115話 秘翼の対旋律
リンゴの芯、どうしようか。
エルファは右手に残ったそれを見て呆れ笑いをする。屈強なドサイドンなら芯まで食べるとて、ツタージャである自分はそこまで味わいきれない。悩むくらいならグミにでもすればよかった、なんて後悔が襲うが、水分補給も兼ねられた点は評価に値するからと肯定的な結論に結び付けた。
「シイナー……」
気だるげな声でそう呼ぶが反応はない。ちらりと顔を覗けば、なるほど、夢中なようで瞼は固く閉じられているし、呼吸は早くて、返答の代わりに苦し気な、声にならない叫びが口からこぼれた。
「え、えっ? シイナ、ねぇ、シイナッ!!」
思わず立ち上がって彼女の肩をゆする。顔の近くでありったけの声を張る。それを繰り返し――彼女からの反応はない。
いやな予感が走って、エルファの手は震え始める。
「起きろっ!! ねぇ、お願い、お願いだから、一瞬だけでいいから目を開けて!!」
いくら起きるのが遅めなシイナとて、普段なら四セット以内で起きるものだ。毎朝リズムといたずら半分に彼女を起こしているエルファだ、さすがにおかしいと肌で感じる。
「起きないのが悪いから、恨むのは無しね?」
一歩、二歩。荒い呼吸を無理やり深くしつつ後退。机に眠る彼女を見据え、一旦目を閉じて集中、再びの開眼と共に叫ぶ。
「……リーフブレードッ!!」
手加減なんてしない。紛うことなき本気の一撃だった。
相性ばつぐんの技とあってシイナへのダメージは大きい。寝起きが悪いだけなら、これで起きないわけがなかった。
「うそ、だよね? ねぇ、シイナ……」
衝撃で椅子から投げ出され、床に叩きつけられてもなお、瞼は一向に開く気配がない。
彼女の目を、もとい固く閉じられて時折ぎゅっと一層強く閉じられるだけの瞼を眺めたまま、エルファは後退する。やがてその尾に冷たい感触が走る。壁にぶつかっただけだったが、それだけで彼の心臓はすっと凍り付いて、ぺたりとその場に座り込んだ。
アルトはひとり物思いに耽っていた。
『だったらこんなの要らないよ』
シイナのその一言がやけに頭に残っていた。
自分だって、たしかにこの未来を選んだけど、そうすべき理由があって選んだのだ。どっちを選ぶにしたって万人が喜ぶわけではない。目先を見れば凄惨だとしても、未来はそれで救われたのだから、それが良かったポケモンだって多くいるのだから。
――いるはず、だから。
ふらりと視界が揺れる。そういえば長らく何も食べていなかった。気が付けば空っぽの胃の気持ち悪さは一層際立ってしまう。何か食べようと決めて、アルトはトレジャータウンに足を踏み入れた。
エルファたちの言うとおり、街は喧騒に満ちた様子そのままの静寂に包まれていた。溢れそうなバッグを抱えたバネブー、額の汗をぬぐって笑い合うストライクやサンドパン。偶然出会ったのか一緒に探検していたのか、キマワリとドゴームは揃って銀行前の広場を歩いていた。
カクレオン商店もまた同様だった。どうしたらいいのだろうとアルトは腕を組む。
結局、リンゴを一つ手に取り、そこに三つのコイン――合計の数字が25となる組み合わせで置いた。「ありがとう」とつい言葉に出たのは、長く一緒にいた子の癖が移ったせいだった。
テントを支える柱に寄りかかって、アルトは早速それに歯を当てる。
「まっず……」
味や香りはおろか、瑞々しさのかけらもなかった。
当然ではあった。未来世界で水流が彫刻と化していたのと同様、星の停止に巻き込まれたリンゴもまたその果汁を砂としていた。果肉と果汁だったものとが一度に舌に絡みつく。文字通り砂を噛むような食感で、アルトはひとくちさえもうまく飲み込めずに咳き込んだ。
口元をぬぐった。食べかけのリンゴを、しかし食べ続ける気力は失せてしまった。置いていくか、ダンジョンで拾った防御スカーフにでも包んで持ち歩くか。アルトは悩んだ末に前者を選択、邪魔にならないようにまずポケ通りのないような建物裏の木陰に置いて、その場を離れる。
