113話 響き描く澄白
それは、古くからの伝承にして、今に残る聖域の話である。
許可を得ないものは踏み入れることが叶わない。伝承に描かれた歴史や光景に、憧れをもって目指す者の数自体は多かったが、その内部を知るものはごくわずか。その地に住む者以外と前置きをすれば、存命中との注釈も付ければ、その数はダグトリオの頭よりも少ないかもしれない。
アルトたちが目指している幻の大地もそうであるし、
ヴァイスたちの故郷に根差している『庭園』もまた同様であった。
空は無彩色、草の香りは遥か先。喧騒は幻聴として耳の奥に鳴る。
停滞した風は、暑くも寒くも、暖かくも冷たくも、そして心地よい温度でもなかった。少し気持ち悪いようだけど、火にあたりたいのか、水を飲みたいのかわからない気温である。
ヴァイスに手を伸ばすアルトを見て、ラスフィアは小さくため息をついた。
「あまり褒められはしないと思うけれど。いくら相手が喋らないからと言って」
「まだ知りたいことがあるんだよ」
答えになっていないと分かりながら、訂正するのも、言葉を足すのももういいやと思ってしまった。
時空の叫びと波導を使って、マリーネオの記憶を読み取ったアルト。その中の欠けたピース――マリーネオの観測外の事象で、気になる部分があったのだ。だからアルトは手を伸ばす。ラスフィアに冷たい視線で咎められようと、シイナが心配そうに胸に手を当てていても。
ふたり、手が触れる。視界は暗転しつつも、一閃の光が走り抜けた。
「なんでスイさんはあのお方のガキ呼びを卒業しているんですかぁ!! 僕より年下なのに!」
というのは、いつかカフェで話すスイとマリーネオの一幕である。これは双子がここ、草の大陸に来る以前の記憶だ。
わぁわぁと騒ぐ二匹、ただしマリーネオ10:スイ0にしびれを切らして、優雅に紅茶をすすっていたパチリスは乱雑にカップをソーサーに載せた。
「なぁクソガキ。うるせえ」
「いつまでガキなんですか僕は!! 四捨五入したら30なんですが!?」
「っるっせーんだよそういうとこがガキなの。お前はもういいや、おい白猫」
視線を流してきたパチリスに呼ばれ、ヴァイスもまた相方へと視線を流した。
「……双子なので私が白猫呼びなら」
「だーからうるせーなお前らはぁ!! 話をさせろ!」
いつもなら、このパチリスと一緒にいるリーフィアが「うるさい」と彼を咎めて喧嘩勃発、となるのだが、あいにく今日は彼一人。だからこそ余計な言い合いは控えめではあった、これでも。
この日は、旧カフェ:リサウンドの、最終営業日から三回前の開店日だった。当然そのことを知っているパチリスは、頬杖を突きながら、やけに花の多い店内に目を向ける。
「俺らみんなでお前らのとこ行けなくなんの、結構寂しがってんだけどさうちのやつら」
(絶対自分も思ってる……)
彼を含めたそのグループは、いつしかカフェの常連になっていた。
きっかけは単純。彼らにゆかりのあるものをモチーフとしたメニューを製作したせいで、興味全開だったり中途半端な味じゃ許さねぇだったりの動機から訪れてくれたのだ。そこからよく話すようになった彼らも、双子の旅立ちを知ったときには言葉をかけに食べ納めにとみんなで訪れてくれた。つい最近の出来事で記憶に新しかった。
さて、今日はひとりで訪れたこのパチリス。「言うのめんどくさ」とため息をついた。
「そっち遊びに行く気強すぎんだよな。ベルとシーラニアとあのクズ」
「なんでそこで自分入れないんですかねあなたは」
「はー? 俺は庭園離れて別大陸に遊びに行くとかごめんだから」
「それはそうでしょうね」
ヴァイスは彼の尻尾に巻き付いたツタに、そこに輝く鍵に目を配る。
彼こそが、この地に根付く聖域、通称『庭園』の管理者の一人だった。そこを維持し守り抜くのが彼らの負う役目。だからこそ、別の大陸へ引っ越し、そこでまた新しくカフェを開こうとする双子の元へ、遊びに来ようと本気でそう思ってくれていることはありがたかった。
「アイツらは行きたがってるしさ、あと……」
パチリスはそこで言葉を区切ると、にやりと口角を上げる。
「誰かさんも行くつもりあるみたいだから仲良くしてやってな?」
――ヴァイス自身は、探検隊よりもむしろカフェの仕事の方が好きだった。
というのは、こうしてたくさんのポケモンたちと歓談できること、もしくはその様子を眺められること。自分の好きを詰め込んだ空間で、甘美にとろけるスイーツと香ばしい紅茶やコーヒーとともに、楽しく過ごせるこの時間が好きだった。
