120話 空を仰いだその先へ
眩しさにつられて目を開けた。確かに体を撫でる風がそこにはあった。涼しくて、でも少しだけ乱暴な風だった。
心地よさに微睡む、そんな時間を惜しんでアルトは上半身を起こした。
「本当に戻ってきた……」
目の前にそびえ立つ時限の塔を、見えない頂上まで覗き込むように見上げた。相変わらずこの上には禍々しさに満ちた赤黒い雲が渦巻いて、時折光るのが見えた。
だから時が動いている。その実感に包まれて、アルトの頬は緩んだ。一際強く吹き抜けた風に、スカーフと頭の房を揺らしてもらう。
それに頭を冷やされた。はっと気がついて、アルトは慌ててバッグの蓋を開いた。頭に浮かぶのは時の回廊のすぐ前に広がっていた光景だ。
(大丈夫、ちゃんと時の歯車は元通りにある)
手に取ったのは、アルトの手のひらほどの小さくて青い歯車。まぎれもない、本物の時の歯車である。セレビィの言う通り砕ける前の、アルトが時限の塔に挑む前の状態そのままだった。
それを耳に当てて、風音の中でかすかに聴こえる音を深呼吸の間だけ楽しむ。
(本当はあのときすごくつらかった。ここで声を掛けてくれたリィも、俺たちが時限の塔へ行けるように戦ってくれたラピスもラスフィアも。……何の疑いもなく背中を押してくれたシュトラの言葉が、一番)
『やるんだ。お前ならできる。お前たちは最高のコンビだ』
『アルト。俺はお前に会えて幸せだった』
息が詰まるほどに苦しかった。シュトラが思うほど自分は素敵な存在じゃない――何せ、星の停止を引き起こすためにこの大地に足跡を残したのだから。
その言葉を、今なら受け入れられる、とは微塵も思わないけれど。
今、空を仰いで時限の塔を焼き付ける。
その心に苦しさはない。あるのはただ、その頂上を目指す志のみ。
「リィ。一緒に行こう。ディアルガのところへ」
再びの時限の塔。迷うことなんてなかった。
所変わって幻の大地最奥部、虹の石船のための神殿。
矛を収めたスイと、失って睨むことしかできないラピス、そして牽制のための技の構えを崩さない三者の対立は続いている、いや、いた。
「お前たちが俺を倒そうと、時限の塔に行くことはもう叶わない。お互い、戦う意味などないであろう」
そう告げ、頂上を覆う赤黒い雲に目を細めたスイ。生ぬるい風に吹かれる横髪を顔の横で押さえる。その視界の端で揺れたものに勘付いて、静謐な、それでいて低く威圧するような声で問いかける。
「なぜ貴様がここにいる?」
流す視線は鋭い。翡翠の目が睨む先で、まばゆい萌黄色がぱっと輝いた。
「なんでって、どうして? 私は私。ここにいるよ」
にこり、そう笑う顔はほんわかと優しげだ。
そしてその顔に、種族に、身につけたリボンに。総員見覚えがあった。壊れたフルートを回収すべく階段を降りようとしていたラピスは、その姿に目を丸くして足を止める。
「リィ……? だって、リィは、時限の塔に」
彼女が虹の石船に乗る様はたしかに見届けていたから、にわかには信じられなかった。でも、何度まばたきをしたって、目に映るものは変わらない。
胸の奥がざわつく。ラピスは胸元でぎゅっと手を握りしめ、ラスフィアは相手の言葉を待つようにぴんと耳を立てた。
そんな反応を見て、紅桃の瞳はゆっくりと細められた。
「アルトと私ふたりでディアルガなんて倒せるわけないよ。だって、未来世界でみんなが諦めそうになったくらいだよ? もしかしたら私、しんじゃうかもね、あははっ。だったら、私はここで、ふたりと一緒に未来を待つよ。それなら私、みんなと一緒にずっといられるもん」
徐々に加速する会話速度を、ラピスは弾けない火花で牽制する。
「リィじゃ、ない! 違う、アンタはリィの姿だけ、リィはそんなことっ」
「どうして、ひとりぼっちにしようとするの?」
″リィ″は寂しげに問いかけた。その目にきらきらとした光が差して、それが潤んでいることを示す。ラピスは絶句、左足を後ろに引く。
「私、ひとりになるんじゃないかって不安でたまらないの。みんなが私を置いてどっかに行っちゃうような、そんな未来が起こるような気がして止まないの」
「……詳しいのね」
静かにひとことを残したラスフィアに、″リィ″はこくりと頷くと、かわいらしく首を傾げた。
「ねぇ。もしこのまま星の停止が起きたら、ふたりはどうするの?」
愚問、それに尽きる。問われたふたりの心はそう一致した。
「そんなこと、絶対に起こらない。だから、考えなんてしない」
「その上でもしそうなったら、また過去に戻る、やり直す。何度だって繰り返すだけよ」
一切の思慮にないラピス、考え尽くした上でその未来を乗り越える決意を示すラスフィア。それぞれの迷いない声が、″リィ″の胸にとんとんと響く。
「ふふ。それが今のキミたちの答えなんだね。そっか、そうなんだ」
独り言を織り交ぜながら彼女は笑う。
視覚から得る情報は大きい。よって、いくら違和感が大きかろうと、″リィ″に技を仕掛けることをふたりは躊躇っていた。
