60話 邪悪な爪
「メテオさん……っ」
「アイツに何を言っても無駄だ!」
シュトラの珍しく大きな声に、必死に呼びかけていたリィは身を縮ませた。
確かに自分たちのこういう境遇はメテオが招いたことだ。そもそも未来へ来たきっかけだって、メテオに連れ込まれたからで。
わかっているんだ、リィだってそのくらいは。
「でも……っ」
「(……それより、ここからはアイツらに聞こえないように小さな声で話せ)」
「(……なんだよ)」
シュトラの指示に不満げな顔をしつつ、アルトは小声で返した。リィも首を傾げてシュトラの方を見やる。
視界の端では、まだ準備中らしきヤミラミたちがちらりと見える。
「(お前たちももし生き残りたいとしたら……俺に協力しろ)」
「お前に……!?」
思わず口をついた声が案外大きくて、アルトは申し訳なさそうに眉を下げた。それを見たシュトラは特に咎めたりはせずに、口を開いたアルトの言葉を聞いていた。
「(……で、何をすればいいんだよ?)」
アルトにとってはこれを訊く相手が誰であるかなどどうだってよかった。ただこの場さえ切り抜けられたら、その後のことはまぁどうにでもできるから。
アルトの問いかけに、シュトラは少しの間考え込むような素振りを見せる。
「(そうだな……。攻撃は出来るか? 簡単でいい)」
「(か、簡単でいいの? それなら私もできそうだけど……)」
「(俺もそのくらいなら。でも縛られているから今は出来ねぇ、かな)」
アルトは忌々しげに舌打ちをしつつロープに目をやった。これさえなければ、という前提を付けなければならないのがどうにも鬱陶しい。
そんなやりとりの間に向こうの準備は整ったようだ。ヤミラミたちは一列に並んだかと思うと、そのうちの一匹が歯切れよく話す。
「メテオ様、処刑の準備が整いました」
「よろしい。しかし最後まで油断するんじゃないぞ……特にシュトラには、な」
シュトラの名前を出したところで、メテオは冷酷な目をこちらに向けた。対してのシュトラはそれをどう思ったのか、特に焦りもしない様子でフンと鼻を鳴らした。
ヤミラミたちはじりじりとこちらに歩みを進める。一歩一歩、確実に距離を詰めてくるのが逆に恐怖心を煽ってくる。
「(……うう、本当に処刑される、って感じだね……)」
リィは声を震わせていた。反射的に逃げかけた足は今、動かすことができなかったけれど。
状況を冷静に分析しながら、シュトラはこちら側に身を乗り出すようにして話し始める。
「(……よく聞いてくれ。ヤミラミたちは処刑のときに“邪悪な爪”を使う)」
「(……“邪悪な爪”?)」
聞き慣れないながらも、名前から漂う禍々しさは十分に伝わってくる。アルトは心にのしかかるような重さを感じつつ話の続きに耳を傾ける。
「(ヤミラミはそれを使って無差別に……そうだな、みだれひっかきのような感じで引っ掻いてくる。しかしそのとき、一つでも俺たちを縛っているロープにヒットするかもしれない)」
「(そしたらこれが緩むかも、ってことか!)」
突破口は見えた。アルトの強張っていた頬も、このときばかりは少しだけ緩んだ。
いつの間にかヤミラミたちは、互いに手を伸ばしたら届くくらいの距離にまで来ていた。ぎらりと光る長い爪は、最早単なる指の先程度の存在でないと自己主張をしている。
リィはあげかけた悲鳴を必死に飲み込んだ。同時に浮かび上がった質問をシュトラに聞くために。
「(ねぇ、もしロープにヒットしなかったら? もし、みだれひっかきを使ってこなかった、ら……?)」
裏返り、裏返り、また裏返る。そんな声はどうにかシュトラに届いた。ヤミラミに聞かれていないかと探るような視線を入れつつ、シュトラははっきりと告げた。
「そのときは……俺たちはおしまいだ!!」
「はぁ!?」
「えっ、えええ!?」
大声での宣言は到底頼れるものではなかった。でも仕方ない、突破口が見えているだけマシなのだから。
アルトの目の前で何かが光った。その正体を確認してみれば、自身を仕留めんとする二対の宝石――二匹のヤミラミの、それぞれが持つ目であった。すでに自分は爪の射程圏内に連れ込まれているのだといやでも実感する。
「……の二の舞にはするんじゃないぞ。それでは……始めろッ!!」
「は――?」
幾重にも響く死刑宣告。その残響の中でヤミラミたちの爪は容赦なく牙をむいた。
シュトラの憶測どおりに彼らは迷いなく無差別に爪を立ててくる。痛みに鈍る頭の中で、アルトは先ほどのメテオの言葉を復唱していた。
(二の舞っていう前……ラピス達って言った? さすがに気のせ――いッ!)
