69話 尊き理想郷
夕暮れの海岸で高らかに響く、勢いのある旋律。
それは勢いあまって音を外したり、テンポが狂ったり。耳はそれを逃さず拾うので、彼に迷いのない助言を選ぶことなどたやすかった。
彼がトランペットを吹くときに、時々持ち方に苦心している様子が見られた。当然だ、ニンゲンとリオルでは勝手が違うのだから。
さあさあ、未だその感覚に慣れきっていないことを彼は気にしているようだ。けれどもそんな彼を見る彼女は焦らなくてもいいのに、と目を細めた。
「……姿変わってるのに、当たり前に吹けると思ってるのがおかしい」
「お前には言われたくねぇよ!」
そう言えばコイツ、あたしが元々ピカチュウじゃないことを見抜いていたっけ。ラピスはフルートを抱き抱えると、何度かトランペットを持ち直すアルトを見やる。
「でもやっぱり、こう慣れないってことはニンゲンだった俺もトランペット吹いたことがあるんだよな」
別の楽器の可能性もあるが、まぁ何かしら経験済みなのは確かだろう。リオルにしては大きめなトランペットを構え、アルトは思いのままに奏で始める。
広く空に響き渡る、心を踊らせるような音の流れ。
今日もまた、ファンファーレは空を突き抜けていた。
ラピスは瞼を閉じ下ろした。
隣を歩いていたラスフィアは、ラピスの溜め息を聞いてその足を止める。背景となっている森には色がなく、生命力など欠片も感じられない。そんな中だからこそ、ピカチュウの体は異質なくらいに目立って見えた。
ラピスの左腕にはめられたリング。そこに埋め込まれた青い石の上に指を滑らせ、ラピスはちらりと後ろを振り返った。
(やっぱり心配、よね。それはそうよ。警戒心が強くて心配性な彼女が、アルトたちの姿を見ずに安心できるわけがないもの)
ラピスの長い耳は、いつもよりは角度の落ちたものだった。ラスフィアは感情が読みやすくなった、と苦笑しつつ目を細める。
(ただ大丈夫だから、って。そう言うだけじゃ彼女の心は動かない)
早く彼らと合流する必要性がひしひしとラスフィアを覆い尽くす。今すぐにでも飛び出してきてくれていいのに、などと考えたラスフィアは、それは我が儘だと考えを打ち消した。
ラピスは小さく首を横に振ると再び前を向く。その際にラスフィアの緋眼とラピスの瑠璃眼が繋がった。
大抵誰かと目があったら即座に逸らしてしまうラピスだけれども、今回は合わせたまま動かない。
「……ラス」
「どうしたの?」
「ラスが時の歯車を回収した後、なんですぐ逃げなかったの?」
ラピスは責めるでも訝しむでもなく、淡々とした調子でそう切り出した。
ラスフィアはそっと目を伏せ、足元の灰葉を見下ろした。その質問の答えは幾通りか存在するのが事実。故にそれらをどう組み合わせていくか、彼女が頭の中でまとめ始めるのとラピスが口を開いたのは同時だった。
「……こうなるって、アルトたちが危ないってわかってた。だから、残って、守ろう、って。……あたしは、そうじゃないかと思ったけど」
違う? と聞き返すラピスに、ラスフィアは肩をすくめた。
そこまでわかっていて、彼女はどんな答えを知りたいのか。次が読めないまま、ラスフィアは頷いた。
「それもある。というか、そこに関してはあなたが言い出したじゃない」
「ん。……だから、さ」
瞳と近い色合いのスカーフを、ラピスはぎゅっと握りしめた。あの手を開いた後もスカーフは元の形に戻らないのではと懸念されるくらいに強く。
ラピスは合わせていた視線を外すと、小さく溜め息をついた。
「ありが……ごめんね。巻き込んだ。……未来に来るつもりじゃなかった、よね」
「ふふっ、なぜ言い直したのかしらね?」
「うるさい」
