62話 闇夜の逃避行
澄んだ瑠璃色に映りこむ光の欠片。けれどあの光の中に希望などないのだろうと彼女は考える。なぜって? それは光源の正体を知っているからだ。
「……大丈夫かな、アルトもシュトラもリィも」
「シュトラがいるならきっと平気よ。ヤミラミたちが追ってこないうちに私たちも離れましょう?」
「……やだ」
瑠璃色の瞳をその処刑場に向けたまま、ラピスは無愛想に言葉を跳ね返した。その反応は予想通りだったようで、この場にいるもう一つの影ことラスフィアは苦笑いとともに肩をすくめた。
「メテオたちからどうにか逃げ切れたっていうのに、ここでまた捕まったら本末転倒じゃない」
苦笑いに代えて真剣そうな表情を作り、ラスフィアは諭すように言う。
ラスフィアだってこうは言いつつも三人のことは気がかりなのだ。何も無関心から言っているわけではない。
「……でも、アイツら抜け出せる、かな」
――助けに行きたい。
むっと頬を膨ませているラピスは、輪郭の溶けかけた処刑場から目を話さないままだ。暗く沈んだ色の空に埋まるような建物の輪郭も、その中で目立ちたがる照明も。ラピスの不安げな表情には見向きもしていないように厳粛に佇んでいた。
「シュトラならちゃんと逃げ切れる。そのときにアルトたちにも手を貸してくれるはずよ」
「……アイツ、アルトたちもいるって知ってるの?」
「ええっと……そうね、結局向こうは三人とも処刑したいわけでしょう? そしたら嫌でも顔は合わせるんじゃないかしら」
ラピスの表情を覗き込んだラスフィアは、いつか叩き込んだ処刑場についての知識を引っ張り出していた。
そんな彼女にちらりと目を向けると、ラピスは重苦しい溜め息を漏らす。
「ラス、今の適当に言ったでしょ。……最初はちゃんと考えてそうだったのに」
「つい先日シュトラに全く同じことを言われたのだけれど……ふふっ、聞いていたの?」
「冗談言ってる場合じゃない」
冷ややかに制され、ラスフィアはしゅんとした表情をみせる。けれどラピスの指摘はもっともだ。即座に元の表情に戻し、あれこれと逡巡する。
自分たちは未来へ来た後、処刑場まで連行されるまでの間に脱出を試み成功した。そのときに彼らも一緒に助けられたらよかったのだが、あいにくそこは向こうが一枚上手であった。ラスフィアたちはひとまず退散し、現在処刑場の様子を伺っている状況だ。
「……アルトたちが心配なのはわかる。それは私だって一緒よ。でももしそれで全員が捕まったら? 全て向こうの思う壺じゃない」
「そうだけど。でも、このままじゃ危ないじゃん。今ならたぶん、助けるの間に合うから」
今にも走り出さんとするラピスの前に立ちはだかるように、ラスフィアは身を翻した。
「……じゃああなたはどうやって助けるつもりなの?」
ラピスの瞳のみをじっと見つめ、ラスフィアはワントーン低い声で制した。ラピスもそれを黙って睨み返す。
二人を包み込む空気はひんやりとしていて、触れた先からゆるやかに温度を抜き取っていく。風の音さえ聞こえぬ無音状態の中、ラスフィアはただ目の前の相手に伝えるだけにしては明瞭すぎる声で続ける。
「あそこに潜入する時点で難題だし、仮にその後彼らの元へ辿り着いたとして……そこからあなたはどうやってメテオたちを出し抜くつもりなの?」
「わざと捕まる。で、そこから、は……」
ラピスはラスフィアから目をそらす。彼女のはきっとしていた声はどんどんとその尾を細くしていった。
小さくなっていく声の中で、ラピスは必死に脳を回転させる。一瞬のうちにシミュレーションを組み立て、こうではないと打ち砕き。
そうしているうちに、ラスフィアは一歩ラピスへ詰め寄った。
