117話 決別の萌芽
そこで初めて見た外の色はよく覚えていた。
まったくもって鮮やかさのない、変哲もない、言葉を選ばずに言えば地味な風景だった。でも一つ特徴的だったのは、宙に浮いたままの岩や葉。自然に従うのならそうはならない。つまり、ただごとではない状況。
――星の停止は、悲しい景色だと思った。
窓を開け放った。さわやかな風が吹き込む――ことはなく、一面に広がる空に彩度はなかった。
リィはベッドに顔をうずめる。藁が顔をちくりと刺すのを、流れた涙で中和した。
ギルドの様子は物寂しいものだった。
更新の追いつかない依頼掲示板の有様を見かねてなのだろう、ヤルキモノが看板を抱えて地下一階にいた。普段から街にいるポケモンの一匹だ。看板はもしかしたら手作りかもしれない。これから溢れた依頼をその臨時看板にも貼っていくつもりだったのだろう。
地下二階に下りれば、まず目に入ったのは羽を開いたままのペラップ、宙に浮いている巨大リンゴ、そしてそれを見上げるプクリンだった。
彼らの正体については語るまでもない。声を掛けても残響しか返ってこないし、眺めていてもぴくりとも動かなかった。
(どうしてこうなったんだろう)
目を開けていても、顔をうずめていては周りの状況など何も映らない。その代わり、記憶が順番に巻き戻されていって、リィの脳裏にぐるぐると浮かぶ。
『絶対後悔するって、約束できる、のに』
『絶対後悔しないって約束するよ』
この部屋で最後に交わされた会話に、胸は締め付けられて呼吸を阻む。彼女の精いっぱいの優しさを、どうしてわがままで跳ねのけてしまったのか。そしてその結果が今の心情。
「やくそく、やぶっちゃった」
すべてを知り、終えて。いかに自分が無知で無責任だったのかを理解する。
ラピスの言うとおり、幻の大地になんて行かなきゃよかった。
アルトの言うとおり、幻の大地に行って夢を叶えたかった。
ならせめて、全部伝えてくれればよかった。
でも知っていたら、きっと幻の大地には行けなかった。
――自分の手で、一番近くにいてくれた彼を、ようやく一緒に出掛けられるくらいまで仲良くなれた彼女を、暗黒の世界まで追いかけて助けに来てくれた彼女を、信じて世界の命運を託してくれた彼を、どうして葬れよう。
「だから、これが、良かった……?」
物音ひとつしないギルドを、トレジャータウンを、肯定しろというのか。
わからない。どっちにしたって後悔しか生まれない。だからリィはひとり、ベッドに潜り込む。眠くはないけど、寝るふりくらいしか今はできない。
(アルトに、出会わなきゃよかったのかな)
同じことを繰り返す日々で出会った一人の男の子。
だから夢の一つを叶えることができた。
深い青色の目をした女の子もチームに入ってもらって、少しだけ賑やかになった。
初めて探検らしい探検に行ったら、ちょっと不思議な子たちと出会って。
ダンジョンの仕掛けに翻弄されたら黒の似合う女の子に出会って、そこで青い目の少女の笑顔を初めて見た。
遠征に行けると聞いて跳ね上がった感動は、その後も思い出すだけでわくわくできるほどだった。
時の歯車の美しさに、湖の彩に、心の全てを掴まれた。
その時の歯車が奪われるなんて許せなくて、ダンジョンを巡った。
だから、知った仲は断絶された。
縛られる痛みが、未来の惨状が焼き付いて離れない。
幻想に縋った結果喧嘩もしたっけ。
幻の大地に行くのは、もちろん使命感もあったし、冒険心がうずいたのもあった。
だから絶対に行きたくて、時の海を越えて。
よみがえる記憶のどこにも、後悔の言葉は似合わないはずなのに。どうしてこんなにも、ずっと忘れられない過去を苦しく思ってしまうのか。
