114話 憧憬想う潮風
双子の記憶を読み取って、アルトは淀んだ空気を吸い込んだ。
彼らがどこまで知り、何を肯定し、どんな未来を望んでいたのか。とりわけ、アルトの選択を肯定してくれたヴァイスの言葉に、彼は一抹の安心感を覚えた。ひとこと支えてもらえるだけでも心のつかえは取れるものである。
もう言葉を交わすことのない双子に最後、「ありがとう」とひとこと述べて、アルトは交差点を東に抜ける――その肩に、温かい手が触れた。
「ねぇアルト。キミはこの未来を『わざと』って言ったよね」
正確には言ってなくて、無言は肯定の意を呈しただけだったのだが。今更悔いも覆りもしない答えだ。アルトは顔を上げて、「あぁ」とはっきり意を示した。
「それがどうした――シイナ」
名前を呼ばれた相手は、緊迫の面持ちで息を詰めた。アルトは振り向かないままでシイナから表情は伺えていない。それでも、顔を上げる動作や声色で彼の胸の内は察している。
「時空の叫びと波導で何を見たの? ふたりはなんて言ってたの? ……本当に、これがいいって言ってたの!?」
「あぁ。……少なくとも、ヴァイスはな」
「……え? あ、えっ、そうなの?」
予想外の答えが返ってきて、シイナの素の戸惑いが垣間見える。何ならマリーネオも「知ったらそっち側に行きそう」と述べていたわけで、アルトと同意見になる素質は十分にある。
そしてシイナは二の句に詰まった。読みの甘さは痛感したが、過ぎたことだ。悔いても仕方がない。意を決して彼の肩を掴み、力づくで振り向かせる。
「ギルドの皆も、カフェやタウンの子たちは星の停止。戻してあげることなんかできない。リズムはひとりで行っちゃったし、ラピスも今どこにいるかわかんないし、残ったうちらでこんなにばらばらになってるんだよ」
シイナは一旦間を置いて、声を僅かに張った。
「だったらこんなの要らないよ」
もし星の停止に巻き込まれたポケモンを救う術があったとしても、シイナはそれを選ばなかった。いくらみんなが居たって、こんなにどんよりとして呼吸も億劫な重苦しい空気を吸って、輝き一つない空の下で生きて楽しいと言えるのか。大好きな海は生き物を拒むかのように固まって、心地よい潮風は一吹きさえしない。
好きが集まってこその大好きだった。それらを見捨てろなんてこと、諦めろなんてこと、シイナにはできなかった。
「アルトはそれを覚悟で過去に来たんでしょ。だったらやり遂げようよ」
手はとっくに離されたはずなのに、まだ掴まれているような感覚が肩に残っていた。アルトはゆっくりとシイナの目を睨んだ。いつものような、イラついていてわずかばかりの殺意を感じるものではなく、温度のない、星の向こうを望むような目つきだった。
「そのときはそうだったかもな。……でも今は、これで良かったと思ってる」
「本当に?」
シイナは震える手をぎゅっと握った。一旦俯いて吐息、次に顔を上げた瞬間彼女の目の色は変わっていた。
「本当にこれでいいって思ってるの!? ギルドの皆、うちら以外残ってないんだよ! トレジャータウンは誰も歩いていないんだよ!? 本当にこんなのでいいって――」
「星の停止が良かったとは言ってねぇよ!!」
は、と息を飲む音は大きく聞こえた。
余韻の中で、アルトは奥歯を噛み締めた。一度外れた感情の枷は、そのまま勢いに乗る。
「未来を消さずに星の停止を食い止められるならそうしてたよ! これが最高なわけじゃねぇ!!」
「それじゃあ自分勝手と同じじゃん! 自分が消えたくないだけと!」
「そうは言ってえねぇだろ!! お前が本気で考えてもないだけで、好き勝手にっ」
久しぶりに声を張ったせいで喉に負荷がかかって、アルトはそこで言葉を切らざるを得なかった。呼吸するにも喉が痛むし、停滞した空気は思考をリセットさせるどころか、むしろぼんやりとさせにかかる。
後者はシイナも共通だった。ぼやけた頭に、アルトのひとことだけがゆらゆらと繰り返し再生された。