アルトは顔を引きつらせた。ヤミラミたちは縄に縛られていない胸のあたりを集中して斬りにきていた。焼けるような痛みは着実に体力を奪っていく。
無意識のうちに、ルビーを庇うべく手を動かせと信号が走る。ペンダントは確かに胸元にあるけれど、いつ流れ弾が飛んでも不思議ではない位置であった。
「耐えるんだ、チャンスがくるまで!」
「んなこと言っても……ッ!」
既に視界が二重になるくらいに、アルトの体力は消耗していた。その中でのシュトラの言葉は無茶にもほどがある。そう返しきることもできずに歯を食いしばっていると、ほんの少しではあるが拘束が弱まった。
はっとしてロープに目をやると、そこには確かな亀裂が走っていた。
「あっ……!」
「よし……っ!」
かすかに聞こえた二人の声、それは全員のロープは無事切れたことを示していた。ちらりと互いにアイコンタクトを取ると、リィもシュトラも真剣な顔で頷いた。
彼らがそんなコンタクトをとっていることなど、処刑に夢中のヤミラミたちは気が付いていない。それを見計らってシュトラは声を張り上げる。
「今だッ!!」
「ああ!!」
「う、うんっ!」
精いっぱいの力で柱を蹴り飛ばす。既に亀裂の広がっていた縄は、それだけで完全にアルトの体から外れた。しめたと口元を歪ませたアルトは、流れるような動作でヤミラミたちを突き飛ばす。
「ぐわぁ!!」
「な、何事だ!?」
後ろの方で悠然と眺めていたメテオはわかりやすく狼狽えていた。それでもアルトたちの方へ即座に駆けつける辺りは、判断力なのか反射的に動いただけなのか。
それを見たアルトが舌打ちすると同時に、シュトラは手に青い球体を携えていた。
「じゃあな、メテオ!」
床に勢いよく叩きつけられた球体は、瞬く間にまばゆい光を辺りにもたらした。それは薄暗い処刑場には不釣り合いなくらいの光量で。
メテオとヤミラミたちは思わず目を腕で覆う。
「所詮ただの光の玉だ! すぐに元に戻る!」
メテオがそうヤミラミたちに指示した刹那の間に光は収まった。それを感じ取ったメテオはすぐにフロア一帯を見渡すが、そこには無残に千切れたロープが散らばっているだけであった。
「シュトラめ、光の玉をフラッシュ代わりに……! まだ遠くには行っていないはずだ、追うぞ!!」
「「「ウ、ウィィィーーッ!!」」」
すると慌ただしい足音が処刑場に響き渡る。やがてその音が完全に消えたとき、柱の近くの床がもこりと盛り上がった。
「けはっ、こほっ。土が口の中に……」
「助かったんだよ、な?」
そこから顔を覗かせたのは、体に土がついたアルトとリィ。そして無言で体に付着した土を払っているシュトラであった。
アルトは真っ先に胸元に手を添える。するとそこにアルトの懸念は現実のものであると克明に示されていた。
「やっぱり……ッ!!」
裂け目からほつれ始めているスカーフなどどうだってよかった、そのくらいなら代替は探せるから。
なにも繋ぎ止めていないチェーンがアルトの手の上でうなだれた。先端二つ、そんな細いチェーンのくすぐったさなど感じる余裕はない。
そう、“チェーンが切れた”。つまりそれが意味することは至って単純で。
「やっぱり、どこに落ちたんだよ……っ!」
仕事を失った鎖は頼りない音を立てる、アルトの手の中で。手にチェーンの跡が付きそうなくらい、強く、強く。握りしめた手を床に突きつける。
その様子に気が付いたリィは顔を青ざめさせる。
「まさか、処刑のときに落ちちゃったの……?」
「……たぶん。牢屋ではあったし、縛られるときにもあったはずなんだ」
ヤミラミたちの攻撃を耐えている間にも、アルトはルビーに手を伸ばしかけはした。もちろんそれは叶わなかったけれど、確かにそこにあったから。