いつしかその気持ちは膨らんでいった。カフェをメインにしないかと提案したのもヴァイスだった。
マリーネオは反対したが、反対しきってはいなかった。探検隊を続ける上での懸念があったからだ。
「もし今の活動方針から変えるなら、別の大陸にでも行ってみない?」
その方が勉強になるし、刺激になる。そんなマリーネオの言葉に、今度はヴァイスが反対の色を示した。
ふたり、言葉にしていないだけで、根本にある理由は同じだった。
――いなくなるのが怖い。
ヴァイスたちの住む街で、ここ数年時折起こっているのが、原因不明の行方不明事件。神隠しなんて言われたりもしていたが、その被害に遭ったポケモンの中にはギルドの仲間もいた。スイと知り合ったのは、その事件を追っていた渦中だった。
「私たちも手を貸します。――一緒に見つけましょう」
未だ叶わないままの言葉を告げたのは何年前だったか。
ほとぼりが冷めたと思えばまたひとりいなくなる。ギルドの仲間がいなくなったこともあって、ギルドはこの事件に対して確執を持っていた。そして自身も探検隊であるが故、その事件を追い、ポケモンを探すうちに膨らんだ不安が、先の言葉となって体現した。
「大切なポケモンがいなくなるのが嫌」。そんなものはみんな同じだ。だが、マリーネオとヴァイスの場合はそれを超える。双子と名づいた関係性がふたりを結ぶ。
相手はすなわち自分の半身。いなくなるのは体を裂かれると同義だ。だから、手がかり一つ見つからない探検を繰り返すにつれて、いつか起きたらどうしようと苦しくなってしまった。
元々ギルドマスターランクを取りに行くつもりもなく、楽しみながらも誰かの役に立つ仕事だからと始めた探検隊だった。今はカフェをやりたいと思えば、そっちへの転向も悪いものではない。定められた道だけを歩かなきゃいけないわけじゃないのだから。
だから双子は旅立ちを決めた。
根本にあったのは逃げかもしれないけど、くすぶっていた新しい道を踏み出した気分はむしろ晴れやかだった。今、新しいカフェで新しいポケモンたちと出会う日々が楽しくて仕方ないから。
庭園に憧れていた身として、探検隊という職業柄として、聖域つながりの「幻の大地」は気になるところだった。といっても一緒に行きたいわけではない。踏み入れるべきでないことはわきまえているし、ただお土産話の一端でも聞ければ満足だった。
そしてそれが夢想であると知るのは、アルトたちが旅立つ前日の話。
「……本気で言っていますか」
シイナの浮上を待つ間、ヴァイスはエルファとリズムと岸辺で話しつつ待っていた。
最初はエルファに提示した通り、スイとの関わりやギルド時代、そこから今に至るまでの話をしていた。が、休憩がてら逸れた話をと空模様を眺めて、星の停止の話をして、――浮上したのがこの話題だった。
歴史を食い止めることが何たるかをヴァイスは知る。知って、戸惑いながらも、自分の心に声を掛ける。
――私はどうしたい?
第一に浮かんだのは、目の前から消えるとわかったアルト、ラピス、ラスフィアの三匹のことだった。知っているポケモンに消えてほしくはないと、当然の答えにヴァイスは安堵する。
第二に浮かんだのは、消さないための方法。要するに星の停止を迎えることだった。
(……あぁ、そういうことですか、スイさん)
いいことばかりじゃないと呟いた理由が、ようやくわかった。
ヴァイスは静かに目を伏せる。
(そりゃそうなりますよね。わざわざ世界を滅ぼすようなことをして望む未来を手に入れる。まるで、物語の中の悪役じゃないですか)
色んな話で触れた流れだった。我欲のために世界を支配する悪役への理解に苦しむ話だってあったが、今回は違う。悪役であれど、感情移入できるストーリー。
「だったら――」
星の停止を迎える方が、まだ合理的じゃないか。
ヴァイスの出した結論はそれだった。
たしかに星の停止によって世界は荒廃する。太陽も星も見えない空の下で悶々と生き続けることになる。まず、星の停止によって動けなくなるポケモンもいる――だからこそ、ギルド地下一階は数多の依頼に埋もれた。
けれども、天秤に乗せた相手もまた重かった。だって世界はまるごと消えてしまうから。これから描く未来と割り切っていたのなら、そんなことで悩まなかった。でも、違う。未来は確かに今あって、そこに生きているポケモンがいて、その一部は今身近な者となっている。
既に未来は描かれているのだ。それをすべて白紙に戻せなど傲慢が過ぎる。丹精込めて描き上げられた絵を、二度と描けない貴重な筆跡を、そこに息づいていた唯一の物語を、どうして燃やし尽くせようか。
