64話 疑う気持ち
何回めかもわからない欠伸を噛み殺しつつエルファは体を伸ばす。寝不足かと問われたのなら迷いなく首肯するだろう。
事実、例の失踪事件以降エルファの睡眠時間は大きく削られていた。何をするにしても、例え寝るにしても落ち着かないような状態だからだ。あのフリューデルが賑やかさと一歩離れたところを歩いているのも同じ理由である。
(シイナほんと喋らないねー……)
流した目には、彼女の寂しげな表情が映り込む。
トラブルメーカーことエルファ自身あまり軽口を叩く気分ではないというのもあれど、やはり一番の原因はシイナだろう。
フリューデル内でこの件で一番落ち込みを露わにしているのが彼女だった。会話があれば即座に飛び込み加熱させる彼女が黙ることで、場がどれほど静かになるのかを思い知らされた。
一通りやるべきことを終えた彼らが訪れたのはパッチールのカフェである。そろそろティータイムも終わりになり、カフェは比較的閑散とする時間帯だった。
「相変わらずハイセンスだよねぇ」
「ね。……あ、俺これでお願い」
メニューを眺めつつ、リズムがさらさらとペンを走らせた。他の二人も頼むものを決めて書き記すと、エルファが紙を回収しカウンターへと向かった。
カウンター横に置いてあるベル。ト音記号型の取っ手を持ち上げ揺らすと、軽やかで透明な音が響き渡った。
「はーいっと、あっエルファさん! 今日お早いんですねっ」
「どうもっと。思っていたより楽な依頼だったんでねー」
顔を出したのはヴァイス。比較的まったりとしているタイミングだからか、双子はどちらも厨房にいたようだ。奥にはマリーネオの姿も見える。
リサウンドの厨房係は交代制らしい。給仕と厨房とを二人で分担しつつ回しているんだとか。
「ま、何はともあれお預かりしますねっ」
そう言ってヴァイスはメモと代金を受け取ると、奥の方へと戻っていった。
エルファもテーブルへと戻ると、リズムとシイナの間の席へ腰掛ける。四人掛けの円卓なので、リズムとシイナが向かい合う構図だ。
エルファは右手に頬を乗せると、半目でシイナを捉えた。
「……で、シイナさん何か喋ったらどうなんですかねー?」
「えっ、あっ。うちそんな喋ってなかった?」
現実に引き戻されたようにはっとして、シイナは首を傾げた。それを見たエルファは口角を持ち上げ、少し煽るような口調で返す。
「普段喋っている時間と黙っている時間を逆にしたくらいかなー?」
「あれそれ寝てる時間入ってる? というかそうじゃなくてもそこまで差ないよね、逆にした意味あるの?」
天井を見るようにして考え始めたシイナだが、その声のトーンはいつもより元気がない。
やっぱり気にしているよね、とエルファは再認識。上げた口角を落とさないように気を払いながら、エルファは質問を片付けに行く。
「もちろん睡眠時間は抜きだけどさ? 後半のは……まぁものの例え的な」
「いやいや適当すぎない!? ていうかいつもどれくらい喋っているのか考えたことないんだけど!」
「んん〜、まずは朝礼までの間で大体ー……」
「リズム真面目に考えてくれてありがとうね!? でも別に知らなくていいよねっ、明日から気になって仕方なくなるよね! 喋れなくなるよねっ!?」
シイナが身を乗り出して来たので、エルファは倒れない程度に体を後ろに反らした。
ようやくいつも通りになってくれたけれど、彼女の心に落とされた影が消えたわけではない。その原因がわかるからこそ、エルファはどう話を繋ぐか逡巡する。
「エルくーん?」
「……っ」
リズムに名前を呼ばれ現実に戻される。考えに没頭するあまり話を聞いていなかったし、表情も無になってしまっていた、とエルファは後悔する。
まぁ少しの時間だったし、大した話もしてないだろうと結論付けておき、エルファは顔を上げる。
「……ま、俺も気になってんのは一緒だけどさ」
没頭した末の結論は直接言う、というものだった。声のトーンを落としたエルファを見てリズムは顔を曇らせる。が、肝心のシイナは違う反応だった。
「ねえぇそれさっ、シイナの会話比率調査的なの作ろうとしてるの!? いちいちメモ取ってくの!?」
「えっ? ……あーそうじゃなくて」
違う、もうその話終わりなんだけど。
前の話と意外に噛み合う切り出しをしてしまったとエルファは頭を抱えかける。最早シイナが楽しんでいるならそれでいいや、という気さえ巻き起こってくる。
けれど言い出したからには後には引けない。躊躇いを振り払い、エルファは重い口を開く。
「ラスフィアやシュトラ、メテオさんも。それぞれ過去の世界には来てるんだよ。だからアイツらだって戻って来れると思う」
あれ以来のギルドの重い空気は不気味でさえあった。それはシイナ個人にも言えることで、ひたすらに元気な彼女が落ち込んでいるのは見てる方も不安になってくる。
