68話 この星の真実
天を貫くほどに巨大な裂け目。岩壁からのびるそれの断面からは、まるで小石が脱落してくるという場面を切り取ったように、砂が宙に留められていた。
その高さに目を細めるのも一瞬のことだった。シュトラにすぐにその裂け目に身を隠すように言われたアルトとリィは素直にそれに従う。そしてポケモン三人を入れてなお、ある程度の広さを保つ裂け目へと足を踏み入れた。
「ここならヤミラミたちも見つけにくいだろう。……さて」
張っていた緊張を解き下ろし、アルトは岩壁に体重を預ける。シュトラも同様に、リィはちょこんと座るような形で向かい合った。
「教えてよ。なんでこの世界では星の停止が起こっちゃっているの?」
「星の停止の原因……。それはお前たちがいた過去の世界で時限の塔――ディアルガが守る塔が壊れたからだ」
「でぃ、ディアルガ? 時限の塔? え、ええっと……」
聞きなれない単語に二人は首を傾げる。ただ、その二つの言葉の荘厳さはすっと胸の内におりてきた。
「ディアルガというのは時間を操る伝説のポケモンだ。そして時限の塔が壊れたのをきっかけに少しずつ時が狂い始め……」
「星の停止を迎えた、んだな」
アルトは裂け目の外へと視線を逸らしたままだ。
塔一つにそれほどまでの影響力があるというところはまだ想像し難い。が、時が狂うという部分と重なる話を以前にも聞いていたせいか、嘘だという気は起こっていなかった。
「……ディアルガはどうなっちゃったの?」
俯いていたリィは、顔を上げぬまま胸元の桃色のリボンに目をやる。明るさに乏しい世界で、その色はくすんで見えた。
「ディアルガは時が壊れた影響で暴走した。星の停止を迎えた世界でのディアルガに至っては、ほとんど意識もなく暗黒に支配されている」
シュトラは小さく溜め息をついた。
「もはやあれをディアルガとは呼べない。まったく別の存在――“闇のディアルガ”とでもいうべき存在だ」
はっとアルトは息を呑んだ。
伝説のポケモンの存在すら書き換えられるほど、時が壊れた影響というものは大きかった。
ただ陽が昇らないだとか風が吹かないだとか、そればかりに目がいっていたけれどそうではない。あらゆるポケモンに対して心が壊れてしまう、と。そんな可能性を見せつける世界だ。
どこか軽く考えていた、いや、深く考えるほどの情報がなかっただけか。ともかくその重みは、重大さは。今更すぎるほど肩にのしかかった。
「闇のディアルガは感情を失ったまま、ただ歴史が変わるのを防ごうと働いている。……だから俺たちはディアルガに追われている」
「ディアルガに追われる?」
怪訝な顔をしたアルトの復唱に、シュトラは瞑目して声のトーンを落とした。
「俺たちは歴史を、星の停止が起きたという世界を変えるためにお前たちの世界に行ったのだから」
「なっ……!」
「……えっ?」
アルトは目を見開き、リィは顔を困惑に曇らせた。
生じた違和感の正体は明白だった。ここにきてもなお、裏切りの波は途絶えることがないのか。
「そんなの、星の停止を防ぐ……っ? なん、で」
「なんでって……お前はこんな世界で暮らしたいとでも思うのか?」
シュトラは裂け目の外に目をやると、変わり映えのない景色に目尻を吊り上げた。
色らしい色もなく、空気さえも流れることのない暗黒の世界。リィたちが今までいた世界とは似てもつかないそれは、確かな寂寥感に包まれている。
この世界を肯定はしない。アルトとリィの疑問の根源はまた別のところにあったのだ。
「俺やリィが聞いた話と逆なんだ」
アルトがそう零したのに、リィはこくりと頷いた。
無意識的に胸に手を当てて、そこに慣れたペンダントの感覚がないのを改めて知る。それでもなお、それを握るように手を当てたままにする。
「お前は……お前やラスフィアが過去に来たのは! 時の歯車を奪うことで星の停止を起こすためだって」
「冗談じゃない!」
拳を握るシュトラの手は震えていた。
その怒りがどこに向けられているのか、それを察したアルトは地面へと目を逸らす。
「悪ぃ」
「……いや、聞いた話だと言っていたな。およそメテオ辺りからか」
二人が頷くのを見ると、シュトラは眉根を押さえた。そこから呟かれる独り言には、かすかに憤慨が宿っていた。