「それじゃあただ捕まっているだけでしょう? 計画も無しに行くのは命を向こうに差し出す行為に繋がるってこと。つまり、私たちが時の歯車を集めていた意味も無くなるってことなのよ」
「…………」
ラピスは俯いたまま唇を噛んだ。そもそもの目的は何だったか、そのためなら――。
弾かれたように処刑場を背にし、ラピスは夜闇を駆け出した。あまりここにいるとまた迷ってしまうから、と。それを振り払うかのごとく、彼女はただただ一直線に、自分の周りにのみ巻き起こる風に包まれて。ラピスはぐんぐんとスピードを上げていく。
ラスフィアもその背を黙って追いかける。素早いラピスの動きはただ後ろを付いていくだけでも精一杯だが、その中で一瞬だけ、背後に佇む建物に目を向ける。
「……お願い。どうにか全員、無事に逃げてきて」
――あなたがいるなら大丈夫だって信じているから。
そんな会話からは少し経った頃のアルトとリィ。洞窟に飛び込んだはいいものの、一つ誤算があったと彼らが知るのに時間はかからなかった。
「えっと……原始の力」
力なさげなリィの宣言と共に現れた数個の岩。それは目の前のポケモンに当たると、その鋼の体と擦れて不快な音を奏でる。
始めての技は使ってみていい感じだと思えたら万々歳だし、そうでなくとも改善点を修正しつつ使っていくのが通常のパターンだ。しかしこれに関しては初手の相手が悪かった。生じた音によりリィがやっぱり使うのはやめようとさえ思ってしまったのも、まぁ誤算のうちではあるのだが。
「うう、空中使ってくる相手って苦手なんだよね……」
もちろんこの相手が指すのはメテオでもなければヤミラミでもない。
目の前で旋回している銀色の正体はエアームド。つまるところ何が最大の誤算って、この洞窟がダンジョンであることだ。
普通の洞窟に比べたらヤミラミたちも追いづらくはあるのだが、当然そこに関しては逃げる側にも共通している。そのため一戦にあまり手間取りたくはないのだが。
「遠距離技あんま多くねぇんだけどな……! 波動弾!」
アルトは思い切り地面を蹴り、自身の高度をエアームドに近づける。そこから放った波動弾は迷いなくエアームドに命中した。
エアームドは瀕死に近い残体力でありつつも、まだ力を振り絞りアルトにまっすぐに向かってくる。けれど近距離となれば得意分野。重力に従って地面に降り立つとともに、アルトは眼前に迫ったエアームドに右手をかざす。
「はっけいっ!」
放たれた衝撃波に、エアームドは後方へと吹き飛ぶ。そしてその体は力なく倒れた、かと思ったのだが。
エアームドの体は突如淡く光に包まれた。それはエアームド自身と共にちいさくなっていき、やがてピカチュウ小の大きさになると光は霧散した。
そこにいたのは紫色のポケモン。ふにゃりとして、流れそうなほど柔らかな体に、鋼の鳥の面影など微塵もない。
「このポケモン……」
「メタモン……かな? へんしん使っていたみたいだね」
端的に説明してくれたリィの優しさに感謝する間もなく、アルトの頭にとある光景がフラッシュバックする。
ヒメグマとブラッキー、切り取られた空間と貼り付けられた時空。そんな少し遠くにも感じるトレジャータウンでの出来事だった。
そしてラスフィアのことを考えたとき、同時に頭をよぎる姿もあった。
「……ラピス。お前、は」
思えば謎しかない奴だった。
いきなり冷気ふっかけてくるし、表情なんておよそ無か不機嫌かだ。それなのに奏でる旋律は慈しみのような温かさも秘めていて、もちろん演奏の技術も高くて。なぜか指導される側になっているというのもその演奏のレベルを知れば当然だと言える。彼女のアドバイスは的確で、アルトがつまずく部分を的確に見抜く技量は素直に感心できる。
こう並べ立てても尚、異彩を放つレベルの彼女への疑問。
――ラピスは実際何者だったのか?