心地よい音が囁くように耳元で弾ける。きっと、トレジャーバッグの中に入ったままの時の歯車の音色だろう。じっくり聴けば癒されると分かりながら、バッグから出すのに、それを見るのに躊躇いがあった。バッグの隙間から聞こえてくる、かすかで途切れそうな音を、押しつぶされそうなほどの静寂を良しとして耳を傾けることで無為な時間を過ごす。
不意に物音が聞こえた気がした。
どうせギルドはこの様だ。幻聴だと決めつけて、顔も上げなかったのに。
「ここにいたのか」
なんて声を掛けられたら、無視なんてできないじゃないか。
「あ、ると……? どうしたの?」
「いや、何も。なんとなく来てみたらリィがいたってだけ。……邪魔したな」
開け放った窓を一瞥して、アルトは踵を返した。眩しいほどに鮮やかなスカーフもまたゆらりと舞う。
「ま、待ってよ」
咄嗟にそう呼び止めてしまった。なんだよ、と振り返るアルトに見つめられて、リィの思考は停止する。自分がどうして声を掛けたのかが自分でもわからなかった。
だから、何も言えずに立ち尽くす。「なんでもないよ」なんて一言さえ、喉を通ってはくれなかった。
だけど、アルトは優しいから、リィの二言目を待ってくれる。
言葉を失ったリィ、それを律義に待つアルト。まるで時間が停止したようだった。
「アルト、は。幻の大地に来ないでって言われた私に、『来たいならそれでいい』って言ってくれたよね」
長い長い間を置いて、ようやくリィは語りだした。いつもよりゆっくりと、たどたどしい喋り方だった。
「深い意味はねぇよ。それでリィの夢が叶うんなら俺が邪魔する理由はねぇってだけ」
「それでもね、だからラピスも、私が幻の大地に行くこと、それ以上止めなかったんだよ」
だから彼女は幻の大地に同行した。アルトからしたら優しさも責任感もない言葉だったのに、どうしてそう、「くれたよね」なんて感謝を含んだ言い回しができるのか。
リィのどこまでも純真な優しさは、むしろアルトの口調を冷たくしていった。
「俺が歴史を変える代償についてさ。ラスフィアに聞いて、どうして先に教えなかったって言ったことがあんだよ。そんときのアイツは『知ったらまた敵になるだけ』『お前の好きにしろ』って俺に言った。……それと同じだよ。言葉だけは優しかったよな、本心はともかく」
「……でも、私、幻の大地に行かなかったら、どっちの未来になったって後悔してたの。夢を諦めるってのももちろんあるんだけど。だから、……ぁ、でも、えっと」
「行ったことを後悔していない、か?」
言葉に詰まる彼女の意中をずばりと突く。彼女を傷つけないようになんて気を遣っていたら、今までみたいに何も言えずにお互い抱え込むばかりになる。それにこの話の流れだ、気を遣ったところで何も生まれないし、遣わないとてデメリットはない。だから敢えて、低いトーンでそう問うた。
リィはうっと詰まった声を出す。元々うつむき気味だった顔を、さらに頭の葉っぱを手繰り寄せて隠した。
「どうだろう、わかんない。わたし、結局、どうなっても後悔はしちゃったんだろうなぁ」
絶対に後悔しないって言ったのにね。いつもならはにかんで言いそうなものだが、今は葉っぱの下、ぎゅっと唇を噛みしめる彼女しかいなかった。
「……だから、リィになんか出会わなきゃよかった、なんて思っちゃうんだよ」
「え、ぁ……?」
「だって、俺と出会わなきゃそんな苦しむことはなかったろ。悪かったな。さっさと離れときゃよかった。ラスフィアみたいにさ」
「そ、そんなことないよ! だって私、アルトがいたから、夢たくさん叶えられたんだよ。強くなれたのも、未来でディアルガを見ても諦めないでいれたのも、全部アルトがいたからなの。だから私は、アルトに出会って良かった。ううん、出会わなきゃダメだった」
たどたどしいながらも、精いっぱいの早口で言葉を重ねる。全部、確かに積み上げてきた過去、のつもりだったのだ。