「時の歯車を集めていたのは星の停止を防ぐのに必要だったからだ。時限の塔に時の歯車を納めれば、壊れかけた塔も元に戻る」
「……でも、時の歯車が無くなると時間が止まっちゃうんだよね?」
リィは瞼の裏に、時の歯車消失後の地底湖を描いた。再び目を開いたとき、そこに描かれた景色は先程までと同じ色合いをしていた。
寂しげに目尻を下げるリィを見て、シュトラは小さく首を横に振る。
「それは一時的なもので、時の歯車を納めることでまた元に戻る。時の歯車は塔の欠片みたいなものだが……大元の時限の塔にはめることで、その地域で失われていた機能も戻る」
話を頭の中でまとめながら、アルトは小さく唸った。今までの記憶に上塗りが必要な場所が多すぎる。
ここまでの話をリィやシュトラに確認しつつ、アルトは話の整理の時間稼ぎに質問を投げかけた。
「あー……じゃあ、時の歯車はこうして時限の塔が壊れるのに備えて各地に散らばっていた、でいいのか?」
「おそらくはな。万一塔が壊れた際の手段を全く用意していない、なんてわけにもいかないだろう」
アルトたちが時の歯車を見たのは計二回。水晶の湖で見ることは叶わなかったが、たったその二回とはいえど、その高貴で神聖な美しさは今も鮮明に思い出せる。
「うぅ……じゃあ、メテオさんが言っていたこと、は……。シュトラが未来で指名手配されている悪者だとか、逃げ延びるために過去にやってきたっていう話は、全部、デタラメなの……?」
「当然だ。俺もラスも指名手配されたりは……していたが、別に未来でされていたわけではない」
ここで言う「されていた」は、当然アルトたちがギルドとして彼らを追っていたときの話だ。なんだか申し訳なくなって、アルトは言葉を詰まらせつつ謝罪の意を述べた。
それを適当に流しつつ、シュトラは目を伏せた。
「メテオは……俺たちを捕らえるべく、闇のディアルガが送り込んだ刺客だからな」
「し、刺客……っ!?」
思いもよらぬ単語にリィは身震いした。彼女はいよいよ信じられない、という風に「えっ」と繰り返している。
けれどアルトは違った。ようやく筋が見えた気がして、地面を睨むようにしながら言う。
「それでさっきのディアルガに追われている、ってなるんだな」
「そうだ。俺たちがタイムスリップしたのを知ると、闇のディアルガは刺客としてアイツを過去へと送り込んだのだ」
「め、メテオさん、そんな……」
震える声に混ざる感情がいくつあるのか、それは本人でさえ数えられない。眉根を寄せた表情の中で、彼女の緋桃の瞳は揺れていた。
その反応を予想していたシュトラは、ため息をひとつついて瞑目する。
「……まぁお前たちには信じられないだろうが」
「信じられないよ……! だって、だって」
息を詰まらせ、リィは強く唇を噛みしめる。
「確かに今のメテオさんはよくわからないよ。でも、私は尊敬していて……それが、それが刺客だなんて」
「……俺だって信じられねぇよ」
するとしばらく黙っていたアルトがすっと口を開いた。リィは弾かれたように彼の方へと振り返る。
アルトが顔を上げると、やはりなと呟くシュトラとちょうど目があった。
「でもシュトラの言うことは筋が通っていると思うし、今まで未来で見たことを考えたら俺は納得できる」
未来で見たことだけじゃない。水晶の湖でのラスフィアを重ねれば、シュトラの話には十分な信用が伴った。
なぜ時の歯車を集めるのか。それを「時を止める」と表現したときに急に目の色が変わったことだって、この話を踏まえたら頷けるのだ。
それに、アルトの中にはラピスやラスフィアを疑わなくてもよくなった、という安心感も確かに存在していた。
(リィだって本当はわかっている。でもわかっていて、だからこそ受け入れられねぇんだよな、たぶん)
勢いよく割り切ったような口をきき、無理やりにでも行動で示す。そんな水晶の湖での攻防だって。未来ではたとラピスについて考え始めて、彼女の目的についてある仮定が浮かんだときも。
結局のところ、心の奥で必死に首を横に振る自分がいたのは確かだった。
リィの優しさはこれまで見てきた通り。誰かを信頼することなど容易に、そして深くしてしまうのだろう。それこそ自分なんかよりずっと、とアルトは考える。
「――おい、どこに行く!?」
(は……?)
