58話 偽りの本性
開かれた目は鋭い視線を携え、口元は少しだけ歪んで。
その表情を捉えたアグノムの表情が固まる。それは何も言葉に不信感を覚えただとか、それだけではなくて。
突然顔を歪ませ倒れこむアグノム、そしてユクシーにエムリット。ふらりと地面に伏した番人達の背で今、夜色のつららは光に消えた。
「……は?」
考えていたことも思っていたことも全てが白く塗りつぶされるような。ただ彼女の背を目で捉えることしかできないまま、アルトはその汗ばんだ手でペンダントを握った。高まった心拍音がそれを媒介し伝わってくる。
「メランクルスタロ……!? なん、で」
「ふふっ、技名まで覚えててくれたのね? ありがとう、……アルト」
そう言葉を発したのはヒメグマ――ではなくて。
黒を基調とした体。そのところどころには黄色の円環が輝いている。頭からは長い耳がなめらかな曲線を描いている。
そして、開かれた目にはアルトと同じ赤色が揺らめいていた。
「……ラスフィア」
いつからそこに、というのは愚問であろうか。いや、眼前のことに目を疑うアルトはそうは思わない。
既に彼の視界にヒメグマの姿はなかった。まるでヒメグマのいた空間のみが「すり替えられた」ように、そこには見慣れたブラッキーの姿があったから。
「そう、ラスフィア。……案外トレジャータウンも懐かしいものね」
「……変化の玉?」
訝しげに問いかけたヴァイスに、ラスフィアはくすりと笑いかける。
「そうよ。ちょっと姿をお借りいたしました」
姿を欺きトレジャータウンを訪れていたということだろう。ネタばらしを終えそっと唇を舐めるラスフィアを見て、保安官のジバコイル、そしてコイルは耳うるさくサイレンを鳴らす。
「ラスフィアサン、アナタヲ時ノ歯車窃盗容疑デ逮捕シマス!」
「捕まらないわ、あなたたち程度には」
その言葉に挑発の意味が含まれていたのか、それは発した本人のみが知ることで。ラスフィアはコイルたちから逃れるように地面を蹴る。
「あっ……!?」
シイナは目を見開いて自身の口元を覆った。
ダメージによって力を緩めたアグノムからいとも容易く、かつ素早く。ラスフィアは革袋を奪い去ったから。彼女は人混みから五歩離れたところで足を止め、穏やかに歌うような声で言う。
「これでもう一度、ゼロから四ね。……メテオ、随分と彼を痛めつけていたようだけれど?」
こちらに背を向けたまま言う言葉は氷のようで。トレジャータウンにいたとき、そして水晶の洞窟で会ったとき。それらとは違って、彼女の首にスカーフは巻かれていなかった。
ラスフィアの投げかけにメテオが何か言おうと口を開く。しかし彼が声を出す前に、聴衆から刺すような言葉が飛び交う。
「当たり前だろう! アイツも時の歯車を奪っていたんだから!!」
「そうだそうだ! お前も共犯なんだろ!? だったら――」
「――待ってくださいッ!!」
ラスフィアに向けられている声の矢、そこに流れる時が止まった。キンとした高い残響は、止まった矢を地面へ落とすようにして静めた。
背を向けていたラスフィアは、その声の主を確認すべく首を後ろへ捻る。制止をかけた張本人は、緊張感の中自身の顔を上げる。
まっすぐな瞳は互いの顔を直線で結びつけた。
「……マリーネオさん」
「ラスフィアさん。あの、一つだけいいですか? ああ、もちろんその間、僕たちは攻撃しないと約束しますからっ」
「私は構わないけれど、その条件は……守ってくれるのでしょうかね」
ラスフィアは嘆息しながら観衆へと目を流した。いつになく冷たい視線に、抗議の声を上げていた広場のポケモンたちは肩を縮める。
マリーネオ、そしてヴァイスはそんな様子を眺めると、双子同士で小さく頷き合う。
「もしそういう方がいたら私が止めますからっ。うふふ、任せてくださいっ」
「だから僕の質問、答えていただけますか?」
それを告げる二人の笑顔は、少し無理をして作っているようだった。けれど敵意自体はそこからは感じない。それなら、とラスフィアは身を翻し、体ごとマリーネオの方に向き直る。
「……ええ、どうぞ」
「ありがとうございますっ。……ははっ、こんなに改まって話すことって滅多にないので緊張しますね」
マリーネオはこめかみの辺りを小さな指先でかいた。照れ笑いの全てが消えないまま、彼は話し始める。
「その……僕、メテオさんのこと信用していないんですよ。ってああ、別に時の歯車を奪いたいとかじゃなくってですね!?」
慌てたように告げるマリーネオに、ラスフィアもそれ以外のポケモンたちも。興味深そうな視線をマリーネオに向けていた。もっともメテオ、そしてラピスは怪訝の意味をはらんだものだったのだが。
「ええっと、僕はラスフィアさんがそんな、時の歯車を奪う方じゃないって思うんですよ」
「……えっ?」
