61話 ミライセカイ
「こっちだ、出口まで一気に行くぞ!」
薄暗い廊下は、シュトラの声を幾重にも響かせた。アルトも返事をしようかと考えたものの、その音響を耳にしたために諦めた。無駄に音を立てるのは避けたかったのだ。
先程から何回も曲がったり扉をくぐったりしたせいで、最早今来た道が後ろにあるということさえ懐疑的な状態であった。この仄暗い中で唯一の道しるべであるシュトラが、どれほど強い光であるかは想像に難くない。
「おい、もっと全力で走れ!」
「はぁっ、こ、これでも結構っ、全力、なの……っ!」
シュトラの涼しげな顔とは反対に、リィはかなり苦しげな表情だった。普段の探検で鍛えられているため、それなりに走れる程度の持久力はついてきたはずではある。だが緊張感と恐怖が入り混じった状態のせいで体力の消耗速度は倍になっていた。
リィに合わせるように少しだけ速度を緩めたアルトは、シュトラに質問を投げかけた。
「なぁ、ここは未来なんだよな?」
「そうだ。よくわかっているじゃないか」
あっさりと返された肯定は意外にもすぐに腑に落ちた。処刑される未来など肯定したくはなかったが。
「やっぱり……。ちゃんと元の世界へ戻れる、かな……っ?」
「捕まったら元も子もないがな。そのためにも今はとにかく逃げることだ!」
「うう、そうだよね……っ」
質問に答えつつもシュトラが速度を緩めるようすはない。少し小さくなった影が角を曲がるとともに、アルトは緩めた速度を元に戻した。それと一緒に、リィもある力をかき集めるようにして二人を追いかける。
「ほら、出口が見えてきたぞ!」
曲がった角の奥には、確かに壁でも扉でもないものが佇んでいた。その明度を見るに今は夜なのだろうか。シュトラはそこへ迷いなく突き進んだ。
アルトとリィも、残っている力の全てを足につぎ込み外へ勢いよく飛び出す。
それまでとは違う屋外の開放感、澄んだ空気。風に吹かれ木の葉は舞い、空には星がきらめいている――のではなくて。
「なんだよこれ……?」
「これ、が、未来なの……?」
屋外の空気は何かを拒むように冷たい上、重くてどこか淀んでいる。少しも流れぬ外気はこの場にあるものすべてを押しとどめるかのようで。そこに色などなく、空に向けた目は一つの光も映さなかった。
「あの浮いたまま止まっているのって……」
極め付けはそう、宙を漂うかのように浮いたままの岩。そんなものが空中にあるとなると一見物騒ではあるが、それが動く気配は一切ない。
動きも彩度もない光景に二人は唖然とする。自分たちの知らない景色なのは一向に構わないとして、それでもこれは非常識の域に突入するレベルだ。
ぽかんとして岩を眺めていたアルトの耳がぴくりと揺れる。ほんの少しだけ音が聞こえたからだ。
「ウィィィー!!」
「チッ、近くにいるようだな。早く逃げるぞ!」
言うが早いか、シュトラは声の聞こえた方とは反対側へ走り始めた。異次元な景色に呆気にとられていた二人は半拍遅れてそれに続く。
「はあはあ……つ、疲れたぁ……」
「休んでいる暇なんかない!」
「とはいってもさっきから走りっぱなしだろ!」
リィの速度に合わせながら、アルトは反論を投げつけた。アルトでさえ少し厳しいと感じるくらいだから、彼より体力のないリィの苦しさは相当なものだろう。
「チッ、仕方ないな…… 」
そう言うとシュトラは早歩きになり、スピードは二人が無理なく付いてこれる程度にまで緩めてくれた。
そんな彼の後に続いていくと、大きな洞窟の前に出た。その近く、岩陰となっているところでシュトラは足を止める。
「ここだと奴らも発見しにくいだろう。少し休んだら出発するぞ」
走ったせいで喉が痛いし、体の内側で火でも灯されたかのように火照っている。目にはチカチカと原色の光が飛び散っていた。
リィは岩陰で息を整えながらも、壁に寄りかかるようにして休憩しているシュトラを見上げた。
「待ってよ。処刑場から出るときは仕方なく協力したけど……でも、その後もキミと一緒に行くなんて言ってない! キミみたいな悪いポケモン、私は信用できないの」
普段の少しおどおどしたようすとは一転、はっきりとした口調だった。アルトははっとしてリィとシュトラを交互に見る。
助けてもらったおかげで無意識に仲間意識が芽生えていたのか、そのリィの言葉を聞いたときに少し心が痛んだ。けれどもシュトラは時の歯車を盗んでいた、それは紛れもない事実なのである。
