116話 光追う幻月
「おいで」
ダンジョンを出て一息つこうとしたら、そう呼び止められた。
「あたしの貸してあげる。ここ座って」
言われるがまま、指し示された膝に乗った。足を踏む肉球がくすぐったいと彼女は一瞬だけ小さな悲鳴をあげて、誤魔化すようにむっと頬を膨らませた。
「せっかくふわふわなんだから。ちゃんと、梳かさなきゃダメ」
そう言って首元の毛に櫛を入れる。絡まった毛に引っかかれば、優しい手つきでそれを解していく。この環境だ、種族の特徴である埋もれそうなほどの毛は、硬くごわついた感触になっているけれど、それを触るときだけは普段無表情な彼女の頬が綻ぶのだ。
温かいなと思った。体を支える彼女の手から伝わる熱にじんわりと微睡んでいく。
眠気に抗って、ぐいと首を伸ばして上を見上げた。瞬間目があった彼女が「どうしたの?」と声をかける。
その目は澄んだ群青。今まで見た中で、一番鮮やかで、はじめて綺麗だと思った色は、いつ見ても清らかだった。
――どこにもいない。
ラスフィアは足を取られそうな砂浜を走っていたが、やがてゆるゆると速度を緩め、止まる。いつの間にか、ここまで送り届けてくれたラプラス、セイラの姿もなかった。
それだけならセイラなりの帰る場所でもあるんだろうな、程度で想定の範囲内だった。問題は群青の目をした少女のことだ。
(街と海岸にはいない。ギルド……に行く? あの子が?)
付き合いは長かったし、彼女の行動はわかりやすい。てっきり海岸にいるものだと思ってここに来た故、その読みも外れては次のアテに困ってしまう。
宙に浮いたままの泡に触れてみる。本当なら逃げるばかりで触れるのは難しく、触れた瞬間割れ散ってしまうであろうそれは、しかし容易に捕捉できた。少しだけ爪を立てれば割れそうだったが、もったいないの気持ちが勝って、ラスフィアはそっと前足を離した。
「大丈夫じゃないってわかってるから、会いたいのに」
目の前で最後に託した希望を打ち捨てられる。
当然ラスフィアだってショックはあったが、想定できなかったわけではない。
反面、ラピスは一途に信じていた。星の停止の真実を彼が知ったことを把握しながら、食い止めてくれると信じていた。だから幻の大地へ同行した、と。それであの繊細で感受性に富んだ性格、同時に奪い去られた彼女の矛。
いくら強い気持ちを持つ彼女だって耐えられないラインはある。寄りかかれる柱が全てなくなって、ただひとりの少女と化した彼女には、幻の大地での全てが重く痛すぎた。
だから、飛び出した後の彼女のことは心配で仕方なかった。現状戦闘手段に欠く彼女がダンジョンに行くとは思えないが、ここまで一切の面影が見えない現状、それも捜索対象に入れるべきかもしれない。
そして海岸の洞窟の奥地へ至ったが、結局姿は見えないまま。うすうす勘付いていたことだった。あの雨の日以降はついに訪れることなかった奥地はそのまま、滴った雫が宙に浮いて無機質な景色に動きをつけて止まっていた。
(もう手を取ることはないと諦めた。どれだけ言葉を尽くそうと彼にとって裏切ったのは私、それ以上信じてもらうことは無理だと思ったから)
だけど、未来世界に連れていかれた彼らを見捨てることなんてできなかった。時空ホールに身を投げて、暗黒の中ふたりとシュトラを探し回った。
そうして再会を果たした彼は、手を差し伸べた少女に叫んだ。
――『お前はどっちの味方なんだよ、ラピス』、と。
それを聞いたラスフィアは悟った。彼にとって自分もラピスも信じられない存在であると。もう今まで通りには戻れないと。だから、過去に戻る手伝いだけして、それでお別れ。忘れられて裏切者扱いのまま、それでいいや、なんて思ってしまったのに、運命はそううまく動いてはくれまい。