「リィ。――演技なんかしなくていいよ」
「演技なんかじゃないもん!! 全部、ぜんぶ本当のことなんだよ!?」
叫ぶのは聞いてほしいから、それ以上に自分に問いかけるため。自分が愛した過去は、本当にともに歩んだ過去だったのか。――ひとりよがりだったんじゃないか。
リィの口から嗚咽が漏れる。まともな呼吸なんてできなかった。
「本心でそんだけ優しいなら才能だよ。まぁわかっちゃいたけど、リィはきっと、世界一やさしいよ」
きっと、どころか絶対だろうなと、アルトは薄々わかっていた。
最初から何もかもリィは優しすぎた。元ニンゲンなんて突飛なことを言い出す、見ず知らずの自分に、どうして一緒に来てなんて言えるのか。街のポケモンとは、大人子供問わずにこやかに話す。たとえ誰かに裏切られようと、何かの間違いだと、信じる道を探りに行く。
「つらいんだよ、優しくされるの」
幻の大地への期待に胸を膨らませる朝が、
出会ってくれてありがとうと告げる声が、
時限の塔を前に差し出した手が、
今、出会わなきゃダメだったなんて本心で告げるその心が。
アルトにとっては処刑されるほどに痛かった。今それを告げる声が、消えそうで苦し気にしかならないのがなによりの証拠だ。
そしてまた、彼女に傷をつける。彼女に悪気はないのなんて百も承知だ。それを拒む自分しか悪くないのに、彼女にも矛を向けてしまう。
だから、「出会わなきゃよかった」。
お互いに苦しめあうことしかできないこの未来が、その言葉の証明なのだ。
「こっちの未来になったって、俺はリィと縁を切るつもりでいたよ。俺はリィを傷つけることしかできないし、リィで苦しむことしかできない」
そんなことないと言いたいリィは、今しがた言われた言葉を思い出して口を閉ざす。ただ彼に笑ってほしいと、一緒に頑張ろうと思っていただけなのに、枷にしかなれなかった。それでなんで、彼のパートナーなど名乗れたのだろう。
わかっている。自分が彼の力になることは叶わなかった、と。ただ一方的な救世主になってくれただけで、ともだちにはなれなかった、と。
そして場は静寂に回帰する。静寂、といっても、かすかに「ときのはぐるま」が流れるせいで、目を閉じれば静謐な空間だった。
その音が、リィの胸を打つ。見ればその美しさに言葉を奪われ、聴けばこんな仕掛けがって子どもみたいにはしゃいだ。そんなときに、今があって、探検隊になれて良かったと思ったものだ。その今を共に作った相手は今、目の前にいて。
「あの、ね。アルト。わたし――私」
たどたどしい話し方に、凛とした芯が通った。アルトは無意識に俯いていた顔を気だるげに持ち上げた。
「私は、こんな未来を変えたい」
後悔が、弱気が、すぐさまリィの心を占めて、その言葉の撤退を促す。でもリィは首を横に振ってそれらを取り払い、芯に宿った想いに手を伸ばす。
「本当は、私だってアルトと一緒にいたいんだよ、大好きなんだよ! ラピスの演奏ももっと聴きたいし、ラスフィアと一緒に行きたい場所たくさんあるの! でもっ!!」
既に息苦しかった。張り上げた声と、渦巻く心情によって。でも、肩で息をしながら、リィは言葉を紡ぐのをやめない。
「街を歩くたびに、動かないポケモンを見るのなんて嫌だ。ギルドに帰ってきて誰もいないのは嫌だ。……海岸で、夕焼け空を見れないのは嫌だ」
声の調子を落としても、負担のかかった呼吸器は刹那には回復しない。げほげほと咳き込んで、それで瞳に涙が浮かぶ。
「私、シュトラと約束したの。未来で待っててよって、絶対に星の停止を食いとめるからって。キルシェだって命を賭けて協力してくれていたの。そんなの、私は裏切れない」
声が震える。浮かんだ涙がぽろりと零れ落ちた。ひとつ落ちれば、堰を切ったように後が続き始めた。