(違う、疑ってるわけじゃねぇよ。ただ)
今更すぎる疑問だ、と思う。むしろなぜここまで意識してこなかったのか。いや目を背けてきただけか。
最初の邂逅にて、アルトはラピスにこう問いかけた。
<お前、“元ニンゲン”だったりはしない、よな……?>
目を見開く以外に目立った反応は示さなかったために肯定とも否定とも取りにくかったが、その前の言葉を思い返せば、少なくとも「ピカチュウでない」ことは明白だ。
あの戸惑い方、体を何度も見渡す仕草。
同じだったのだ。自分がリィと始めて会ったとき、すなわちリオルになっていると知ったときと。
ラピスの過去についてはアルトもリィもほとんど知らない。それは彼女自身があまり話すのを好まない性分というのもあるし、自分たちも聞こうとしてこなかったせいもある。
ただ一つ言えるのは、
「ラスフィアと知り合いだった、ってこと」
ラスフィアと再会したらしき彼女の表情は、ここまでともに過ごした時間の中でもあれきりしか見せてない。
きっと彼女たちの間に強い信頼なんかがあったのだろう。そうじゃなきゃ、無愛想と断言できるほどのラピスをどうしてあそこまで笑顔にできよう。
それに水晶の洞窟での一件の後、エルファの一言がずっと心に引っかかっていた。
<いつから、って? ずっと一緒にいたんじゃ……?>
聞けばフリューデル到着時点でその場にいたのは、意識が朧げなアルトとリィ、アグノム。そして傷だらけの彼らとは対照的なほど万全そうなラピスだけだという。
ラピス本人からも聞き出して、メテオが逃走したシュトラたちを追ったところまでは知った。けれど彼女は、ラスフィア戦のときに行方をくらませていたことについては何も答えなかったのだ。
(疑ってねぇって。違うんだよ、ラピスが、アイツが……アイツもなんて)
頑なにラスフィアのことについての言及を避けようとするラピスは不自然にさえ思えた。
ラピスとラスフィアが昔からの知り合いで、強い信頼を築くほどの間柄。それでもラスフィアのことを聞くと「知らん」と目を逸らして追求を避ける。
ひどく重大な見落としをしていた、とアルトは奥歯を噛みしめた。
つまりラピスは――。
「あ、アルト、危ないっ!」
そうして通路に踏み入れかけた足を、アルトはすぐさま後ろに引いた。彼の足元だった場所には空気の刃が容赦なく切り掛かる。
「エアームド! 今度は本物、か?」
アルトが睨みつけると、エアームドは鋭い雄叫びを上げた。肯定と受け取ってよいのだろうか。
エアームドはバックステップをしたアルトを追うようにして乱れづきの構えをとる。それを何発か受けつつも、アルトはその場に踏みとどまる。
「あんまり使いたくないんだけど仕方ないよね……」
そんな攻防の隙にリィは岩を生み出し、エアームドへとぶつけた。予想どおりの耳触りの悪い音に眉をよせるが、これ以外でまともに効きそうな技がないので不可抗力だった。
それに浮いた岩というのも、星の停止を象徴しているようであまり見たくはなかったのだが。
エアームドは自身の羽と岩の奏でるハーモニーにいらだちでも覚えたのか、その場からぐるぐると旋回し始める。それはどんどん加速していき、わずかな残像が表れるまでになる。
やがて加速をやめたエアームドは、再びアルトを狙い乱れづきをしてくる、けれど。
「さっきより早ぇ……!」
先ほどの倍近いスピードから放たれたそれを、アルトは一つとして回避できなかった。歯を食いしばりエアームドを見ると、その銀鳥はアルトの視界の中で再び旋回し始める。
つまりそれが速度を上げる鍵――技名、高速移動。
「ならこっちも! まねっこ――高速移動ッ!」
アルトがダン、と地面を蹴ると、体はそれに乗ってぐんぐんと速度を増し始めた。十分速さが体に馴染んだところで、アルトはその場で大きくジャンプする。
「しんくうはっ!」
「マジカルリーフ!」
エアームドの意識は、七変化する葉に惑わされてアルトには向いていなかった。その隙に打ち込まれた波に小さく悲鳴を上げると、ふらりと高度を落としていく。
アルトは重力に従いながらそれを追いかける。エアームドが墜落し、自身も標的に近づいたのを見計らうと、アルトは両手に波動を纏わせる。
「はっけい!」
迷いなく命中した波動はエアームドの体力を限界まで削り倒した。
先ほどから体を動かし続けているせいで、体の内部からじんわりと暑い。アルトはバッグからオレンの実を取り出して口に含んだ。何の味ともとれない独創的な風味と共に、先の戦いのダメージは治っていく。
「意外とここのポケモン強ぇよな……」
「鋼タイプも多いし……戦い任せっぱなしでごめんね」
「こっちは平気。ヤミラミたちも苦戦しててくれねぇかな」
言い方は冗談ぽく聞こえるが、かなり本気で思っていることだった。
それこそダンジョン内とか、ダンジョン出てすぐとか。こちらの体力が危ういときにエンカウントなど勘弁願いたい。
「とりあえず、逃げられそうだったら戦いは避けた方がいいかな……?」
「だな。早く抜けなきゃいけねぇし」
ダンジョンのレベルを見て、アルトとリィは「戦いからは極力逃げる作戦」を固めた。
こちらの持つスピードで巻ける相手はとにかく戦うのを避け、階段へと向かう。もちろんそれが無理なら戦うが、あくまで避けることを最優先とする。そうでもしなければ、ヤミラミエンカウントの可能性は着々と高くなっていくからだ。
「今は……気配なさそうだな」
アルトは目を閉じ耳を澄ませた末でそう判断した。
二人は早歩きで通路を進み始める。精神的にも肉体的にもその他でも、余計な言葉を交わす余裕もないために互いに無言のまま。