……っ!?」
「ソイツは元々“ニンゲンだった”のだからな!!」
何を、と言いたげにシュトラとキルシェの表情が強張った。当然だ、そんな夢話誰が信じられる。
愉しげな哄笑を残したまま、メテオはアルトと目を合わせた。愉楽、痛快。そんな感情を見せつけられて、呆然としていたアルトははっと我に返った。
未来世界で目覚めたとき、自分たちがどこにいたのか。その理由に手が届き背筋が凍りつく。呼吸は早まり、自らうるさいと悪態をつけるほどには荒くなる。
「ディアルガ様が私に与えた使命、それが過去へ行ったお前たち四人を消す事だった。私も後を追いかけてタイムスリップし……情報を集めながらお前たちを探していた」
ただ淡々と耳に流れ込むだけの話、とはいかない。色を取り戻しつつあるアルトの脳内で、記憶と語りは共鳴し始める。
「そしてある時、私はギルドへと向かった」
<……ラスフィア?>
<メテオさん、ですね。……はじめまして>
「ブラッキーという種族、そして顔立ち。そこにラスフィアという名を重ねたら疑いようがないだろう」
その場の視線がラスフィアに集中する。彼女はふぅと小さく吐息すると、伏せていた目を戻した。
「そうね、さすがにあのときは驚いた」
「フッ、お互い様だな。まぁ事を起こして私の信用が潰えては元も子もないので、ひとまずは機をうかがうことにした」
それが成功か否か、二人がどう感じているのかは側からは読み取れなかった。複雑な思い、強まる警戒心、密かな心理戦。それらをいつも通りで塗りつぶしていたことすら、当時のアルトもリィも気がついていなかった。
「そんな中出会った探検隊のうちの一つ、それが『メロディ』だった」
自然、目線が集まるのはアルト、リィ、ラピスの三人になる。アルトはそっとリィの表情を盗み見た。話と記憶とを繋ぎ合わせているのか、思っていたほど怖がっていたり驚いていたりする色ではなかった。
メテオは目を細めて語りを続ける。
「リーダーの名前がアルトだと知ったとき、アイツが思い浮かばなかったと言えば嘘になる。ただ……ニンゲンでないのなら、と考えは打ち消した。……しかし」
<あー、それは偶然夢を見たからで……俺は大したことしてねぇよ>
<……。それはもしかして“時空の叫び”ではないでしょうか?>
「時空の叫びの話を聞いたときまさかとは思ったが、私の中にある考えが芽生え始めた。そして」
<自分の名前と、あとは――元ニンゲン。それだけだ>
<も、元ニンゲン? どこからどう見てもリオルじゃないですか!?>
「なんと元々はニンゲンで、記憶を失っているというではないか! 時空の叫びを持つニンゲン……私は確信したよ」
<名前は覚えているとのことですが、そちらもお聞きしても?>
<アルト。……アルト・エストレジャ。何か分かりそうか?>
<うーん。残念ながら何も……すみません>
<そっかぁ……やっぱり難しいよね>
「間違いない! コイツこそが、私が追っていたアルトだったのだ!!」
メテオに自分の名を告げたときと同様に背筋が凍った。あのとき彼が笑ったのなんか気のせいじゃない、何も知らない、なんてことは美しいまでの偽りで。
「記憶を失いポケモンになったのは、タイムスリップ中の事故か何かでそうなったのだろう。とにかく記憶がないおかげで私を見てもわからない、というのは幸運だったよ。……それに」
メテオはラスフィアに嘲りの目線を向けた。
「ラスフィアのことも忘れていてくれたからな。お前がいくら言葉を尽くそうと、あの状況の中私から逃げるという選択をさせることは難しい。……このままコイツらを信用させておけば、いつでも未来へ連れていける」
「そんなの……っ」
手のひらの上で弄ばれる信頼の心。そこに真っ先に憤りを覚えたのはリィだった。
事故による記憶喪失を、得た信用を、なぜこうも軽く扱えるのか。
「あとはシュトラさえなんとかすればよかったのだ。そしてそれも、今ここでお前たちを消すことで全てが終わる。……シュトラ、お前の儚い希望も含めてな!」
目に映るものから情報を得られないほどの混乱の渦中で、アルトはふと顔を上げた。パニック状態でも容易く気がつける違和感。何度か噛み直して、それが確かなものだと心に刻みつけると、自然と疑問は口をついた。
「なぁ、俺がそのアルトなのは……まぁいいけど、でも! テナーは、」
「わからないのか? テナーは過去の世界にいないってことを」
「は……?」
素っ頓狂な声を上げなかったのは、五名を除いた全員だった。発言者はもちろん、ディアルガとヤミラミの一匹もそこに該当する。
「そろそろ教えてやってもいいんじゃないのか? 騙り続けても無駄だろう」
残り二名の内の一人、ラスフィアが何か言いかける。けれども音は声にならないまま、暗闇に飲まれて消えた。
淡々と並べ立てられた言葉から逃れようと、最後の一名は耳を塞ぐ。いや塞ごうとした。
「なぁ、『テナー・エストレジャ』?」