何をしようか、何もしたくないな。久しぶりにトランペットを吹いてみてもいいかもしれない、でも無意識に息を潜めるほどの静寂で響きの良い金管を吹くのは気が引けるな。
悶々としながらたどり着いた交差点。そこでアルトは物音を聞き取って振り返った。
「エルファ?」
「お願いっ!! ねぇ、たすけて」
階段を途中から飛び降りてきたせいで、彼の長く垂らしたスカーフは、星の停止なんてなんのそのという顔でひらり舞った。が、当の本人の様子は芳しくない。アルトの傍に降りるや否や、しゃがみ俯いてしまったせいで、顔色は伺えない。
「……何があったんだよ。ギルドの中、そんなにだったか」
「あの、ね。シイナ、が」
揺れる肩、荒い呼吸。ただごとじゃない様子に、アルトまで息が詰まりそうだった。
「お兄ちゃんのときと同じなんだよ。寝てたはずが、気づいたらうなされてて、何しても起きないの。技使っても、全然目開けてくれなくて、それで、俺」
「待て待て全然わかんねぇよ、お兄ちゃん……? シイナが何って」
彼は彼で必死なのはわかるが、アルトには内容がさっぱりだった。
少し動悸が落ち着いてきてから、エルファはようやく顔を上げた。アルトを見つめる瞳は、見たこともないほど空虚で。
「シイナ、いなくなっちゃった」
「は……?」
「えへ、なんでさ、なんで、ぜんぶなくなるんだろうね」
いつもの余裕ぶった話しぶりは雲隠れ。少し呂律の回りが悪い話し方はまるで子供のよう。彼の笑った顔なんて見慣れているはずなのに、由来の違う今の笑顔はまるで別ポケモン。
それが、アルトから「くわしく聞く」なんて選択肢を奪って行った。
「やだ、たすけてよリズム。ねぇ、なんでいっしょにいてくれないのさぁ。なんでひとりでいっちゃったの。ひとりにしないでよ」
『ひとりにする覚悟ってできてるの?』
それは、いつかエルファ自身がアルトに問うた言葉だった。自分が消える覚悟ではなく、あくまで「仲間をひとりにする覚悟」を聞いた辺り、意地は悪いしアルトを揺さぶる。
―― ならなんて言うだろう。
頭をよぎったそれに、アルトははっと我に返る。
『ひとりにするんじゃないかって不安になった』
改めて聞いて、その言葉の心地よさを知る。
だって彼女だってそう言い出したじゃないか。自分だってそう思って、目の前にいる彼はそれを体現する。だから、だったら――どっちになる。そこまで考えてアルトは目を閉ざして思考を消した。
そんなことより、シイナのことだ。もやもやとした心はつい、その核心に切り込んでしまう。
「とりあえず、シイナが起きてくれない、でいいのか」
「うん。今はギルドの図書室……ってわかるよね、そこで会ったことあるし。シイナはそこにいるよ」
エルファはその時の様子や経緯、さらにはアルトと出会うまでを話す。語るうちに、口調はいつもの調子に戻りつつあったが、表情は晴れないままだった。
あるときうなされていることに気が付く。起こそうとしても一向に起きない。たとえ効果抜群の技を当てられたとて、幾夜を明かしたとて。
「もともとは、お兄ちゃん助ける方法探すのと、強くなるのとでギルドに入ろうってなったわけなんだよね。……もっと言えば、方法自体はわかってる。でも俺の実力じゃ到底歯が立たないから、名門どころのここで一気に実力伸ばそうーみたいな、さ」
細め、逸らした目は、ギルドに繋がる階段の最下段を睨んだ。
「ま、無駄だったよねそんな努力。だってそんなお兄ちゃんが星の停止をやり過ごせるわけがない。ヴェレちゃんも一緒にいるだろうし同じだよねーきっと」
実際、彼らの現状はリズムが見てきた通りとなる。論理的に考えれば当然のことだ、驚きには値しないのだが。
「ヴェレ」という名にアルトは首を傾げた。既視感と話の流れとを照らし合わせて、それがシイナの妹であるという答えに辿り着く。そこまで来れば、兄や妹に限らず、きっと家族皆が同じ状態であると推測するまで時間はかからない。承知の上で起こした未来だった。
そして、今しがたエルファが諦め顔で言ったことこそが、アルトが彼にずっと抱いていた疑問の心臓だった。