「ごめん、ごめんねっ、アルト。だからわたし、こんな未来、選べないよ。ごめん」
「……もういいよ、わかったから」
崩れ落ち、ベッドに顔をうずめて喚く彼女に、アルトは触れられない。ただ静かに目を閉ざして、彼女のうなされるような嗚咽を聞くだけだ。
「っ、あ、ごめんね。ごめんね、私、これしかできなく、て。これしかわかんないのっ」
泣き崩れた彼女の背中に、アルトはぼんやりと視線を落とした。彼女がしゃくりあげるにしたがって震える葉だけ見れば、見えない表情も明瞭に推察できる。
うわごとのようにリィは「ごめんなさい」と繰り返す。それを見て、アルトの顔は少しだけほころんだ。といっても笑うと言うには不器用。緊張に固まっていたのがわずかばかりほぐれただけだ。
「やっぱりリィは、出会った時に比べたらずっと成長したよ」
だって、弱気になっていたら、こんなことは言えないのだから。言わずじまいの後悔なんかより、よっぽど立派なものだ。
だからアルトはそれを祝福するし、その背を押す。
「好きにしろよ。いや……行ってこいよ」
リィは顔を上げた。アルトにとっては笑ったつもりの、リィからしたら泣きそうな顔が目に入る。
「もう一回過去に行って食い止めて来いよ、星の停止。それで俺は――リィと別れることができて良かった、って言えるから」
胸が苦しいばかりか、視界までぐらついてきた。でもそれを全部乗り切って、リィは立ち上がった。ゆっくり、時間をかけたけれども、確実に。
濡れきった頬を拭い、目をぎゅっとつむって涙を目から追い出した。何か語ればまた泣いてしまいそうだから、ひとことだけ選び抜いて。
「行ってくるね」
そのくらい、笑顔で言いたかったのに。言いきる前にまた涙があふれでて、最後の音は紡げなかった。
そしたらもう声なんて出ない。リィはアルトの横を抜けて、ギルドの廊下を駆ける。何もない床につまずきながら、苦しくて今にも倒れそうになりながら、せめて廊下だけはと息を詰める。そんなときだけ、いつもは一瞬で終わる廊下は、無限に続いているんじゃないかと錯覚するほどに長かった。
視界が開ける。たどり着いた広間で、リィは崩れ落ちた。
なんであんなことを言ったんだろう、言われたんだろう。後悔ばかりが胸に渦巻いて、感情の名前もわからないほどぐちゃぐちゃに乱れた心に突き動かされるまま叫ぶ。そうしたって、この場に複数いるポケモンたちは素知らぬ顔である。
「ごめんなさいっ、ゆるして。ぜんぶ、ぜんぶわたしのわがままでっ」
これで良かったわけがないのに、これ以外がわからない。知らないうちに取り返しがつかないほどに相手を傷つけた自分が悪かったと。だから、許されないとわかりながら、許しを乞うてしまう。
「――どしたのさ、リィ」
そう声を掛けられて、耳元で言われて、ようやく顔を上げる。
「あれ、ぅ、え、エルファ……? ラスフィア、も」
「……まぁ、そっちの状況は大体察せるけれども」
自分の声ばかりに包まれ、うずくまったせいで視界情報はなかったから、リィはふたりの存在が本当に目の前に来るまで気が付けなかった。
自分を見下ろす二人の顔が、優しく見えて。――だから、余計に苦しくなって。それでようやく、アルトの言葉の意味を知った。
「わたし、アルトにひどいことたくさん、っ。大好きで、大切で、一番ありがとうって、思ってたのに」
――この未来を変えたい、なんて。
もう喉は限界に近くて、叫ぶ声は掠れるし、泣く代わりに咳き込んでしまう。とても話せる状況じゃなかった。言葉にして発散することはかなわず、胸の内で苦しさだけが増幅される。
(どっちの未来を選んでも、皆揃うことはもうない。私の大好きな、賑やかな時間はもう過去のものなんだ。どっちかなくなる方を選べと言うのなら、せめて)
(大好きなみんなのことを、一緒に行った探検のことを、私はずっとわすれない)