「本気、で、考えてない……」
声に出せば思考はそれひとつに染まる。あぁ、無神経だったなと、その実感にじんわりと包まれた。
「うん。……ごめんね、何もわかってなくて」
言いたいのはそんなことじゃなかったのに、突き放されては何も言えまい。
「でも、うちの考えは変わらない。星の停止をもう一度食い止める方法を探すよ」
「勝手にしろよ」
二人の間に立ちはだかる壁は視認できそうなほどにはっきりとしていた。もう手を伸ばすことさえ叶わない。
(エルファとリズムと同じだな。踏み込み切れなかった)
信頼を築ききれていなかった。知ろうとしてなかった。知りたいと願っても、その心は融かせない。誰かのようなやさしさも柔らかさも持ちえない自分には到底無理だとシイナは諦念に浸る。
「でもうちは諦めてないんだよねっ!」
さて、次にシイナが向かったのはあるポケモンのところ。もうこの場に用はないという風に無表情に立ち去っていた彼女の前にぴょこりと躍り出た。
「ねぇラスフィア。あの、星の停止って食い止めに行く?」
光のない街道で、彼女の体の模様は淡く輝いていた。反面、その瞳は隔てる壁を見るかのように冷たい。
「そうだとして、私と手を組むつもりはあるの?」
「むしろ今そのつもりで声を掛けたけど!? ……どう、ですか。あと、エルファも手を貸せるはずなんだよ。目的が同じなら協力したほうがいいと思うんだけど」
(エルファくん、か)
ラスフィアから見た彼は、余裕ぶってて、でもトラブルメーカー故に時折その虚飾が剥がれて、アルトと相性が良くて――彼に星の停止が何たるかを教えた張本人だ。
要するにこの未来を作った元凶なのである。
『裏切られるくらいなら、最初から誰も信じなきゃよかった』
ラピスの言葉が脳に焼き付いたままだった。
その通りだ、異論はない。
自分もまた裏切ったことが、裏切られたことがある身だ。胸に渦巻く懸念が、手を組むことを躊躇わせる。
「少しだけ考えさせて。……あと、ラピスを探してくるから、答えはその後で」
「うん。じゃあうちはギルドにいるね」
それっきり、ラスフィアは南に伸びる坂を下っていく。海岸につながる道だった。その光の残滓が見えなくなるまでシイナはありもしない時間を忘れて背中を見送っていた。そして、頭を抱える。
「うううああああっ難しい!! いやわかる、わかるよ。あんまり仲良かったわけじゃないし、確かに難しいかなとは思った! 思ったけど!! こんなにうまくいかないもの!?」
この静寂の街だ、もしかしたら海岸に向かう途中のラスフィアにまで届いていたかもしれない。何を言っているかまではともかく、余韻くらいは聞こえただろう。――それなら「何があった」なんて聞かれもしないし、好き勝手に叫んだ後悔は生まれない。
「……そりゃそう、だよなぁ」
チームメンバーとさえ壁を感じていた自分に、アルトの、ラスフィアの壁を壊すなどできるわけがなかった。
シイナは左目に一粒の涙を浮かべ、崖の上で堂々と胸を張るプクリンテントを望む。
「はああぁぁこうなるとエルファと会うのすら怖くなるじゃん! え、えぇぇどうしよう、え、さすがに大丈夫だよね」
「――あー、俺も星の停止楽しいなーって思ってきたところ」
「ちょっと!?」
「さすがに冗談だからね? ……こんなんの楽しみ方とかわかるわけないじゃん。それリズムだからできたことであってね」
エルファは頬杖をついて、同じ空の下にいるリズムを思いながら窓を眺めた。
さすがはリズム、時が止まったトレジャータウンを見た二言目が「こんな風になるんだねぇ」だった。咲き乱れる花の香りを嗅いで、翼を広げたままの鳥ポケモンを仰ぎ、吹かぬ風に歌って、雲の向こうの月を指さした。そして告げたのが「なるほどね」、その顔はほころんでいた。楽しむ才能の権化である。付き合いの長いエルファとシイナでさえ、ギルドは、時限の塔はと心配渦巻く中だったせいで、いつも通りの彼に唖然としてしまった。
