67話 無謀で夢奏な主旋律
時折流れ出す透明感のある旋律。
それはダンジョンの中でも同じであり、ふとしたときに耳はその音に聴き入っていた。
彼女がフルートを吹いたとき、小さな氷の世界が芽吹きはじめる。もっともフルートを介さずとも氷は扱えるようだが、吹いているときの方が威力、範囲に優れている点は否めない。
さてさて、そんな彼女を見るチームメンバー、いやリーダーと言った方が正しいだろうか。そんな彼はうずうずとした胸の高鳴りを覚えていた。
「俺もトランペットでそういうのやりてぇ」
「……アンタには無理」
いつかの夕焼け空の下、群青の目を伏せてラピスは言う。すげなく断られたアルトは反論の声を上げるが、それもすぐに氷鈴の音に遮られた。
「アンタには、ううん……そうじゃなくて。それじゃダメ」
夕陽が踊る海面を眺めるラピスの声にはちゃんと芯が通っていた。言い終えた彼女はそっとフルートに口を付け、いつもの旋律を奏で始めた。
高く空へと突き抜ける、心を溶かすような音の流れ。
今日もまた、氷のように澄んだ音は空に響き始めていた。
アルトは瞼を持ち上げた。
このステージに立つ者たちは、それぞれ面持ちは違えど意味を捉え損ねているような顔だった。もちろんアルトを除いて、だが。
「トランペット……?」
「無理なのはわかってる。でも――いつも真横で軽々やられてたらやってみたくもなるんだ、よッ!」
と啖呵を切ってみるものの、既に後悔が芽生え始めていた。
(で、お前いつも海岸で吹くときとダンジョンで吹くときとどうやり分けてんだよ?)
当然、海岸で奏でられた旋律により砂浜が氷河に変貌するだとかそんなことはない。けれどダンジョンで奏でるときには、決まって敵ポケモンの体に霜が降りていた気もする。
いや、そもそもフルートが氷と関係あるかすら怪しく思えてきた。媒介にしているというのもアルトが勝手に立てた推論でしかないのだから。
それこそまだ温まっておらず、氷のように冷たい状態のトランペットを強めに持ち直し、アルトはミカルゲをキッと見据える。
「最初から失敗するつもりでやりにきてる。……やる、か」
誰にも聞かれないような声でそう呟くと、アルトは頭に楽譜を描き出す。ラピスが好んで奏でる旋律はとっくに頭に刻み込まれていた。穏やかな夜に星の瞬きを眺めるような雰囲気で、彼女のフルートの音とよく似合っているものだ。
その譜面と、自身の「任せた」という声に乗せるようにして、トランペットから次々と音を繋いでいく。
「あっ、この曲って……」
端からみたらさぞ異様な行動だろう。
でもアルトからしたら、戦闘中の演奏など既に見慣れていた光景だった。リィだって驚きはしたものの、ラピスの姿を重ねた途端に合点がいったように頷いた。
ひとまずワンフレーズ吹き終わり、アルトはそっとトランペットを降ろす。
吹く前と比べて変わった景色があるとしたら、リィの表情にかすかな笑顔が浮かんだことくらいだろう。
そう、それだけ。それだけなのだ。
「やっぱり何も起こらねぇ、よな……。ラピス本当お前どうやって」
はっと言いかけの言葉を飲み込み、アルトはもう一度景色を眺める。
(……動いてない?)