しばらく考え事に沈んでいたせいか、シュトラの言葉を咄嗟に理解できなかった。それでも、顔を上げたら状況はすぐに把握できた。
見ると、リィがこちらに、つまりアルトとシュトラに背を向けていたのだ。
「リィ?」
「私……メテオさんに会いに行く」
息を呑んだ。そしてリィの背中を目に映したまま、アルトはペンダントのあった場所に手を当てた。急速に冷えていく心臓、存在を確かめるように早く波打つ動き。それらがやけに鋭敏に手から伝わってくる。
「なんで、アイツに会って何になるんだよ!?」
「……シュトラが言ったことが本当か聞いてくるの」
意味を理解できても納得できない。なぜまだ、メテオを信頼する気持ちを持ち続けているのか。
言葉の一つさえ浮かばなくなる頭では、リィとシュトラの会話を聞き取るのが精一杯だった。
「そんなことをしてどうする! アイツはお前が敵うような相手じゃない! 捕まってまた処刑されるだけだ!!」
「じゃあ……じゃあ! 私はどうしたらいいのっ!?」
「どうすればいいだと!? お前は自分で言っただろう、自分で判断すると! 何を信じていいかわからないからこそ……鵜呑みにせずに自分で考えると!!」
首元から伸びた蔓が、リィの目元を乱雑に拭った。それを見るだけでも背を向けているはずの彼女の表情が脳裏に描き出される。
思い切り握りしめられたアルトのスカーフには、くっきりとした跡が残った。
リィの気持ちだってわからないわけじゃない。わかるからこそ、彼女の迷いが再びメテオの方を向かせようとしていることは理解していた。
シュトラは一つ息をつくと、目を伏せて声を落ち着かせた。
「苦しいときこそ気持ちを強く持つものだ。後は自分たちで考えて行動してみろ」
それだけ告げると、すたすたとその場を去ろうとした。アルトは慌ててその背に声をかける。
「お前は……シュトラはどうするんだ?」
「俺が星の停止を食い止めることを諦めたわけじゃない。過去に行きラスと合流するためにも……俺はキルシェを探しに行く」
「キルシェ? いや、それよりも……」
これは言うべきか、とアルトは口ごもる。
アルトの引っかかりの原因は他でもない、ラスフィアのことだった。冷静に考えれば、シュトラは彼女が未来にいる可能性を一顧だにしていないことは明白だった。
ただそう悩んでいるうちにもシュトラは動き始めていた。
「俺に付いてきても付いてこなくてもいい。お前たちの道は自分で決めろ。……じゃあな」
「……シュト、ラ」
念入りに周囲を確認していたと思うのも束の間、シュトラはすぐに去ってしまった。
その姿を見送った視線が次に向かうのはやはりリィだった。俯いたまま言葉を発しない彼女が何を考えて、何を案じているのか。
アルトは瞼を下ろし、太陽の気配など微塵もない空気を吸い込んだ。
(とりあえず一つはっきりしてるのは、ここでは星の停止が起こってること。それが俺たちのいた世界で起こったってこと、だよな)
それを食い止めるためにはどうしたらいいか?
――簡単だ。自分たちの世界へ戻り、この歴史を変える。
アルトは瞬きを一つする。その動作のみで気持ちが 切り替わったのは、本人だけでなく端から見ても明らかだっただろう。
「リィ」
「アルト……。わかってるの、シュトラの言う通りなんだって」
振り返ったリィの頬に涙の跡があるのを、アルトは見落としていなかった。
リィは目を伏せた状態で、自分に言い聞かせるように繋げる。
「こんなときこそ気持ちを強く持たなきゃ、だよね……。……うん、大丈夫。私は大丈夫だから、シュトラの後を追いかけよう?」
顔をあげたリィは、優しげに、少し儚げに笑う。
そんな顔久しぶりに見たな、などと思いつつ、アルトは安堵の息をついた。
「……あぁ。じゃあ早くアイツに追いつかねぇとな!」
「うん。絶対に帰ろうね、私たちの世界へっ!」
リィはそう宣言すると、くすりと吹き出した。つられるようにアルトも笑い声をあげる。そこでは、迷いなど既に存在しないものとなっていた。
もう俯いている暇はない。ただ目の前の道を、自分たちの世界へ向けて進んでいくだけだった。