65話 信じる想い
「ダンジョンは……抜けたみたいだな」
「そうだね……。うぅ、意外と寒い」
まるでここは氷河の上なのでは。風こそないけれど、冷え切った空気はそう錯覚させてきて、針の束を押し付けるような鋭さを伴っていた。
鼻の奥がつんとして、身に染みる寒さを表現してくる。リィはひとつ小さなくしゃみをすると、涙の滲んだ目で丘の下を見下ろした。
「この景色、真っ暗な中で一箇所だけ光が集まっていてとても綺麗なんだけど……もしかしたらそれが処刑場だったりするのかな」
アルトは丘の縁に立つことさえなく、その光は見ていない。前半の言葉に惹かれ足を進めかけたものの、処刑場という単語でその場に縫い付けられていた。
後からでも鮮明に蘇る、目の前に終焉が立ちはだかる恐怖。それを掲げてなお迷いなく自分を射抜く爪痕。
怖かった、怖かったのだ。単純に。らしくないとは思う、けれど本能的に呼び覚まされたその感情は容易には消えやしない。
無我夢中で走って、辺りに気配はなくなって。ヤミラミたちとは距離をおけたという慢心も生じていた。だからこそ生まれた余裕の中を、あの時の感情が蔓延っている。
まだ追われていることなど百も承知だ。あれを再び経験するかも、今度は完全に身を裂かれるかもしれない可能性は残っている。それが余計に、確実に、アルトを蝕んでいた。
「ねえアルト。メテオさんは今まで私たちを助けてくれていたし、色々なことを教えてくれた。時の歯車を守ることだって、誰よりも積極的で、誰よりも先に立って……っ」
語りかけるようなリィの言葉に嗚咽が混じる。怖いのはアルトだけではない、同じ体験をしたリィにも深く刻み込まれていた。むしろ元々が臆病な性格だったからこそ、それはアルト以上に感じているのだろう。
「ラスフィアだってそうなのっ、たくさんのことを知っていたし、優しくて……頼りになるな、って、すごいなって思っていたの。なんで、なんでこんなにっ」
ツノ山でフリューデル捜索をした際、チェローズと流星の谷に行った時も。
苦笑いしながら敵を軽々といなす。そこに焦りなど、もちろん挑発の意なども存在しない。まさしく“余裕”。
そしてその高い実力を肌で感じたのが水晶の湖だ。次々と打ち砕かれる水晶、自身に向けられるつらら。容赦などない。ただ一つの道を――時の歯車を得るという目的のための、迷いなき一閃だった。
「こうなった今も信じられない、私は何を信じたらいいのかっ、全然わからないの……っ!」
悲痛さは彼女の中に到底収まりきらず、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。
アルトの視界がわずかににじむ。それは吹き返した恐怖によるものなのか、寒さによるものなのか、あるいはリィの様子が伝染したのか。
(この二つが起きる間にどれだけの時間があったんだよ。ようやく認められると思った矢先に処刑、って)
たった二、三日の間なのだ。天地が入れ替わったかのごとく信頼が次々と牙を剥いたのは。
そんな短期間で傷跡など癒えるわけもない。一度得た傷をなぞるように突き刺さる刃を、どうして恐れずにいられようか。
丸腰のようなポケモンだって、実は皆日々刃を研ぎ、それを振るう日を息を殺して待っているのでは――アルトの疑う気持ちは限度を知らない。
「うう、みんなに会いたいよ……! 親方様やチャト、フリューデルにマリーネオやヴァイス……みんな、どうしているんだろう。私たちのことっ、心配してくれているのかな……」
名前を呼ぶたび、遠く離れた日常が恋しくなる。今まで手の中にあったのに、もう二度と取り戻せないような距離感がある。溢れた涙はリィの頬に軌跡を残した。
抑え込めていた恋しさが一気に制御できないラインに達し、リィの前足はかすかに震えていく。
「もしかしたらコトフィやシェライトも、このことを知っている、のかな……っ」
情報は海を越えた先、まだ土を踏んだことのない大陸にまで届いているのだろうか。それに、あの二人は今何をしているのだろう。
ここからじゃわかるはずもない。わかるわけもないのだけれども。
(俺だって何もわからないし信じられない。けど、今ここで塞ぎ込んでいたらヤミラミに追いつかれるのは確かだよな)
いたって明快、いたって単純な恐怖心だった。もはやリィさえ信用できないというのか、そこを第一に考えてしまうくらいに。
そんな自嘲で傷口を抉ると、アルトは丘の縁で泣きじゃくるリィをぼんやりと眺めた。
「……過去に、戻りたい」