つい悪戯心が疼いて茶化してしまう。それに顔を赤くして反論してくるのも彼女らしいなぁ、とラスフィアは頬を緩めた。
赤くなった顔を誤魔化すようにそそくさと先に進もうとするラピスに、ラスフィアはとある影を重ねた。郷愁を感じた後、ラスフィアはラピスの背に声をかける。
「まぁ巻き込まれたとは思ってないわ」
「でも……」
ラスフィアに向き直りながらも、ラピスの視線は地面へと向いていた。俯く彼女の耳には、ラスフィアの言葉がさらさらと流れこんできた。
「もう一度この景色を見て、星の停止を食い止めるっていう覚悟を見直せた。長くあっちにいたから忘れていたけれど……私にとっての当たり前はこれ。陽の昇る世界は尊き理想だから」
目に映るものを理解し始めたときから常にこの世界を見てきた。だからこそ、朝陽が昇る景色は格別だった。
朝という時間が、明るい世界が落ち着かずにいつも早起きをしていた。同じ「暗い」でも、少し空を仰げ
ば星の瞬きを浴びるように眺められる、そんな夜の美しさも忘れてはいない。
ラスフィアにとっての理想郷。そこで暮らすうちにいつしか覚悟が揺らいでいたのさえ、再びこの景色を見るまで気が付いていなかった。
ラピスは目を伏せ、ラスフィアの言葉を頭の中で復唱する。理想、の言葉が心の中でゆらりと波打った。
「……時間使っちゃったわね。早くキルシェのところに向かわないと」
「……ん。行こ」
歩き始めたラピスは、歩を進めつつ「そういえば」と切り出した。
「スカーフ。……付けないの?」
「えっ? あぁ、変化の玉使うときにスカーフで勘ぐられないようにって外してたっけ。ふふっ、ありがとう」
ラスフィアはブラウンのスカーフを取り出すと、サイコキネシスで器用に操りつつ首に巻いた。右側に結び目をつくり、結び端はふわりと流す。
「よく考えたら、あの姿にブラウンのスカーフって結構似合いそうよね」
「……勝手にして」
少し得意げな表情をしてみせると、ラピスに盛大に溜め息をつかれた。そこからラスフィアが苦笑してみせるのもいつもの流れだ。
ただ、そのいつも通りを楽しんだ後は気を張り巡らせるのを忘れない。ラピスはぴんと耳を立て、せわしなく辺りに注意を払う。互いに無駄な会話はせず、呼吸さえも最小限に抑えて。
彼女の立った耳がぴくりと跳ねるのも時間の問題だった。
(何、今の?)
ほぼ無音のはずの世界でかすかに聞こえた葉の擦れる音。当然風など吹くわけはない。足元を確認しても、ラピスやラスフィアの歩いた場所は薄く砂をかぶった硬い土が広がるだけ、擦れるような葉は落ちていない。
気のせいと片付けようとしても、妙に胸が騒ぐ。ラピスは目を閉じると感覚を研ぎ澄ませた。
再び聞こえた音。方角は後ろの――どこか。
それさえわかれば十分だとラピスは踵を返す。ラスフィアが怪訝な顔をするのも気にせずに。
「……っあ」
木の幹からかすかに覗く影。ラピスはそこをキッと睨むと、リングの輝く左手をかざした。
「電磁波!」
「ウィ……ッ!?」
「その声、まさかヤミラミ!?」
事態を把握したラスフィアは、自身の周りに四つのつららを携えてヤミラミの前へと躍り出た。
向こうは単独らしく、仁王立ちするラピスの前で痺れに顔をしかめていた。ラスフィアはそれにつららを二本ぶつけると、ちらりとラピスに視線を送った。
それだけで十分に意思は伝わる。ラピスは頬で電気を弾けさせると、怒気を孕んだ声で言った。
「答えて。アルトは……シュトラたちを、どうした……ッ!」
「ウィッ、そ、それは」
「下手な答えしたら許さない」
ラピスは声のトーンを落とすと、いつでも技を出せるようにと左手をかざした。ラピスの左手、それに闇に溶けるようなつららを交互に見やると、ヤミラミは目尻を下げた。
