123話 マジックアワーは解けていく
体が重い。まるで自分をもう一人背負っているかのように体はずっしりとしていて、足を一歩踏み出すだけで倒れそうになった。
辺りには砕けた岩が浮いて止まっていた。まるで星の停止のようだったけど、吹き抜ける風と照らす太陽がそれを否定していた。
「わっ、また地響きだ……」
まだ完全に崩壊が収まりきっていないのかもしれない。揺れるたびにリィは時限の塔を振り返って、その風貌を心配そうに確認した。アルトは体が重すぎて、それどころではなかったのだが。
(消滅が近いせいか……。これなら、ディアルガと戦ったダメージの方が楽な気がする)
深呼吸を繰り返してから再び歩き始めたが、片足を前に出したところで異変に気がつく。
目の前を光が舞った。霧の湖のイルミーゼたちのように華やかに舞うそれを見て、アルトはすべてを察する。
「思ってたより早かったな。まぁ、これなら待ってくれた方か」
「アルト……」
「帰ろうとか言ってごめんな、一緒になんて行けないのに」
ぽつぽつと立ち上る光が、二人を隔てる。綺麗だね、まぶしいね、って笑い合えたらどれほどよかったか。リィの表情はその反対に向かうばかりだ。
「消えちゃう、ん、だよ、ね」
「そうだな。本当に、もうすぐ、な」
アルトはリィの向こう、その先にある虹の石船を望んだ。幻の大地にいる二人は、同じように最後の言葉を交わしている最中か。実際そんなことはないとは知らぬまま、アルトは呆れたように笑った。
「こうして普通に笑えるの、久しぶりだな」
ずっと悩んで迷って苦しんで、笑い方なんてとっくに忘れていたと思っていた。
そもそも未来世界で生きる自分が笑っていた図が想像できない。ポケモンになってからの自分の笑顔は、その多くが目の前の彼女がもたらしてくれたものだった。
「リィは俺に出会わない方が良かったよ。その方が幸せだったろ」
「そんなわけないっ! 未来でも言ったとおりだよ。一緒に探検隊やってくれて、引っ張ってくれて……。私、アルトがいなきゃ何もできなかったの!」
未来、それが示すはアルト自身の選んだ暗黒の未来。
あそこでもまた随分と傷つけたはずなのに、こうして述べてくれるのはリィの紛れもない本心。あのときはつらかったはずなのに今は暖かく身に染みた。
「リィは、俺には優しすぎたよ」
その疑いなき目を、今ならまっすぐに見れる。
「ひとつだけお願いがある。こんなこと、もう二度と起こしちゃいけない。だから……みんなにここであったこと、未来世界で見てきたこと、話してくれないか」
「お願い、もう少しだけでいいから、一緒にいてよ。そのくらい、一緒にやろうよ、ねぇ」
強くなってきた光を見て、アルトはふっと笑った。残された時間は、手のひらで包み込めるくらいに短くて、言いたいことを言いきるにはどうにも足りない。
「俺のことなんか忘れて、ひとりで強く生きろよ」
「そんなこと! アルトのこと、忘れることなんかできないよ。ずっと忘れない!!」
「……だから、優しすぎるんだよ」
アルトは手を伸ばした。光に包まれゆくその手を、リィはぎゅっと、力強く握り返す。少し痛いくらいだけども、双方気にも留めなかった。
「俺もずっと忘れない。ごめんは言い足りねぇけど……でも、ありがとう、楽しかった」
目を閉じれば、様々な光景が思い浮かぶ。出会った日のことも、行ったダンジョンのことも、冒険の日々は思っていたよりずっときらきら輝いていて。楽しかったな、そう心から思えた。
「ともだちにくらい、なれたのかな」
「私にとっては、一番のともだちだもん。なによりも大切な……」
アルトは「そっか」と短く答えた。
立ち上る光はまるで滝を上下返したようで、もうお互いの顔なんて見えやしなくて。