「やっぱりちょっと来るものがあるよねー」
ギルドの中はいつも通り、そのままであった。ふたり来るタイミングは違ったものの、ギルドの中に入ってからは床だけを見て歩いていたのは共通だった。
「うん。……正直、この部屋に入ったとき安心したもん」
二人がいるのはギルド内にある図書室だった。小ぢんまりとしているが、さすがは名だたる探検隊の拠点とあってか、貴重な資料は多い――というイメージを持ちつつ、トップがあれなのでシイナは疑心を抱いていた。
シイナは目の前で開かれている本の背に目を凝らした。部屋自体も暗いせいで解読に時間がかかる。タイトルの半分までを読み取ったところで、エルファは本を机の上にぱたんと置いたため、シイナはそれ以上の情報を知ることはかなわなかった。
「俺思ったんだけど、幻の大地での詳しい話もっと聞くべきなんじゃないかなって。アルトでもリィでもいいけど……」
幻の大地で色々あった結果、時限の塔はそのふたりで行ったことはわかっている。しかし、そこで何があったのか、エルファもシイナも子細には知らない。
アルトは「意図的に起こした未来である」ことを否定しなかったし、リィも真実を時限の塔で聞いたとは述べていた。しかし、ディアルガと戦ったのかとか、今手元に時の歯車がいくつ揃っているのか、塔に納められる状態なのかとか、詳細が不明だし、今残されている可能性の列挙もままならないのだ。
「でもそれアルトに聞ける?」
「無理だねー、俺信頼されてないし? あ、シイナもじゃん。詰んだね」
「あっさり!! ……個人的にはリィに聞きたくなんだよね。もっと傷つけちゃいそうで」
シイナに飛びついてきた時点でこれはまずい状態だと察せた。普段の彼女なら駆け寄って笑いかけるくらいであって、飛びつくまではしないだろう。それほどまでに彼女は追い詰められていて、縋れるものを求めていた。
エルファもそれは同感である。少なくとも彼女がもう少し落ち着くまでは、下手に声を掛けられないのだ。
「現状から復旧できる可能性がないと仮定して、それでも唯一取れる手段が『過去に渡ること』。まぁ未来の皆がやってたことそのままだね。これが最善かこれしかなかったかは知らないけど、実績はある手段なわけ」
「つまり」
「ときわたりポケモン、セレビィを探す」
エルファは手元にあった本を軽く叩いた。そのページにはセレビィの絵が流れるようになめらかな筆跡で描かれていた。モノクロながら、きらきらとした表現は繊細で絵が輝いて見えた。
「ただセレビィだってポケモンなわけだしどこにいるかはわからない。そもそも『今の時間』にいてくれてるのかも不明」
「時渡りしてる可能性ってこと?」
「うん。アグノムみたくどこかの番人でもしててくれればわかりやすいんだけどねー。そうとも限らないし、この状況なら飛び回ってる気がするんだよね」
呆れ笑いをこぼす彼に、シイナはひとこと。
「エルファさん。……詰んでない?」
「えー……。詰んではないけど難易度が狂ってるなと」
「それを詰んでるって言いませんか!!」
「言わないよ、ゼロじゃないんだから」
エルファが本を閉じると同時に、そのタイトル「この世界の成り立ち」が机上に現れる。
「未来世界でセレビィに助けられたって言ってた以上、星の停止が起きたから時間にかかわりが深いポケモンは消えちゃいました、ではなさそうなんだよね。つまり本気で探せばいつかは出会える。……まぁ、その前に俺たちが死ぬ可能性も十分あるくらいには気が遠い話だね。いやー面白いなー」
一度に投げたサイコロ100個の出目を揃える方が楽かもしれない、というのが彼の見積もりである。思わず笑いがこぼれた。呆れるくらいに、飽きるくらいに果てしない道のりしか思い浮かばないのがまた、彼に乾いた笑いを降らせていく。