「わ、わかった。答えるからそれを下ろせ」
「無理ね。いいから答えてあげたらどうなの?」
ラスフィアが促す先には、左手に電流を迸らせるラピスの姿があった。ヤミラミは小さく悲鳴を上げると、観念したように下を向く。
「アイツらは処刑場から逃げ出した。それで今は探していたとこ――ぐわぁ!!」
話の最後を見ることなく発射されたのはラピスの氷撃だった。それにより、ヤミラミの胸元の宝石に霜が降りる。
ラピスはまだ冷たさの残る両手に力を込めると、ばっと顔を上げた。
「嘘ならいらない」
「ほ、本当だってば!」
「うるさい。……そんなので、あたしは逃がさないから」
一番欲しかった回答だったのは事実だ。だがそれは本当のことなのか? ……当然、手放しで信じられるわけもない。
もしこの場を誤魔化すために言っているのなら、ラピスはどんな手だって打つ覚悟があった。
「ふざけないで。アイツらを、どうした……!」
「逃げ出したのは本当なんだ! 信じてくれ……!」
ヤミラミは冷や汗を浮かべながら必死で弁解している。その口舌には確かな焦り、そしてラピスへの恐れが感じ取れた。
(やっぱり言葉だけじゃ彼女は動かせない。と言ってもヤミラミが逃げ出した証拠なんて持っているわけもないしね……)
ラスフィアは小さく眉を寄せた。
たぶんこのままだとラピスは延々と尋問を続けてしまう。その場合の結末がどうなるのか。恐らくは――メテオが、ヤミラミたちがアルトたちにしていたのと同じことになる。
彼女は彼らならどうにかなる、と信じていたため、ヤミラミの言うことも本当だろうと踏んではいるのだが。
そうやって自分が口を挟むのは簡単だ。だが、ヤミラミが嘘をついている可能性がゼロだとも思っていなかった。故に何も言えない、というのがもどかしい。
「……どうしよう」
そうラスフィアが呟いたのと、目の前で閃光が弾けたのは同時だった。
小柄なラピスの体が光り、両手はまっすぐ前にかざされて。長い耳も大きな尻尾も、迷いなく天を指すように立っていた。
ラピスは目の前の光量に瑠璃の目を細めつつ、声を張り上げた。
「弾けて。――スフォルツァンドッ!!」
「ここ、全然色がねぇな……。全部灰色だし」
「……なんて言うか、寂しいところだよね」
きょろきょろと辺りを見渡したリィは悲しげに目を細めると、前を行くアルトとの距離を縮めた。
周囲には木が点在する、いわゆる森というものではあれど、木々の色も命の音もない。おまけに霧のようなものがかかっているのが不気味さを醸し出している。
ミカルゲの一件ですっかり思考回路が書き換えられたリィは、いつ得体のしれない存在が出てくるのかと気が気でなかった。
「もうすぐ黒の森と呼ばれるダンジョンに差し掛かるんだが……そこの奥深くにキルシェがいるはずだ」
先頭を行くシュトラは、リィとは別の意味、すなわち敵の気配を勘ぐりながら辺りを眺めていた。
シュトラにはあの後すぐに追いつけた。と言うのも、彼は例の裂け目から数歩ほどしか離れていない場所で待っていてくれたのだ。アルトたちの姿を見るや否や動き出してしまったが、その速度はだいぶ追い付きやすいものだった。
その気遣いを思い出して頬を緩めた後、リィは小首を傾げた。
「さっきも言っていたけど、キルシェっていうのは誰なの?」
「種族はセレビィ、キルシェというのが名だ。伝説の時渡りポケモンで時間を超える力を使えるんだ」
「な、なんかすごいね……」
今から時代を越えようとしている関係上、その手伝いをするポケモンはただものじゃない。そうはわかっていても、シュトラの説明の壮大さには感服するものがあった。