「フン、俺が悪者でメテオが善人とでも言うのか? じゃあさっきのアイツを振り返ってみろ、善人が俺と一緒にお前たちまで消すと思うか!?」
「そ、それは、でも……っ」
リィは視線を落とした。躊躇いのない命令、それに操られるかのように自らへと向けられた処刑の爪。シュトラの言い分が最もだということは嫌でもわかる。
けれどリィはそれを認められなかった。尊敬の念はそう簡単に消えやしないのだ。うつむく中で、彼女の頭の葉っぱがしゅんと垂れ下がる。
「……でもラスフィアもお前も、時の歯車を奪っていたのは事実なんだよな」
ラスフィア、という単語に他の二人もぴくりと反応する。
そう、ラスフィアのときだって「認めたくない」と現実から目を背けようとした。けれどそれじゃあ時の歯車を守れない。
いやアグノムのおかげで守れこそしたが、あの場にアルトとリィ、ラスフィアの三人だけだったとしたら確実に奪われていただろう。それは彼女の実力もあれど、一番の原因は自分たちの迷いだから。
シュトラははぁとため息をつき、寄りかかっていたせいで背中に付いた小石を払い落とした。
「どうも信用してしてもらうのは難しそうだな。仲間は少しでも多いほうが良いかとも思ったが、信用がないのに共に行動するのはお互い嫌だろう」
シュトラは岩陰から出て、辺りにヤミラミたちがいないかを確認した。そこから更に一歩踏み出すと、くるりとアルトたちの方へ顔を向けた。
「俺は先を急ぐ。お前たちも早めにここを離れることだな」
「えっ、ま、待ってよ!」
「……まだ何かあるのか?」
そんな彼を止めたリィに、訝しげな顔をしながらシュトラは返答した。一緒には行かないと宣言しておきながらだから、尚更次の句が予想できなかったのだ。
リィはシュトラの威圧感を受け、少し口ごもる。
「あの、えっと……今は暗くて見通しが悪いから、ヤミラミたちがいてもわかりづらいと思うの。だから朝になるのを待ってからでもいいんじゃ――」
「無理だな」
無下に即答され、リィは次の言葉を繋げなくなる。なんでだとアルトが返そうとすると同時に、シュトラは話を続けていく。
「残念ながら未来では……この暗黒の世界で日が昇ることはなく、朝が来ることなんてない。ずっと暗いままなんだ」
「どういう意味だよ! 朝が来ない、って……」
それを口にしたとき、アルトの心を冷ややかな風が通り抜けた。心に空いていた穴を駆け抜けるようにして、削るように心臓を冷やしていく気がして。
そんなアルトをよそに、シュトラは目に僅かな悲しみを携えた。
「それは……既に“星の停止”が起きているからだ」
「星の停止……っ!?」
「そ、それって……」
アルトもリィも、それ以上の言葉は出てこなかった。ただ言われたこと呑み込むだけで精一杯で発言の方まで気が回らなくなったからだ。
そんな二人の頭の中で、とある声が記憶から語りかける。
<星の停止した世界は風も吹かず天気も変わらない。昼も来なければ四季も移らない。まさに暗黒の世界、世界の破滅とさえ言えるでしょう>
「メテオさんが言っていたのと同じ感じ、だ……」
リィは呆然としながらも先程目に映した景色を思い起こす。
宙に浮いている奇妙な岩、モノクロの世界線。そして意識はしていなかったが、確かに風が吹いているようには感じない。
「世界の破滅」、その言葉が心に重くのしかかる。
「これが星の停止、なのか……」
不気味なくらいに静かなのはこのせいか。確かにどれほど耳を傾けようと、リィたちの発する声や物音以外は聞こえなかった。
「俺の言葉を信用するかどうかはお前たちの自由だ。とにかくここは処刑場に近いし、早めに離れたほうがいい。……じゃあな、ヤミラミたちに捕まるんじゃないぞ」
事実を受け止めきれていない二人を差し置き、シュトラは足早に洞窟の中へと姿を消した。
残されたアルトとリィ、彼らの間に会話はない。二人ともただ俯いて、必死に目の前のことから逃げようとする自分を抑えつけていた。
「…………」
互いに声を発しない、発せない。そんな音の無い世界の中でアルトはゆっくりと目を閉じた。一度状況を整理しよう、そういう意図だったのだけれども。
瞼の裏に一枚の絵が描き出される。そこには今目の前にあるようなモノクロの世界、そしてそれを背景に佇む一つの影。
こちらに背を向けていた影は、何かを聞き取ったようにゆっくりと振り返り始める。その横顔を見てアルトははっと気が付いた。
(この影ってニンゲンだよな……?)