エルファだって共感はできる、というか元から同じ気持ちだ。けれどこのままでは前に進むことなど何もない、そう誰よりも早く気が付いていた。
「……でも」
「特にラスフィアなんか、アイツらとは知らない仲じゃないわけでしょ? 今の関係がどうであれ、過去に来る方法を教えるくらいはしてくれそうだけどね」
だから信じて待とう、メロディのこと。
言い切ったエルファは今度こそ頭を抱えた。何言っているんだ俺、と後悔が湧き上がる。
「なーんて、まー聞かなかったことにしてくれていいんだけどさ?」
気まずくなってきて、エルファは正面の空席に目を向ける。するとちょうど、マリーネオが頼んでいたメニューを持ってくるのが目に入った。
「あはは、お取り込み中でした?」
「全然大丈夫だよ〜。ええっと、これがシイちゃんのだよね」
「あっ、そうそう、ありがと!」
手早くテーブルに配置していく手際はさすがである。一通り並べ終わったマリーネオは、表情に影を落とす。
それに即座に気が付いたのはエルファだ。普段なら気のせいですよと取り繕いそうなものだが、今日に限ってその影が晴れることはない。
「……どうかしました?」
エルファは伝わる最小値の音量でそう問いかけた。
「ああ……えっと。僕も気になるなって、メロディさんと――ラスフィアさんのこと」
ラスフィア、と名前を出したところで、その若草色の瞳はおとといの方向を向いた。
エルファ自身音量はさして思慮していなかったが、店内が比較的静かだから聞こえていたのか。エルファも彼から目を逸らすように運ばれてきたミルフィーユに目をやった。
「そりゃ、ね。一応知ってる仲だから」
「あはは……。今頃皆さんどうしているんでしょうね」
場を取り繕うように裏へと戻ろうとする彼を止めるべくエルファは話に続きを作る。
リズムはまっすぐにこちらを向き、シイナは目を背け。会話の動向を注視するように二人は耳を傾けている。
「ま、未来に飛ばされたことについては結構大事になってるみたいですけどね?」
今朝方ふと新聞を手にとってみたとき、目に飛び込んだのは紙面の大半を占める記事。それこそが失踪事件について報じるものだった。
普段あまり新聞を手に取らないエルファも、それについては探るように視線を文字に漬け込んだ。
この件の概要に、飛ばされた五人の名前や説明。もちろんシュトラが逮捕されたところからも網羅された記事であった。
ただエルファは事故と報じられていたことにもやを抱えた。彼の中であれはれっきとした事件、つまり人為的なものだと解釈されている。
「戻ってくる方法、ラスフィアなら知ってそうなんだけど、さ」
昨晩のリズムとの会話を思い返しつつ、エルファは嘆息する。どう足掻いても不安は拭いきれないのだ。
「そっか、ラスフィアも未来のポケモンってことだったよね……うち今も信じられないんだけど」
「そうそう〜。皆この時代へ戻ってくるために動いているんだろうけどぉ……やっぱり不安になるよねぇ」
リズムの口調も、間延びこそしているがのほほんとした雰囲気は感じられない。
そんな会話を耳に、マリーネオは空のトレーをそっと机に下ろした。乾いた音に乗せ、一人の名前を呟く。
「……ラスフィアさん。いいや、ラスフィア、と。そう呼んだ方が正しいでしょうか」
思い詰めたようすで彼女への敬称を取り払う。許すことのできぬ罪と、彼女自身のそれの肯定。それを以ってしても呼び捨てにするのは少し抵抗があるようで、マリーネオは目尻を下げた。
そういえば彼は、あっさりと肯定を下したラスフィアに立ち向かっていたなとフリューデルの面々は思い返す。目まぐるしい攻防はなかなかに鮮烈であった。
正直敵う気がしない。それは実力の面で一歩先を行くエルファでさえ感じていた。
彼らがそんなことを考えていることは知らず、マリーネオは張り詰めた声で続ける。
「皆さん、悪党を制したんだから正しいって言うんです。でも僕はむしろ間違っていたんじゃ、って」
「えっ? ……なんで?」
シイナはますますわからないという風に目を回す。そんな彼女を温かな目で流しつつ、リズムは先を促した。
「彼女が時の歯車を盗むのに加担したのは事実。それなのに、僕は何を言っているんだって感じですけどねっ。……今更、あの人を疑い始めてしまったから」
あの人、と言われシイナは小首を傾げたが、そこに該当するポケモンにエルファとリズムは心当たりがあった。二人でアイコンタクトを取り、脳裏に浮かんだ姿の確認をとる。
そこから真意を探るかのように入れられたエルファの視線を、彼は別の意味で捉えたのか。マリーネオは笑顔の仮面を被り直してトレーを抱える。
「あっ……えっと、すみませんこんな話しちゃって。あははっ、気にしないでください」
「――俺もあの人は疑うのが正解だと思う。俺はその上で更にラスフィアを敵視しているけど、さ」