「――出会えて、良かった」
「いやだっ、行かない、でっ」
リィはアルトの手を握る力を強める。でも、薄れゆく彼の手の感触は、ぬくもりは、解けていくばかりだった。
「アルトーーーっ!!」
掴んでいた手はすり抜ける。バランスを崩して倒れ込む。
顔を上げる。そこには誰もいなかった。立ち上っていた光の残滓が、一粒だけ空を目指していた。時間を忘れるようにそれに目を奪われて、消えてもなお精いっぱいにツルを伸ばして追いかけた。
もう届かないと。やがてそう察したリィは残っていたバッジを、彼がいた証明たちを拾い上げる。まだほんのりと暖かかった。
「……ごめんなさい」
ただただ胸が苦しかった。体の震えは止まらない。目の前で消えたキミは、自分がそうしたいと願ったからで――。呼吸の仕方がわからなくなる。後悔の仕方しかわからない。叫ぼうにも声の出し方を思い出せない。
そんな彼女の頬を、風になびいたリボンが拭った。
歩くことなんてできそうにもないと心は弱気になるが、なんとか叱咤して立ち上がる。自分で選んだ未来だ、前に進むしかない。
「っ、生きて帰らなきゃ。アルトの、最後の願いのためにも」
涙でまともに前も見えないし、足を踏み出すのも重たかった。何か言ったら動けなくなりそうだからと唇を噛んで、こつりと足元の小石を踏む。
途中何度もつまずきながら、足を動かせなくなりながら。リィはようやく、その石造りの道が開けた場所まで辿り着く。
「虹の石船、だ……」
まるでリィを待ちわびていたかのように、それはちかちかと光った。
振り向きそうになったが、リィは意を決してうつむいたまま飛び乗った。少しの揺れ、思わず足を滑らせて倒れ込む。
ぼんやりと開いた視界の中で、ひとつふたつと登っていく雲。リィはゆっくりと立ち上がると、時限の塔へと振り返った。風を受けた頭の葉も少し遅れて視界を譲る。
「…………。」
その頂上を覆い隠していた赤黒い雲はもう消えていた。空色なんて見えないほどの分厚い雲も切れてきたようで、光の帯が時限の塔と空とを結んでいた。塔にきらきらと降り注ぐ光の粒に、胸がぎゅっと締め付けられる。
「時限の塔が、離れていく……。アルトが、はなれていく……」
戻りたい、離れたくない。一番大切なキミの、ずっと傍にいたかった。
感傷に呑まれて、リィはうずくまった。その下にある遺跡の欠片に目をくれる余裕はないまま、時限の塔は到底手の届かない場所まで離れていく。
やがて、虹の石船はガコンと揺れて止まる。辺りを見渡せば、三方向には下へと続く階段、一方向には石碑、それらの間には緑と茶色がぐちゃぐちゃと入り混じった幻の大地が見下ろせた。
そして、この神殿に残されていたものを見て、リィの視界は再びじんわりと滲み出した。
「わかって、た。もういない、って、わかってた、けど」
その場に残っていたふたつの探検隊バッジを手に取る。そのそばにはスカーフが風を受けて飛ばされそうになっていたから、リィはツルで捕まえた。
こうした彼女たちが過去の世界で手に入れたものは、持ち主が消滅しようともこの場に残ったのだ。この場にいたことの、この世界にいたことの証明として。
最後に何も言えなかった後悔が、リィの心臓を千切れそうなほどに締め上げた。
「ごめん、なさい、っ。わたしが、歴史を変えなきゃ」
零れ落ちた涙が、石畳を黒く染める。
「うわああああぁぁんっ!!!!」
これで良かった、その一言だけでいい。言ってくれたら、少しは楽になれたのに。それがないから、消し去ってしまった後悔だけがリィを占めていく。
魔法のような時間はもう戻らない。
紛れもない自分自身で、そんな未来を選んだのだから。