知ってしまった自分の過去に、星の停止の本当の原因に、彼もリィも協力を申し出た。わだかまりは解けていたし、警備がより強固になった時の歯車を奪うのも容易ではない。一緒に戦って元通りに戻れたら、なんていうのは幻だとすぐに知ることになった。
呆れるくらいに分が悪かった。ラピスの言葉通り、誰も信じないでひとりで動けばこうはならなかったのだろう。
でもラスフィアはそうは思わない。巡り合わせがみんなと戦うことを選んだのもあるし、彼女の心情もまたそれを支えた。
「孤独に戦い続けるだけじゃ、暗黒に染まったポケモンと何ら変わらない。ひとりで成し遂げられるほど簡単じゃないから、同じものを目指すみんなで力を合わせる。――星の調査団だってそうして成立した」
星の停止を食い止めるポケモンたちが集った組織のことを思い出す。あの生命力なんてない未来世界にしては多くのポケモンが集い、身を寄せ合った。共に戦う覚悟にあるポケモンに出会っては、仲間として引き入れた。仲間とはならずそこに暮らし続けるポケモンだって、みんな調査団の行く末を応援してくれた。もっとも、せっかくのメンバーも途中で行方をくらませたり、刺客に捕まったりして消えることは珍しくなかったのだが。
そこで積み上げてきた調査が、戦闘経験が、孤独を癒す仲間が、命運を託せる心からの戦友がいたから、ラスフィアの幼少期には既に確固とした組織となっていた調査団はついにここまで来れた。その未来から紡がれた過去の上に立つラスフィアは、未来を共に掴むという心情を重んじる。
(星の停止を変えることに変わりはない。そうだな……シイナちゃんと、手を組むか)
ラピスも再び戦えるようになるまでには時間がかかるだろうし、持ちかけるにしてもその本人の行方は知れない。であれば、協力者として一番有力なのはシイナになる。
だからギルドに向かった。その途中、交差点にいたふたりと会話するかを悩んでから、目先の用件だけを聞くと決めて。
「シイナちゃんは?」
それが墓穴を掘るだなんて思わないじゃないか。
返ってきた答えに息を呑む。そして、自分一人で過去に渡るしかないと悟った。もう幻の大地への生き方も、そこに待ち構えている障害も、すべて把握済みである。やり直すこと自体に長い時間はかからない。
しかし、いつのタイミングに飛ばしてもらえるかで話は変わる。それで成功したって、アルトはその未来に納得して――。
(そんなのもう、どうだっていいじゃない。……どうせ、相容れなくなった関係。歴史を変えるのを望まないポケモンだって、私の知らない範囲ではもっといたのかもしれないから)
星の調査団で、意思残るポケモンたちに聞いて回ったとき、そのすべては「歴史を変えたい」と言った。たとえその身滅んでも、だ。
その標本で確率1をたたき出したとて、それで満場一致と言いはしない。闇のディアルガに仕えていた面々が良い反例だ。だけど、多くがこの未来を脱ぎ捨てる覚悟をしたのは事実。
民意としても、調査団の責任としても、私情としても、――星の停止を食い止める。それを覆す可能性なんて、とっくにあの暗黒の未来に捨ててきた。
「シイナちゃんについての詳しい事情は聞かないでおく。……もうこの街に用はない。それじゃあね」
踵を返そうとした彼女の肩を、しかしとある声が遮った。
「ねぇラスフィア。俺もアンタも、最高の共闘相手がいなくなった身。それで目的は一緒。……だからさ、手を組んでみない?」
虚ろな心は、差し伸べられたその手を取るのに躊躇いを挟む。
シイナと手を組むと決めた以上、彼とも同様になるはずだったのに、いざ目の前にしたら疑心が湧いてしまった。