手を振って誤魔化そうとするマリーネオを、エルファはその先に立つようにして止める。
先日のリズムとの会話の踏襲、つまりエルファの描く対立構図。それを左目の裏に写し、右目でマリーネオの目を射抜くように見据える。
「あなたが間違っているかどうかは俺はわからない。でも俺は、少なくともあの二人を良い奴とは思っていないよ。……特にラスフィアは」
エルファはミルフィーユを口に含むとその甘味に心を落ち着かせる。声が消えた空間の中で、エルファもまたその繊細な味に舌を傾けた。
残り一口となったところで「とにかく」とエルファは切り出す。
「俺がやるべきはアイツらが、メロディが無事に戻ってきてくるのを願うだけだよ。……だけ、だから」
エルファは残りの一口を口に放り込み、早めに飲み込むと席を立つ。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
「あっ、エルくん〜!」
そう素の笑顔を投げかけ、エルファは足早にカフェを去る。背後に立つチームメンバーさえも目に留めずに。
エルファが外の空気を吸った時、背筋が強張る思いがした。まさかと思い視線を巡らせると、トレジャータウンとは反対を示す道――その先に見慣れたくない影があった。
エルファは眉間を押さえてその影に近づく。影の方もその姿の一挙一動を注視した。
「なんかいそうだなって気がしたんだよね。俺も未来予知とかできるようになったかなー」
気だるげな棒読みに対しても、その相手ことアブソルは眉一つ動かさない。エルファは彼を下から睨みつけるようにして相手の瞳を刺す。
「あのさぁ、前にも言ったけどなんで毎回毎回俺が一人になるタイミング狙って来るわけ?」
「前にもたまたまだと言ったはずだ」
「そのたまたまが信用できないって言ってるんですけど?」
その夜色――否、夕焼け色の角は鈍く光る。黄昏の化身のような風貌は、冷静に見れば誇張抜きで美しい。
その“色違い”たるアブソルは、エルファの挑発を内に秘めた問いかけを聞かなかったことにしつつ寡黙な口を開き始めた。
「時の盗賊が逮捕されたと聞いてな」
「そ。ラスフィアもシュトラも未来へ帰っていったよ。……まぁ巻き添えもあったんだけどさ」
このくらい知ってるよね、と付け足しながら、エルファはスカーフを結び直す。正したスカーフの端を風にたなびかせると、エルファはアブソルの様子を伺った。
アブソルはそれを見計らうと、迷いのない声で問いかける。
「貴様の持つ時空の叫びの使い手についての情報を問おう」
「あーそれ? 俺が知ってるのはその使い手が実在するところまでってのは前にも、」
「その巻き添えの中に時空の叫びの使い手がいたのであろう?」
軽い口は瞬時に踏まれ閉ざされた。嘘で誤魔化すなど甘い考えが通用しないというのを改めて実感し、エルファは嘆息する。
一呼吸、二呼吸。しばしの間を置きようやく一言だけ、
「……そうだよ。それより、知ってるんならなんでまた俺に聞こうとするのさ」
そう溜め息のごとく返答した。
対しての問いかけた張本人は特に驚いた様子も見せていない。西の空の色を一瞥すると、抑揚の乏しい声で話を繋いだ。
「貴様が信用ならんのでな。まぁ結果論未来へ連れ込めただけ良しということだ」
「はーあ、壮大だね。アンタたちがそこまでしてアイツを、時空の叫びを狙う理由を俺は聞きたいんだけど、さ?」
情報を隠すな、とエルファはそのままの言葉をアブソルに突き返す。アブソルは数度の瞬きの後、目を伏せ声をひそめた。
「あの使い手は、下手をしたら世界を滅ぼしかねんからだ」
途端、 エルファの脳内が白で塗りつぶされる。突然水の中に放り込まれたような感覚を味わいつつ、エルファは手に力を込めた。
「……どういう意味? なら尚更、なんで」
「別にいいだろう。……それと時空の叫びという能力自体にさして大きな意味はない。使い手自身が危険なだけだ」
踵を返し、アブソルは夕陽に背を向けた。困惑に沈むエルファはそれを呼びとめる言葉に辿り着けないまま。ただ、足早にまだ青い空の方へと消える影を呆然と目で追う。
滅ぼしかねない、って。
次に目の前にあるものが視界に映ったのは、聞き慣れた声が意識を引き戻したときだった。
「よかったぁ、待っててくれてたや〜」
「りず、む」
これまで何度も何度も口にした親友の名前を、掠れた声で呼ぶのがやっとだった。その様子のおかしさを勘付いたリズムはさっと顔に影を落とす。
けれどその理由を問う前に、橙の海が二人の間に入る。
「ねえぇぇぇええ二人して置いていかなくても……どしたの?」
「……えー、何が?」
シイナには悟らせない。エルファのそんな思いを、リズムは察していたのだろうか。
精一杯、自身の思ういつも通りを作って。そろそろ帰ろうという提案のもとで帰路につく。
すっかり茜色になった階段を、エルファは足を引きずり上がっていった。