結果論だけを見れば、思わず呆気に取られてしまうくらいには大きな隙だったはずだ。
けれども肝心のミカルゲは一歩も動いていない。いや、それどころか砂つぶ一つさえもその場から離れてはいない。
不可思議にたゆたうその風貌はそのまま、当然凍ったりもしてはいなくて。
「とにかく動いてねぇんならこっちから! ――波動弾!」
トランペットを抱えるように持ち直し、空いた方の手に乗せた波動弾を思いきり投げつける。それを見たリィも葉っぱカッターで加勢。
それを軽く巻き起こした怪しい風で弾き飛ばすと、ミカルゲは口元に弧を描いた。
「……ヒヒヒッ」
「きゃっ……」
リィは相も変わらずその笑い声に慣れていないようで、半歩仰け反りつつ瞳を潤ませる。
しかし、この笑いがこちらにいい意味だという確率の低さはここまでのやり取りで十二分にわかっていたつもりだ。だからアルトは、リィの様子はちらりと伺うのみでミカルゲを注視する。
そこから放たれる警戒心はかなり濃いものだった。それを知ってか知らずか、ミカルゲは更に高らかに笑う。
「何を仕掛けた……ッ!」
警戒は焦燥を呼び、何かトリックを仕組まれた可能性さえもが頭をよぎった。
アルトの睨みを受けたミカルゲはいよいよ有頂天になったかのように、それこそ石が転がりそうなくらいにまでなる。
「ヒッ……ヒハハハッ!! オ前ノ方コソ我ニ何ヲ仕掛ケタト言ウノダ!」
う、と息が詰まった。さすがに何も仕掛けていないなどと言う勇気はなくて、無言のままミカルゲの次の反応を待つことにする。
アルトが何も答えないのを見て、ミカルゲは口の端に笑みを残したまま続ける。
「戦闘中ニ音楽ナドトハ……我モ始メテ見タゾ!」
「あぁそうかよこっちは見慣れてるけどな!!」
真正面から言われると正直恥ずかしくなってくる。顔が熱くなるのを必死で無視しながら、アルトは強くトランペットを抱え込む。
「マァ――我ガ目ヲ覚マシタ甲斐モアッタトイウコトダ」
「……はっ?」
思わずトランペットを落としかけ、心臓がぎゅっと冷え込むのを感じた。
その場の全員が呆気に取られるのを見たミカルゲは、愉快そうに煙のような体を揺らした。
「音楽トイウモノモ中々ナイガ……面白イモノダナ!」
「え、ええっと……未来だとあんまり音楽とか無いのかな?」
リィはアルトとミカルゲを交互に見やりつつそうこぼす。ミカルゲは「未来?」と首、もとい体を煙が吹き出している石の裂け目あたりからかしげる。
「トニカク、我ハアマリ見タ事ガナイガ……アァソウダ。一度聴イタ事ガアッタナ」
ミカルゲは懐かしむそうに時の無い空を仰いだ。
「以前二人組ミト会ッタノダガ、ソノ片方モ楽器ヲ使ッテイタナ。ソイツハ見慣レヌ姿ダッタガ……サテサテ何時ノ事ダッタカ」
ぎこちない言葉の繋ぎなど今は気にならなかった。見慣れぬ姿と聞いてアルトの頭に思い浮かんだのは、
「……ニンゲン?」
「ソンナ奴ガイルノカ?」
目を丸くするミカルゲは、本気でニンゲンのことを知らない様子だった。まぁリィですらおとぎ話の中の存在だというくらいだし、どれほどの時代を隔てているかわからないこの世界では、既に忘れられている可能性もあるのだろう。
その話も大分気になるものの、目下の課題は別のところにあることをリィは忘れていなかった。
「と、とにかくだけど、さすがに戦わなくてよくなったりは……」
「アァ、イイゾ?」
「しないよね……ってええっ?」
あまりに軽くて、それこそ一筋風が吹いただけで見えなくなりそうなほどあっさりと。渡された答えを何度頭で繰り返しても、肯定の意味にしかならなかった。
「ええっ、ほ、ほんとにいいの? わ、罠とかじゃあないよね……っ?」
「何、我ハ今面白イモノヲ見レテ気分ガ良イノダ。コレナラ眠リヲ妨ゲラレタコトニモ価値ガアル」
そう言いながら、ミカルゲは胸を張るような仕草をする。気分が良いということに偽りはなさそうだが。
「うーん……ねぇ、これ大丈夫かな?」
「いや俺に聞かれても! 色々と予想外すぎてわけわかんねぇし」
迷いの末に視線を落とすと、アルトの手の中のトランペットはどこか誇らしげに輝きつつ彼の目に映った。
「モチロン、戦イタイノナラ付キアッテヤラナイコトモ」
「それはいいよ!!」
「え、遠慮しますっ……!」
見事な切れ味の返しにミカルゲは目尻を落としたが、すぐにそれも元に戻った。
「ナラスグニデモ立チ去ルガヨイ。我ハ再ビ眠リニツク」
「そ、そうなの……。おやすみ――ってちょっと待って!」
勢い余って前につんのめる辺りは、リィらしくないツッコミ具合だった。
「シュト、ええっとジュプトルの周りの煙みたいなのってキミがやったんだよね? それをどうにかしてほしいんだけど……」
