125話 夕焼く過去を想うから
そうして月日は流れ、平穏な日々が過ぎていった。次第に今回の事件のほとぼりも冷めていって、ギルドにも日常が戻りつつあった。
そんなある日。眼前に広がる茜空があまりに鮮やかで、リィはギルド入り口で思わず立ち止まり見惚れていた。こうして高いところから見る空も、色を全身で感じられる気がして心地よいのだ。
空高いところにある雲は、風が強いのか、他より早く走っていた。その様子をぼうっと見上げていると、不意に声を掛けられた。
「あれ? リィ、お出かけでゲスか?」
「あ、アクラ。うん、少しだけね」
声を掛けてくれたのはギルドのビッパ、アクラ。こんもりと膨らんだリュックを背負っていて、今日の探検も順調だったらしいことが伺えた。彼はリィの答えを聞くと頷いて、
「そうでゲスか〜。夕飯までには戻るんでゲスよ〜!」
そう伝えてプクリンテントをくぐっていった。
リィは振っていたツルを下ろすと、長い階段を一人で下っていく。交差点に辿り着いても、向かう方角はそのまんま。
「おぉ、珍しいタイミングのお出かけ」
「えへへ、行ってくるね」
なんて、通りすがりのリズムに言われて。リィはにこりと笑いかけてから、まっすぐに南――海岸の方へ。
砂浜が見えた、きらめき浮く泡が見えた。リィは思わず走り出す。早くそこに行きたくてたまらなかった。さくりと砂を踏んで、わあっと声を上げた瞬間、ちょうど飛んできた泡が頬に衝突。
「わっ、ごめんね!」
焦って声を掛けたが、その泡はすでに消えた後。その代わり、様子を見ていたクラブたちがぼわっと大量の泡を吐いてくれた。今までで一番の泡に思わず胸が高鳴ったリィは、感謝の言葉を告げてからいつもの位置へとゆっくり歩いていく。
見晴らしが良かった。頬を撫でる潮風と、耳をくすぐる波音に包まれるこの時間が、リィは何よりも好きだった。
「前に来たときは時間が止まってたから、いつも以上に綺麗に見えるなぁ。……この海岸、みんなでよく来たよね」
アルトもラピスも、この場所を気に入っていた。景色の美しさはもちろん、音を出しても周りにポケモンが少ないから愛用の楽器を奏でるのに便利だったのだ。
そんな探検隊の日々も、この海岸から始まった。
遺跡の欠片を奪われた拍子に、ついその場にいた子を巻き込んでしまった。取り返せたのはその子のおかげだったし、これから行くアテもないと来れば、言うことはひとつ。
『一緒に探検隊、やってくれないかな?』
――それも、今思えばよく切り出せたと思う。
例えば、その場は別れて翌朝に誘おうとしたら、リィの方が言葉にする不安でなかなか言い出せなかっただろう。
『……アンタらが許すなら、あたしもそれ入る』
そんな、ちょっと唐突な申し出も、リィにとっては願ってもない展開だった。迷うことなく了承して、チームの仲間が増えて。
『私とある女の子を探していて』
ダンジョンの仕掛けに翻弄された先で、そうして出会った彼女こそが、チームに新しく入ってきてくれた子の知り合いだった。
そんな三匹とリィとが揃って探検をしたのは、始めは遠征から帰ってきた後の話。その次は未来世界、その後がキザキの森、そして幻の大地だった。
未来世界は、温暖なトレジャータウンに比べたら暗くて寒かった。それに加えて、捕まる恐怖、追われる不安。
『こうなった今も信じられない、私は何を信じたらいいのかっ、全然わからないの……っ!』
はじめて、アルトと意見が食い違って。心を晒して、言葉を交わして。
『本気でわかんねぇんだよ! お前がどっちに協力してんのか、お前が何したいのか!』
『何が! あたしは星の停止を食い止める、それだけ!』
アルトとラピスがすれ違う様に、何も言えず、立ち尽くして。
でも、闇のディアルガを前にしては、諦めないでいられた。――みんなが一緒にいてくれたから。
帰ってきた海岸は、まぶしくて、あたたかくて、綺麗で。だから改めて、星の停止を食い止めなきゃいけないと思えた。
『私が探検隊になりたかったのはね、遺跡の欠片の秘密を解きたかったからなの。その夢が今、叶おうとしているの』
『だって私は、アルトのパートナーだもん』
『行ってくるね』
「……楽しかった、な。大変なこともたくさんあったけど、でも、夢見てた冒険、たくさんできたな。私、こんなに、つよくなれたんだな」