「そうですね。……いいことばかりじゃないなと、思いました」
引用であれど、自分の心情にぴったりとはまる言葉だった。胸中を説明しつつも、はっきりと告げるには抵抗があるから遠回しに。
ヴァイスの一言を聞いて、エルファとリズムはそれぞれ思いにふけった。
「俺もね、そう思うわけです」
「どうでもいい未来ってわけじゃないからねぇ」
思いがけず肯定の言葉が返ってきて、むしろヴァイスは困惑した。でも、エルファの言葉の歯切れの悪さに、行動に、彼の揺らぎを垣間見る。
「……迷ってますか、あなた」
「さぁね」
短く返すその一言、普段なら煽るように語尾を上げるはずのそれだけで、ヴァイスはすべてを察した。
本当は彼も、自分と同じ考えを持っている。
でもそれを貫ききれなかった理由がある。
わかりやすいなと思った。ちょっとカッコつけた口ぶりをしておきながら、本音は悩みと迷いに満ちていて、でもそれを素直に口に出せない。それをヴァイスは子供っぽいと形容する。
(あなたも、身内がいなくなるのが辛いんでしょう)
――特に、アルトさん。
本当はエルファを支配する不安要素は彼ひとりではなく、もちろんラピスやラスフィアも含めた上で、まだ半分程度だったのだけど。
そしてヴァイスは耳をぴんと立てた。明らかなる異音を、一拍遅れてエルファとリズムも認知する。
音の発生源は盛り上がる海面だった。覗いた橙色に、にかっと笑う彼女に、ヴァイスは胸の痛みを覚える。
「……なんで、戻って来ちゃうのかな」
エルファがぽつりとこぼした、そんな一言を咎めきれなかった。言い合うエルファとシイナを仲裁はできなかった。
(だって私もそんな未来は望みたくないから。でも、そんなこと言えない)
その気になれば、フリューデルの三匹を倒すくらいは――さすがにそれは高をくくっているかもしれないけれど、ある程度の応戦はできる。
けれど、それが得策でないこともまたわかっていた。和を乱すのもそう。懸命にあがいているギルドの皆や未来から来たポケモンたちを裏切るのもそう。そして何より、熟考しきったわけではないから、リスクの高い行動を起こすまで踏み切れない。
「俺、そっち側だったんだ」
わかっている。この流れのまま行けば、歴史は変わることも。みんなが望んだ未来が手に入ることも。――それが、とあるポケモンたちとの別れであり、世界の破滅であることを。
白猫は本音を隠した。自分が何を思おうが、この流れは変えられないと悟った。話し終えた三匹を見ながら、ヴァイスは気だるい手でバッジを起動する。
そしてアルトたちが幻の大地へ旅立った朝。ヴァイスたちもまた、依頼の山に手を掻き入れた。
いつものように依頼をこなして、いつものように街へ戻る。あくまで日常、星の停止なんて関係なく描き続けるだけである。
「ねぇヴァイス、今夜はお酒飲まない? 久しぶりにカクテルでも作りたいな」
振り返ってそう笑いかけてきた、相方たるマリーネオに答えようとして、ヴァイスの背筋はふっと凍る。
――ごめんね、やっぱり今夜は無理みたいだ。
そう苦笑したマリーネオの顔を見つめたまま、彼女の開けた口は音を紡げずその形を保った。
突然、雷に打たれたような刺激が走って、アルトはヴァイスから手を離した。離してもなお続く痺れと痛み、歯を食いしばって変わり映えしないヴァイスの顔を睨んだ。
直感で分かった。もう時空の叫びは使えないと。
そもそもここは既に星の停止が起こった世界だった。未来世界では時の歯車に関係する場所でしか発動できないという能力。今発動できていたことがむしろイレギュラーなのだ。
流れていた時間の残滓は枯れ、完全なる停滞に包まれたふたり。アルトは静寂の中で、まだ音が鳴りそうなくらいにしびれている手に反対の手を添えた。
(星の停止の方がいいと思っていた)
少々意外だったが、ヴァイスの思考はアルトの琴線にやさしく触れる。
星の停止の方がいいと思いつつ、それが食い止められると確信していた。アルトたちがこの戦いを勝ち抜くと信じていた。――だから、憂いていた。
「ごめんな」
と、ひとこと。
もう動くことのない彼へ、彼女へ。胸に手を当てて、祈りを捧げた。
ヴァイスの寂し気な感傷は、アルトの胸に書き写されて、ゆったりと揺らいでいく。
(星の停止を望もうが否が、歴史は変わるとわかっている)
(だからいつも通りに過ごそうとしたって、その先にいつも通りはないとわかってしまうから、なんの挨拶もできなかったのを悔いてしまう)