「そういうことか。星の停止が起きたらソイツらは絶対助からないから、時の歯車を奪い返しに行った、か」
「うん、正解。あのときアルトに色々言っちゃったくせにね。……まぁ実際海に飛び降りたときは無意識だったけどさ、冷静になったらそりゃそうだなって。俺が頑張る理由、星の停止が起きたらなくなっちゃうもん」
深いため息は、自分の浅慮への呆れと、ぐちゃぐちゃに絡まった自分の心への軽蔑を含んでいた。
交差点の看板は、相も変わらず各方向の説明を掲げている。アルトはそれに体重を預けながら口を開く。
「それだけかよ、って正直思った」
「それだけだよ、って本当のところ。……知らなかったでしょ、お兄ちゃんのこと。あんまり喋ってなかったよね?」
あっさりと認められてアルトは拍子抜ける。一瞬、無表情から外れたその顔は、ちょうど顔を上げたエルファに捉えられて、彼に垣間の笑顔をもたらした。
「俺ね、お兄ちゃんのこと大好きなんだよね。すごくカッコよくて、厳しいのにも優しさを感じるしそこが最高にかっこいい。あのね、すごく好きなのが、俺が十歳のときの話なんだけど――」
「……まぁ、お前のお兄ちゃんな時点でめんどくさそうな気しかしねぇけど」
「あははっ。いつかふたりが会ってるところ見れたら良かったなぁ。絶対面白いじゃん?」
アルトは彼の兄ことバウムのことをほとんど知らないものの、なぜか会ったときにどんな会話が繰り広げられるかは想像がついた。それに便乗するエルファと、楽し気に笑いながら背中を押すリズム、喉が枯れそうなほどに叫ぶシイナまでセットで幻覚を見る。
もちろん、そんな未来はない。本当に幻想にすぎない過去の話だが。
「俺、お兄ちゃんがいればよかったの。それがいなくなるだけでも、もう絶対会えないってだけでも、こんなに嫌になるのにさぁ」
兄について語りだした途端、いつものような楽しそうな顔が垣間見え、早口になったものの、結局それは一時的なものに過ぎなかった。癒えない傷は彼を蝕んでいくばかりだ。
「お兄ちゃんも助けられないままだった俺がシイナを助けるなんてできないよ。リズムに戻ってきて欲しいなんて言ったって無理なのわかってんの、リズムなりの考えを俺は邪魔できないし、一緒になるの、もうむりだもん。……本当さぁ、なんでよ。お兄ちゃんもヴェレちゃんもリズムもシイナも、みんな大好きだったのに、なんで何も残らないのさぁ」
エルファはスカーフに顔をうずめた。それをアルトは無言で見下ろすのみ。
アルトでも、彼の兄に対する愛の深さはわかった。自分の姉と重ねて、比べて、ない記憶を手繰りながら、その比ではない感情がエルファ達の間にあったことはなんとなくでも掴めた。世界の命運を賭けた戦いで身を翻せるほどだ、軽いわけがなかった。
「なんて、さ。まだ一人いてくれるんだけどね?」
見上げる目はアルトを捉えて離さなかった。その視線に思わず息を呑む。
「俺を愛してとは言わないから、せめて、ひとりにしないで。嫌いでいいから一緒にいてよ」
――これが、ひとりにするということ。
もし彼が他のギルドメンバー同様に星の停止に巻き込まれていたら、こんな顔をすることはなかった。確かに彼の本来の目的は達成されないが、今彼が渦中にいる苦しみは生じない。
そんなifの世界論を語ったって、現実は変わらない。自分をまっすぐに見つめる目に、アルトの足は一歩だけ動いた。
「あは、ごめんね、冗談だよ、冗談なの。お兄ちゃんのいない世界に俺がいる理由はないって、そんなとこだからさぁ。まぁ……俺が生きるのやめれば解決しちゃうんだよね?」
「んなこと、っ!!」
咄嗟にエルファの手を掴む。話しながら絞められていったスカーフは、その反射で手を離れて落ちていった。首から消えた圧力にはっとしつつ、
「へぇ……。珍しく助けようとしてくれるんだ? いつもはされる側だったのにね」
見上げる目は虚ろ。さっきの縋るような顔から一転、どうして助けたと言わんばかりの目つきである。だから、アルトの胸を一筋の後悔が襲う。
「俺を作ってたものは全部ない、空っぽなわけだよ」