そんな彼に物申したい衝動に襲われながらも、シイナはぐっと呑み込んで真剣な表情を覗かせる。
「とりあえずは、拠点にしてるダンジョンの情報だけでもこの中から探さない?」
あちこち動き回るセレビィを世界中探し回るのはさすがに無理だ。拠点を探し、その場にいれば無問題、いなくても霧の湖のイルミーゼたちのようにそこに暮らすポケモンたちがいて、彼らが行方を知っている可能性は高い。
「俺もそのつもりでこの部屋に来たわけだけどね? ……なさそうなら一緒に世界中旅しよっか?」
「いや他の街で資料探すとかしよう!?」
「えー。だって、文書で残ってたらともかく、口伝されてたら詰みだし?」
「あ、はい。……そうだよね。生きてるポケモン、多くないもんね」
ゼロではないのはわかっている。うまく時間停止の波をやり過ごし、依頼を出しに来たポケモンがいるのだから。それに完全にゼロだったら、アルトたちが生まれた未来にヨマワルもキモリもヤミラミもイーブイも生まれはしないのである。
ふたり、薄暗い部屋で文字を追い続ける。ないはずの時間さえも忘れて。
シイナはやがて、入り口とはまた違う扉を見つける。開けば錆の軋む不快な音が部屋に響いた。ごめん、と反射的に言ってしまったものの、集中していたらしいエルファはこっちに一切の注意も向けなかった。
一番初めに目に入ったのは、読めない文字が書かれた紙だった。シイナは「うへぇ」とあきらめ顔を浮かべる。
隠れ家のような小さな部屋だった。シイナは部屋に置いてあったランプに光を灯して、そこにあるものにひとつひとつ目を配っていく。
「――ねぇねぇエルファ!! これいいんじゃない!?」
錆び付いた扉を開かせて、シイナはそう叫んだ。長らく静寂に包まれていたせいで、背後から突き刺すかのようなその声に、エルファは彼女を睨んだ。
「あのさぁ、音量考えてくれない……?」
「ごめんごめんごめんって!! そんな本気で嫌でしたって顔しないでよ!?」
「シイナがさせたんだからね?」
「はいすみませんでしたぁ!! でもエルファとリズムすぐこういうドッキリ仕掛けるし、お互い様ってことで!」
「へぇじゃあこれはやり返しってことだね? 復讐は復讐を生むんだよ、わかってるねシイナ?」
鳴りやまない胸にエルファは手を当てる。思わず声を上げそうになるほど驚いてしまったのがかなり悔しかった。いつか絶対やり返すと彼は誓う。
時間にして七分は超えたであろう言い合いを経て、ふたりはようやく本題へと舞い戻る。
「見ーせてっ。……あ、良さげじゃん。もう少しじっくり読んでいい?」
シイナはにかっと笑って見せた。
「いいよ。ふわぁ……ちょっと疲れたみたいだから、一回寝るね」
「おこちゃまだね? なんてのはさすがに言えないね、何時間起きてるのかもわからないし。いいよ、少し休んで」
シイナは机の上で腕を組んで、それを枕に瞼を閉じる。久しぶりの安堵感のせいで、夢に落ちるまでは一瞬だった。
窓の外は変わり映えしないし、時計なんて見てもなかった。そのせいでアルトたちが戻ってきてからどれくらいの時間が経ったのかの検討も付かない。集中していたせいで、時間の感覚はなおさら狂っていた。
ただ、それを考え始めたせいでおなかが鳴ってしまったから、エルファはバッグからリンゴをひとつ取り出してかじり始めた。本当は図書室での食事は良くないのだが、唯一の同席者は既に夢に浸っているし、部屋を出たところで眺めるものは停滞のギルドメンバーくらいしかない。
軽やかな咀嚼音を響かせながら、エルファは資料に目を通し始める。
夢に溺れるシイナは、ふっと口元をほころばせた。深くなる夢に沈みながら、その中で声にも出さず心を言葉に紡ぎあげる。
(きっともう、この世界でみんな一緒になることはできない)
(だから今からでも絶対、星の停止を食い止める。今いるみんなで一緒に戦えたらよかったな、なんてのは叶わなかったけど、それでも――)