その思い出の全て、色あせることはない。夕焼け空のような鮮やかさのまま、リィひとりだけを取り残す。
「今でも感じるよ、みんなと過ごした思い出も、面影も」
瞼を閉ざして、透き通った旋律の幻聴に浸れるのがその何よりの証拠だ。
「でもここにみんなはいない……。アルトもラピスもラスフィアも、私たちが、私が、星の停止を食い止めちゃったせいで……っ」
たしかに、このまま星の停止が起きてたら、トレジャータウンはポケモンに賑わったまま無音と化した。
それに比べれば、ではない。どちらもリィにとっては大切だから、これで良かったと言いきれない。ましてや、アルトの言った「忘れていいよ」なんてもってのほか。
「忘れることなんて、できるわけないんだよっ……!」
たとえみんながこの夜明けの未来を望んで受け入れたとしたって、リィの心に開いた穴はその達成の喜びだけじゃ埋まらない。夕焼け色のアルバムの、その先は全部白紙のまま止まっている。
「うわあああぁぁぁん!! ごめん、っ、なさいぃ……」
ひとり、近くにあった岩に体重を預ける。
それはちょうど、アルトが最初に倒れていた場所の目印でもあるし、彼の定位置の岩でもあった。「高さがちょうどいいから」と彼がよく座っていて、海を眺めるのも、トランペットを取り出すのも、いつもここに座りながらだった。
ディアルガは、吹き抜ける風を目を閉じて感じていた。
時限の塔の修復はまだ終わっていなかった。崩れかけた外壁もまだ完全に治ってはいない。
相方――幻の大地の壁画で、ディアルガと対に描かれていたポケモンも、一連の事件は耳にしたようで。そこでディアルガの様子を見に来てくれたのだが、「入るだけで壊れそう」だのさんざん言って帰って行った。
これも仕方がないことで。まずは時限の塔の機能を回復させ、各地で停止していた時間を動かし、ズレた時間を修正し。となると、外観の手直しは優先度が低くなってしまうのだ。
あの日から随分と時が流れた。雨が降り、晴れ渡れば虹がかかり。日が沈んでは月と星に主役を譲り、また昇り始めれば新しい一日が始まる。星の停止が起きていれば過去のものとなっていた日常だ。
そしてそれを食い止めるべく幻の大地を訪れたポケモンたちは、そのほとんどが消滅した。ただひとり、残った少女は、あまりに重すぎる悲しみに暮れる日々を送っていた。
「リィ。お前がここを離れるとき、虹の石船でここから別れを告げるとき、お前の悲しみは強く伝わってきた」
ディアルガだって、彼女の壮絶な感情を知っている。だから、今、風吹き抜け光差すこの場所で、声を上げる。
「お前が今も願うなら、そしてアルトたちも同じく望むのなら、私もそれを受け入れよう」
はっと目を開ける。何も見えない、まるで光に包まれているかのような白い空間で、目を覚ました者は響く声に耳を傾ける。
『お前たちはこの世界に必要な存在だ。だからこそ……託すのだ! お前たちに、これからの未来を!』
ぶわり、胸元が熱くなった。胸に手を当てて、湧き出る言葉を口にする。
「まだ許されるのなら、この明るい世界を楽しんでみたい」
「どうせアイツも戻るって言うんでしょ。チーム、ふたりじゃ心配だもん」
「それでも望んでくれるんなら、俺だって」
答えた三つの声に、ディアルガは力強くうなずいた。
「これは私からの礼だ! 受け取るがいい!!」
ぽむ、と頭に暖かいものが触れた。溢れ出ていた涙はぴたりと止まって、ゆるゆると顔を持ち上げる。
「えっ、あ……?」
「ふふっ」
いたずらっぽく笑って、その黒い前足はリィの頬を拭った。なんでキミが、と思いながら、詰まった喉から言葉は出なくて。
「……泣き虫なんだから。らしくて、安心したけど」
そこにあった岩に腕を乗せ、体重を預け、長い耳を潮風に揺らす。眩しそうに細く開いた目は、確かに深く澄んだ群青色をしていた。
「う、うぇっ、まって……」
二人の手をそれぞれぎゅっと握る。確かにある。その柔らかな感触と体温、彼女たちの存在。ふたりは小さく笑うと、空いている手で前足で、リィの肩を叩いてから彼女の視線を誘導する。
そこで形を為した光に、現れたポケモンに見覚えがあったから。リィは思わず歩み寄って――我慢できずに走って。せっかく拭ってもらった頬はまた止まることなく濡れていく。
「っ、おかえり……っ、なさい!!」
アルトは胸に手を当てて深呼吸。あげた顔は自然と笑顔になって。
「――ただいま」