どこまでが丘でどこからが空なのか。それを曖昧にしてくる暗闇にうんざりする間もなく、アルトは必死で頭をひねる。
何か一つでいい、元の世界へ帰るための希望が、光が欲しい。
そう願ったとき、はっとアルトの脳裏にある姿が浮かぶ。
本当に一瞬だった。でもそれが意味するポケモンは至って明瞭で。
「そっか、シュトラ……」
その名を口にしたとき、月にかかる雲が流れたかのように視界が明るくなった。
アルトははっきりとした声でリィの名を呼んだ。彼女は赤く腫れた目をこちらに向け、小首をかしげる。
「シュトラを追いかけよう」
そもそもなぜ、自分たちは今生きている? なぜ殺されていない? ――簡単だ、シュトラが助けてくれたから。
「な、なんで、どうして……? シュトラなんか追いかけるの……?」
彼がいなければ、自分たちもこの地面に立つことはなかった。
なら今頼れる相手の中に彼は含めてもいいはずだ。一粒の飴だけでそうたやすく信じていいわけもないのだが、この闇夜で手を掴み着いて行ける相手としては十分すぎる者だろう。
「アイツはこの世界から過去へ来たんだよな? なら俺たちもその方法を教えてもらえば、そしたら過去へ帰れるはずだろ」
賭けてみてもいいんじゃないか、その盗賊に。
アルトの意見を聞いたリィはでも、と何か口ごもる。
「シュトラは悪いポケモン、なんだよ? 時の歯車を奪ってきたような……そんなポケモン、私は信用できないの」
「でも今アイツくらいしか頼れねぇだろ! メテオはもちろんだし、ラピスやラスフィアはどこにいるのかわからない。なら、」
「それでも私は嫌なのっ!!」
アルトは繋ぎかけた言葉を止めた。
彼女が意地から声を張ることなど今まであったのか。アルトでもラピスでもなく、リィが。予想外の強情に、アルトの思考は寸断される。
その彼女はというと、視線を再び丘からの景色に預けていた。そのためアルトから表情はうかがい知れない。
「アルトの言うことはわかるよ。メテオさんはなぜか私たちを狙っていて……っ。でも、でもだからって、あんな悪いポケモン私は信じられないの!」
リィの瞼の裏には、霧の湖で見た、地底湖で見た例の光が浮かんでいた。
幼い頃から神聖なものとして、世界を守るもののごとく語り教えられてきた。そして実際に目にしたそれは言葉に出来ないほど美しくて、心を揺さぶって。
それを消し去り闇をもたらすシュトラなど、彼女にとっての悪党そのものだ。彼に着いていくことを躊躇うだって当然の帰結である。
「わからない、よ。なんでアルトも、シュトラの方に付こうとするの……っ!?」
「そういう意味で言ってんじゃねぇよ!」
張り上げた声の縁はぐらぐらと揺れていた。
今眼の前で疑いという刃を向けられた。それも一番近くにいる彼女から。その戸惑いと予想外の言葉にアルトの心は不安感に蝕まれていく。
「……。でも、シュトラのことを信じてはいるんだよね」
初めて未来世界をその目で見たときと同じような声色と語り口。空虚な気持ちで紡がれた言葉は、どこか悲しそうだった。
――わかんねぇよ、お前のことだって。
続ける言葉が浮かばず、アルトは胸元に手を当てた。破けほつれたスカーフの中にペンダントの感触はない。それを思い出すと、手は自然に下りていった。
そうだ、ペンダントのことだって恩を感じるべきなのだ。
危険しかない状況の中、どうして敵対関係にあったアルトのわがままに付き合ってくれたのか。なぜ、自分だけ逃げなかったのか。
なぜ、そこまで手を貸してくれたのか。
「……ああ、信じてるよ」
それがアルトの答えだった。彼の行動はそう断言させるに値するものだ、とアルトは導いたから。
「そう、だよね……。うん、そうじゃなきゃ、そんなこと言えない、もんね……」
「もう決めてあるよ」
ぽつぽつと溢れる言葉を無視して、自身に言い聞かせるようにアルトは告げる。
リィの赤みを帯びた桃瞳は不思議そうにアルトを捉える。彼女の真意はともかく、その視線は尚更アルトの決意を固めるものとなった。
「俺はシュトラを追いかける。信じられない相手と一緒には来れないんだろ」
突き放すような物言いは発言者本人でさえもぞっとさせた。それはラピスの普段の言動を無意識になぞっていたのか、とにかく普段のアルトなら到底見せないであろう冷たさを孕んでいた。
いや、別にラピスどうこうではない。それがアルトの本心なのだ。リィを突き放す、という顔をした。
「俺はシュトラを信じてる。シュトラも俺も信じないお前に無理について来いなんて言わねぇよ」
「待って、よ……!」
彼女を突き放す理由に意見が噛み合わないことはもちろんあるのだが、それ以上に。