「じゃあ今無意識に動いたのは邪魔だったとでも言うのかよ、悪かったな。考える前に手が動いて」
アルトは手を後ろに組んだ。ぎゅっと握り合わせ、もう相手に触れないように固める。背中を預けている看板の柱の感触はむしろ暖かく思えた。
「シイナもいなくなって、ラピスとリズムは今どうしてるかわかんないもんねー。リィはあの様子だしさー。まともに現状打破しようとしてるのってラスフィアくらい? 俺に限らず、ここは何もないと思うけどね」
「星の停止を選んだ以上、その程度受け入れるよ」
「ふぅん。なんだ、結構ちゃんと決別しててびっくり。……まぁ、その覚悟もないのに、わざわざ託してくれた仲間大勢を裏切ってまで選ぶ未来ではないよね」
ここまではっきりと言うのは、溶けそうな自分を固めるため。そして暗中で伸ばしてくれたその手に、一筋の希望を見出して、満たされてしまったから。
空っぽの心に、しかし、だから旋律は響いた。
「……じゃあ、俺のために言ってくれた貴重な『生きろ』に応えなきゃね?」
アルトにとっては特に意味のない些細な行動だった。でもそれは確実にエルファの琴線に触れた。
リィが「幻の大地に行くの楽しみだね」と笑ったのが、アルトにとっては胸を突き刺すような痛みとなった。今のアルトの単なる反射は、深海に沈むエルファを掴んで引き上げる救い手となった。何気ないことだって、その状況次第では大きな転換点になってしまうのである。
「ありがとね。これで唯一、俺に死ぬなって言ってくれたアルトを消しに行けるよ」
「そうかよ、良かったな」
無感情な一言だった。それに、エルファは「そういえば」と繋げる。
「ねーぇ。シイナに聞いてから気になってたんだけどさぁ、俺たちのこと止めたりしないの?」
「……何が」
「だって、本当に星の停止がいいんなら止めればいいじゃん。俺、アンタよりは弱いし? 俺さえ潰せば……あー、ラスフィア強そうだな、それでも随分と有利になるのに」
「そもそもが違ぇんだよ、『本当に星の停止がいい』とは言ってない」
エルファは視界の端が揺れたことに気が付いた。その影を確認すると、アルトの声にそよ風のように囁いた。
「……今の、聞かれたら危なかったかもね」
海岸から戻ってきたラスフィアは、ふたりが一緒にいることに少し驚いてはいたが、特に言及はしなかった。喧騒にあふれたこの街で、今や時の歯車と同じ数しか残っていない貴重なポケモンだ。何か孤独に飢えて話をしようとも自然なことである。
「シイナちゃんは? ギルドで待っていると言っていたから会いたくて」
――最悪の質問だと、エルファは目を逸らした。
確かにシイナから交差点での出来事については聞いた。アルトやラスフィアと言葉を交わし、併せて協力を申し出ていたことも把握した。聞かずにギルドに行ってくれればよかったのに、なんて思考に一旦は引きずられ、エルファは息を詰める。
彼女にとってアルトもエルファも積極的に話したい相手ではない。しかしながら、大抵誰かと一緒にいるようなシイナがこの場にいないことが不自然であると、彼らとの交流はまだ浅いラスフィアですら直感できる。
どうせ隠す理由もメリットもない話だ。エルファは諦めた顔で、スカーフをぎゅっと握った。
「ギルドにはいる。でもね、お望みの体ではないよ」
「どういう……。あなたがシイナちゃんに何かする理由は」
「ないよ。だから俺は犯人じゃない。けど、その場にいた俺だから確実に言える」
エルファの真剣な顔は、続く一言を告げ終わった途端に口元を緩めた。そこに溢れる楽しさも、愉楽も、煽りも何も存在しない。あるのは一つ、引き裂かれて形を保つのが精いっぱいの心だけだった。
「――シイナの手は、もう借りられない」
訂正。この街に残るポケモンにシイナは数えない。
戦力として数えるのであれば、ここに残っているのは時の歯車よりも少ない数だった。
(何もない、残らない、空っぽな自分に伸ばしてくれた手が、どうにもできないほど嬉しかった)
(だから時の歯車を奪い返してよかったって、そう思えたんだよね)