「私はあなたの本性を測りかねているの。……どうして歴史改変の代償を知っていただとか、それをわざわざアルトに伝え、止めた上で時の歯車を奪い返したとか。頼れるポケモンが多くないからこそ、裏の知れないままのあなたの手は取れない」
「辛辣だねー……。ま、仕方ないか。じゃあそれ全部話せば協力できるの? 今ならおまけで、セレビィについて使えそうな手がかりも持ってるよ。もしかしたらアンタも持っている情報かもしれないけど」
「その辺は交渉後に聞くとして、まずは協力するかどうかね」
他人事のような口ぶりだと、我ながらそう思った。
心情と彼への疑心に揺れ動く中で、視界の端にいたアルトはくるりと身を翻した。そして何も言わないままギルドの階段を上る。
「ん、行くの?」
「特に用事はねぇけど、なんとなく」
「そ。まぁその……気を付けてね?」
エルファの忠告には反応もせず、登りかけた階段をアルトは再び登って行った。
その背中を見るだけで、様々な感情が入り乱れてラスフィアの心がざわつく。だからかけたい言葉なんてないのに、ぼんやりとその背を目で追ってしまった。単に、この世界で動くものがそれしかなかったとも言うが。
「……ところでさぁラスフィア、アルトと今協力する気はあったの?」
「ない。私は彼に好きなようにしろと言ったし、今更彼の行動に口を出す気もない」
「まぁ昔馴染みが記憶喪失になった結果敵対相手になった、だっけ? それでよく幻の大地に一緒に行けたよね。あぁこれ、煽りとかじゃなく素直にすごいって思ったんだけど」
「……その結果がこの未来よ」
そこで沈黙に至ってしまう。
幻の大地に同行した時点で覚悟は決まっているものだと思った。実際その通りだった。その覚悟の方向が、ラスフィアの望むものと逆だっただけで。
ちょうど、階段の上にあったアルトの影は見えなくなった。エルファはそれを見届けてから、左手で自身の長いスカーフを弄んだ。
「さて、最初の質問に戻ろうか。……俺と協力する気は?」
彼はあくまで話題が潰えたから回帰しただけであって、急かすつもりはなかったし、それこそシイナ同様「考えてから」と言われても素直に受け取る気でいた。
でも、ラスフィアの側が答えを急いだ。揺れていたはずの心は、再びの問いかけによって、まるで磁石に吸い寄せられるかのように明確な答えを作っていった。
「元々私はラピスを探していて、ふたりで過去に行ければいいと思っていた。でもシイナちゃんが声をかけてくれて、ここにまだ歴史を変えたいと動くポケモンがいると知った。なら『今の』星の調査団を作ればいいって思ったの」
そこで培った信念はすべて抱えている。目標は遠回りになっただけで見失ってはいない。
「一緒に行きたいラピスは見つからないし、どちらにせよ今は戦える状態には遠い。協力者がいるのは私としても助かる。だからシイナちゃんの申し出に了承するつもりでここに来た」
「ふぅん。それで?」
「それはそれとして、あなたの裏が読めないのは事実。……だから私は」
その目つきに優しさはない。一線ははっきりと引いてあった。
「過去に渡るという目的は共通だし、手は多い方がいいから協力し合う。だけどそれ以上の協力関係を結ぶかは一緒に行動した感触次第。……これでどう?」
「……あのさぁ、あんまりに純粋すぎない? 俺に悪意があったらセレビィに出会った瞬間裏切ってひとりで過去に行くとかするよ。そんなに正直にここまでって線引きされちゃ、さ」
呆れ顔でそう淡々と述べる内容は、言われてみれば可能性の残るものだった。善意を感じる忠告に、ラスフィアは溜息をつく。
「メテオみたいなことするのね」
「いや俺がするって言ったわけじゃなくて、そういう可能性あるから正直すぎるの危ないんじゃないっていう指摘なんだけどね?」