そう返したのは何もラスフィアだけではなかった。広場のポケモン全員がマリーネオの突飛な言葉に目を見開く。
「んん〜、でも今さっき、ラスフィアはアグノムから時の歯車を取ったんだよ〜?」
「わかっています。それでもやっぱり、これだけは聞かないと僕は納得できないから」
リズムの指摘を凛といなして、マリーネオは深呼吸を一つ。そうして張り詰めた空気は、私語の一切を許さないほどだった。
ヴァイスは約束通り観衆を見渡して、攻撃の兆しがないかを確認している。彼女もマリーネオと同様の考えは少なからず持っていた。ずっと思いつめていた彼の一番側にいたからこそ、彼の質問の本気さは誰よりもわかっている。
「他の誰からでもなく、何をもってでもなく。僕はあなた自身から聞きたいんです。
……あなたは本当に、時の歯車を奪って……いや、奪う手伝いをしていたのですか?」
その質問は陳腐だと何人が一笑に付したのだろう。それを思慮することなく、マリーネオはラスフィアと合わせていた目を足元へ下げた。
ラスフィアは呆気にとられていた。それも、左前足で掴んでいた革袋の紐を思わず手放してしまうくらいには。それを見て動こうとした者は、ヴァイスに無言で咎められた。
「そう、ね……」
しばしの間をおき、ラスフィアは革袋の紐を握り直した。向けた視線はマリーネオのものと交わることはなかったけれど。
「私がシュトラと時の歯車を集めている。それは紛れもない事実だと断言しておきま……おくわ」
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
マリーネオはかけられるだけの時間をかけて息を吐いた。知らず知らずのうちに溜まっていた力が少しだけ緩む。
上げた顔はへにゃりと笑って、でも再び息を吸い込むとともにそれは真剣でまっすぐなものに塗り変わり。
「それなら僕は、あなたを許さない。今ここで――あなたを未来へ送り返すっ!!」
低くて凛としたトーン。いつもの明るく少し中性的な声とは裏腹であり、そこには確実な怒りが込められていた。
マリーネオは身軽に地面を蹴り、ラスフィアとの距離を半分にまで縮める。その地点からマリーネオは飛躍してラスフィアを斜め下に据えた。
彼は瞳を極彩色に光らせたかと思うと、自身の周りにいくつかの球を浮遊させる。
「サイコショック!」
「っ、悪の波動!」
マリーネオが両手を広げるとともに、襟巻きのような白い毛並みは天を指し示す。周囲に浮遊していた銀色の球は一斉にラスフィアに降りかかった。その雨の中、ラスフィアはドーム状に屋根を作り出して直撃を防ぐ。
「エスパータイプ相手もこうなるとあまり得意とは言えなくなるわね……! メランクルスタロ!」
地面に降り立ったばかりのマリーネオの上から二本のつららが落ちる。速度を重視した小さめのものであったが、マリーネオはそれらを体を捻るのみの動作で避けきる。
遅れて戻った尻尾の遠心力に揺れながら、マリーネオは口元の片端をにやりと持ち上げた。
「ああ、ミラクルアイを使ったのばれていたんですかねっ? さすが侮れない」
それはマリーネオが悪タイプと相手をする際に必須としている技だった。得意のエスパー技を決め込むための隠し玉。
笑みを浮かべたラスフィアを見てラピスは思う。あれは推測が当たって嬉しい顔だ、と。
「そちらこそ。随分と身軽に回避するのね」
「ははっ、それはどうもっ!」
そう言ってからマジカルリーフを作り、発射するまでの時間は瞬きひとつほど。あまりの早さにたじろぎつつも、ラスフィアはサイコキネシスでそれらを弾く。
「エスパータイプなら上を行かせてもらいますっ!」
跳ね返された葉に、マリーネオはさらにサイコキネシスをかける。念力の重なった葉は、より強いマリーネオのものにその身を任せていく。
ラスフィアは軌道を見切り回避していくものの、何せマリーネオ自身が操っている上に元の追尾機能も優れているものだ。回避しきれず、その斬撃に眉をひそめた。
「これがスーパーランクの本気……威力が全然違う」
そう呟いたラスフィアはバックステップで距離を取る。つい癖でこうしたが、彼の素早さをもってすれば誤差にもならないであろうことは明白であった。
力量差は実感した。なら次はどうするか、組み始めたラスフィアの思考回路は即座に壊された。
「――きゃああああっ!?」
はっとしてその声の方角へ振り返る。それはラスフィアも、マリーネオも、広場全体が。
そこで目にした光景は、一コマ落とさずラスフィアの目に焼きついた。何が起こっているのかを理解するや否や、彼女は一目散にそこへと駆け出した。
――お前ほんと九割まではしっかり考えるのに、残り一割に関してはすこぶる適当だな。
(ああもう、本当にその通りね。その一割がどれほど重いかも知らないで)