シュトラは土を払い終わったようで、その場にすくっと立ち上がる。
「命が助かっただけマシだろう。早くしないとアイツらが戻ってく」
「――わかってるよ!」
それは半ば叫ぶような声だった。大声を出すのはまずいという理性の前に立つ、ルビーを探したいという思い。
「頼む、ここにあるはずだから。ほんの少しだけ探させてくれ」
それはわがままを承知での願いだった。
あのペンダントは、記憶を無くした自分の手がかりとも言えるものだ。それに時空の叫びを通して助けてくれることもあった。
この後二度とここへ戻らないであろうことはわかっている。だからこそ今、探しておきたいのだ。
アルトの思いを汲み取ったシュトラは、呆れた顔をしながら腰をかがめた。
「フン、こんなことに時間を使いたくはないが……。ただし、探している間にアイツらが戻ってきたらお前一人で戦うくらいの覚悟はしてもらうぞ」
「ああ。……ありがとう」
アルトが縛り付けられていた真ん中の柱の周りを一行は重点的に探す。シュトラは飛んでいった可能性を基に、少し離れた場所までも捜索してくれていた。
奥歯を噛み締めつつ、アルトはシュトラの技「穴を掘る」で身を潜めていた辺りを眺める。
もしメテオたちが戻ってきたら、と。そんな不安はアルトが一番感じていた。全ては自分のせいであるとわかりきっているから。
(お願いだからどこにいるのか教えてくれよ! 早くここを離れなきゃいけない、から)
焦りのままそう心で呟く。すると無意識のうちに体が動いていた。
ルビーを探すべく開いていた瞼は、いつの間にか完全に降りていた。アルトがなぜだと思う間もなく、リオル特有の黒い房はゆっくりと持ち上がった。
(何だこれ……?)
アルトの瞼の裏に映るのは、彼の目の前にあった景色らしきもの。けれど青みがかかっている上に、そのスクリーンにはあちらこちらからの波紋が飛び交っていた。
異様な光景の中、アルトはとある波紋に目を留めた。一際強く波打つそこに意識を集中させると、その波紋をより強く感じ取れる。
その波はどこから出ているものか? さらにそこに意識を向けようとしたとき――。
「……っ」
さっきの波紋だらけの視界はどこへやら、アルトの眼前にはそれまでと何ら変わりのない処刑場が広がっていた。意識が元に戻ったらしい。
今のは何だったのかと思いつつも、アルトははたと気がつく。
「さっきこの辺りの波紋を……波動?」
ふと頭に浮かんだ言葉はなんなのか。ひとまず置いておいたままに青い世界と現実を照らし合わせ、アルトは柱の根元に目を向けた。この辺りで一際強い波が出ていたはずだ、と。
千切れた縄を掻き分けてみると、手が何か硬いものに触れた。弾かれたようにそれを手に取ると、アルトの顔はぱっと輝く。
「よかった……!」
「あっ、見つかったの!?」
アルトの声を聞いたリィとシュトラもアルトの横に飛んできた。
アルトの手には、土で薄汚れているけれども確かな赤色、そして銀色の十六分音符が乗っかっていた。それらの土を落とすと、アルトは予想通りの状態に顔をしかめた。
ルビーには処刑のときについたらしき傷が何本も走っていた。それらは輝きを曇らせ、澄んだ赤色をくすんだ色へと変貌させていた。
「うーん……。でも見つかってよかったよ。これで無くしちゃったら大変だもんね」
「ああ。リィもシュトラも付き合わせちゃってごめん」
「えへへっ、大丈夫だよ。それじゃあ行こ……ってシュトラもう行っちゃってる……?」
既に出入り口へと向かっている背中を、アルトはルビーとチェーンを強く握りしめながら追いかけた。もう落とさないように、という思いも込めつつ。
シュトラはアルトとリィが追いついたのを確認すると、遅めにしていたテンポを戻し処刑場を駆け抜けた。