思わず早口になる理由は別にあろうと、まるで図星のようなタイミングでまくしたててしまった、とエルファを後悔が襲う。交渉事は苦手だと自覚してしまった。
「まぁともかく、私はこれで……要するに、あなたがどこまで信頼できるかを見極めながら行動したいと思った」
「それでいいよ。じゃ、約束の調査成果でも提供しようか」
エルファの提示したダンジョンと、セレビィに出会うための仕掛け。それを聞いたラスフィアは相槌を打ちつつ、冷静にエルファを見下ろした。
「セレビィだけじゃ過去には行けない、とだけ」
「え? だって時渡りすればいいだけじゃないの?」
「星の停止の瞬間を超える場合にはまた特殊なのよ。普通に時渡りしたら壁にぶつかって先に行けなくなるってキルシェ――未来世界で協力してくれたセレビィは言っていた。だから時の回廊っていう特殊なものを通さないと過去に来れなかった。けれど、それは今使える状態にない」
目視してきた情報ではなくとも、ラスフィアは最後まで断言した。キルシェや調査団員からの伝聞を含むが、信ぴょう性はある情報だ。
「まぁ使えないかもしれないってのは俺でも薄っすら想像つくけど……新しく作るのはできるの?」
「不可能じゃないけれども、それに必要なポケモンたちが本当に手を貸してくれるかが問題ね」
ラスフィアは前足を立て、その指を一本上げた。
「ひとり、セレビィ。一番欠かせないのは言うまでもない」
「ただ、俺の調べ事の範囲だと会うハードルは高そうなんだよねー。また新しく探すもの出てくるし。……他にもいるの?」
「次に重要なのが――アルト、リィちゃん」
「……ちょっと待って?」
思わずそう制止したエルファを咎める者も、加速させるものも、ここにはいなかった。
どちらにせよ、今すぐ手を借りられる相手ではない。エルファはしばし意識が外界から隔絶されるほどに考え込んでから、ラスフィアに提案を返す。
「それ、最後の手段にしない? 例えばほら、さ。ジラーチに頼むとかは?」
「『星の停止が起こらない未来にしてくれ』、すなわち未来の消滅が起こらないで時が流れるようにしてほしい、っていうのは前に頼んだことはある」
「……ダメだったみたいだね、その感じだと」
ラスフィアは静かに頷いた。どうにかその運命に抗おうと奔走していたころの話だった。
『キミたちの願いは傲慢で虫が良すぎる。不可能ではないけど、代償で星の停止よりもっと凄惨なことになる……。要するに、破滅の願いというやつだよ』
とある洞窟の最深部。願いを告げたラスフィアたちに、黄色の小さなポケモンは淡々と述べた。
願いをかなえるポケモン、ジラーチ。その力があれば、なんて考えはあまりに都合が良すぎた。
世界の理を書き換える禁断の願い事。世界丸ごと消滅し、再構築させる――なんてことになりかねなかったのだ。
『……本当は、ボクだって力を貸してあげたい。でもその願いを叶えてしまったら何も残らないから。過去に渡って星の停止そのものを食い止める方が、まだマシだよ』
この説明を何度繰り返したっけ。ジラーチはぼそりと呟いて、胸の前で手を合わせた。
「そういうわけで、ジラーチに頼んでも叶えられない願いということ。頼めるとしたら、さっき言ってた手段でセレビィが見つからなかった場合に、『会わせてくれ』って頼むことくらいね」
つまり、アルトとリィとの交渉の方が現実的ということ。
エルファとラスフィアは揃ってギルドを見上げた。高い崖の上にそびえるそれは、いつも以上に遠くに見えた。
(裏切った自分を、それでもおかえりと優しく迎え入れてくれた場所があった。その温かさに伝えるべき感謝に、こんな暗黒の空なんて贈りたくはなかった)
(だから、何度だって、やり直しに行く。たとえ、どんな手を使っても)