「まぁちょっと変わった奴ではあるんだが……俺が過去の世界に行けたのはキルシェのおかげだな」
「そっかぁ。じゃあキルシェに会えば私たちも元の世界に帰れるんだね!」
リィは高揚感から顔を輝かせた。色々ありすぎてこれまで思いもしなかったけれど、時間を超えるというのにリィの好奇心はくすぐられていた。もう一度体感できる期待感、それに過去の世界へ戻れる嬉しさがリィの心に込み上げる。
シュトラは歩く速度を遅めると、ただ、と話を折り返した。
「キルシェは俺を過去に送った。つまりソイツも歴史を変えるのに協力したポケモンだ」
その言葉の奥底が見えず、リィは首をひねった。それでも少し考えることで話の意味がつかめてきた。
「ううんと……もしかして、キルシェもディアルガに追われているの?」
「そうだ。あまりグズグズしてはいられない。早くキルシェを探さなくては」
言い切る前にシュトラは歩くスピードを早めた。それに合わせようとしたリィは、ふとアルトに視線を向ける。
そういえばさっきの話に加わってこなかったな、などと思いつつ、リィは蔓をアルトの目の前で揺らした。
「アルトー?」
しかしそれには特に反応も示さない。俯いたまま、何かに思考を奪われているようだった。リィは一抹の不安を抱えつつ、声のボリュームをあげる。
「アルトってば! どうしたの?」
「……っ! 悪ぃ、ちょっと考え事……ってシュトラは先に行っちゃってるな」
アルトは遠くなるシュトラの背中を見やると、早歩きでそれを追いかけ始めた。リィもそれに合わせて走り始める。
そんな間にも、先程の考え事の内容がアルトの頭を何度もよぎった。
(この感覚、どこかで感じたような気がする……。いつ、だっけ)
体が懐かしさに震えるような感覚、なのにその懐かしさの正体が掴めない。大半が失われた部分で形作られた記憶の中、覚えている部分を順に洗い出していく。
しかし、そんな作業は唐突に中断させられた。
「きゃっ……何、爆発っ!?」
目がくらむような光、木々に連なる葉が揺れるほどの爆音。それらを感じたアルトたちは、一気に警戒レベルを高めて道の向こうを睨んだ。
「この先からだな……。まさかキルシェに何かあったりはしてないだろうな」
一本道のその先だから、現場に行かざるを得ないのが現状だった。シュトラは眉をひそめると、持ち前の身軽さにスピードを乗せた。慌ててアルトたちも追いかけるが、それでもシュトラの背中はぐんぐんと遠ざかってしまう。
だが、程なくしてシュトラは足を止めた。すぐにアルト、次いでリィも倣うように止まる。
そこに倒れこんでいた影は、アルトたちの足音を聞いて起き上がる。黒く焦げた木々を後ろに、そのポケモンはアルトたちの姿を見て目を細めた。
「……ほら、やっぱり」
焦げた木の一本が悲鳴をあげるのを聞き、そのポケモンはひらりとアルトたちの前へ躍り出た。彼女が元いた場所目掛けて、木は灰を撒き散らしつつ倒れこむ。けれどそこに気を払う者はここにはいなかった。
眼前に躍り出たポケモンを見て目を見開いた、という点は三人とも共通していたからだ。
「ラス?」
「ラスフィア……っ!」
ただアルトだけは、彼女と木を超えた向こうにある小さな黄色を見落としていなかった。
アルトはすぐにぼろぼろの倒木に足をかける。身軽に飛び越え、着地するや否やその黄色に駆け寄った。
「ラピス……ッ!! お前」
近くで見て、それが自分の探していた相手だと確信する。
しかし、ラピスの体はところどころが焦げ、呼吸は尋常でないくらいに早かった。それでも瑠璃の目は自身に呼びかけた相手をきっちりと捉え、
「アルト……?」
――そこにアルトを映し出すと、彼の姿を滲ませた。