しかしそう察した瞬間、描かれていた景色は消えて現実へと戻された。
その絵、いや映像を見ているのはほんの一秒程度のものだったけれど、印象はやけに鮮明に頭に残っている。それをもとに、アルトはもう一度絵を頭に描き直した。
浮く岩を背に佇むニンゲンの影。じゃあそれがどんな姿をしていたか? アルトは影を凝視して確認しようとするけれど、見ようとした瞬間にぼやけるような不明瞭さにより詳細はわからない。
(アイツがどういう姿してたのか、わかりそうなのにはっきりとしねぇ……なんで、だ)
すぐそこにあり、何があるかも見えている。それなのに手を伸ばしたら霧に包まれて消える。そして訝しげに手を戻せば、また何かがあることだけははっきりとわかるようになる。もどかしさは心を覆い尽くすようなもやとなり霧となった。
「うぅ、何がなんだかよくわからないよ……」
アルトがそこに頭を悩ませている中、リィが震える声で呟いた。ゆっくりと顔を上げたアルトの目に、縮こまるようなリィが映り込む。
「星の停止は時の歯車を奪うことで起きる。それは確かに防いだし、ユクシーたちも元の場所に戻すって言っていた……。それなのになんで、なんで星の停止が……」
それに答えられるだけの情報を、アルトは持ち合わせていなかった。
「もう何を信じたらいいのかわからないよ……。うぅ、ラスフィアがシュトラと繋がっていたってだけでも信じきれないのに」
「アイツは未来から来たんだろ? なら、星の停止が起きているのも知っていたはずだよな」
メテオやシュトラの話を繋ぎ合わせたとき、ラスフィアがこの事態を知っているであろうことは嫌でも浮かび上がる。だからこそ、いずれ起こるこれをわざわざ過去に戻ってまで引き起こす意図が掴めなかった。
「……ラピスはどうしてるのかなぁ」
「――それ、だ!」
思っていたより大きな声が出て、アルトはあっと口を閉じる。けれどもアルトの中で光が見えたのは事実だった。
「アイツも、もしかしたらラスフィアも未来にいるかもしれない。だからアイツらを探せば……」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 未来にいるかもって、なんでアルトはそんなこと知っているの?」
「メテオがそんな感じのこと言ってただろ?」
処刑執行宣言、その直前。聞き間違いかもしれないけれど、「ラピスたちの二の舞」などと言っていたはずだ。
「なんか全然それどころじゃなくって聞いていなかったよ……。でももしそうだとしたら、二人も今頃ヤミラミたちから逃げているのかな?」
たぶん、とアルトは曖昧に頷いた。
自分たちが時空ホールに吸い込まれる直前、ラピスがこちらに走ってくるのもアルトは見ていた。それと併せて考えると、ラピスもこちらに来ており、且つ処刑を免れたと考えても不自然はない。
そしてラピスたちという言い回し。“たち”の中に具体的に誰が入るのか確約はできないが、同様の理由からラスフィアは入りそうである。
「でもアイツらがどこにいるのかまではわからねぇよな……」
それこそこの世界が箱庭だったりしない限り、手がかりなしに探すのは無謀にも程がある。
ラピスと会えたらどれほど楽だろう。無鉄砲なところはあるが、周囲の動きには敏感だし彼女自身の戦闘力も高い。
何より、こんな闇夜で知り合いに会えるのがどれほど頼もしい光であるのか。それを考えたら、一度却下はすれど彼女を探したくはなってくるのだ。
再び二人の間に走った沈黙は、即座に第三の音によって砕かれた。
「ウイィィィーッ!!」
「っ、ヤミラミ!?」
その声を聞くや否や、アルトは手に握ったままだったペンダントをバッグの中に投げ込んだ。
音量からしてそこまで遠くないことは明白だった。アルトは素早く立ち上がると、敢然とした目を外に向ける。
「走れそうか?」
「うん、結構休んだから大丈夫……!」
リィも立ち上がり、不安を隠すように少しだけ笑顔を作ってみせる。
今岩陰を離れることでヤミラミに見つかる可能性はかなり高い。それでもここに留まっていたら、出会ったときに地形的な不利が襲い来るのは確実だ。それならシュトラの入っていった洞窟に逃げ込む方が、同じ戦うにしてもまだやりやすい。
アイコンタクトをとり、すっと重い空気を吸い込んだアルトは潜めた声で言う。
「行くぞ――!」
ただ洞窟のみを見据え、二人は一気に速度を上げた。
それを誰かが見ていたのかどうかさえ、二人は知らないまま。