鮮明によみがえるシュトラの言葉と自身の愚かさに、ラスフィアは唇を強く強く噛み締めた。
駆け抜けながら、一点のみを見据えて祈る。ただ一つだけを、間に合え、と。
ラスフィアは心の中でその名を叫ぶとともに、一段と強く地面を蹴り飛ばす。また一回り、目に映る景色は大きくなる。彼女の前脚には、既に何も握られていかった。
「――あなたを未来へ送り返すっ!!」
それまで見せたこともない表情に、アルトはわずかな戦慄さえ覚えた。あそこまで怒りを露わにするマリーネオなんて想像したこともなかったから。
まぁそれを想像するのは大概おかしいものだと思うが。ともかくこのような予想さえつかせないほどに普段のマリーネオは明るくて、負の感情の一切をアルト達に見せなかったから。
「マリーネオってあんな風に怒るんだね……」
打ち放たれるサイコショックを呆然と眺めながらリィは呟く。彼女も同じことを考えていたようだ。
彼女はマリーネオ達の攻防を見据えつつ、それでも離れるように一歩後ずさった。
「怒ったらああなのか元の実力なのかわかんねぇけど、とりあえずすごい強ぇよなアイツ」
「前にスーパーランクって言っていたし、元の実力はあると思うの。それにしてもあんなに素早い戦いできるんだね……」
端から見ても、さらに言うと数名のポケモンを隔て観戦しているメロディですらそう感じるレベルであった。
普段の自分たちの戦いからは想像もつかないペースで彼らの攻防は展開していた。技ひとつ取っても、その全ての工程が自分たちの半分以下の時間でこなされているのだと感じる。それくらいにめまぐるしかった。
常に無関心で無愛想なラピスでさえ、その攻防に目を奪われている。
「……ラス、大丈夫、かな」
その言葉を拾ったエルファは、ラピスに訝しげな視線を向けた。
(そういえば仲良かったんだっけ、ラピスにしては珍しく。それじゃあコイツも黒だったり、は……さすがにこじつけだね)
エルファがそんな考えをしていることなどつゆ知らず、ラピスは片足を前にずらした。それはマリーネオの実力を目で実感したから、友人がピンチだということは火を見るよりも明らかだったから。
その戦力に更にヴァイスも加わるとしたら、そう懸念するラピスが動きたくなるのも無理はない。
そう、その攻防に目を奪われていた。つまり注意力が全てそこへ向いていた。だからこそ全然気がつけなかった。
「は……?」
「えっ?」
突如、アルトとリィの体が後ろへと強く引かれる。目の前の景色が遠ざかったかと思うと、一気に湧き上がった不安感が耳を塞いだ。
二人は湧き上がる焦燥に引きずられるように首を後ろへ捻る。そこにあった姿に、アルトははっと目を見開いた。
「お前……っ!?」
「さあ、お前たちも未来へ来てもらおうか」
錯覚なのか、いやそれにしては現時点で引っ張られているアルトの手は、リィの足は確かな痛みを伝えている。
低い声で告げた彼の後ろに覗いたのは、紛れもない――時空ホール。
「きゃああああっ!? 何っ、どうし、て……?」
アルトとリィを引いていた力は一瞬強まり、そしてふっと解けた。そうかと思うと、目の前の景色は上へと移りゆく。皆は地面に立っているはずなのに、なぜかそれを見上げる構図になっていた。高い空の青さも、そこに浮かぶ雲も今は気にする余裕などない。
悲鳴を聞き振り返った者たちの全てと目があう。それを見た瞬間、アルトとリィの体は闇でできた渦が飲み込んだ。
「アルト、リィッ!!」
ラピスは渦に消えかけた二人に手を伸ばす。けれどそれは到底届く距離ではなくて。伸ばした手をそのまま地面に添え、他に目を向けることなく四足歩行で二人のもとへと飛び込む。
そうして渦に沈みゆく黄色のジグザグをラスフィアは目に留める。ここまで駆け抜けてきた勢いを元に大きく飛躍し、渦の中央へと前足を伸ばした。
「ふざけないでッ……!」
ラスフィアのその声は時空ホールのみに届いて。あっという間に五人を吸い込んだ渦は、その勢力を次第に縮めていく。彼らの姿が完全に沈んだかと思うと、その渦は跡形もなく消え失せた。
広場はしんと静まり返る。時空ホールのあった場所を見つめながら、ヴァイスはやっとの思いで言葉を繋ぐ。
「今の、何が起こったのです……っ?」
「うちもわからない、よ……。アルト達、なんで……っ?」
その質問に答えられる者など一人もいない。……いや、一人だけ。ラピスの様子に目を向けていたエルファのみ答えることは可能だったけれども。
エルファのスカーフは、その長い結び端をもてあそぶ風にぐるぐると煽られている。
「アルトとリィが……まさか、ね? いやでも確かに……」
そうぶつぶつと述べたエルファは、目を伏せてため息に声を乗せる。
「ラスフィアもよくわからない。けどそれ以上に……アンタ自身は実際何者なのさ? ――メテオ」