先に心を決めたのはラスフィアだった。幻の月を展開して傷を癒しつつ、より軽くなった前足の爪を立て、「だましうち」の体制に入る。
「単刀直入に聞く。……私たちが消えること、知っているのね?」
「うん。もちろん」
屈託ない笑顔で″リィ″はそう述べた。
「あのね、いいことを教えてあげる。……暗黒の世界は、素晴らしかったよ」
目元がとろける。熱を帯びた視線がふたりを捉える。
″リィ″の足元の影はまるで自我を持ったかのように蠢き出して、彼女を包んだ。待って、そう咄嗟に手を伸ばしてしまったラピスも、それを助けようと技を瞬時に解除したラスフィアも呑み込んで溶かしてゆく。
その場から、しばし音が消えた。
意識を失って倒れ込んだふたりをスイは見下ろした。その肩は双方激しく揺れていて、時折縋るように手を伸ばしては、伸ばし切る前にうめき声をあげてわずかに引っ込める。
ずいぶんと悪辣なことをしたものだ。スイは風に揺れる横髪を押さえたまま、まだ起きているあと一匹を睨みつけた。
「……何をしているんだ」
「少し面白いことがあったから顔を出しただけだよ。そんなに私が来ることが意外だったか、スーサイカ・リベース」
「わざわざ本名で呼んだ理由は?」
「ただの気まぐれだよ。大切な協力者であるオマエを怒らせるつもりはなかった」
「聞かなければよかった。……ダークライ」
スイがはっきりと述べたその名は、この黒いポケモンの種族名。先の未来でアルトたちと接触した相手だった。それがいる場所は、先ほどまで″リィ″がいた場所もぴったり重なる。
ダークライは、足元で気を失っているふたりを見下ろした。片方は少し前にいた未来で出会ったのと全く同じ風貌をしていた。
「私に名乗る名前はないからな。良いじゃないか、個人を定義する名前は誇りだろう」
「余計な話をするほど貴様のことを好んでいない。……貴様の目的は時限の塔に行ったふたりを止めることじゃないのか」
スイのすげない対応にダークライは肩をすくめた。が、聞かれたことを無視するわけにもいかず、「ふむ」と置いてから語り始めた。
「そうだな、そう思っていた。……だが、気が変わった。ここで邪魔をするのはあまりに惜しい」
ダークライは慈しむような目付きで時限の塔を見上げた。彼が手を伸ばせば、その頂上を覆い隠す雲から一層鮮烈な火花が散った。
伸ばした手をそのまま胸に当てて、彼の見えない口元は生まれたての月のような弧を描く。
「自分の手で最愛のパートナーを消し去る様を、見届けてみたいと思った」
「性格悪いな、知っていたが」
スイは階段を飛び降りようとしたが、彼の力を通さないと幻の大地と大陸とを行き来できないことに気が付いて嘆息する。横目で眺めたその相手は、くすりと笑って、青緑色のガラスのような大小の欠片――時の回廊を作るにあたって砕け散った時の歯車を神殿に落とす。あくまで幻覚であるそれは、落ちても何の音も立てなかったが。
「私の本来の目的を推し進めるのはこの後で構わない。感謝しているよ、アルト。……たとえお前が星の停止を食い止めようとも、その思いは変わらない」
中継地点で少しだけの休憩。アルトとしてはすぐにでも行きたかったが、リィの説得とここまでの道中を経て決定したことだった。
入るたびに地形が変わる、それが不思議のダンジョンだ。もちろんここ、時限の塔も例外ではない。
しかし、今回に限っては一度目と全く同じ部屋が広がっていた。すなわち、記憶に照らせば先に進むための道は推測できるのだ。いくら不思議のダンジョンといえど、時間も場所も同じ条件とあらば変わりようがないようだった。
「思ってたより早く来れたのは大きいよ……。バトルも少なめだったしね」
「それでも敵の数が多すぎたけどな」
星の停止間近という非常事態もあって、ポケモンたちはより警戒心を強め、多くが戦いに現れる。虹の石船の神殿で、スイがラスフィアに語ったことと同じだ。だからこそ、マップがわかるという利点に加え、アルトとリィとで記憶を補い合えた進めたおかげで随分早く前半戦を攻略できた。
「アルト。私思ったんだけど、ディアルガに勝つのって難しいんじゃないかなぁ」
ぽつりと述べた彼女にアルトはたじろぐ。
「あ、あぁ。それは俺も思うけど……リィが、言うんだって思って」
「言うのよくないかなって思ったんだけど、やっぱり……。本当はね、あのときも、どう頑張ったって勝てる気がしなかったの」
言われたことは事実。攻撃力に圧倒的な差が生じていた。とりわけ、相性の悪い技ばかりのリィはまったくもってダメージを与えられないままだった。
「それでも戦わなきゃ仕方ねぇだろ」
「そうなんだよね。だからね、これはアルトじゃなきゃ頼めないことなんだけど」
前置きをしてリィは微笑む。その笑顔に、アルトは怪訝な顔をしつつ、彼女の話に耳を傾ける。
塔が揺れるのはあの時と同じ。この時点では、あの時より少しだけ、壁が綺麗だった。