ミカルゲはリィの視線に併せてシュトラを見やる。こちらの状況とは裏腹に苦しそうなので、申し訳なさも湧いてくるのだが。
とはいえ想像以上にすんなりと受けれてもらえたのも事実だ。シュトラにまとわりついていた煙は、瞬く間にミカルゲに吸い込まれるようにして回収されていく。
「コレデヨイカ?」
「えっ、あっうん大丈夫だよ。ありがとう」
シュトラの様子を心配しつつも、お礼を忘れない辺りはリィの美徳だ。
彼女の満足そうな笑顔を見て、ミカルゲはソウカ、と言いつつ瞼を閉じる。
「ナラ早メニ行クガヨイ。我ハ眠リニツキタイノダ!」
「すげぇ寝たいんだな!? 悪ぃ、邪魔しちゃって」
アルトはトランペットをしまう片手間でそう返す。ミカルゲがそれを名残惜しげに見ていたのがなんとなく印象に残るものの、長居したら怒られそうなのは明白なので、アルトは視線を無視して準備を整える。
それにしても、ワンフレーズの演奏だけでこんなにも状況が変わるものか。偶然かもしれないけれど、結果だけ見たら凄まじい成果なのでは、とアルトは頭の片隅で思ったのだった。
「は、鼻から入ったの?」
「あぁ、おかげで体が乗っ取られていてな……」
動きを確かめるように軽い運動を挟みつつ、一行は岩場を後にしていた。乗っ取られた方法についてはあまり聞きたくなかったかも、と顔をしかめるリィは思う。
シュトラの話を聞く限りだと、あのミカルゲは縄張りを侵されたことで見境がなくなっただけのポケモンであるらしい。
リィはツルを腕組みのような形にする。
「うーん、それだと悪いポケモンじゃあなさそうだよね」
「恐らくはな。俺も意識が朦朧としていたせいでちゃんと見ていなかったわけだが……どうやってあの怒りを鎮めたんだ」
ミカルゲの機嫌を直した経緯については、張本人たるアルトが手短に話した。
「……で、許してもらえた感じで」
「それでどうにかなったのか……」
信じられないものを見る風に目を丸くされたが、アルト自身もイマイチ実感がないので反応に困る。
そんな会話とともに足を進める最中、シュトラがまぁ、と口を開く。
「それほど素直な奴でも、やはり世界が闇に包まれた影響は受けるものだな。……もう何度も見てきたが」
「……シュトラ?」
確かな憎しみを携えたそれに、アルトは戦慄さえも覚えた。彼についていく形なので顔は見えないものの、その表情を想像するのは難くない。
視線を地面へ向けつつ、リィは悲しげに呟く。
「こんな、時が止まった世界のせいで、かぁ……。なんか悲しいね」
悲哀の音を孕んだ言葉を聞くと、アルトは足を止めた。いや、それを聞いた先導のシュトラが足を止めたからアルトも倣った、の方が正しいか。
シュトラは首を回してこちらに訝しげな視線を向ける。それに二人が首を傾げるのは気に留めず、頭から伸びる長い葉を翻した。
「お前たち、俺の言うことを信用するのか?」
「……半分くらい、かな。正直にいうと、まだ完全には信じられていないの」
リィの声には確かに迷いがあった。半分くらい、というのもあながち間違いではないのだろう。
しかしシュトラは、それを聞くや否やくるりと背を向けてしまった。
「前にも言ったはずだ。信用が無ければ一瞬にいても仕方がないと」
「あっ、でも全く信用していないわけじゃあ……っ」
リィが引き止めるのには耳も貸さず、シュトラは再び足を進め始めた。そのせっかちさに舌打ちをしつつ、アルトは遠ざかる背中に声をかける。
「お前やメテオ、ラスフィアのこととか……よくわかんねぇことばっかりなんだよ! なんでお前らが過去に来たのかとか、この世界のこととか、全然情報がないままなんだ」
シュトラの歩みに合わせて揺れていた葉が動きを止める。
ここで引き止められなかったら、もう二度と彼と話す機会は訪れないのでは。そういう掴み所のない切迫感に苛まれていた。
「だからお願い、シュトラの話を聞かせてほしいの! まだ疑っているところも無いわけじゃないけど……でもっ、シュトラの言うことって筋が通っているっていうか……妙に納得できるところがあるの」
一かゼロで言ったらどっちになるのか。そんな曖昧な信用だけど、でも、それでも。シュトラの知る世界を、自分たちの知らない真実を求めたい。
シュトラは目線だけをこちらによこした。しばらく見定めるように二人の様子を眺めたあと、そっと目を伏せる。
「もし俺の言うことが全てデタラメだったらどうする?」
「大丈夫。鵜呑みにはしないで、ちゃんと自分で判断するから」
リィは口元に小さな笑顔を浮かべた。
嘘も偽りも被った上での今だ。そんなことを恐れるよりも、情報という名の希望に託す方がよっぽど有意義だ。
シュトラは覚悟を決めたような表情の二人と目を合わせると、
「……わかった、ついて来い」
そう言って、せっかちな彼らしくない遅めのテンポで歩き始めたのだった。