――リィさえも怖い。
記憶を失ったアルトが初めて出会ったポケモン。
見知らぬポケモンを、いやそれだけならともかく「元ニンゲン」などと言い始めるアルトを。気のおかしい奴だと思われても文句は言えないようなことさえ、驚きつつも受け入れてくれて。さらには一緒に行こう、と手を差し伸べ、探検隊の道へと誘った。
感謝などしてもしきれない。
リオルの形をしたニンゲンをこうも温かく迎えいれ、居場所を与えてくれて。その上短気で無鉄砲で向こう見ず、そんなアルトとここまで一緒にいてくれた。
<リィ、こんな何者かも分からない俺と、探検隊になってくれてありがとう。これから迷惑をかけるかもしれないけど、よろしくな>
初日に無言で語りかけた言葉が鮮明によみがえる。
――今現在、迷惑しかかけてねぇよ。
彼女に抱く信頼だって並大抵の比じゃない。今アルトの持つ記憶の中で、一番たくさん姿があるのは彼女なのだ。いつだって破天荒なアルトに付き合ってくれて、隣にいてくれて。
なのに今、だから今、そんな彼女が怖い。
彼女の研ぎ澄ました刃が見えた気がして、自分を打ち倒さんとするのではと錯覚して。
(結局全部俺が怖いだけじゃねぇか。俺が怖さから逃げたいだけだ)
突き放すのは思いやりでもなんでもない、全て恐怖心からなのだ。我ながら感心するくらい、それはわがままで冷酷な感情。
臆病なのはリィではない、弱虫なのも彼女じゃない。
全て、恩を反故にして逃げ出すアルトの方だ。
「……わかってんだよ」
それが互いの現状なのだ。目の前にいる相棒さえも疑う、積み上げてきた過去など全てなしくずして。
いや積み上げた過去に何の意味がある。ラスフィアもメテオも、そんなものは無かったかのごとく裏を返したではないか。
アルトは唇を噛んでリィに背を向けた。
「ごめん、何も返せないままで。……また過去で会えたらいいな」
「本当に、本当に追いかけるの?」
アルトは無言で右足を前に踏み出した。半歩、体がリィから遠ざかる。
気が付けば結構な時間が経っていたような気がする。追っ手が近づいていることは確実だろう。こんなところ早く離れて、リィからも離れて、自分は過去で朝陽でも享受しようか。
そんなどこまでも身勝手な左足は、まだ前へと踏み出さなかった。
「私も、シュトラを追いかけた方がいいかなって、思って」
そんな声を聞いてしまったから。
アルトは耳を疑った。幻聴だと切り落として先へ進もうとさえしたけれど、耳に残る残響はそれを許さない。
「信じられないんじゃなかったのかよ」
「そうだけど……でも、やっぱり今頼れるのってシュトラだけだなって思ったの。信頼はしきれてないけど力は借りたいなって」
これじゃあわがままだね。
そう付け加えるリィの表情が真剣なのか笑っているのか、アルトは確認することなく彼女の言葉を聞き続ける。
「アルトの言葉を聞いて、私が何も認められていないってことに気が付いたの。シュトラが助けてくれたことだって忘れようとしていた」
もう泣いている気配などない。ただ一定のテンポで淀んだ空気を揺らす声には芯が通っていた。
「それにね、私一人だけじゃシュトラに追いつけないの。絶対シュトラよりダンジョン抜けるの遅いし、というかそもそも突破できるのかなぁ……」
ああ、そんな奴だったよ。
ギルドの足型チェックが怖いとかお尋ね者は嫌だとか、下と後ろばっかり見て結局踏み出すのは他人の手を借りたとき。
「繰り返すけど、シュトラのことはまだ信じきってはいないよ。でも過去に戻るのが一番私にとって大事なんだって、そう思ったの」
アルトは体で半円を描いた。視界の正面には蔓で涙を拭うリィの姿が映り込む。
「本当にそれでいいのかよ?」
「……よくはない、けど。元の世界へ帰る方法それしか思い浮かばないもん」
完全にお手上げ状態なのがどこかおかしくて、アルトの口元が綻ぶ。
何はともあれ彼女も一緒に来てくれるのはありがたい。少なくともここまでの難易度を鑑みた上で一人でダンジョンに立ち向かおうなど自傷行為も甚だしい。
それに、誰かが側にいてくれるとわかったときに感じた安堵感。暗闇の中、手を繋ぎ歩速を合わせてくれる相手がいることがどれほど心強いか。
ようやく気が付いた。何を一人で暴走し、恩人を疑っていたのか、と。
「悪ぃ」
「ごめんね」
二人同時に謝罪が口をついたせいで、顔を見合わせて笑いあう。しばらく忘れていた日常の温度だ。
もう一度あの世界へ。陽が昇り、夕焼けに旋律を捧ぐ日常へ。
今踏み出したのは、そのための一歩なのだから。